Nobody But You




息せき切ったジャンの言葉を聞いて、次に自分が応えるまでに。どれだけ時間がかかったのか、情けない。全く覚えていない。
夢の中においても、その間は無限だった。
風が不自然に速度を落とし限界を超えて遅くなり、ただの空気の固まりとなって、生き物のように身体を押した。頭上では雲が静止し、ますます低く灰色の頭をもたげていた。海の中で波に呑まれた感覚によく似ていたが、まだこの頃の俺は海を知らなかった。現実にはあの時はただ、息苦しさを感じたはずだ。実際のところは要は多分、しばらく呼吸が止まっただけだった。

「……は?」
「俺も行くって言ったんだ。阿呆みたいな顔すんな」

時間が戻り、感覚が戻った。再び風が吹き荒れ、自分の髪が視界を邪魔する。額に手をやって改めて見たジャンは、既に怒りを収めていた。意識の全てを向けて見ると、先の形相は見間違いだったのかと思うほど、ジャンはひどくさっぱりとした極々平静な真顔でいた。

「……嘘だろ?」
「本気だ」
「そ……」

風はジャンにも吹きつけていた。ケープをはためかせ、短い髪を四方から乱していた。鼓膜に打ちつける痛いほどの風の中で、ジャンの視線だけは揺るがなかった。その声だけはよく通った。

「……正気か?」
「そりゃ俺の台詞だ。身ひとつで飛び出しやがって」
「そ…れは、今は関係ないだろ…それどころじゃなかったんだ……」

なかなか追いつかない頭を巡らせて、少なくとも敵意はないらしいと理解する。敵意こそ見当たらないものの、ジャンは呆れたのを通り越して見下したような顔でいた。こちらの馬を見て言ったジャンの言葉に、つられてジャンの馬を見やる。そうして否応なしに、この男が本気だと思い知らされた。

「お前……凄いな、それ。超長距離調査班用のフルセットか」
「二人分だからな。半分そっちに積むぜ。下りろ」
「は……」
「その阿呆面やめろ」

返事を待たずジャンは馬を下り、手綱を緩く手にかけて馬の鼻を撫でた。そうしてジャンが無言で鞍に下げた荷のひとつを下ろしたところで、転げ落ちるように自分も下馬した。

「おい、ジャン……」
「ほら」
「ジャン!」
「何だよ」
「頭冷やせ……お前は正気じゃない」

「俺は正気だッ!!」

再び風が止んだ気がした。空気がビリビリとひび割れて爆ぜた。

「俺は正気だ! あいつらが残らず狂ってたとしても俺は正気だッ!!」

あいつら、とジャンは今馬を走らせて来た方角へ腕を持ち上げ、吼えた。
そうだろ……エレン。と。
暴発に似た咆哮の後には、消え入りそうな呟きが残った。

「……戻れないぞ」

返せる言葉は少なかった。自分でも聞き取れないほどの、風に消されそうな音で、どうにかそれだけ言った。

「戻る。どこへだ」
「ジャン……」
「エレン、答えろ。俺はどこへ戻るんだ」
「……ジャン。聞け」

抑制された声は、ひどく疲弊して聞こえた。深い老いすら感じさせた。その老いはこの男だけのものじゃない。自分の胸にも刻まれた皺だ。辛うじて言うべき言葉を搾り出して、男の目を見つめる。まだ底には怒りをたたえている。

「ジャン。お前は優秀な兵士だ。すべきことは山ほどある。お前に出来ることが…」
「それこそ俺の台詞だ。俺に出来てお前に務まらない仕事がどれだけある。逆なら山ほど残ってるぜ? お前にしか果たせない役目が。背を向けるのは何故だ」
「……俺は」

何故。
言い返したい言葉は即座に浮かんだ。ジャン。お前にしか務まらない仕事だって山ほどある。指を折っても足りないくらいだ。俺に出来ることなんて死ぬくらいしかない。それが出来ないなら黙って消えることだ。それともお前、俺に死ねって言うのか。いや、死ぬべき。か。お前はそういう男だったな。ジャン。お前はそういう男だったはずなのに、どうして。どうしてここへ来てこんなトチ狂った真似。冗談じゃ済まねぇんだぞ。
言葉は浮かぶだけ浮かんだが、どれも売り言葉を買うだけの八つ当たりでしかなかった。
殴りに来ただけだったらどんなに助かったか。負けの決まった舌戦は苦痛でしかない。

「俺は……好きにやるだけだ」

結局言いかけた言葉は浮かびきったところですべてを飲み込んで、一番正直な一言だけを返した。
とっとと負け越してしまうにかぎる。殴り合いならともかく、こんな場所でこいつとネチネチやり合っていても気が滅入るばかりだと、既にだいぶ滅入っている自身に言い聞かせて。

「なら俺を止める理由もないな」
「ジャン…」
「どの道もう戻れねぇよ。分かってんだろ」

戻るったって、どこへ戻るんだか分かんねえけどよ、と拗ねてみせた声は、耳慣れたジャンの小言だ。皮肉に小さく笑ってジャンは空を仰ぐ。視線を追って目を上げると、雲は巨大な川のようだった。今見上げるとそれは、嵐の前の濁った海原のようだった。

「門出だってのに景気悪いな」

チッと舌打ちをして視線を下ろすと、ジャンは持ち上げた荷を一度自分の馬に戻した。

「なあ、エレン」

そうして呼吸を整えるようにふと息を吐いて、不意にその両手がこちらへ伸ばされる。一方の手で肩を、もう一方の手には反対の腕を捕まれて、距離を詰められる。
自然を顎が上がる。仰いだジャンは空を背負って、雲の鉛色とは対照的に、不思議と穏やかな表情でいた。そういう顔を作っているだけで、皮膚の下には激情が透けて見えるようだったが。僅かに細められた目も、次いで届いた声も。風を忘れるほど穏やかで、ある種の労りすら感じられた。

「エレン、お前が教えたんだ」

この瞬間からだ。
あの瞬間からだった、と気づいた。
愛してると言われるのはまだずいぶん先の話で、ジャンの言葉を信じるなら、そうなるきっかけが訪れるのもまだ当分は先の話だったが。
それでもあの瞬間から、この男はどこまでも俺に甘くなったと。真相はどうあれ、今にしてみればそう思える。


「お前が俺に教えたんだ。自由を」









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