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Sainen

 記憶の喪失なんて現象は、おそらくドラマや漫画だけの事だと思っていた。

しかし、目覚めてみて事実そうなってしまうと、もはや諦めなのだろうか、さほど焦る事もなく、ぼんやり事実を受け入れてしまえる自分がいた。

 部屋を見渡す。窓は壁に一つ。開けてみると外からの風が冷たく滑り込む。
高さはそれなりにあるようで、おそらくは二階。
階下には庭と思わしき光景が広がっており、広めの間取りの家である事を伺わせた。

なんて格好よくコメントをしてみても、その実、普通サイズの家がどれくらいあるのかっていうのをおれは知らないから、実際はそんなに広くないとは思うけど。

 窓際を重点的に注目してみて得られた収穫は二つだけ。一つは、おれが一番気になっていた、自分の名前だ。
自らもそう名乗り、書いて、それから一番呼ばれていたのだから、慣れ親しんでいるものに違いない。

だから、今おれのこの手の上にあるものに記載されているこれこそが、間違いなくおれの名前なのだった。

「これ、多分アルバム……だよね」

物の名称などは記憶の保管場所が異なるためかすんなりと理解できた。
A4サイズの古めかしい、少しホコリを被ったバインダー。背表紙には、『ふゆき 幼稚園』とシール状の題名がついている。

 中にあったものは、黄色い帽子を被った幼い少年が、灰色の制服を身にまとって様々な場所へと出かけている記録だった。

赤や黄色、華々しく彩られた落ち葉の道を歩いている写真。
目のくらむような白い太陽を背に砂浜を駆けている写真。体中を土まみれにしながら、笑顔で芋堀りをしている写真。

すべて始めてみる光景のはずなのに、胸のどこかが刺されたように痛むのは、きっとおれのアタマが、この思い出を必死に取り戻そうとしているからだ。

 しかし、写真や名前などの情報が集まってきたところで、『そうだったのか』という感想しか出てこないあたり、実は記憶を取り戻すのはそう簡単でもないのかも知れない。

(……この部屋を出て、あの人に会えば、思い出せるのかな)

 そしておれは、残ったもう一つ、扉を開ける方法は一つではないという事を知るのだった。
ふすまという見た目に騙されて、横にしか動かないと思いこんでいた、そういう可能性だ。

「っていうかよく見たら、ふすまの端に蝶番がついてるし」

そう、このふすまは、前に押し出せば開くのだ。

 「こんな簡単に出られるのなら、もっとふすまに挑戦すれば良かったかな」

なんて自虐を交えながら、おれは最初の一歩を踏み出す。
空っぽになってしまった頭に、本当はあった筈の記憶を取り戻すため。

そして……あの人に会って、話をするために。

(でも肝心な“あの人”って、一体誰なんだろう……)

漠然と胸の中を巡るのはただひたすらに焦りだけ。
おれはまだ間に合うだろうか。この頭を満たす事に。

おれはまだ間に合うのだろうか。あなたの広げた腕に飛び込む事に。
何も分からないままでも、大切にしていたい感情がある。それだけで、おれはもっと頑張れる気がした。

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