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「――――――財布の紐は固い、か」





―――――景気の悪さはそのままダイレクトに夜の街を直撃する。


客入りの悪い日の本多省吾の定位置は大通りの片隅に決まっていた。






カチン。




――――休憩場所はその脇の暗い路地裏だ。


銀色のジッポから齎された炎が煙草の先を焼けば、白い煙が暗い路地裏にゆらりと揺れる。


冷たい路地裏の壁に背をつけて、省吾はゆっくりと星の浮かばぬ都会の空を見上げた。







サァァァァ。






――――ブランドものの質の良いコートが冷たい夜風に靡いていた。







――――冬の忘年会や接待シーズンのこの時期、夜の"入り"はその年の掻き入れ時になる。


しかし、終電を逃さぬよう必死な大人たちは帰り道を急ぐばかりで、タクシーを敬遠する彼らの財布の中身では夜遊びをしようと思う者などたかが知れている。


それでも土曜の昨日までそれなりの"入り"があったが、日曜ともなる今日は明日の仕事を気にして客足はパッタリと止んでいる。







フ―――――――。





―――――煙草を挟む冷えたその指を暖めてくれるものを知っていても、扱いのわからないそれを省吾は店のテーブルの上に置き去りにしていた。


客引きに似合うはずもない黒いマイボトルは大通りに立つ黒服には荷物なだけだった。








『―――――まぁ、無理するなよ』






「―――――――ちっ」





――――――何より慣れないそのまっすぐな暖かさが苦手だというのがその理由かもしれない。








■□■








「――――――何かいいことでもあった?」




――――酔ったような舌足らずなその物言いは男からすれば間違いなくセクシーで肩にしな垂れかかるその甘えた仕草は今夜の格好の獲物に見えるだろう。


だが、綺麗に着飾った女という生物が腹の中では別のことを考える動物だと承知している省吾からすればその甘い誘惑に単純な客のようにただ浮かれた気分になるはずもない。









「――――そりゃNo.1のルナ嬢からお声をかけられれば有頂天にもなるさ。今夜も一発お願いしたいほど綺麗だからな」



軽くウィンクを返す省吾に女はまんざらでもないように微笑むとゆっくりと体を離した。







「―――――ありがとう。今夜のショーゴもこの店自慢のイケメンよ」


金のかかった長い爪がゆっくりと省吾のネクタイを攫って行く。


しかし、普通の男なら喜ぶその仕草に省吾が感じるのは"ビジネス"という単語だった。







―――――店の女は大切な商品。


黒服はその商品をお姫様のように丁重に扱い、自分自身の商品価値を十分に熟知する彼女たちはそれを当然と受け入れる。


例えタチの悪い女であっても彼女たちあっての商売だと互いに承知の上の関係なのだ。





毎日綺麗だと育ててれば輝きを増すのが女という生き物だった。


だからこそ店側はその言葉を出し惜しまない。







―――――そして、女という生き物は変化に敏感だ。







「―――――最近のショーゴは何だか様子が変だわ。でも、前よりずっと落ちついた気がするの・・・いい人でも見つけた?」



間を空けずにニヤリと笑った省吾は女の手を取って紳士のように口づける。






「―――――今目の前に」



――――偽りと嘘の交った夜の街で女は明るい笑い声を挙げていた。









「――――――あなたのタンブラーならアゲハが持ってたわよ」




ちらりと従業員控室のテーブルに目を細める視線を追ってニッコリ笑った女はドレスを翻して姿を消した。


―――――女とて偽りと嘘で塗り固めたその世界に身を置いていることを十分知っているのだろう。







「―――――さすがルナ嬢。サンキュー」



――――そして、軽い言葉に真実を織り交ぜて心を隠すのはずるい大人の常套手段だった。






■□■







―――――コーヒーが好きか。




そう問われればそれほどでもないと即答出来る。


ならば、なぜその黒いタンブラーを暖かいコーヒーで満たそうとするのか。







――――――その答えを本多省吾は持て余している。








『―――――だったら、あんたの大切なものに俺を入れろよっ!!』






―――――大人げない無茶を強いた。


だが、お人よしな男はまっすぐにその思いに応え、省吾に黒いタンブラーを手渡した。


約束の証のようなそれは省吾の羞恥心とプライドを刺激する代物だ。







コポコポコポッ。





――――その音を聞く囁かな時間は省吾にとって決まりの悪い時間だ。





――――捨ててしまえばいい。



足さえ運ばなければ大通りですれ違う人間たちのようにもう二度と会うこともない人間のうちの一人になるのだ。


恥と懺悔と哀しい記憶とともにさっさと捨てよう。






―――――しかし、何度もゴミ箱に放り入れたそれを翌日には手に持って客の少ない喫茶店に足を運んでいる省吾がいた。








『―――――葬儀は終わったのか?』



大切な人間を待っているかのように律儀に約束を果たそうとするお人よしな男を理解できない。


だが、馬鹿な奴だと思う一方でその数少ない言葉に歯がゆさを感じながらもどこか安堵する気持ちに気づいている。








