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1.
わたぬきくんは、当然の様にそこにいました。えぇ、押し入れにです。私の住むアパートは2Kのボロい―たしか築年数は30年とか言っていたかな―小さな2階建ての建物で、どこも立て付

けが良くないんですよね。だから、玄関の扉も微妙に歪んでいるんです。鍵をかけても、無用心なことに、ちょっと力をかけて揺らせば開いてしまうんです。それで、以前泥棒が入った

こともあるんですよ。あ、違います、僕の部屋じゃなくて隣の、サラリーマンっぽいおじさんの部屋です。いやぁ怖いですよね。こんなことあるんだなって思いましたよ。こんな所に住

んでいる人に盗むほどのものがあるのかは疑問ですが。
あ、話が逸れましたね。とにかくそんな家なものだから、はじめ、だれか友人がいたずらで忍び込んだんだと思ったんです。そうですね、たしかにやりすぎないたずらです。でも、私の

友人はしかねないんですよ、そういう、突拍子もないっていうのかな、ちょっと常識はずれなこと。それに、そうじゃなければあんなに堂々と押し入れで寝ていたりなんかしないと思っ

て。押し入れはだいたい、横2メートル弱、高さが…私の身長より数センチ高いくらいだから、たぶん1メートル90センチくらいじゃないかな。幅は、まぁ布団を入れてちょうどという感

じなので、それほど狭くはないんです。仕切りもないですしね。布団の上には、突っ張り棒で簡易の帽子掛けを作っていました。
狭い部屋だし、クローゼットとか大きな箱があるわけでもないですから、人間一人が隠れるとしたらまぁそこぐらいしかないわけですが、そんな所に私が大学から帰ってくる18時くらい

までいたんですよ。まぁ何時からいたのかは知りませんがね、寝てしまうくらいだからだいぶ長くいたんじゃないですかね。開けた時はそりゃあ吃驚しましたよ。勢いよく引き戸を閉め

て、喉から心臓が飛び出そうな感覚を治めるように喘ぐような呼吸をしていたのを覚えています。でも、前に一度、家に帰ったら友人が奥の部屋の襖をほんの少し開けて、そこからじっ

とこちらを見るっていうことをして私を驚かせたことがありましたから、今回もそうじゃないかと冷静になったんです。あの時は動揺しすぎて危うく隣の交番に駆け込みかけたところを

友人に肩を掴まれたというオチで終わったんですけれどね。
私は、それを思い出して、落ち着いた気持ちから怒りがふつふつと湧いてきたんです。あの時にこういうことはもう二度としないでくれとあれほど頼んだのに。私はその時洗面台のとこ

ろで小さくなっていたのですが、猛然と立ち上がってもう一度押し入れの前に立ち、今日は怒鳴ってやろうと心に決めながら、いつも以上に時間をかけて引き戸を開けました。そこには

、やはり先ほどと変わらず横になっている人がいて、図々しいことによだれまで垂らして、まだ眠っていたんです。おいと声をかけようとして私は再びぎょっとしました。友人ではない

のです。なぜ今まで気付かなかったのか、自分でも不思議に思いました。だって、全く違うんです。髪といい、見えている横顔といい、何もかもが。全然知らない人で、覚えていないと

かではなくてほんとうに面識が無いんです。
私は起こすのを忘れてその人、わたぬきくんを見ていました。見惚れていたって言ったほうが、当てはまるかもしれません。耳がかくれるほどの長さの髪が降り積もったばかりの雪みた

いに真っ白で、やんわりと癖がでていました。染めているわけではないとわかったのは、眉や睫毛も同じ色だったからです。鼻が高くて、目頭の高さの所の骨がほんの少し出ていました

。ヒゲなんか生えたことないんじゃないかなと思うくらい、子供みたいな綺麗な肌で、薄く空いている口が桜色だったから、思わず心臓が締め付けられるような、喉の奥が少し苦しくな

るような気持ちになりました。
いや、恥ずかしいですね、言葉にしてみると。だけど、ほんとうにそういう印象でした。じっと見ていたら、その髪の色が目に焼き付いて、文字通り焼きついてしまうような感覚になっ

て、込められるだけの力を込めて瞼を閉じました。そしたら、布の擦れる音がして、目を開けると、薄ぼんやりしたなかにあぐらをかいて座る人が見えました。すぐに視界ははっきりし

ましたが、彼の顔はそんな私をぼんやりと見返していました。瞼を閉じていた時には分からなかったけれど、わたぬきくんの目は意外に大きくて、少し切れ長になっていました。瞳は、

カラスみたいに真っ黒なんです。さっきまでよだれを垂らしていた薄い桜色の唇は、もう開くことはないのではないかなと思うほどしっかりと真一文字に結ばれていて、僕はそんな口を

見つめ返しました。たぶん、五分くらいだと思いますが、僕にはその倍以上のように感じられました。まぁ、よくあることですよね。初めに口を開いたのは、少し乾いた唇が割れ始めた

私でした。
誰ですかとか、なんなんですかとか、どうしてここにとか、そういうことを言ったほうが適切だったかもしれないけれど、私の口から出たのは、「何か飲みますか?」だったんです。あ

