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――――――ある夜、小林政則は都心の片隅で痩せ細った野良ネコを拾った。



気位が高くて警戒心の強いその野良ネコは政則の足に決して擦り寄ることはしなかったが、それでも政則にとっては大切にしたいと思えるネコだった。












―――――カラン。








二日に一度くらいだろうか。





――――決まって夜の18時頃、政則がマスターを務める喫茶店には一人の青年が現れる。


扉を開けたのは黒いスーツをそつなく着こなし雑誌のモデルに似た髪形をした今時の若者だった。










「――――――よぉ」







――――互いの名を知ってからも、この店に最初に出来た常連客は決して政則の名を呼ぶことはしなかった。


それを哀しいとは思っていない。







――――政則の勘が正しければそれは野良ネコゆえの警戒心だからだ。











「―――――今夜も仕事か?」







コポコポコポッ。






――――出来たてのコーヒーを注ぐ青年用のタンブラーは政則が野良ネコを拾ったその日にプレゼントしたものだ。











『――――――なぁ、あんたが俺を愛してよ。俺を愛してくれる奴はもういない。・・・だから、あんたの大切なものに俺を入れろよ・・』







――――まるで冷たい雨の中で震えるように、あの日痩せ細った野良ネコは泣いていた。


社会で生きることに疲れ、傷心に苦悩するネコは政則の前に感情の丈をあらわにしたのだ。









『―――――あんた頭おかしいんじゃないか?見ず知らずの人間を懐に入れるなんてさ』






――――涙を拭って正気に戻ったネコは矜持の高い野良ネコそのものだ。


理由が無ければ、二度と目の前に姿を見せない。



――――そんな気がしていた。











「―――――よく働くな」







だから、政則は嗟にタンブラーを青年に押し付けたことを正しかったと今でも思っている。










■□■












「――――――接待シーズンはこの業界の掻き入れ時だからな」






――――作り出した"理由"はまるで約束事のように二人の日常の一部になった。


二日に一度、マイボトルを手にした青年はこの喫茶店を訪れ、そのボトルに政則は出来たてのコーヒーを注ぎ入れる。








コポコポコポッ。







「―――――まぁ、無理するなよ」





―――――その数少ない時間に二言三言会話をするのが二人のまだ慣れない"日常"だろう。








コトン。








―――――黒いタンブラーがカウンターの上に置かれればそれは残り少ない制限時間の合図だ。


光を受けて輝くその黒い"理由"に手を伸ばした青年が小さく鼻を鳴らしていた。










「――――――俺はそこらのガキかよ」





――――憎まれ口を叩きながらもしっかりとその手にタンブラーを握った青年は黒いジャケットの裾を翻す。


気障な夜の商売人らしく片手をポケットに突っ込んだその背中が消えていくのを小林政則はじっと見送っていた。










――――――カラン。








やがてその背が視界から消えゆくと政則はカウンターの端に置かれた"野口英夫"を見つけるのだ。



――――この店の初めての常連客は、マスターが受け取りを断るの知っていて、そっとカウンターに端に代金を置いて行く。













「――――――無理するなと言ったばかりだぞ」






――――――矜持の高い野良ネコは無償の"借り"を嫌う哀しい都会の住人だった。


小林政則は空気の流れにカサリと音を立てた"野口英夫"を見つめて苦笑する。









―――――拾った野良ネコは警戒心露わに政則を未だ観察中だった。









■□■










恋人。


家族。


友達。





――――――社会に出れば仕事現場でよく耳にするそのは言葉は、言葉通り取れば単純な世間話だった。


しかし、社会人の常連組ともなるとそれは休日出勤や残業を逃れるための先手必勝法に姿を変える。


なかにはさらっと偽りを織り交ぜる者もいるが、ほとんどの者は真実それほどに相手を大切にしているのだろう。








――――――だから、そのまま心の優先順位の表れなのだ。









生憎、守るもののなかったお人良しの政則はその他人の優先順位付けの影響でダイレクトに仕事量が増える結果になったが、大切な者を大切だと言える周囲の者たちを眩しく見つめていたのは事実だった。


