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< 流れる雨 >



―――星も出ない都心の空を黒い影となった雨雲が覆う。



風のない今夜、その大きな雨雲はどこへ移動することもなく、ただ黒々とそこに漂っていた。


おぼろ月が影の間をゆっくりと流れ、その虚ろな儚さは際立って美しい。







――――ぽつり、ぽつり。


歩道を埋め尽くす通行人が降りだした雨に一斉に手を差し出す。


冷たい夜の涙に、しかし、誰もがせわしく動かす足を止めようとはしない。



―――乾いたコンクリートをしっとりと濡らした雨はやがて摩天楼を包みこみ、人々の傘を小さく打ち始めるのである。








――――夜は静かにその闇で光を食らい、この世界を染め変える。


―――やがてくるのは、静かな夜か、喧騒に満ちた夜か。


今宵、混沌とした雨雲に覆われたは夜は静かにその涙に濡れる。







―――それは一体誰を思ってか。












「――――なぁ、俺はあんたが手を汚すのが心底楽しいのさ。あんたは罪を犯せば犯すほど堕ちていく」


「・・・はぁっ・・・くっ・・・ぁ・・・」





――――太い腕が黒いシーツを抑えるように要の顔の脇にある。


ひんやりと肌触りの良いシルクのシーツは頬を優しく撫でては、要に伸しかかる男の動きに擦れる音を立てていた。




―――その日マンションを訪れた飼い犬は主に絡んだかと思えば、この事件の情報量を欲しがって当然のように主を押し倒した。


仕事中だろうが何だろうが、当然のようにそうする男の態度は、いつものことと言えばいつものこと。


だが、感情の長けをぶつけてくるような今日の犬の思考はいつも以上に読みずらい。





――――要は心の中に何かがひっかかり、その答えを見つけ出すことが出来なかった。


明晰な頭を持つ久居要にとってそれはとても珍しいことだ。



―――汗をじんわりと掻いた端正な顔に視線を向けたが、残念ながらその黒髪に隠されて男の瞳を見ることはできなかった。






「―――汚れてゆくあんたは、むしゃぶりつきたいほど色っぽかったぜ」






―――どこか自嘲を含むその声は静かだ。







静かすぎて怖いぐらいに。







―――しかし、その思考を読もうという努力も内を激しく突く男のせいで敵わないものとなる。




「―――ぁぁ・・・くっ・・っ・・・・」


要は顔を横に向けるとシーツをぎゅっと握りしめた。





―――――いつもより一段と激しい攻めに耐えて、理性を保つのは快楽主義者の要にはことさら難しい。


まして男とのセックスは久居要にとってドラッグのような存在だ。





―――――甘く緩く。


そして、激しく強く。




最高であり最低なソレは、日頃、人の上に立ちその責任と権威を守るために理性を保ち続ける久居要にとっては解放の合図。


―――甘美な夢であり、解放。崩壊という喜悦だ。







――――"氷帝"はこなごな砕け散り、また日の出とともに再構成される。


そのための今日と言う崩壊。

そして、明日より一層強い"氷帝"が王座に君臨するための無限のサイクルだ。






――――一瞬体を止めた獣が耳たぶ甘噛みするとその低い声で要の鼓膜を震わせる。






「――――たまんねぇんだよ。あんたが堕ちるの見るのはな。俺のささやかな幸せってやつだ。だから――――」




獣は要の片足の太股の付け根を抑え、乱暴に持ち上げるとその太股に口づけて笑った。






――――黒い髪の間からやっと見えるようになった双眸には狂気が浮かぶ。








「―――――もっと堕ちろよ。もっともっとな」








―――そう笑った途端、獣は再び攻めるのを開始した。焦らすこともなく、要の弱点をめがけて早々に打ち付けてくるそれにシーツを掴む手に力が籠る。




「あぁっ!・・・くっぁ・・・んっ!・・・」





―――湿った音と肉のぶつかる音がベットの軋む音に混じって暗い部屋に響く。


ことさら大きい交わりの証を耳にしながら、閉じそうな瞳の先に要は男を見上げた。







――――焦っている。



逃げられぬ快楽に体を乗っ取られながら、漠然と感じたのはそんな思い。





――――だが、本能で生きる獣の意志を理性で解くのは難しい。







「――――地獄の底は、俺たちだけのパラダイスだ」






――――そう笑う獣は食いつくように喘ぐ要の口を奪った。



縦横無尽に口内を犯す男は体を休めることはない。






「んっ!・・んっ・・んぁ!・・・・」




――――享楽の波に揉まれながらも、頭の隅で冷静な自分の声が響く。












―――――犬が泣いている。





その口から漏れる言葉は要を強く支配する乱暴なそれであるというのに、男から醸し出される哀愁にただ、要はそう思っていた。




――――それは衝撃的な出会いを経た狂犬とその飼い主に生まれた初めての絆であったのかもしれない。








―――――白く形の良い腕がまるで慰めるように男の首に回される。






一瞬、体を強張らせた男が唇を噛んだことを無意識の行動を取った久居要は知りはしない。






「――――くっ、あぁっ!・・・っっ!・・・」





――――すぐに男がその乱暴な動きを再開したからだ。



両腕を飼い主の顔の横に置き、噴き出る汗に髪を乱しながら、しかし、その欲しい肉体をもさぼる男の思考はなぜか遠いところにあるのだ。









『――――目暗になるでないぞ、轟。農の見立てが確かなら、おまえが使いもんにならんと思った時そいつはおまえをすっぱりと切り捨てる』



『足元に注意しておけ、己あっての相手、相手あっての己だからの』






―――――知っている。




今、目の前で喘ぐ男が自分が思うほどには自分に執着をしているわけではないと。

この関係はただ男が目の前の冷たい主人を追うだけの関係だと。




――――追うのを止めた時あっさりと終わるそんな薄い交わり。





男はそれが哀しいのか、それともただ惜しいと思っているだけなのか、自分の気持ちに答えを見出すことができない。

ただ漠然とした焦燥が男の脳裏を過るのだ。









――――この狂気の顛末が愚かな女の迎えた哀れな末路とどう違うと言えるのかと。




執着が深くなればなるほど、その尽きぬ欲に自分でも驚くしかない。自分以外の誰かを見るなら殺しかねないその暗い狂気に男はただ瞳を閉じた。






――――ただ欲しい。

あの女と同じように"久居要"という男が欲しい。







―――皮肉げに笑った男は動きを止めて、呼吸は乱れ快楽がその体を支配始めているというのに未だ理性という光を宿すその瞳を眺めた。


そして、顔に掛る髪を驚くほどの優しく退けて、顎を手で押さえると口づける。






――――まるで祈るようなそれ。




獣の人間らしい行動に驚きに目を見張る要の表情を男は鼻で笑って、今度こそ止まらずに欲しい者をもさぼり始めるのだ。



衣擦れ音と男達の荒い息、ベッドの軋む音が聞こえる寝室。



――――――無言で交わり合う男達の背後で大きなガラス窓を透明な雨が濡らし幾筋もの流れを作っていた。






――――――夜の涙はまだ止みそうにはない。




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