はは、でしょ?変でしょ?でもほら、口あけて寝てると、起きたとき喉が引っ付くような感じになるじゃないですか。口の中が乾いてしまって。その思いつきの方が強くて、ついそう言

ってしまったんです。そうしたら、わたぬきくんは迷った様子もなく頷きました。
とりあえず押入れから出て欲しいというようなことを言ったような気がします。けど今度は、わたぬきくんは頭が飛んでいってしまうんじゃないかと思うくらい首を横に振りました。出

られないのか出たくないのか、聞きませんでした。だって、そこで気がついたんです。どうして布団と夏物の服で一杯になっているはずの押し入れに、平然と座っていられるのかって。

布団とか衣装ケースとか、そういうものの存在を無視して、座っているんです。最初の方で、隠れるところは押し入れくらいしかないって言いましたけど、簡易の帽子掛けがあるから、

敷布団、羽根布団、毛布、夏掛け、枕がはいっている押し入れは、高さが190センチあってものびのびとは座れないんですよ。たぶん小柄な人でも窮屈なんじゃないですかね。そこにゆっ

たりくつろいだ風であぐらをかいているんですから、私の直感が訴えかけてきたのは言うまでもありません。だからもうそれ以上なにも聞きませんでした。
その日は、それまで春らしかった暖かな日差しが少し弱まって、少し風が冷たい日でした。私の部屋も、前の住人がつけたらしい少し古い型のエアコンが付いていましたが、電気代を節

約しようと思ってほんとうに耐えられないほど寒い時以外は消しているんです。見たとろこわたぬきくんは、綿の長シャツと紺色のジャージみたいな長ズボンに裸足という薄着だったの

で、牛乳を温めてココアを淹れました。
わたぬきくんは渡したマグカップとその中身を、じっくり、研究者が研究対象を観察するように熱心に見つめていました。私は少しの間自分の分のマグカップを手にそばで立っていまし

たが、部屋の中央に置いた折りたたみ式のテーブルにカップを置き、その脇にあぐらをかいて座りました。その部屋も、他の部屋と同様畳敷きだったんですけどね、いやにそこが冷たか

ったことを覚えていますよ。ほんとうに、今までそこに氷かなにかをおいていたのかと思うくらい。私は思わずはっと立ち上がり床を手でなでるようにしてみました。しかしその時には

、特に冷たいと感じることもなく、畳本来の独特な温度が私の手のひらを通して伝わってきました。
息を殺したような笑い声とも泣き声ともつかないような音が聞こえました。いや、ただ口から空気が音が漏れただけかもしれません。顔を上げるとわたぬきくんと目が合いました。わた

ぬきくんは起きた時と同じ表情でそこにいて、畳と同じような独特な温度と湿度をもった眼で私を眺めていました。カップを両手でしっかりと包み込み、両足をきっちりと合わせて三角

座りをしている様はなんとも可愛らしかったですよ。小さな子供みたいだと思いました。
わたぬきくんは、唇の間から空気が溢れるような音をしっかりと伴わない音量で言葉を発しました。
「ありがとう」
それがわたぬきくんの第一声でした。
そうしてその言葉がスイッチとなったように、わたぬきくんは初対面の儚い淡雪のような印象とはかけ離れたちゃんと熱のこもった、しかし大きくはない声で話始めた。
「驚かせてしまいもうしわけありません。私はわたぬきと申します。」
そんなようなセリフだったと思います。なにしろ私は、まだ数十文字ほどしか言葉を口にしていないはずの彼の声が持つたしかな意志と力強さに心打たれてしまって、その言葉を言葉と

してではなく何か野性的な、本能的なものが受け止める音、あるいはもっとちがうなにか…それこそ、言葉では形容しがたいものとして中に入り込んでくるのを必死に受け止めていまし

た。自分でも見ず知らずの人のたった二言三言にそこまでなにかを感じてしまっていることが変だとは思いましたが、とにかくそのときはそうだったんです。
わたぬきくんの説明では、ここには自分でも気づかない間にいて、それ以前の記憶が無いわけでもないのだけれど、突如として自分というものが現れ、私が初めて目を開けた時に見たも

の、つまり、彼の記憶の一つ目の引き出しになったようなんです。それってなんだか生まれたばかりの赤ん坊のようなもの、ですよね。わたぬきという名前だけは、彼も口にして驚いた

と言っていました。後から聞けば、あの時の言葉は自分自身でもどうやって発したのか分からず自然と出てきたものだと言うのです。
とにかく、長くなってしまいましたが、わたぬきくんとの出会いはこのような感じで、不可思議としか言えないものでした。いやほんと、長くなってしまいましたね。私の貧しい語彙に

も困ったものだ、ははは。あなたのように、もっと本なりなんなり読まなくてはね。
今日は、聞いてくださってありがとうございます。そろそろ、彼が来る頃なので、私はこれで。
あ、かまいませよ、書いてもらっても。これがあなたの期待に応えるような話になったかどうか。あ、そうですか。良かった。
続きですか?そうですね……うーん……あ、いや話したくないわけじゃないんですよ。あなたにこうして話すことになったのもなにかのご縁ですからね。
はい。はい、じゃあ、また近いうちに。いえいえ、こちらこそ、長くなってしまってほんとうにすいませんでした。
では、失礼します。

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あきゅろす。
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