Nobody But You




夜は恐怖だ。
化けの皮の剥がれた病人と二人、狭い寝床で朝を待つ。男に背を向け頭まで毛布を被り、開いた目を閉じる気にもなれず、じっと目の前の暗い布地を見つめる。意識は耳にある。森のざわめき、鳥の声、虫の声、羽音、風、水。時折自分の咽喉が唾を飲む音。それらをかき分けて、背後の男の呼吸にだけ耳をすませる。これを追い出す方が早く寝付けると分かっていても、そればかり耳が拾ってしまう。次第に瞼は重くなり、今落とせば眠れるという瞬間は二度、三度と訪れるが。無理矢理に瞼を押し上げて、睫の触れる距離の毛布に目をこらして、その機会をやり過ごす。繰り返すうちに額が痺れ、いよいよ抗えなくなっていく。もうあんな夢は見たくない。意識の最後の一片で、せめてそう念じた。
今日はやけに早く眠くなった気がする。
風が強いせいだろうかと、ふと思う。背中越しの男の呼吸よりも強く、轟々と耳元に響く。
いつしかその風の中で、馬を駆っていた。乾いた草原の上、それを覆う曇天の下を。
風は空の果てまで轟いていた。重く垂れ込めた雲の群れが、地上からでも分かる速さで刻々と形を変え、低く流れている。その不吉な風の濁流を縫って、馬を走らせていた。
全速ではない。早馬のストレスにならない程度に手綱を緩め、遠く見える緩やかな丘の上を目指していた。まだ馬を失う前の記憶だ。自分の唯一と言って良い財産だった。
ハッと溜め込んだ息を吐いて、冷えた風を飲み込む。
天候こそ芳しくなかったが、心は晴れやかだった。穏やかにトクトクと脈打つ自分の胸を心地良く思っていた。不安は勿論ある。焦燥も、ほんの僅かな感傷も。けれどそれらすべてを上回る昂揚に、胸は静かに高鳴っていた。ひとまずは丘へ上って、少しでも先を見晴らすつもりでいた。当てがないなりの当ては必要だ。幸いにも良い馬を得て、これを自分から手放す道理はなかったが。それでも叶うなら自分の足で走りたい気分だった。どこまでも。
そこへ。

「エレンッ!!」

突如。
風を切り裂き、地平まで轟く怒号が渡った。
瞬間、剣の半身を抜いた。次の一瞬で馬の横腹を蹴り、速度を上げて振り返る。その後の数秒で追い立てたばかりの馬を止め、剣を鞘にしまい、改めて柄に手をかけた。

「……ジャン?」

胸を満たしていたのは昂揚は、たちまちに霧散した。ジャンの声に、罪人を糾弾するような怒りに満ちたその声に。緊張に一気に汗が噴き出す。握り締めた剣の柄を意識し、まず頭をよぎったのは、こいつを殺せるのか、という自問だった。近づくほどにジャンの形相は険しく、ありありと殺気立っていた。だが剣は構えていない。手綱も両手で掴んでいる。ただ唇を結び眉根を寄せ、空気の帯電しそうな怒気をはらんで、こちらへ馬を駆って急速に迫っていた。一人で俺を殺しに来るほど愚かな男ではない。餌役を預かったにしてはあの殺気は不適だ。さすがに冷静になって柄から手を離し、ジャンを待った。
待つ間に考えたのは、最後に一発殴りに来たのかな、というようなことだった。殴られる心当たりは全くないが、この男は昔から理由もなく俺を目の敵にしているところがあった。黙って殴られてやる義理もないが、一発くらいなら貰ってやっても良い。追いついて馬を止め、間近に向き合ったジャンの顔を見て、そんな風にも思った。これが他人とやり取りをする最後になるかも知れない。その最後に殴られて去るというのは何か相応しい気はしたし、それで仲間の一人の気が少しでも晴れるなら、悪いことじゃないと。
足を止めたジャンの馬が荒々しく首を振り、息を継いで、二歩、三歩足踏みをする。それを宥めて手綱を引きながら、ジャンは真っ直ぐにこちらを睨み据えて動かなかった。視線に視線を返し、目はそのままに、念のため意識だけは周囲に向けておく。頭の一部分ではこの男の出方を窺いながらも、残りの身体はどんな事態にも反応出来るよう、一定の緊張を保つ。

「……何の用だ」

呼び声を聞いたときこそ驚いたが、既に冷静を取り戻していた。
何を言われるにしても殴られるにしても、そう長い時間はかからないだろうと。顎を引き、返答を待って。


「俺も行く」









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