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< 人間失格 >





―――孟子は言う。『人は生まれながらにして善である』と。対して荀子は言った。




『人の性は悪なり、その善なるものは偽なり』






―――人が生まれながらにして善なのか悪なのか。



それを論じる気は男にはない。ただひとつだけ男に言えることがあるとすれば。







――――善があれば必ずその背後には悪があるといのことだけだ。










―――夜の闇が世界を支配する時間、1人の男が都内の高級マンションを訪れた。



その身に危険な夜の香りを漂わせ、影はただ目的の場所へと進んでいく。



―――その闇に吸い込まれるように。









―――久居要は静かに書類から視線を上げて、ドアを開けた男に視線を向けた。


驚きはしない。訪問者が野良犬になるか狂犬になるか。いずれにしろリアクションはあるだろうと検討をつけていたからだ。




―――両開きのドアを乱暴に開けて進み来る男を要はただ静かに迎え入れた。


美しい黒光りするフルメットを乱暴にソファに投げ捨て、男はどさりとソファに座る。目ですら挨拶しない不躾な男は、メットの中から赤い箱を取り出すと煙草を咥えて火をつけた。





―――――カチン。




ジッポから苛立たしそうに巻紙に火を移した男は、ふーっと吐き出したその紫煙を他人の書斎に遠慮なくまき散らす。

その様子をただ静かに眺めていた要はふっと投げ捨てられた赤い煙草のソフトケースに目を止めた。




―――喫煙者には向かい風のご時世で、中でもタールの一番きついその煙草を吸う者は最近めっきりいなくなった。


排気量の多い大型バイクを乗りこなす男は健康志向、エコ思考の世の中にとことん喧嘩を売る気らしい。





――――まぁ、同じ喫煙者が言える立場ではないが。



自嘲した要の視界の先で、男がテーブルの上のチェスボードに目を細める。




――――ゆっくりとチェックされたキングをボードから退かす。






――――その意味は何だったのか。








「―――久居ゆかり、狂った男に刺されたらしい。命は免れたらしがな」




物言いたげに問いかけるのは低い魅惑的な声。要は視線を男に戻し、素知らぬ顔で「そうか」と冷たく返した。






―――ニュースにならないのは権力の賜物か。


今や"姉"に興味のない要はそのまま書類に目を戻すと明日の打ち合わせ資料に頭を切り戻していた。








「自分の身内にこの仕打ちか―――最低だな」





――――話題を掘り下げる獣はどうやら構って欲しいらしい。




ページを捲る手を止めて、小さくため息を吐くと書類から視線を上げた要はソファに我がもの顔で座る男に目を向けた。



―――にらみ合う静かな沈黙は部屋の空気を重いものへと変えてゆく。







「―――――――何が言いたい?」





―――獣は無言のまま紫煙を吐き出して見せるだけ。




片眉を上げた要は書類から手を離すとソファの背に全体重をかけた。







―――――ギィ。





ゆっくりと腰に手を回し、その腕に片肘をついた男はまるで考える人を地で行くようだ。指で擦られる下唇は程よく潤い、その冷たい双眸はただ問いかけに無言を貫く男に向けられていた。





――――自然、緊迫した空気が徐々に部屋を埋め尽くす。









「―――――私は残酷無慈悲の外道だと?」




静かでいて怜悧なその声に尚も男は答えない。だから、要は鼻で笑った。





――――言いたい奴には言わせておく。



それが久居要のスタンスだからだ。世の中は千差万別、価値観は人それぞれ。目の前の男の意に添わなかったとて、非難を受ける言われはない。



――――まして、自分の考えをそう簡単に変えては上に立つ者としては失格。







――――久居ゆかり。



要の中ではもう過去の人物であるその女を狙わせた覚えはない。敢えて言うなら、事の顛末を知らない世の負け犬に人生を狂わせたのは何の苦労も知らない金持ちのお嬢様だと教えてやったに過ぎなかった。




――――窮鼠猫を噛む。




負け犬は答えを出したということなのだろう。

唆したわけでも嗾けた訳でもない要に、こんな風に非難される理由はない。





―――もっとも"道徳の欠落"という意味では本人の認めるところではあったが。




ゆっくりと椅子から起立し、窓の外を眺めた。





―――眠らない夜の街には様々な人間がごった返す。



久居要はすっと目を細めて"この世"を見つめた。






「――――世界にはそんな役柄も必要だ。表裏一体、光には影がつきものだ。私におまえがいるように」



―――この世は絶妙なバランスで成り立っている。


捕食者がいて被食者がいるように、正義の味方がいればそこにはヒールとなる悪者もいる。そうしてこの世の中は回っている。

悪役がいなければ正義の味方はいない。

捕食者がいなければ被食者はいない。



――――廃れるものがあるから必ず流やるものがあるのだ。



どの役を担うかは本人が決めることだが、それでも絶妙なバランスがこの世の中を動かしていることだけは事実なのだと要は考えていた。






「―――私は自分の実力を知らずに愚かに刃向かう犬が大嫌いなんだ。中途半端に刃向かう者は特に――――徹底的に打ちのめしたくなるタチだ」




ゆっくりと振り返った要の視線は一直線にソファに座る緋来轟に向けられていた。その目がふっと細められる。







「―――まぁ、今更だ。知らなかったとは言わせない」






―――――人間失格。



それがどうしたというのだ。


誰かが作った人間という定義になぜわざわざ従ってやれねばならないのか。



――――だから、無理矢理"型番"を押しつけられるたび要は鼻で笑ってしまうのだ。






――――他人の作った檻にわざわざ入ってやる必要などない。


どうしても形"が必要ならばその"形"は自分で決める。それを他人様に決めてもらう必要などさらさらない。






―――だから、久居要はうすら笑う。




人間失格。多いに結構。言いたい奴は言えばいいのだ。



―――好きなだけその口でほざくがいい。





――――だが、その"形"にわざわざ従ってやりはしない。




そして、その思いは鋭くソファに座る男にも突きつけられた。





――――知っていて近づいたのではなかったかと。






沈黙を重く切り裂き突きつけられたそれを、男は鼻で鳴らして蹴散らした。ようやっとその重い口を開かれる。






「――――はっ、人間失格のあんたと極悪非道の俺ね。そりゃもうお似合いのカップルだろうよ」




じろりと向けられた狂暴な視線。それが語るものは一体何なのか。




――――今日と言う日。



やたらに絡むその犬に飼い主はいぶかしそうにその目を細めていた。





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あきゅろす。
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