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< 泳ぐもの >
――――ガヤガヤっと人通りのある道には横付けされた一台の高級車が鎮座していた。
シルバーメタリックのその流線型の車体には先ほど止んだばかりの雨が透明な滴となって夜のネオンに輝いている。
――――キィ。
今にも落ちそうな一つの滴がすっと窓枠から流れ落ちる頃、停車した車の後方にある小さなバーの出入り口から一人の男が姿を見せた。
夜のネオンに十分そのスタイルの良さを窺わせる影を作り、男はエンジンを燃やし始めた車に目を止める。
――――パタンッ。
やがて運転席から黒いスーツに身を包んだもう一人の男が降りてくると、命令してもいないのに現れた部下に上司となる久居要は冷たく微笑んだ。
「―――――神田、仕事熱心なのも困りものだな」
要の忠実な部下は何も言わずに車の後部座席に回ると静かにドアを開けて主を出迎えた。
―――目を細めた主人はゆっくりと一歩踏み出そうとしていた。
――――都心の便利な暮らしの裏には切っては切れぬ影がある。
優雅に歩き出そうとした久居要の足を止めたのは暗い路地裏から突如現れた一人の男だった。
――――見てからに汚れきった服にボロボロの靴。
覗く肌は赤黒く、伸びた白髪と顎鬚が世俗とは離れたその場所にいるのだと告げている。
夜の電灯に照らされて尚、影となるその顔には薄気味の悪さだけを漂わせていた。
――――ホームレス。
資本主義の勝ち組の裏で昼の世界にも夜の世界にも溶け込むことが出来ず、最下層に追いやられた者たち。
常に忘却の川に身を晒す、存在があって存在のない人間だ。
「―――――――要様」
――――車脇にいた忠実な部下はいつの間にか要とホームレスの間を隔てるように立っていた。
久居要はこれで物言わぬ静かな部下に護衛を付けずに出歩いたことを責められる格好のネタを与えたことを知った。
「―――――お恵みを」
電灯の明かりに差し出されたその赤黒い手は皮膚が厚く盛り上がり、その男が相当の年かさであることを窺わせる。
――――要は静かに冷笑すると部下の名を呼んだ。
「――――――神田」
問いかけるような視線で振り返った部下は、しかし、ゆっくりと主の脇へと体を移動させるのだ。
久居要は胸ポケットから黒いシンプルな皮財布を取り出すと、そこに入っている札束を掴んでホームレスへと近づいた。
――――殊更ゆっくりと。
その優雅な足取りをホームレスの男の目が追っていた。
「――――――無償の奉仕といえば聞こえはいいが生憎私はその言葉が大嫌いでな。エゴを偽善で後生大事に包む趣味はない。まして働かざる者は食うべからず」
―――久居要は手にした札束を赤黒いその手に乗せた。
――――この世に無償のものなどありはしない。
それが久居要の持論だった。
"無償"と言われるその裏には必ず思惑があり人のエゴが渦巻いている。
"無償"だからとほいほい人の言葉に釣られれば、待っているのは欲しくもない物を買わされて嬉しくもないローンを組まされたその後の虚しさというものだ。
むろん、社会のため世界のために奉仕に励む者たちがどす黒いエゴを抱えるとは言わないが、美しい優しさで包まれていてもエゴはエゴだというのが要の考え方だ。
まして善悪の境界線はあいまいで、双方の立場で捉え方や見え方は異なってくる。結局、人の考えることは千差万別。
必ずしも"無償"の裏に隠された思惑とエゴが黒く薄汚れたそれであるとは言ってはいない。
――――ただ往々にしてタダより高いものはないのだ。
「――――――これは有償の先物投資だ。何を以てこれに対するか。自らで答えを見つけたらどうだ」
―――金は天下の回りもの。
使わなければ入ってこない。
それが金だと経済界の者は言うだろう。
消費がなくては景気は上がらないのが当たり前。
不景気と騒ぐならそれは誰かが"貯め込んでいる"証拠なのだ。
―――まず"泳がす"。
そういう意味では人も金も対して変わりはない。
―――冷たい声音で告げた久居要をホームレスの男が凝視していた。
やがて赤黒い手がおずおずと札束をその胸に抱え直す頃、要の胸ポケットで無機質な通話機器が震え出す。
――――ヴゥゥゥゥゥゥ。ヴゥゥゥゥゥゥ。
久居要のプライベート携帯を知っている者は数少ない。
――――ポケットから震えるものを取り出し通話ボタンを押すと、鼓膜に届くのは苛立ちを多分に含んだ魅惑の低い声だった。
『―――――どこほっつき歩いてやがる』
要はせっつく犬に目を細め、冷たい声で聞き返した。
「―――――なんだ一人遊びには飽きたのか?」
そのからかいとも中傷とも取れる要の言葉に電話の相手は鼻を鳴らすだけだった。
そして、殊更低い声で主人に向かって命令するのだ。
『――――――話がある。マンションに戻って来い』
―――久居要は目を細めて微笑した。
プツン。
「そうか」という言葉を待たずに電話は切れる。
――――要は目の前のホームレスに目を細めて横に立つ部下に冷たく告げた。
「――――――帰るぞ、神田」
歩き出した主が後部座席に乗り込むとすかさず忠実な部下はそのドアを閉めようとする。
しかし、その瞬間、彼の部下は冷たい上司の愉快そうな呟きを聞くことになるのだ。
「―――――――犬が遊びたいとな」
その声に要の部下はただ小さくうなづいて扉を閉めた。
――――パタン。
走り出す高級車のバックミラーには一人暗がりに取り残されたホームレスの姿が映っていた。
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