Sainen
1
オレの名前は南波ヤスアキ。らしい。
らしいというのはいまいち実感がわかないせいで判断が出来ないためなのだが、いかんせん脳味噌の中にミジンコほどにも思い出やら感情やらがいないようで、気がついたら外に立っていたのだ。
あの時はただひたすら、恐怖しか感じなかった。
叫びたくなる気持ちをおさえて、公衆トイレにかけこむ。
完全に変質者だと思われただろうがこの際仕方がない。
人がいない事を確認してから個室に入ると、自分自身の手荷物検査だ。
髪の毛を引き抜く。長めのピンク色。違和感は特にない。
これだけは信じられない事なのだが、自分自身の見た目だけは妙にしっくりきていた。
オレは好き好んでこのきっかいな髪の色を選んでいたに違いない。
というか、今身にまとっている深紅のコートだって、多分オレのタイプどんぴしゃなのだ。
持ち物は、胸元のポケットに引っかけられた鮮やかな黄色のサングラスと、名刺ケースの二つだけだった。
サングラスは、かけている事の方が多かったのかも知れない。
しみこまれた慣れた手つきで装着してみれば、ますますなじむ感覚があった。
しかし、腑に落ちないのがこの名刺ケースだ。
先ほど見目を確認したように、オレは正直おかしな人間だった筈。
その証拠に、コートだってよれよれで、真面目とは真逆の世界にいた事が分かるのだが、これだけは大事にしているようだった。
色あせないように、壊れないように。大切に持ち歩いていたらしい。
その中にたった一枚だけ残っていた名刺が、このオレの名前だった。
「そんなに名刺が大事かねぇ……?」
それにしても、もっと何か持ち歩いてくれないものか。
財布すら見つからないとは、これでは病院に行く事だって困難だ。
だからオレが最初にしようと思った事は、仮初めの寝床を確保する事だった。
そのためには、先立つもの−お金が圧倒的に足りない。
ならば、稼ぐしかない。そうして始めた事が、街の中をあてどなく歩き回る事なのだが。
履歴書も書けないオレがぶっつけ本番で雇ってほしいと直談判をして、聞き入れてくれる人などいなかった。
そりゃそうだオレだって突然「記憶ないけど頑張って働きます」なんて人がきたらにべもなくお断りするだろう。
徐々に街の人間からも存在を無視されているような気がしてくると、まるで切り離されたような、大きな壁にぶち当たっているような感覚がする。
ストレスだけが無性にたまっていくのは面白くない。
早く……誰かと話して発散してしまいたい。
(特定の誰かと)
一瞬だけ、誰かの後ろ姿が頭の中をかすめていった気がしたが。
それも花びらが散るように消えてしまう。
持ち物もヒントもないまま、このまま何も思い出せなかったらどうすればいいのだろうか。
そんな恐怖とひたすらに戦っていくうちに、ついにオレはあるドーナツ屋にたどり着いたのだった。
今にして思えば、これは運命のいたずらとでも言うのだろうか。まるで引き寄せられるように、オレは行列の中に身を寄せる。
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