Main < 25 : 2 > ―――――商品に手を出すのは黒服の掟破りだ。 なぜなら、他の店のキャバ嬢でもホステスでもいいから店に連れてくる方がよほどオーナーへの貢献になるからだ。 「――――――女に手出すんじゃねぇよ」 ――――セックスが好きだという女と寝た。 たったそれだけのことが黒服とその店の女には許されない。 もっとも本多省吾(ほんだしょうご)にとってルールを犯したのは端に気まぐれ以外の何物でもなかったから、後に残った気持ちはただ失敗したという後味の悪さぐらいだ。 ――――しゃべるのが本業というだけあって店の女には口の軽い奴や根っからの嘘つきが多い。 そうでもしなければやっていけない夜の花だ。 ―――――毎晩浴びるほど飲んで嫌な客には笑顔を振りまき、成績が危うければ寝ることすら考える。 常に気を使うその仕事は得る金も多いが、ストレスも比例して多い仕事だった。 ――――黒服になれば嫌というほど女という生き物を理解する。 だから、今更女を責める気には到底なれない。 ただ自分の籤運の無さに反省するだけだった。 ■□■ ―――――ぼろくそに殴られてどこかの路地裏に放置された。 軋む体を起こす気にもなれず、ただ店の後片付けを手伝わなくて済んだことを月を見上げながら、ぼんやり幸運だと思っていた。 ―――――まさか、そこであの日の43歳に出会うとは思ってもいなかったのだ。 「――――あんた・・・43歳か?」 ―――――最初は全く気付かなかった。 10か月以上前に暗闇で出会った見知らぬ人間の顔を覚えている方がおかしいだろう。 「―――――大丈夫か?」 ただその声に聞き覚えがあると思ったのだ。 ――――常連客の顔や声、女の好みから家族構成までありとあらゆる情報を覚えるのが黒服の仕事だ。 暇な時は店の前に立ち客引きするのも仕事の一つだが、女に飽きた客の顔色窺ってテーブルチェンジをするのも、酒に呑まれて記憶力のおぼつかない女にそっと客の情報を耳打ちしてやるのも立派な仕事の内だった。 ―――――だから、10か月以上も前の男の声にピンと来たのだろう。 脱サラしてどこぞのマスターよろしく黒い前掛けをかける男はあの日のやつれたサラリーマンには全く見えなかった。 ■□■ 「―――――――また気が向いたらな」 ―――――到底気が向くことなどないとわかっていた。 出されたコーヒーは文句なくうまかったが、全部飲み干す気にはなれなかったからだ。 『――――――だから、これからゆっくり作って行くことにした。大切なものを』 ―――――Suicaを拾ったあの日、打ちひしがれたサラリーマンの這い上がる姿を見たいと思ったのだ。 だが、いざ希望に目を輝かせ擽ったそうに笑う男を見れば、ただ焦燥だけが募った。 悔しくて。 羨ましくて。 ―――――たまらなかった。 「――――――くそっ!!」 ダンッ!!! ――――スタッフの控室でロッカーを叩きつけた省吾は足早に店を飛び出した。 ―――――あの日、男の話を聞いて身に迫る気分がした。 なぜなら、省吾も大切なものを何一つ築いていなかったからだ。 ――――暗闇を抜け出した男と闇に囚われたままの自分の差を歴然と目の前につきつけられたそんな気がした。 だから、二度とあの男には近づかない。 ――――そう心に決めていたのだ。 ■□■ 「―――――――あんた、これから大切なものを作ってく。そう言ったよな?」 ――――殴りこむような勢いでその店のドアを開けていた。 驚く表情の男に構っている心の余裕はない。 「――――――だったらっ・・・・」 ――――荒い息で店先にたたずむ省吾に男が慌てたようにカウンターから出てくるが、省吾の目はただ真剣に男を見据えているのだ。 「―――――だったら、あんたの大切なものに俺を入れろよっ!!」 ―――――両親が死んだ。 交通事故だったらしい。 ―――――もう何年も連絡を取っていない親だった。 だというのに押し寄せる消失感はどうしようもない。 ―――――大切なものはないとそう思っていたのに無条件に愛してくれる親を失って初めて大切なものがまだこの手に残っていたのに取りこぼしてしまった愚かな自分を知った。 老いた両親は都会に行ったまま音信不通の一人息子のために多額の生命保険をかけていた。 老後の苦しい生活のために保険を切り崩すことなく、ただ我儘放題の息子を思って金を残したのだ。 ―――――どの口が人生はまだ手の内だとそんな偉そうなことが言えたのか。 後悔を語るその拳が白くなるほど強く握られていたが、どんなに悔しがろうとも時間の針を戻すことは誰にもできない。 「――――――なぁ、あんたが俺を愛してよ。俺を愛してくれる奴はもういない。・・・だから、あんたの大切なものに俺を入れろよ・・」 ――――どうでもよかった。 ただ仕事仲間よりも何よりも真っ先に遠いその存在を思い出したのだ。 ――――このやり場のない思いをどうにかして欲しくて勝手に口から出た戯言だった。 ■□■ ―――――店内にはコーヒーの良い香りが漂っていたが、その香りが省吾の鼻腔を擽ることはない。 客が一人もいない店には薄ら聞こえるBGM以外に何も聞こえはしなかった。 「―――――――わかった」 だから、男がゆっくりと放ったその言葉が静かに省吾の胸に届いたのだ。 ――――床に膝をつく省吾の背に暖かい人の手のぬくもりが感じられる。 「――――――今からオマエが俺の大切なものだ」 ――――戯言に応えた男はとんでもない御人好しだった。 だが、その言葉に床に零れる滴を留めることが出来ない自分はもっとどうしょうもない奴だと省吾は気づいていた。 口から出た言葉も。 過去の思い出も。 逃した機会も。 ―――――決して帰ってはこない。 だから、人は精一杯胸を張って今を生きている。 ―――――本多省吾は今日という日にそれを理解した。 カチッ。 そっと抱きしめる暖かい腕の下で高級ブランドの省吾の腕時計が19時の時を刻んで音を立てていた。 ――――それでも明日。 太陽は昇るだろう。 End. [*前へ][次へ#] [戻る] |