「―――――アゲハもショ―ちゃんの飲んでるコーヒー飲んでみたかったの」



――――可愛く唇を突き出す年若い女が叱られた子供のように黒いタンブラーを省吾の目の前に捧げた。





商品の中には手癖の悪い女もいる。


黒服歴の長い省吾にしてみれば子供のいたずら程度にしか思わない小さな事柄だ。




―――――本当に大切なものは店には持ち込まない。


それが従業員たちの暗黙の了解だった。





人も。


物も。


心すら。






「―――――ショ―ちゃん、怒ってる?」



――――だから、突き出されたタンブラーにまるで聖域を犯された気分になるのはお角違いもいいところなのだ。


『夜を食ってやる』そう豪語していた頃から8年近く大都会の片隅で夜の街を闊歩してきた。






――――いつから苦手なものは捨ててしまえばいいと狡賢い分別を覚えたのか。






「――――――ちっ」





省吾は夜の街にやってきた日の自分を思って舌打ちした。


―――――目の前に突き出されたその黒いタンブラーは思った以上にコーヒーの注がれるその時間を大切に思っている証拠だった。







■□■







―――――人と真正面からぶつかることをうまく避けることが出来るのが大人だとしても、常にその手段を使い続けることはいつか現れる未来の大切なものも取りこぼすことにも繋がるだろう。






「―――――あんた俺がこれを飲む年に見えるのか」



目の前に出された湯気を立てる甘ったるい飲み物にいちいち目くじら立てるようではまだ大人への道は遠いのかもしれない。


そもそも『大人』が何なのか。





――――個人の答えは出せても、世界共通の答えは死ぬまで結論づくことはないはずだ。


少なくともこのまま感謝の気持ちを出し惜しみ、事故を避けて行く人生の後には何も残るものはないだろう。







『――――今からオマエが俺の大切なものだ』




―――――まっすぐな気持ちをぶつけてくるその男の優しさが嫌だと捨てるのは簡単で、変わるチャンスを自ら捨てればそのまま失った両親の二の舞だった。






「――――――なぁ」



大都会には人が溢れ、中には悪い人間も良い人間も隠れている。


毒づくほど嫌な奴もいれば好ましいと思える人物もいる。


ぐっと警戒心を高く持たなければいけない大都会で大切だと思える者を探し出すのは難しい。


否、そもそも大切な人間とは探して見つけるものではなく互いに育てていくものだとすれば一歩を踏みこまなければ大切な者など築けないのかもしれない。







あの日、あの時。



――――『大切な者にしろ』と傲慢に言い放ったのは省吾自身だ。


だったら、傷つくことを返り見ず手を差し伸べた馬鹿な男に使うことを忘れた感謝の気持ちをたまには素直に表してみるのも悪くはないだろう。


そこから何が始まるのか。


それを知ってからでも捨てるのは遅くはないのかもしれない。









「――――――俺は・・・・・・」




―――――しかし、思った以上に真実の気持ちを言葉に表すのは難しいのだと省吾は思った。






■□■











『―――――醜いアヒルの子はいつか美しい白鳥になるかもしれない。だが、醜いアヒルのままを選ぶ。それもまた道だろう?醜いアヒルだろうとも美しい白鳥だろうと出会えてよかったとそう思う人間がこの広い世界に一人はいるだろうから』







――――――バタンッ。



荷物をロッカーに入れ扉を閉めた本多省吾は小さく鼻を鳴らす。


――――今日も夜はやってきて数時間後には店もいつも通り開店するだろう。







「―――――はっ、お人よしが」


客のつかない喫茶店のマスターは省吾から見ても不器用で生きることに賢くない男だ。


しかし、腐っても年上でその優しさが本多省吾を甘やかす。







『――――――ありがとう』




――――先に表された感謝の意は"わかっている"という気持ちの表れか、それとも素直になれない年下への配慮からだったのか。


いずれにしろ、真摯なその言葉は省吾に居心地の悪い羞恥心と"繋がっている"という何やらよくわからない暖かい感情を齎した。






トンッ。




省吾は黒いタンブラーをテーブルに置くと思わず苦笑した。




―――――綺麗な女がしな垂れかかっても浮つかない天下の黒服が冴えない男の一言で浮足立つなどくだらない。


しかし、美しい朝日を男二人で静かに迎えたその日以降、腐った世界の何かが違って見えるのは否定できない事実だった。









「―――――さてと、今夜もイケてる女を口説き落とすか」





―――――大きな化粧台の鏡で身だしなみを確認し、19時を指す腕時計を一瞥して本多省吾は非常灯の付いた通用口へとコートを翻す。


テーブルの上に置き去りになれた黒いタンブラーが照明に反射してキラリと星のように瞬いていた。







コツン。



コツン。





――――――まるで世界の底に射し込んだ密やかな光のように通用口を囁かな非常灯が照らし出す。


残酷で冷たい夜が優しいと感じるのは8年間で初めてのことだった。





End.

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あきゅろす。
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