結果出来あがったのは仕事人間と言う名のレッテルだったが、それは周囲の責任ではなく政則自身が断ち切らねばいけない"いい人"の悪循環であっただろう。


会社から"倒産"という名の別れの言葉は小林政則にとって良い転機だったのだ。









『―――――だったら、あんたの大切なものに俺を入れろよっ!!』







――――――ずっと大切にしたいものに憧れていたのかもしれない。


守りたいものを持っているそんな人間を羨んでいたことは否定しない。





――――いつか自分にとって大切なものを見つけたい。


何を置いても優先したいとそう思えるものを築きたい。








――――思っていた矢先に飛び込んできたのが都心の片隅で震える野良ネコだった。


人生の恩人でもある若い青年は哀しい叫びをあげて救いを求めていた。










『――――今からオマエが俺の大切なものだ』






――――飛び込んできた痩せ細ったネコを抱きしめたいと思った。











――――それは大切にしたい思えるその相手を見つけた瞬間だったのかもしれない。










カラン。








「――――――いらっしゃいませ」









――――小林政則が冷たい夜に拾った野良ネコは今夜も夜の街を威勢よく歩いている頃だろう。




入ってきた客越しに壁にかかった時計は20時を指していた。









■□■












――――――冬に近づくこの季節、太陽が昇るのはいつにも増して早くなる。










「―――――――もう閉めんの?」







――――息が白く吐き出される中、出入り口の扉を施錠しようとした政則の背中にはそんな声がかけられた。


時刻は午前3時を回り、空はぼんやりと明るさを取り戻して太陽はもう後少しのところまで来ている頃だった。


――――静かに鍵穴から鍵を抜いた政則には通りの向こうからふらりふらりと歩いてくる黒いスーツの男が見える。










「―――――飲んでるのか?」


その静かな問いかけに男は鼻を慣らす。





「―――――キャバクラのボーイったって、客に気に入られれば飲むのも仕事のうちなんだぜ?」






コツン。



コツン。






「そうか」と呟いた政則は男が後1mのところまで来るのを待って再び扉を開けた。



――――――黒いスーツを着こなすその男が夜の仕事に対して失望とプライドの入り混じった自己嫌悪にも似た感情を抱いていることを肌で感じていた。







カラン。







――――――凍えるような外気とは違い室内はまだぬくもりが残っている。








■□■












――――――仕事の時間はとっく終わっている。


だから、政則が慣れた手つきで差し出したのはコーヒーではなく胃に優しいホットココアの方だった。









「――――――あんた俺がこれを飲む年に見えるのか」




――――そう眉を顰める年若い男が政則には仕事尽くめの生活送っていた過去の自分のように見えていた。


毛を逆立てる野良ネコは都会の片隅で片肘張って精一杯がむしゃらに生きているのだ。










―――――時代は変わった。



そう世間は言う。



がむしゃらに頑張れば生きていけた時代とは違って、今の世は如何に簡単に金を作るか、頭を使う時代なのだと。






―――――しかし、政則は自身がそうであったように寄り道する人生があってもいいとそう思っていた。



まして金があることが幸せなのかと問われれば、その答えは人それぞれからだ。










「――――――なぁ」





―――――変わろうとする努力はとても素敵なことでとても勇気のいることだろう。


そして、変わらなければと気づく瞬間に遅いも早いもなければ、変わらなければと思うことこそ自由だった。










「――――――俺は・・・・・・」



――――――カウンターに片肘ついて何かを言わんとするまだ年若いその男を政則は静かに見つめていた。








■□■








―――――最短を行く人、蛇行する人、道を戻る人、無限ループを繰り返す人。


人生は人それぞれでゴールも人それぞれだ。


だから、他人と比べる必要は全くないのだと政則は最近なって考えるようになった。








―――――世界に一つのだけの軌跡がその人にしか描け出せない線だとするならば。


白い画用紙に描かれるその線と線が交り合った時、人と人との間には縁が生まれる。








「――――――まだ"ありがとう"を言ってなかったな」






――――BGMもない朝方の静けさの中、政則の口からぽつりと落ちたその言葉は静かな空中に広がった。


ちらりと向けられたその視線をまっすぐ見つめ返し、ただ真摯に伝えたい気持ちを言葉に乗せる。










「――――――ありがとう」








変わる勇気をくれた青年へ。



―――――やっと伝えられた思いだった。





そして、酒の勢いを借りてまで男が続けようとしたその言葉もおそらく同じであったはずだ。









■□■










「――――――あんた相当馬鹿だな」





呟かれたその言葉に政則は苦笑する。


――――――暖かいココアの入ったカップの中身をじっと見つめる男の瞳には先ほどまでの酔いが嘘であったかのように理性の光が宿っていた。








「―――――醜いアヒルの子はいつか美しい白鳥になるかもしれない。だが、醜いアヒルのままを選ぶ。それもまた道だろう?醜いアヒルだろうとも美しい白鳥だろうと出会えてよかったとそう思う人間がこの広い世界に一人はいるだろうから」



そう笑った政則の言葉を男は鼻で笑った。








「―――――43にもなってあんたに所帯がない理由がわかるね。世間じゃ適当な言葉で遊ぶ俺みたいな人間がモテるんだ。ノってノらせて女たちを笑わせる。あんたみたいにマジなトークしかできないお人良しは受けやしないんだ」





―――――「そうだな」と苦笑して政則は自身にも入れたココアの甘さを噛みしめた。


それでもコーヒーとは異なるその甘さを好む人間が世界のどこかにいるのだと知っていた。








「――――――ま、女にモテるからいいってわけでもねーけどな」


そう呟いた男に苦笑して政則は出入り口のガラス戸から朝空を見つめた。







―――――ぼんやりと明るさを増した空に太陽が浮かぶのまでそれほど時間はかからない。







長い夜はやがて終わり・・・・





―――――醜いアヒルにも美しい白鳥にも朝日が昇る時がやってくる。






End.


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あきゅろす。
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