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短編3
私の世界



 私はいつも、窓際に座って世界を見下ろしている。
 窓の外に見える光景と、たいした家具もない閑散としたこの部屋と、この部屋の鍵を持つ女と、私と、私を戒める足枷とが私の世界の全てだった。
 さまざまな人が行き交う賑やかな道。物を売る声音と、人々の談笑と、足音と、たくさんの混じり合う雑踏の音が、窓に嵌め込まれた硝子を通して微かに私へも届いてくる。硝子は触れると冷たくて、透明だから鉄格子のように視界の邪魔はないけれど、隙間なく埋め込まれて窓の外と内を遮断する。それは私を閉じ込める檻。
 私は、窓の外をいつも見下ろしていた。私が触れることの叶わない世界だから、見下ろすことしか出来ない世界だから。だから、見下ろす。
 ――ああ、足音が聞こえる。誰かが来たのか。
 気づいたけれど、私は微動だにしなかった。瞳は窓の外に向け、指先一つ、髪の一筋さえ動かさない。
 控えめなノック音が三度。鍵穴に鍵を差し込む音、回す音、抜く音。しつれいいたします、と女の声。ドアノブに手をかける音、力を込める音、ドアを引き開ける音。部屋に入る足音、ワゴンを引く音、立ち止まる音。後ろを振り返る音、もう一度ドアの前まで戻る足音、ドアを閉める音。こちらを向く音、頭を下げる音、頭を上げる音。
「姫さま、お食事の時間でございます」
 足音、ワゴンに手をかけた音、ワゴンが動き出す音。ワゴンが動く音と、足音が近づいてきて、同じように止まる。移動する足音、ワゴン上にかけられた布をはがす音、はがした布をたたむ音。何かを探す音、手に取る音。足音、一歩、二歩。
「失礼致します、姫さま」
 すくう音、甘いにおい、唇に当たるぬるい感触。微かに唇を開くと、その中へ入ってくる硬い異物とその上に乗った柔らかい異物。柔らかい異物は口内に残り、硬い異物だけが唇から再び外気へと触れる。微かに私は顎を動かし、柔らかな異物を噛み締めて、咽頭の奥へと送り込む。柔らかい異物の、舌に与える味覚と鼻に与える嗅覚の刺激の種類を変化させつつ、何度も繰り返されるその行為。最後に衣擦れの音を立てて、口元に押し当てられる布の感触。
 ガチャガチャと、ワゴンの上を片付ける音。布を広げる音、ワゴンの上に布をかける音。背筋を伸ばす気配、頭を下げる音、頭を上げる音。ワゴンに手をかけて押し動かす音、歩く足音、ワゴンの動く音。止まる音、振り返る音、頭を下げて、上げる音。しつれいいたします、と響く声。ドアノブに手をかける音、回す音、押し開ける音。足音、ワゴンを押す音、立ち止まる音。振り返る音、ドアに触れる音、ドアを押す音。ドアが閉まる音、閉塞感、鍵穴に鍵を差し込む音。回す音、鍵がかかる音、抜く音。足音。
 ふ、と漏らした吐息。視線は窓の外の世界。騒々と、私と隔絶された世界は変わらず騒めきに満ちている。
 金属の触れ合う音が耳へと届く。視線を、窓の外からその音源へと移動させた。音源は、左足。私の左足首に据えられた美しい装飾を施された輪、そこから延びる細い鎖。気づかないうちに足が動いたのだろう。鎖の輪と輪が、どこかで触れ合って音を立てた。枷を嵌められた足から私は視線を窓の外へと戻す。そして、再び世界を見下ろすのだ。
 私は、世界を見下ろしている。もう、どれだけの時間をそう過ごしたのかも分からなくなるほどに長い時間を。それは、永久に続くかとも思えるほど長く、淀んだ時間だった。
 けれど、私はこれからも世界を見下ろす。窓の外の世界を。
 それだけしか、やることがないから。出来ないから。この家具すらまともにない部屋で、窓の外の世界だけが私の興味を引くものだった。この部屋に囚われる私が、いくら手を伸ばしても届かない世界だと知っていながら。もしかしたら、届かないと知っているからこそかもしれない。
 私の世界は何も変わらない。どれだけ長い時間だったかは分からないけれど、考える気にもならないけれど、その長い時間が過ぎても私の世界は変わらない。何も、変わらない。だから、私は世界を見下ろす。何を感じても世界は変わらないと知っているから、私はただ窓の下を見詰める。


 世界は狭い。私の世界は。
 私を戒める美しい足枷と、私と、あの女と、この檻と変わらぬ部屋と、窓の外の騒めきとが、私の世界の全て。

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あきゅろす。
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