Sainen 8 街の中心部には大きなケヤキの木があって、その周りにはちょっとしたフードコートのようにテーブルと椅子が並んでいる。 あの人はいつもそこでテーブルに伏せて仮眠を取っている事が多かった。 だからおれも、一か八か待ち伏せをするならばあえてここにしたいと思ったのだ。 (ってこれじゃますますストーカーみたいだね) でも、それももう今日でおしまいだ。彼の態度が少しでも難色を示すようなら、おれはもう二度とこの辺りには近づかないと決めていた。 だから、いつもの通りに現れて、いつもの場所を陣取った時は心が震えた。 意を決して、ぽつねんと座る彼の前まで歩み寄って、真正面の椅子に手をかけた。 「ひ、久しぶりですね」 しかし彼の反応は、どこかぎこちなく困ったような表情で。 「すまん、オレ今ちょっと頭おかしくしてて」 「頭を?」 「そう、ちょっとお前が誰か分からないんだ」 それってまさか。そう言う前に、おれは目の前の椅子にためらいなく腰を降ろした。 「いや、実はオレもドーナツ屋の前で見た時から気にはなってたんだよな」 前々からちょくちょく話しかけようとしてただろ、そういう風に言われてしまうと、晴天の霹靂と言うか何というか、頭があがらなくなっってしまう。 「あなた、いえ南波さんも記憶がないなんてびっくりしました」 会話の中で、自然に彼−南波ヤスアキの名前を呼んでみると、ひどく慣れない感覚があって、その後すぐに無性にもっと呼びたくなってしまうのはなぜだろう。 「でも正直、誰かとやっと喋れるってホッとしてたりすんだよな」 「それ、おれも分かります。やっぱり一人は寂しいですから」 南波さんを安心させる為かそれとも自分自身のためか、自然に出る愛想笑いは、この場の空気を少しだけ和ませる。 「記憶喪失?って結構いるもんなんかね」 彼は頭をかきながら、ちらりとこちらを一瞥する。どうやら、言葉を選ばせてしまっているようだ。 「どうなんでしょう。おれも突然目が覚めたら右も左も分からなくって」 「そんな赤ちゃんレベルかよ。まぁ、でもオレも同じようなもんだな」 その時いる場所も、自分の名前すら不明なんて、恐怖しかないだろ。 ぶっきらぼうにそう告げられると、あるあるネタのように頷きたくなる。 記憶の中と寸分の狂いなく、南波との会話はテンポが合っている気がする。 「でもまだ南波さんは名前とドーナツが好きだった事しか思い出せないなら、おれの方が一歩リードしてますよね」 「そりゃそうだ。お前に何か会った事ありそうなのに全然分からんもん」 唐突に。これはチャンスだと誰かに言われたように感じた。 もしかしたら、かつての自分が頭の中で言ったのかも知れない。 −おれは南波さんと、もっと一緒にいたい。それなら、一つしかない− 「じゃ、じゃあ記憶、一緒に探してみませんか?」 「探すって……二人とも病院行った方が早いんじゃねぇの?」 「なら南波さん一人でどうぞ。おれは何科にかかればいいかもまだ思い出せないんで」 でも、と彼は続ける。 自分を知っている人が協力してくれるなら、こんな心強い事はないと。 [*前へ] [戻る] |