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ブルーノート
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今でも昨日のことのように思い出せる。三年間汗と涙を流し続けた懐かしいグラウンド。打たれたのが悔しくて八つ当たりした緑色のベンチ。オレンジ色に染まる空に包まれて仲間と過ごした大切な時間。

中学の卒業式を涙で終え部員全員が集まったソフト部のグランドで、まだ15だった私は卒業証書を胸に抱いたまま全身から振り絞るように声を張り上げた。

「私、桐谷愛美は白球にかける青春で高校三年間を全速力で走り抜けることをここにいる皆に誓いまーす!」

青空に向かい真剣に宣誓した私をあの時皆はどう思ったのだろう。

だけど、誰もからかったりはしなかった。その代わり私の耳に届いたのは、一瞬訪れた静寂とそれをすぐに打ち消してしまった仲間からの歓声だった。

「愛美カッコいい!」「さすがはうちのエース!やっぱそれぐらい言ってくれないとね」「頑張ってよ。愛美はうちらの憧れなんだからさ」

皆からの言葉は今でも私の鼓膜にしっかりと刻まれていて、そのことがいまの私にとってはとても辛い。

今まで自分の言葉に二言はないように努力してきた。勉強ははっきり言って出来ない方だ。成績は常に下の上辺りをうろうろしている。それでも私は嘘をついたことがない。成績が良いことよりもその方がずっと人として大切だと言ってくれたのはお父さんだ。私もお父さんの考えには賛成だ。

高校二年の夏休み直前の大会だった。打順が三番の私のところへ巡ってきた状況は2アウト二塁だった。私を歩かせて四番打者の成沢先輩と勝負することは先ずありえない状況だった。

カウントはノースリーだから次の球は絶対に甘くストライクに入れてくるはずだ。予想通りの甘く真ん中に入ってきた球を思い切り振ると外野まで飛んだ。一塁ベースを蹴ったところで周りからの声が聞こえる。

「桐谷、走れ!」「桐谷、回れ回れ!」

一瞬外野へと目をやると、打球がバウンドしてもたついているようだった。二塁ベースを蹴り三塁ベースへと向かうところで返球が見えた。慌てて三塁ベースへスライディングをした瞬間、右膝が考えられない方向へ曲がった。それから直ぐに声を出せないほどの刺すような痛みが襲い出してそこから歩きだすどころか立ち上がることさえも私には出来なかった。

救急車を呼ばれ、診断名を私に告げるとき沢田先生は眉根を寄せた。嫌な予感がそれだけでした。ソフトボール日本代表のチームドクターを務める沢田先生からの言葉を祈るような気持ちで私は待っていた。

大きなため息をひとつついてから沢田先生はいつもと変わらない低く静かな声で言った。「右膝前十字靭帯損傷と半月板損傷だ。オペしたとして卒業までに完全復活するのはギリギリか厳しいと僕は思う」

「愛美仕方ないわよ、ね?」
「そうだよ、愛美。お母さんの言う通りだ。何も別にソフトボールだけが高校生活ってわけじゃないだろう」

それじゃあソフトボールの代わりになるほどの楽しいことをお父さんが教えてよ。喉元まで上がってきた言葉をぐっと飲み込んだ。いつも素直な一人娘がそんな反抗的な言葉を言った暁には、きっとショックで三日は寝込んでしまうだろう。

お母さんとお父さんの必死の説得に黙って頷く沢田先生と看護師さんが神妙な顔をして私の顔を覗き見る。わかってるような素振りなんかしないで欲しいと思ってしまう。私のこの気持ちなんて、この場にいる誰一人分かるはずがないのに。

中学で初めてソフトボールに触れた。友達に誘われて軽い気持ちで始めたのに、気付いたら一番はまっていたのは私だった。

タイミングも良かったのか悪かったのか。私たちの入学と同時に、ソフト部を日本一にするという名目で新任の鬼コーチが連れてこられた。

授業以外の時間は全てをソフトボールに費やしていた気がする。太陽が昇るのも沈むのも毎日しっかりとこの目で見る生活だった。

余りにもきつい練習に胃が水分以外受け付けなくなったり、学校から歩いてたった15分しかない家までの距離を歩けなくなりお母さんに迎えに来てもらったことだって一体何度あったろう。

だけど努力した結果はちゃんと自分自身のところへと還ってきた。

中三の夏、私は史上最年少で全日本の強化メンバーに投手として選ばれたうえにソフトボールの名門である高校へ当たり前のように推薦で入学した。

名門校なだけに集められたメンバーは中学時代からの精鋭ばかりだったけれど、みんな性格はさばさばしていて直ぐに仲良くなった。

だから予想を遥かに越えた厳しい練習も、お互いに苦労を分かち合うことで乗り越えてきた。

それなのに。私はソフトボールの神様に見放されてしまったんだろうか。あんなに頑張ってきたのにソフトを辞めなくちゃいけないなんて酷すぎる。

まだ痛む膝をさすりながら今まで頑張ってきた日々が浮かんできて涙が出そうになった。ぐっとこらえて目に力を入れると、かろうじて涙が引っ込んだ。

私はソフトボールを愛してる。好きだなんて軽い言葉では収まらないくらい愛してる。だから絶対に辞めたくない。だけど、手術をしても元のプレー出来る状況に戻すまでに最低でも一年はかかるだろうと今目の前にいる先生ははっきりと私に向かって言った。

ソフトボール日本代表のチームドクターでもある先生の言葉は余りにも信頼感がありすぎてかえってそれがキツい。

一年。一年経ったら部活はもう終わってしまう。だったら私に残された道は諦めるしかないような気がする。私がここで泣いたり叫んだりして、どんなに悪あがきしたって、何一つひっくり返らない。

「…ソフトは、辞めます」

辞めます。たったそれだけの言葉を言うことがこんなに難しいことだなんて思いもしなかった。

ようやく待ち望んだ娘からの一言が聞けた。横に座るお母さんはほっとため息をついてそんな風に安堵した顔をする。その横に立つお父さんも、嬉しそうに頷きながらお母さんの肩を叩き二人は顔を見合わせた。

私は出来るだけ周りの空気を壊さないように努力した。みんなが心配しないようにわざとらしく笑った。そして、そんな光景を見ながら考えた。

私がいなくなってチームは困るだろうか。それともいくらでも代わりは利くだろうか。

もう二度と、あの輝くような時間を私は体感出来ないんだ。

ソフトボールを私から無くしてしまったら、一体私には何が残るだろう?
自分という人間が、こんなにも中身のない人間だったんだと初めて知った瞬間だった。


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あきゅろす。
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