espuma
変わる距離

「かな」

先輩にメールを送って昼休み終盤までかかったお弁当を片付けたところで名前を呼ばれた。
「かな」
メールの返信じゃなくて、直接ボクのところに来てくれた。
「ぁ…っ!はいっ」
「こっち」
先輩に見惚れてぽわ〜っとしている女子と、驚いている男子の間を縫ってドアに立つ先輩の元へ行った。
「え…ぁ」
自然な仕草で手を握られて軽く引かれるように歩き始めた。
「今朝は寝坊した」
「へ」
歩く速度はそこそこ速いけど、口調はのんびりしたもの。
「さっき、着いた」
大遅刻じゃないですか?
「かな」
先輩が足を止めて振り返ったのは階段の踊り場。
三ヶ所あるうちで一番利用する人が少ない端っこの階段。
「明日、電話して」
「で、電話…ですか?」
「朝」
起こして欲しい、ということ?
「はい…」
ぎこちなくだけど頷いた。
そしたら、微かにだけど口角が上がって笑った…
「かな」
ひんやりとした大きな手が頬に触れる。
「真っ赤…」
軽く摘ままれた頬がみよんと延びた。
その指が摘まんだところを一撫でして離れる。
「マシュマロ」
そう言って、頬を突っついた。



先輩と居たのを時間にしたら5分ほど。
授業のチャイムを自分の席で聞いたんだから、もっと短い時間だったのかも。
「ご機嫌だな…」
席に戻ってきた浜野くんと本多くんに呆れたように言われた。
「新倉先輩、来たんだって?」
浜野くんに頷くと、やれやれと呟いて軽く肩を叩かれた。
「よかったな」
「うん!」
さっきまで感じていた鬱々としたものは綺麗さっぱりなくなっている。
ボクって単純だ…
「ま、怖い顔してるより全然マシだけどさ」



──────

起こす時間を聞き忘れ、メールで質問したら電話がかかってきた。
ボクが起きる時間でいい、と微かなノイズ音と一緒にいつもより潜められた声が告げた。
なんというか、耳元で囁かれたような気になったのは秘密…

ボクの起床は6時。
決して寝起きが良いわけではなくて、けっこうな頻度で慶ちゃんに叩き起こされている。
「…信じらんない」
時計を見て愕然とした。
アラームをセットした6時より早い5時半前。
いくらなんだって緊張し過ぎなような気がする。
ベッドで座り込んでいても仕方ないから支度をすることにした。
「あれ!?おはよー」
慶ちゃんはお弁当と朝ごはんを作っている最中だった。
「おはよう」
「早いけど、どした?」
「………目が覚めちゃって」
先輩に電話するのに緊張して目が覚めたとは言えなかった。
「ふーん?ま、授業中に眠くならなきゃいいけど」
それに苦笑を返して洗面所に向かった。

ケータイを握って正座して。
5分前からこの状態。
6時ぴったりにかけるか、6時過ぎてからかけるか…
「普通…どっち?」
こんな些細なところまで考え込むなんて、どれだけ緊張してんのかな。
「汗ばんできた」
ケータイを握る手にじわりと汗が滲む。
なんだろうね、これは。
「あ」
ケータイの表示が6時丁度になって、そっと先輩の電話番号を開く。
「……っえいや!」
変なかけ声を上げて通話状態にした。
頭というか、全身が心臓になったみたいに鼓動が跳ね回る。
コール音を数えて4回目に途絶えた。
『………』
ゴソ、と動いた音。
「先輩、朝…です」
声が、震えた。
『……かな…』
鼓膜を震わすのはいつもより掠れたテノール。
「は…い、奏です」
ケータイを充てている右耳から発火してしまうんじゃないかと…
「…先輩、朝ですよ」
ふ、と空気の揺れるような微かな音。
『葉澄』
「ぇ…あ、ぇと…葉澄せんぱ」
『葉澄』
呼び、捨て…!?
「ゃ、あの」
『葉澄』
無理ですという言葉を告げる前に先輩の声が被る。
『かな』
「は…い、はい」
『葉澄』
寝惚けてるわけではなくて…
「ぅ…」
『葉澄』
先輩がこれだけ言うなら、良いのかな?
でも…
『かな、呼んで』
いつもより数段優しい声がそうねだるから…
「は、す…み」
『ん…もう一回』
「は、す、み」
『もう一回』
「葉、澄…」
『かな…もっと』
「葉澄」
『かな』
「葉澄」
『まだ』
「葉澄」
乞われるままに名前を繰り返す。
呼ぶ度に優しく乞われて跳ねまくっていた鼓動は、いつの間にか落ち着いていた。
『かな』
「葉澄」
『かな、おはよう』
「おはようございます」




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あきゅろす。
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