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短編3
残り時間は僅か、彼女を求めて。

 僕は、彼女の名を呼んだ。


 その速度を計ったら短距離走の自己最速記録よりも速いのではなかろうかと思える速度で、しかもその速度を保ったまま二十分ほど走った直後の、荒れて息を吸うだけでも苦しいような状態で、けれどあらん限りの力を込めて。僕はたった一回、彼女の名を呼んだ。
 荒れた息で、彼女の名前はかすれてしまったけれど、それでも彼女は気付いてくれた。呼んだ名前に足を止め、振り返る。耳の横で、髪が揺れていた。くせっ毛なの、と彼女は昔、その髪を触って笑っていた。
 視線が、左右に揺れている。僕を見つけたわけではなくて、自分を呼んだ声につられて、でも誰が呼んだのか分からなくて、反射的に振り返っただけだったのだ。彼女の視線は揺れて、声の主、つまり僕を探しているのだろう、と見当がついた。華奢な首筋があらわになる。ねじれて、またねじれた。
 彼女はまだ、僕を見つけられないらしい。僕と彼女の距離は近いようで、存外遠い。僕は再び彼女の名を呼びたかったが、けれど切れた息のまま、喉を空気が通るだけでも痛みを伴うような状態で、座り込まないようにするだけで精一杯だった。声なんて、まともに出るわけもない。
 腕があがる。彼女の、縫製された布地に包まれた、細い腕。僕は一瞬、期待した。僕を見つけた彼女が、呼びかけるために手をあげたのではないかと。けれど期待は裏切られ、彼女はてのひらを額に押し当て、その指先は髪に触れる。眉根の寄せられた顔は、不思議そうに歪んでいた。
 てのひらが、彼女の皮膚から離れてゆく。そのまま、彼女の肩にかかった小さな鞄に触れる。小さな鞄は、ほんとうに小さくて、荷物なんかほとんど入らないのではないかと思わせた。
 彼女の片足が持ち上がり、体がかたぐ。顔が、こちらを向いていた顔が、向こうを向いた。
 ――その時、髪が揺れて一瞬隠れた彼女の顔は、微かに開かれた唇が歪み、その二つの口角が持ち上げられた。
 ああ、彼女は、彼女が。





 僕はただ、名前を呼んだだけ。
 彼女は、行ってしまった。

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あきゅろす。
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