短編3 ある勇者のお話。 「だれ?」 そう問いかけてきたのは、少女だった。 女でもなく、幼子でもない――少女と呼ぶのが相応しい、少女としか呼びようのない年代の女。 少年は、いつの間にか止めていた息をゆっくりと吐き出し、少女を見つめる。観察する、と言い換えても良い。 少女は白い石を組んで造られた泉に半身を浸し、濡れそぼった髪を水面に散らしている。白いからだは年相応に細く、肉付き、しなやか。水面は静かに揺れて、少女の半身を隠す。 そして、少年を見つめ返す大きな瞳は不思議な薄い色をして、傾げた首とともに微かに揺れた。 問いかけるように。強要するように。寛容するように。 少年は少女のその瞳に、喉を震わせて答えた――勇者。一応。 勇者。その言葉の通りに、少年は無数の人間の中から選ばれた者だった。欲と羨望と無関心と、様々な感情により選出された者。あるいは切り捨てられた者。 安全圏に住む多数の人間により、少年は世界を救うよう求められた。選ばれた者の勤めだと、救うことが当然だと言わんばかりに。 そして、誰も言葉に出さないけれど、世界を救えなければ命はないと――それも、事実だった。それは、幾人もいた先代の勇者たちが証明している。 勇者と選ばれた者の行く先は、皆命を散らしてきた。ある者はその道筋で、ある者は民衆の手で、またある者は罪有りとして。 だからいずれ自分もそうなるのだろうと、選ばれたその瞬間から少年は漠然と諦め、己を選出した愚昧なる者たちを憎らしくも思っていた。 それでも、いや、だからこそ、少年は己に与えられた使命を果たすべく――そこへ、たどりついたのだ。 そこ――少女の元へ。 少女は笑った。水面と、少女のからだに滴る水滴が輝きを放つ。 少女は、勇者と言う少年の答えに満足したのか、ひどく嬉しげだった。 「勇者。勇者か」 声を上げて笑い、少女は大げさな、まるで舞台の上で従者が主にするように、手振りとともに頭を下げて、お辞儀をした。 「ようこそ、勇者。歓迎するわ」 そう言ってあげられた顔には、愛らしい笑みが浮かんでいる。目が少しだけ細められて、大きな瞳は外気に触れる面積を狭くなる。 「勇者。選ばれた――世界の栄滅をその手中におさめるために選ばれた英雄。辿り着けなければ次代を選出するために抹殺される哀れな子羊。その実何の力も与えられることのない、無力な名前だけの勇者。けれど、おめでとう。おめでとう、勇者。今度こそ本当に、あなたは選ばれたのだわ」 細い喉からよどみなく流れる愛らしい声音は、けれどその声音にも外観にも似つかわしくないものだった。その言葉の選びも、口調も、少女のそれではない。 そして、その言葉と声音で、少女はおめでとうと言った。選ばれた、とも。 少年はその言葉に、眉をしかめる。気分の悪さに、胃が重くなる思いだった。 おめでとう。選ばれた。それは、少年が勇者と選出された時にも聞いた言葉だった。周りの人間が、浴びせるほどに少年に与えた言葉だった。 「あら、嫌なのかしら。たたえられるのが? それとも、選ばれるのが? でもね、あなたは本当に選ばれたのよ。たたえられるべき人間として、選ばれたの。あなたは選ばれて、旅に出た。そして旅の中で、あなたは更に選ばれた。何に? 神様とか天の意志とか、まあ、人の手に負えないものによってよ。ある人はきっとこれを奇跡と言い、またある人は偶然と呼ぶのでしょうね。――いえ、でもそんなことはどうでもいいわ。必要なのは、結果。重要なのはすべて結末なのよ。旅の終わりに、あなたはここに辿り着いたの。それが何より重要なことなのだわ」 少女は泉に浸かっていた掌を持ち上げた。水面が波打って、揺れて、影をつくり、光を返して、音を奏でる。右の掌の下に左の掌を添えた、細い指を持つ少女の掌が少年に差し出された。 「さあ、受け取って。あなたは選ばれたのだから。わたしは、これをしかるべき人間の手に渡すために生まれた生命体。その瞬間まで守り通すための守人。けれど、わたしの役目はもうすぐ終わる――さあ、受け取って。勇者と選ばれたひと。導かれし者。これは、あなたの掌を待っているわ」 声につられるように、少年は少女に近づいて――足の裏が踏む、草の葉擦れ。首を折られた花。 少年は、少女の掌に己のそれをかぶせるように、それを包み込んだ。 冷たい、玻璃のような感触。すべらかな丸み。弾力のない、硬質な指触り。 「これは、世界の中心。あなたたちが探した物。人々が望んだ物。これが、この世界を形作る核――世界のはじめに生まれた、ひとしずく」 少女の掌が、離れて行く。少年の掌に触れていた、柔らかな弾力が消え、硬質な冷たさだけが残る。 水の中で、少女は少年から一歩、二歩と離れた。そして微笑んで。 「さあ」 その瞳は、真っ直ぐに少年のそれへと注がれていた。けれど少年は、手首を返した掌の中身に意識を向けている。 掌に乗った、透明な、丸い玉。 世界の中心。先代の勇者たちの命を糧に、今、少年の掌におさまる冷たいかたまり。 「選んで。選ばれた勇者。命運を握るひと。栄滅を手にした、哀れな子羊の最後のひとり。あなたが、決めるの。あなたが決めて良いのよ。すべては、あなたの意志ひとつなのだから」 少女は、一度離れた少年へ再び近づく。腕を伸ばして、その五指が少年の首筋に触れた。白い石の、泉のふちに片膝を寝かせ、出来得る限り、少年に近づいて。 少女は、囁いた。 「すべては、あなたに従うわ。すべては、あなたの思いのまま。ねえ――それを壊せば世界は滅ぶ。それを戻せば世界は守られる」 その言葉のあとに、少年は、少女の腕に力が籠ったと感じた。引き寄せられて、少年は誘われるままにからだを傾ける。 二人は互いの顔が見えなくなるほどに接近し、肩が触れ合うほどに密着していた。 耳元で、少年は少女の微笑む感触を知る。吐息が鼓膜を震わせ、甘い声音が脳に届く。 少年はそのまま、視線を右の掌に握ったままの玉へと移した。そして、それを持ち上げて―― 太陽の光が、森の木陰から注ぐ。 光は水面と、濡れたからだと――世界の中心である、掌におさまるちいさな玉に輝きを持たせた。 - *前次# |