[携帯モード] [URL送信]

Sainen

 その夜、おれはご飯も食べずに呆然と部屋に体を投げ出していた。
何がどうしてそうなのも不明瞭なままだったが、おれは先刻の事態を存外ショックに感じていたらしい。

それでもあの顔は、腕組みをするその手は、記憶の中のそれと差異はないようの思える。

 人の脳は、案外単純なものかも知れないという事を味わうのはもう何度めか。
一度きっかけがあると、インクを一滴二滴とこぼすように断片を掴む事が出来そうな感覚があった。

 それは甘ったるく胸焼けのするような。むせ帰るような糖分の香り。
女子ウケしやすそうなパステルカラーの壁に、切り株みたいな机と椅子。

そしてその全てを、洋楽のバーゲンセールみたいに延々と流れるご機嫌なナンバーが彩る。
外観しか実際には見ていない筈だから、店内の中が一望できるこれは紛れもなく記憶の一部で。

ドーナツ屋とおれとあの人とは、どうやら通常よりも多く因縁深いようだった。

この記憶の始まりは、ケチくさいとおれに怒られながらも、激安セールの時以外はドーナツが買えないと笑っていた事。

明るく気さくな話し方は、実際に今会話をしている訳ではないと言うのに、こちらの気分もリラックスさせてくれるものだった。

「そうそう、その度におれはそんなに甘いもの好きじゃないんですけど、付き合わされる身になって下さい、ってよく言ってた気がする」

でもそうしたら、彼は待ってましたと言わんばかりに口元を綻ばせてコーヒーカップを指さすんだ。

(オレはドーナツ。お前はソッチ。お互い特しかしてねぇじゃん、ってね)

もうほとんどはっきり分かる。この言葉はおれが言い返せなくなってしまう切り札のようなものだった。
懐に入りこんで、相手に仕方がないなぁと思わせるような話し方だ。

まさにずるい大人の、子供に対するあしらいとほとんど変わらない。

 どんどんと思い出す事はさすがに叶わず。
結局掴めたものはたったいくらかだけの、本当に些細な日常のワンシーンを持ってきたかのようなものだけど。

(……それでも、“あなた”を一つでも心に持てて嬉しいです、なんて)

脳よりも何よりも。本能レベルでこんなにも単純な思考になれるおれ自身が、また新たな発見でもあった。

 それにしても。一つの記憶を取り戻してここまで考えて、おれにはまだわからない事が増えてしまった。

定番の流れがあるらしくて、一緒にドーナツを食べる程、親しい仲である筈の彼が。
おれが目が覚めて一番に早く会いに行かなければと心動かされる程のその存在が。

−ただ街で目が合うだけで、会釈をするだけで終われるだろうか。

普通だったら、声をかけたりするものではないか?
もっと言えば、ドーナツ屋に誘うものなのでは?

名前すら知らない、でもきっと大切なあの人が、あの時笑いかけてくれた意味は……。

「どうして、声をかけてくれなかったんですか」

何一つ答えが出ないまま、余計に増えていく謎に、俺はまた明日行けば良いと瞼を閉じて打ち切る事にした。

[*前へ][次へ#]
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!