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< 獣の足音 >
黒い雲の向こうからうっすら美しい顔を見せた月は、しかし、留まることを知らずに再び雲へと隠れてゆく。
――――囁かな光を無くした都心には、今日も人工の光が瞬いて雑多の夜を明るく照らし出していた。
ガヤガヤ。
ガヤガヤ。
ギャハハハハ。
プップ―――――。
――――夜集まり人の喧騒と鳴り響くクラクションは雑多の夜を彩る常連客。
だが、その"音"は決して夜の闇の本性を解き明かすものではない。
喧騒でも雑多でもない。
――――ただ重く伸しかかるその静寂。
無音ながら感じる危険な獣たちの息遣いと爪を磨ぐ密かなその気配は聞こえる者にしか聞こえぬ夜の"音"だ。
もしその"音"に気付いたのならば、それは決して侵してはいけない領域に足を踏み入れてしまった証。
ヒタ。
ヒタ。
ヒタ。
――――音無き者たちの足音はそっと侵入者の背後をついてくる。
そして、夜の闇は跡形もなく罪を犯した侵入者を丸呑みにするのだ。
「――――――馬鹿がっ!!」
夜を見下ろす都心の一角で高々と聳え立つそのビルの一室には今宵獣の咆哮が迸る。
――――ガァッッシャンッ!!!!
砕け散ったガラスの破片が磨かれた美しい石の床に散らばると照明に反射してキラキラとその身を輝かしていた。
――――元は灰皿だったそれはもはや形を留めてはいない。
バキッ。バキッ。
―――黒い獣の足の下でガラスが砕ける音がする。
「―――――どうするよ?」
背中にかけられた旧友の声に男は何も答えはしなかった。
ただ不機嫌なオーラをその背に宿し、ガラスを砕く足は大都会の夜景を望むその部屋を後にするのだ。
―――――照明に瞬くガラスの破片は美しい扇形を描いていた。
――――チンッ。
間抜けな音を立てて男の住居である最上階に専用エレベータが到着すると、男は迷いなくそのエレベータへと足を踏み出した。
――――乗り込んだ男の目には閉まるドアの向こうから近づく旧友の姿を映しているが、男の手は微動だにしない。
―――ガタンッ!
やがて無理矢理差し入れられた手にエレベータが慌ててその戸を開くと男はただ不機嫌そうに鼻を鳴らすのだ。
「――――ったく、久居要のこととなると目の色変えやがって。オマエ自分がどんな面してんのか気づいてんのか?」
――――ドアが完全に閉まる頃、高層を駆け降りるエレベータ内は暗いブラックライトに包まれていた。
青白く浮かび上がる二人の男たちは互い、顔を見合わせることもしない。
―――ただ地下駐車場を示すB1階に淡いブルーの灯りが点灯し、その箱の行き先を告げていた。
ウィ――――。
囁かな浮遊感と共に密かな機械音が箱の中に響き渡る。
「――――予想してた通りなんだろ?」
――――旧友の男の声にやはり無言の男は口を開かなかった。
その態度に呆れたようにやがて大きな溜息が箱内を覆う。
「―――――――はっ、いいね。好きだよ。今のオマエの面はよ。無欲な怪物が一瞬にして人間臭い面しやがって。可愛げのねぇ無表情よりよっぽど好感が持てるってもんだぜ、ボス」
ふざけた言葉を吐いた旧友にはジロリと不機嫌そうな一瞥がくれられるが、やはり男から言葉はない。
実際のところ、男は予想どころか確信していた。
――――久居要は古狸の誘いにのる。
強大な権力に怖じず、むしろその権力に向かって冷淡に扱き下ろし冷笑を浮かべる。
そうゆう男なのだ。
――――久居要は。
だから、わざわざ忠告してやったというのに肝心の久居要は男の言葉に耳を貸すどころか、飛んでいく虫以上にこの戦いを劣勢にしたいらしい。
―――――張りつけた『影』からの連絡は要本人に"まかれた"という馬鹿馬鹿しいものだった。
「――――――ちっ」
古狸が久居要に会いたいと言い出したところで男はその願いを聞き入れるつもりなど毛頭なかった。
――――夜の住人が何かの意志を表すには必ず裏がある。
どんなどす黒い欲望があろうとこれ以上夜の住人と久居要の接点を作らせる気はさらさら男にはない。
自分だけで十分なところにあまつさえ四神が加わったのは今となっては仕方がない。
出会ってしまった以上過去を消すことはできない。
何より大御所の息がかかっているとはいえ、四神は男の部下であり、兄弟に近いその存在だ。
――――最終的に男の意志を蔑ろにすることはない。
だが、一度でも古狸と接点を持てばその後は芋ずる式に欲深い人間たちが久居要の周囲に群がるだろう。
我先にと夜の支配者との接点を求める欲に塗れた醜悪な人間たちは久居要に飛びつくに違いなかった。
――――四神が近づくことさえ虫唾が走る。
このうえ誰かと久居要を共有しろと?
―――――ダァァンッッッ!!!!
「―――――――はっ、笑わせる」
――――乱暴に打ち付けたエレベータが大きく揺れていた。
最悪久居要と会いたいとぬかす面の皮の厚い古狸と交渉してもいいとまで男は考えていた。
だというのに男の飼い主はそんな犬の配慮を踏みつけにしたのだ。
――――――まるで"信用していない"とでも言うように。
「――――――犬は脇で大人しく"お座り"してろってわけか」
――――怒気を多分に含む言葉が吐き出されれば、その瞳には狂気が宿る。
幸か不幸かその盲執を目の前で目撃した新橋恭平は苦笑した。
「―――――まぁ、オマエが久居要に夢中になるのもわからないではないね。ありゃ、正直俺達以上のタラシさ。わかる奴にはわかるって奴よ」
――――青白い光に照らされて目を細めた恭平はじっと隣の男を見つめていた。
「―――どんな無理難題だろうが、一切揺るがずにしっかり懐の深さって奴を見せつけてくる。だったら、柵も過去も全部そのまま丸ごとひっくるめて受け止めてくれるんじゃねぇか。なぁ、そう思ったっておかしかないだろうぜ」
――――自嘲のように鼻を鳴らす男が室内に響いた。
「――――特に俺たちのような薄汚れた世界の人間にとっちゃ喉から手が出るほど欲しい自分を肯定してくれる人間ってやつさ。だが、肝心のもう一歩ってところできっちりココから先は許さねぇとくる」
――――トン。
壁に背をついて腕を組んだ恭平が男をじっと見た。
「――――なぁ、知ってるか?『後もう一歩後もう一歩』ってのは、タチの悪いホストに入れ込む哀れな女どもの心境ってことをさ」
――――チン。
間抜けな音を伴ってエレベータが地上一階へと到達する。
――――駐車場の監視カメラには静かに開いたドアの間から互いを見合う二人の男が映し出されていた。
目的地に到達してエレベータ内は白い灯りを取り戻し、不気味さを拭ったその明かりの中で恭平が陽気な笑い声をあげた。
「―――――安心しろよ。"くれ"とは言わねぇさ。オマエだって久居要に負けない立派なタラシだからな」
――――男の不機嫌そうな視線を受けて、クックックと笑いが漏れる。
しかし、すっと笑いを治めると無駄口の多い旧友は目を細めて男に問うのだ。
「―――――行くんだろ?俺たちのボスはオマエだぜ、轟」
――――緋来轟はジロリと旧友を一瞥すると不機嫌そうに鼻を鳴らして狭い室内を後にした。
コツン。
コツン。
―――――決して一般人の聞くことがない獣たちの足音が暗い駐車場に響いていた。
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