espuma
キスをした気持ち

「泣くな」

そう言って宥めるようにボクの頬を滑る指。
「かな」
動けないボクの手を引いてエレベーターから降ろし、部屋の前まで連れてきてくれた。
手に持った鍵が震える。
鍵穴に上手く入らなくて金属音が通路に響いた。
「かな」
ボクの手から鍵を取り上げて開錠してドアを開ける。
ボクを玄関に立たせると
「また、明日」
そう言って背中を向けて歩いて行ってしまった。
ゆっくり閉まったドア。
のろのろと靴を脱いで廊下を歩いてリビングのドアを開ける。
「……ふ…っ、ぅ…」
目に入ったのはソファー。
朝、そこに座っていた葉澄先輩。
なのに…



──────

リビングのドアが開いて、慶ちゃんが帰ってきたのが分かった。
「かーなでー?」
軽やかなドアをノックする音。
「寝てんのか?入るぞー」
ドアが開いて慶ちゃんの気配が近くなる。
「奏?」
布団の上から優しい慶ちゃんの声。
「奏、どうした?」
布団の中で体を丸めるボクはやっぱり変わっていないような気がする。
布団の中が最後の砦なんて。
「け…ちゃ」
「うん」
しゃくり上げる音と泣き続けて歪んだ声。
慶ちゃんには何度もみせてしまっている姿。
今更だとは思うけど、でもやっぱり情けない。
「久しぶりだな……泣き虫の奏」
布団の上から軽い感触で頭を叩いてくれる。
慶ちゃんは自分で出るまで布団を剥ぎ取ったりしない。
なんでか尋ねたら、自分の意思で出てこなければ意味がないからと言っていた。
同じように布団を剥ぎ取らない、お父さんやお母さんとは違う理由だった。
こんな風な時は腫れ物を扱うように近付いて来なかったから。
少し離れたところから、ボクの好きなものをちらつかせていた。
慶ちゃんは近くに居て、普通に話しかけて、ボクの纏まらない話を聞いてくれる。
「慶ちゃん…っ」
「どした」
布団から顔を出して慶ちゃんのお腹にしがみついた。
「こわ…こわく、て…っ」
「なにがさ」
慶ちゃんの指が髪の毛を混ぜる。
「先輩がっ、ボク…見なくて…っ」
慶ちゃんの指が止まる。
「新倉が?」
ヒクヒクと震える喉をキュッと締めて何度も頷く。
「新倉がなぁ…」
驚いたような声の慶ちゃんを見上げる。
「アイツあんまり話さないだろ?」
言葉は少ない。
一緒に居ても、話をしているのは殆んどボク。
ボクだってそんなに口数が多い方ではないから会話のない時間もけっこうある。
不思議なことにそれが気詰まりということはなくて…
「その代わりなのか、目が合わないことは滅多に無いんだよ」
「……ひ、ぅ…っ」
そんな人から目を逸らされるボクってかなりだめなんじゃないかなぁ。
「かーなで?」
「せんぱ…っ、何か怒ってたっ」
「うん」
「怒って…ボク、ボクの」
ぐりぐりと撫で回される頭を慶ちゃんのお腹に押し付ける。
「ボクの口…っ、食べたっ」
「…………は?」
頭を撫でていた指がストップした。
「なんだって?」
突然ひんやりとした空気を漂わせ始めた慶ちゃん。
もちろん理由はわからなくてぼんやりと見つめる。
「慶ちゃん…?」
「…んのやろ、俺の話を無視しやがったな」
目付きの悪くなった慶ちゃんの服を引っ張る。
「あ、悪い」
すぐに目付きの悪さは引っ込めてくれた。
その代わり、ボクの脇に手を突っ込んで持ち上げて座らせられた。
「あのさ…」
あまり言い淀むということのない慶ちゃんが言葉を探すように視線を泳がす。
「新倉が奏の口を食べたって…それ、一般的にはキスって言うと思うんだけどさ」
「キ、ス…?」
思い出す、その時のこと。
目の前に緩くウェーブした金色のように見える明るい茶色の髪の毛。
それと同じ色合いの薄茶の瞳。
焦点が合わなくなって。
「け…慶ちゃん」
「うん、まあ、その反応は正しいと思うよ」
頭が痛くなるほどに響く心臓の音。
いま熱を計ったら40度くらいはありそうなくらい、熱い体。
慶ちゃんの指が頬を摘まんで自分の顔がとんでもなく熱くなっているのを実感した。
「なんで新倉が今のタイミングでキスしたかはわかんないけどさ」
慶ちゃんは溜め息を吐いた。
「奏は?」
「ふぇ…っ」
「新倉にキスされて気持ち悪かった?」
慶ちゃんの顔はとても真剣で目が離せない。
「許せない?」
頬を摘まんでいた指は離れて頭を撫でてくれる。
「嬉しい?」
「け…ちゃ」
「奏はどんな風に思う?」
ボクは…
「…わからないよ」
そんな、誰かとキスをするような近さになったことなんてない。
「奏が小さい時なんかはいろんな人にチュッチュされて、嫌がって泣いてたけど」
「え?」
慶ちゃんの顔を見る。
「あれ、覚えてない?」
「覚えてない、というか…えぇ?」
「幼稚園ぐらいだっけ…クラスの子からキスされるのが嫌でいつも泣いてたの」
「知、らない」
というか、キス…なの?
あれは…
「……何て聞いてんの?」
お父さんとお母さんからは…
「気持ち悪い、いたずら…されてたって……だからボク、幼稚園が怖くて」
「………」
黙ってしまった慶ちゃんは暫くしてから大きな溜め息を吐いた。
「ん、まぁ…人の嫌がることをしないのは基本だけどさ、少なくとも奏が可愛くて仲良くなりたくてしたってことは伝えても良かったかもね」
「ぇ…と…」
困ったように笑うとまたボクの頬を摘まむ。
「嫌われて意地悪されてたと思ってたんだろ?」
「うん…だって、止めてくれないし…お父さんとお母さんは怒ってたし」
「奏はさ、可愛いんだよね」
「慶ちゃん?」
「仔猫みたいで、可愛いからかまいたくなるんだよ」
「つり目」
「じゃなくてー…言葉のまんま可愛いの」
ボク自身とは縁遠い言葉でピンとこない。
「ボク…ふと、太ってたし…人と上手く話せないし…可愛いわけないよ」
「かーなーでっ」
「け…ちゃっ!いた、いたいよっ」
両頬を摘まんで引っ張られた。
「おまえはね、なんで太ったと思ってんの!?」
「甘やかされて…」
「なんで甘やかされてた!?」
「ボクが、何にも出来ないから」
「ちっがうだろ!」
慶ちゃんの大きな声に体が跳ねた。
「奏が何もできないように、自分で何かを考えないように、何もかもがんじがらめで全部のことを先回りして…だから、何もできなかったんだよ!奏を手離したくない親のエゴで太ったんだよっ」
「慶ちゃん…」
ポロリ、と涙が零れた。
「だから、考えろ。奏の頭で考えるんだ」
「慶ちゃん」
「奏が新倉にキスされてどんな気持ちだったか、目が合わなくてどんな気持ちだったか、一緒に居てどんな気持ちなのか……考えて、考えて悩んで見極めろ」
「慶ちゃん」
「それで出た結論なら、俺は奏の味方になるよ」



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あきゅろす。
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