Wonderwall







[ワンダー・ウォール]




ペトラの指が、ゆっくりと霧をすくって進んでいく。

白に包まれた世界の中で、ひときわ濃く霞がかったカーテンのような壁を、細い指が撫でていく。
ペトラの背中を見つめて、オルオは、こういうのは意外と無かったな。と感じていた。
こうやって目的も無く、ただ二人、連れ立って歩くというのは。
此処が麗らかな午後の森か何かなら、これをそのまま幸せと名付けられないことも無かった。
だが実際にオルオが感じていたのは茫漠たる不安と微かな苛立ちと、消え入りそうな倦怠だ。前を行くペトラもおそらく変わらない心境だろうと、オルオはふと目を細める。ペトラの肩越し、なるべく遠くへ視線を移そうとする。
一面をぼんやりと白の一色に覆われて、遠くと言っても何の取っ掛かりもない。
先を行くペトラが視界にいなければ、目の前も地平の果ても変わらなかっただろう。無論、地平など見えないが。

「……おい」

そう思い巡らせたところで、オルオはペトラを呼び止めた。俺の目には辛うじてこいつが映っている。じゃあ一人で先を行くペトラは?

「なに?」

足を止めて振り返ったペトラは、別段何ということもない顔と声だった。本当に森かどこかを散歩していて、ふと呼びかけられたような。
ペトラが表情を作って来るにしても、オルオはもっと不機嫌な顔を想像していた。少し拍子抜けして、意識して肩を落とす。

「まだ拗ねてんのか」

オルオの言葉に、ペトラは今度は明らかに芝居がかって表情を決めた。不機嫌ではない。むしろ無感動とも言える顔だった。目を丸く見開き、怒りはない代わりに温度もない声で、ことさらにゆっくりと。

「誰が いつ 拗ねたの?」

それだけを告げてクルリと前に向き直り、心なしか歩調を速めて歩き出す。

拗ねてるじゃねえか。今。お前が。

言い返すまでも無い事実を溜め息に変えて、オルオもペトラにつられて止めていた足を再び繰り出す。

一人で歩いてて怖くないか。

ちょっと今は言えそうにない言葉は次に取って置くことにして、再びペトラの背中を見つめ、その後に続く。

さっきっからずっとこの調子だ。
二人して何のあてもなく、果てのない霧の海を彷徨っていた。

彷徨うと言っても今は一応の順路がある。再び霧のベールをたどりだしたペトラの指に目を落とし、オルオはそこから視線をずらして、自分の真横を見つめ、それから無駄と知りつつも顎を上げ、宙を仰いだ。

広大な霧の海の底は、どういうわけか巨大な霧の壁に仕切られていた。

見た目には周囲の霧から殆ど変化はない。
ただ指をあてがってみて初めて、触れて撫でることは出来ても、その奥へは進めないと知った。
壁をなぞるペトラの指の爪先は、冬の雲のような膜に僅かに霞んで見える。が、それ以上深く沈むことはない。こんな気味の悪いものを触り続ける神経がオルオには知れないが、全く取っ掛かりの無い状態よりはマシだとペトラは判断したのか、頑なに壁伝いに進み続けていた。
頑固ついでに言うなら。オルオはげんなりとして思う。
こうやって歩き続ける意味など実のところ全くないのに、一向にペトラが休もうとしないのは。不思議と疲れないこの不気味な身体を差し引いたとしても、明らかに拗ねているからだ。完全にウサを晴らすためだけに、ペトラは暴走している。
そろそろ勘弁してくれというのが、オルオの正直なところだった。


「……オルオってさ」


ふとペトラが呟いたのは、それから十日ほど経った頃だった。
実際はどうだか知らない。案外数分かも知れない。数年かも知れない。オルオの体感では十日と感じただけだ。不眠不休で三日間の行軍訓練をした経験ならオルオにもある。あの感覚から今の身体が疲労を感じないことを加味して見積もった。そう当てずっぽうでもないはずだ。

「こういうとこは変わんないよね」

十日ぶりにしては唐突過ぎる振りだったが、話題と言えばひとつしか無いので知らないふりも出来ない。あからさまに不穏なペトラの台詞に、オルオは顔をしかめる準備をした。
歩調を緩めてペトラが振り返る。十日ぶりだろうが数年ぶりだろうが特段変化はない。見知った女の顔だ。ただこの前見たときよりは感情が窺えた。呆れているようにも、困惑しているようにも見える角度で唇を曲げて。

「煮え切らないっていうか」
「うるせえな……」

煮え切らないってのは絶妙だ。忌々しくもオルオは認めてやる。
すかさず反論するつもりでいただけにオルオはまたも肩すかしを食らって、どうにかそれだけを返した。ペトラが臆病者だの意気地無しだのと的を外れた言葉を選んでいれば、オルオも全力で名誉の挽回にかかっていただろうが。煮え切らないというのはギリギリで事実を捉えていなくもない。
とは言え正確でもないため、オルオは努めて理性的にペトラを諫めようと、静かに言葉を続けた。

「結論は出しただろうが。変える気もない」
「単に怖じ気づいただけでしょ」
「あっ! てめえまた言いやがったな! そりゃ断固間違いだ馬鹿! 訂正しろッ!!」
「他にどう考えてやれって言うのよ……」
「だから言ってんじゃねえか!」

理性的に、という姿勢は決めたそばから脆くも崩れたが、不可抗力だ。案の定この女は何も分かっていない。オルオは怒りに額が痺れるのを感じた。
苛立ちをぶつけるあてもなく怒鳴り散らすオルオとは対照的に、ペトラはまたわざとらしく表情を作って、今度は何やら疲れた顔を見せていた。
オルオとしては自分の忍耐と理性を心から賞賛してもらいたいくらいなのに、ペトラはそれをよりによって臆病心だと誤解している。
その点については十日前だか数分前だか数年前だかにもオルオはさんざんペトラに説いて聞かせたのだが、忘れたのかとぼけているのか。結局この調子だ。

久々に振り返ったと思ったら不愉快だけを振り撒いて、ペトラは再び前を向く。髪が揺れ、霧を微かにかき混ぜる。触れていないと不安なのか、指先は再び白い壁に添えられる。そのまま何事も無かったかのようにペトラはまた歩き出す。
ペトラの背中が前に進む一瞬、オルオは後を追わない自分を思った。
思うだけだ。足は自然に前へ踏み出される。
クソ、と内心に毒づいて、苦々しさに歯を噛み締める。霧のせいかやけに白く見えるペトラの指を見つめ、オルオは苛立ちを逃がそうと大げさに息を吐いた。
その指が自分の肩にしがみついていた感触を、オルオは一瞬前のことのように思い出せる反面、遠い昔のことのように感じてもいた。抱き締めた身体の強張りも。触れた髪の細さも。
口づけに至っては最早幻覚だった気がして始めている。幻覚というなら諸々まとめてそうなのかも知れないが。





memo




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