novel
墨がひとすじ
シャッシャッシャッ……。
静かな部屋に、墨をする音が響く。
家人から水差しを受け取って、硯に静かに水を注いだ。黒々とした墨。
隅を用意し終わると、太筆を手に取る。たっぷりと筆に墨を吸わせて、端で少し切る。
無心。
無心。
自分に言い聞かせて、半紙の上にスッと筆を滑らせた。

『平静』

書き終えると、龍の形をした筆置きにコトリ、と筆を置く。
そうしてとっくりと自分の作品を眺めた。
「お見事です。白哉様」
そばに控えていた家人が感嘆の言葉をこぼす。家人は白哉が何を書いても「見事だ」としか言わない。当然のことだが。
けれど白哉本人にはよくわかっていた。――最悪な出来だ。
あちこち筆の流れが止まっている。止め、撥ねも甘い。

『文字の乱れは心の乱れ。文字の迷いは心の迷いだ』

祖父の言葉が蘇る。
自分と同じく六番隊の隊長をしていた祖父。物腰やわらかで、けれど強い。そんな祖父は白哉の誇りであり、憧れだった。
祖父も、――迷ったことがあったのだろうか。
白哉は半紙から筆置きに視線をすべらせた。龍の形をした筆置き。
龍。
それを見て白哉が思い出すのは小さな同僚だ。

「白哉様っ!?」
家人の驚いた声が響く。白哉は作品をぐしゃぐしゃと握りつぶしていた。乾ききっていない墨が手を汚すが構わない。
残骸と成り果てた半紙を家人の前に放り出す。そうして白哉は立ち上がった。
「捨てておけ。しばし出かける」
言い残して、白哉は朽木邸から隊舎へと向かった。


*******



白哉は自分の隊舎を通り過ぎて、十番隊舎へと足を向けた。
「十」と書かれた門をくぐる。隊長である白哉は誰何(すいか)されることもなく、門番たちの礼を受け隊舎の中へと踏み入った。
十番隊舎はばたばたと騒がしく、誰もがあわただしく働いている。真面目で有能な隊主を擁する十番隊がいそがしいのはいつものことだが、今日ばかりは様子が違った。
それでも珍しい客人に気づき、一人の席官が白哉に歩み寄り礼をした。
「朽木隊長、どうなさいましたか」
「日番谷はどこにいる」
「執務室にいらっしゃいます」
ひとつ頷き、執務室へと足を向ける。

執務室は、うず高く書類が積みあがっていた。
一番奥の一番大きい机で一心不乱にそれらの書類を片付けているのが日番谷。いつも以上に真剣だ。
それも当然。
――明日付けで、日番谷、松本の両名は現世へ派遣される。
隊長、副隊長がいなくなるのだ。それを見越して書類を片付けているのであろう。サボり魔と名高い乱菊ですら真剣に仕事に取り組んでいる。

「朽木隊長!どうなさったんです?」
霊圧で気がついたのであろう乱菊が書類から顔を上げた。珍しい客人に目を丸くしている。
元々隊長が他の隊舎を尋ねることなどあまりない。書類運びなどは下位の者の仕事だからだ。
特に白哉はそれが顕著だった。他の隊舎を自ら尋ねるなど何年ぶりだろうか。
「日番谷」
白哉が声をかけると、日番谷はようやく顔をあげた。
「明日から現世へ派遣されるそうだな」
「コイツのわがままでな」
日番谷は乱菊を睨んだ。乱菊はぺろりと舌を出す。苦労しているな、と白哉は内心日番谷に同情した。
「……兄が先遣隊を率いると聞いた」
「ああ。そうだが?」
要領を得ない白哉に、日番谷が先を促した。



「妹を――ルキアを、頼む」



頭を下げることこそしなかったが。
その声音に――日番谷も乱菊も目を丸くした。


妹を守ると決めた。
それは亡き妻の願いであり、そして今は白哉の誓いでもある。
決して違えないと、そう。
処刑が決まって、それを阻まれて。あの忌々しい男に問われた。
『どうして妹を守らねぇ!?』
答えを見つけたところだったのに。守ると――決めたところだったのに。
『朽木ルキアを、先遣隊として現世へ派遣する』
突然入った報。


「……前に、」
考え考え日番谷は口を開く。白哉はそれをまっすぐに見返した。端から見れば静かな、しかしその奥には様々な感情のうずまく瞳。
「朽木ルキアを、席官候補から外させたことがあったな」
「……それがどうかしたか」
「危険な目にあわせたくない。そういうことだったな」
「如何にも」
頷く白哉に、日番谷は断罪するかのような厳しい目線を向ける。

「席官を何名置くかは決まっている。朽木ルキアの代わりに、それより弱い者が席官になる。当然死ぬ確率は高い。そうは考えなかったのか」
「隊長!」
乱菊は思わず声を上げた。けれども日番谷は視線一つでそれを黙らせる。
「……ルキアの代わりに誰かが死んだから、ルキアはここで死ぬべきだ。そう言いたいのか」
「そこまで言ってねぇよ。身内の人事に手心を加えるべきじゃないと言ってるんだ」



「席官と、それ以上は全死神の憧れだろ。朽木ルキアもそうだったはずだ。それが誰のためか、わからないてめぇじゃねぇだろ」



……誰の、ためか。
「私の、ためだと?」
「それ以外に何がある」
「……………………」
沈黙した白哉に、日番谷はやってられないとばかりに深々とため息をついた。
「心配しなくても仲間の命は守る。てめぇに言われるまでもねぇよ」
ほら忙しいんだとっとと行け、と手を振られて白哉は無言のまま執務室を退出した。



十番隊を後にして、あてもなく白哉が歩いていると、不意に後ろから声がかかった。
「兄様?」
「……ルキアか」
「どうしたのですか?このようなところで……」
「ルキア」
「はい?」
そうだ。日番谷より先に言うべき相手が、いたのだ。
「気をつけて、行ってこい」
「はいっ!」
うれしそうに笑うルキアに、ようやく白哉も小さく笑った。







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あきゅろす。
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