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パラ。パラ。パラ。
「―――――小林さん、本当にいいですから」
――――男はその言葉を無視して手にする万札をひたすら数えた。
失業手当と雀の涙程度の退職金、残りは"修行中"に溜めた金と銀行口座のこれまた少ない貯金をかき集めたのだ。
――――おかげてとりあえずの目標額に達することが出来たと言える。
「―――――貰ってくれ。こうゆうものは気持ちの問題だ」
小林政則(こばやしまさのり)は手にした万札を一塊にすると目の前の男に差し出した。
男は苦笑すると政則の強情に観念したのか溜息をひとつ落として「わかりました」と金を受け取る。
「―――――いいっていうのにさ。どうせ俺は海外いっちゃうんだし」
それでもぼそりと呟く後輩の背を政則は軽く叩いた。
「―――――言わせるな。感謝してるんだ」
男は顔をあげて政則を見ると再び苦笑する。
「―――――言われてた例の契約書。ちゃんと作ってカウンターの上に置いておきましたから」
そう言うと、男はそろそろ時間だからと政則に背中を向けた。
しかし、その背はドアの前で立ち止まるのだ。
「―――――別に毎月コンスタントな売り上げとか、期待しちゃいないっすからね」
―――――そんな甘い優しさを受け取るわけにはいかない。
政則は「早く行けよ」と後輩の背中を諭すとその背を見送った。
―――――会社の倒産をきっかけに脱サラするとは思ってもみなかった。
仕事だけが取り柄の中年が小林政則という男だったのだ。
――――――だが、男はもう同じ場所に戻ることはしなかった。
『―――――まだ人生はあんたの手の内さ。落とすなよ、人生を』
見知らぬ青年に言われた言葉が今も政則の心にある。
■□■
――――カラン。
「―――――――いらっしゃいませ」
都心の街角で珍しく夜営業する喫茶店ではドアを開ける客に向けられるのは笑顔ではない。
―――――無表情に近いその表情だった。
客商売に向いていないことなどはなから承知のうえ。
―――――多くの客を惹きつけようとは思っていない。
ただ都会の片隅で世界の底を感じる人間たちがほっと息吐く場所になればいいと政則は考えていた。
だから、余計な干渉はしないことに決めていていたのだ。
「――――――ブラック」
客の声に小さく頷いて小林政則はコーヒーの準備を始める。
店内はコーヒー豆の匂いが充満し、密かなジャズが政則の耳を打っていた。
――――数週間、時間が空けば同じ路地裏をうろついたが、希望の言葉をくれたあの青年は出会うことはできなかった。
だから、政則は『ありがとう』というその言葉を、今はやってくる客たちに振舞うことにしていた。
――――コポコポコポッ。
何の変哲もないコーヒーカップに濃褐色の液体が注がれる。
湯気の立つその一杯のコーヒーにはただ無言の政則の思いが詰められていた。
――――いつかその心が人から人へと伝わればあの青年の元に届くことになるだろう。
そう考えて一杯のコーヒーを客に出すのは自己満足と言えるのかもしれない。
――――路地裏でSuicaを落としてから10か月以上が経過していた。
■□■
「ぇ!!―――――!―――っ・・・」
――――――ガタンッ!!!
深夜の店の裏口から大きな物音が耳に届いた政則は、ゆっくりと新聞から顔をあげた。
終電を過ぎて客足の引いた店内に人影はない。
――――――夜の都心には昼の世界から逃れた者たちが集まっている。
脱サラして初めて政則はそれを知ったのだ。
ただそれを怖いとは思わない。
昼の住人も。
夜の住人も。
―――――結局、雇われる立場の者たちに変わりはない。
バサッ。
―――――新聞を畳んだ政則はゆっくりと席を立つと裏口へと向かっていた。
■□■
「――――――――意外だな」
―――――濃褐色の液体から白い湯気が上がっている。
客のいない店内をコーヒーの香りが包み込んでいた。
「――――――あんたはまだサラリーマンしてるかと思ってたよ」
―――――せっかく女受けするだろうその顔に痣を作った男はそう言って満たされたコーヒーカップを見つめていた。
政則はちらりと男を見やって自分の手の平に笑うのだ。
「――――――もし、あの時、この手の内にまだ人生が残っているのだとそう誰かが教えてくれなければ、そうしていたかもしれないな」
サ――――――――。
―――――降り出した冷たい雨の音が店内にまで聞こえていた。
「――――――立ち止まって初めて見えてくるものがある。なぁ、よくそう言うが・・・人生にとって何が大切か考えてみれば、おかしなことに"大切なもの"が思い浮かびもしないんだ」
家族も恋人もない。
大切にしたい友人も。
充実したい趣味も。
拘るような仕事も。
「――――――大切なものを築いてすら来なかったんだろう。43歳にもなって今更だな」
そろそろ世間の言う道ではなく自分の道を歩く時だとそう思った。
――――人生は世間に流されるものでも人に評価されるものでもなく、ただ自分が決めるものだとやっと目が覚めたからだ。
「――――――だから、これからゆっくり作って行くことにした。大切なものを・・」
―――――小林政則のどこか晴れ晴れとしたその笑顔にコーヒーカップを手にした男の眩しそうな視線が向けられていた。
■□■
「―――――――また気が向いたらな」
――――名を聞くタイミングを逃したまま、またその背中を見ることになった政則は告げられた言葉が嘘でも本当でもないことをわかっていた。
社会人になってまず真っ先に覚える社交辞令がこんなにも後ろ髪引かれる思いのするものだとそう感じたのは初めてだろう。
―――――黒いスーツを気だるげに着こなして、片手をポケットを突っ込んだ男が傘もささずにのらりくらりと夜道に消えていく。
その背中を見るのはやせ細った野良ネコを見つけた時の物悲しさによく似ていた。
―――――店の裏口にいたのは紛れもなくあの日Suicaを拾ってくれた青年だった。
ここ10か月以上、政則が探し歩いていたその青年だ。
誰かと殴り合ったのか、痣を作った彼は汚れた黒服をそのままにゴミ箱のすぐ脇に座り込んでいたのだ。
「――――――あんた・・・43歳?」
――――政則をしばらく見つめて首を傾げた彼が放ったのはそんな一言だった。
カラン。
青年を見送って店内に戻った政則の後ろでドアが閉まる。
――――『ありがとう』という言葉は結局、伝えられないままだった。
ずっと言いたかったその気持ちはいざ伝えたい相手を見つけてみれば、言うタイミングを逃してしまったのだ。
―――――飲み残した青年のコーヒーカップから白い湯気が立ち上がっていた。
ただ『ありがとう』という気持ちを込めたコーヒーに一口でも口をつけてくれたことがまだ幸いなことだったのかもしれない。
政則は青年が『気が向く』ことはないだろうと一人苦笑した。
ピピッ。
―――――社会人になって初給料で買った思い出の腕時計が政則の腕で午前2時を告げていた。
End.
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