Main < 43 : 1 > ――――――暗く匂う路地裏を男は一人歩いていた。 交わる大通りからは週末の夜を楽しむ若者たちの活気のいい声が聞こえている。 ―――――それが耳に遠いのはもはや世間に爪弾きにされた気がしているからだろうか。 ―――――『世間がなんだ』『風潮がなんだ』っと煙草に酒に女を覚え、ロックを耳に粋がった青春時代。 オールナイトで酌をして、いたいけな後輩いたぶって、肩組んでドンチャン騒ぎは今となっては何も残らぬ国立大学在学期間。 "個性"だ"アイデンティティー"だと騒いだわりに、結局三流企業のサラリーマンに落ち着いて、『羊の群れ』の中で凡人人生歩んでいた。 「―――――人生は往復切符を発行していない、か・・・・」 ――――有名大学卒業の後輩に生意気な視線でおちょくられ、『加齢臭が』と苦笑して女の子たちは距離を取る。 気づけば35歳以上『合コンの資格なし』と囁かれ、手料理の腕だけ上達しては、毎晩の缶ビールが数少ない話相手だ。 ――――隠しもしない独身貴族。 聞こえだけはイッパシで、持っているのは安物スーツとしゃれっ気のない白いシャツ。 加えて企業戦士の必需品、ハンカチとネクタイの2セット。 ―――――43歳。 時に追われて夢中になって、ただただ入れ込んだ仕事すら『別れよう』とそっぽ向く。 ――――今さら『倒産します』と言われても、行く先すら見つかりはしないのに。 ――――おもむろに尻ポケットから擦り切れた財布を取り出して、中身を見た男は思わず苦笑した。 入っているのは名も覚えていないショップの会員カードと残高の少ない銀行カード。 数枚のクレジットカードの引き落としには払える当てもなく、救いのお札は『野口英夫』がたったの2枚。 ―――――タクシーで帰る金もない。 男はゆらりと千鳥足で路地裏を進むと不意に止まって汚れた壁に背をついた。 ずるずるとしゃがみ込むのを厭わないのは酒だけのせいではなかった。 「―――――はっ、俺の人生は・・・」 ――――見上げた夜空には月すら出ていなかった。 「――――――おい、おっさん」 突然の若者の声に男はゆっくりと歩いてきた裏路地を振り返った。 ――――髪と服をキめた如何にも『夜の黒服』が手の中で男の定期を揺らしていた。 しかし、男は取りに行く気すら起きず、ただ青年を眺めるのだ。 ――――一見して、まだまだ取り返しの効く青年の年齢が羨ましいと思っていた。 コツン。 コツン。 ――――取りにこない男に業を煮やしたのか、青年が小さな溜息をついて男の元までやってきた。 すっと差し出された定期にじっと視線をやってみるが、手を出そうとは思えなかった。 「――――――受け取らねぇーの?」 苛立たしげに言い放つ青年は、男のシャツの胸ポケットに無理矢理定期をこじ入れるとあっさり礼を言わぬ男を無視して踵を返した。 コツン。 コツン。 ――――。 明るい大通りへと歩いていくその背中が不意に止まったのを男は気づきもしない。 なぜなら、ただ薄汚れた路地裏の地面をじっと見ていたからだ。 ――――汚いそこがまるで自分の人生の最終地点のような気がしていた。 「―――――落とすなよ、43歳。Suicaも。人生もさ」 かけられた言葉があまりにも意外で男は思わず顔をあげた。 ――――続いた言葉はとても若い青年の言葉とは思えなかった。 「―――――まだ人生はあんたの手の内さ。落とすなよ、人生を」 ――――さっと大通りの明かりに青年の背中は消えて行く。 「・・・くっ・・・・・・」 ―――――思わず立ち上がった男は壁に手をついてふらついた体を支えると急いで大通りへと出たが、行き交う人混みの中に青年の姿は見当たらない。 男はざわつく人混みの中でただ立ち尽くす。 『―――――ありがとう』 ―――――ただ一言、青年に伝えたかった。 お先真っ暗なのは十分わかっている。 ――――それでも青年のかけてくれた一言で小さな希望の明かりが差した気がした。 「――――――ありがとう」 ――――道の真ん中で立ち尽くす人間を、嫌そうに見上げた通行人たちが瞳から涙を流すサラリーマンに目を見開いていた。 End. [*前へ][次へ#] [戻る] |