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群青
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すべては、砂時計の砂のように落ち、過ぎていく。
今思えば栄光に満ちた、フリオペとしての軌跡も、苦い記憶も、時間とともに過去になっていく。
ビニールシートや、足場に囲まれて改修中の格納庫の前に、誓は立ち尽くしていた。
三月。早春の冷たさの中に、早くも硬く閉じた桜の蕾が増え始める。
午後の淡い光に、分散した雪雲がはらはらと名残り雪を散らす。
優しく冷えた青空。戦闘機の、吸気するエンジン音。
防寒ジャケットの表面を、不意に冷たく強い風が吹き抜けた。
目深に被った帽子が、飛びそうになって慌てて抑える。
日曜日とあって、閑散とした格納庫前には誰もいない。
左手をさすりながら、誓はふっと微笑んだ。
修理されたシミュレータは、もう誓のための場所ではない。
空に対する執着も、不思議と今はもう、沸いてこない。
憧れのための空ではなく、戦いのための空を経て、誓は今もうフリオペではなかった。
左腕に残った麻痺で、軍の航空従事者身体基準に不合格になったからだ。
美花子は命を、そして誓は空を失った。
退院後に軍事法廷にかけられ、そして正当防衛と判断された。
他人事のように過ぎていく時間に、不思議と痛覚が麻痺している。
佐久のことを時々思い出しながら、変わっていく時代を見つめていた。
もうフリオペではない。
それだけで、誓は、佐久に恋さえできるような気がした。
ようやく五指が動くようになってきた左手を、右手でマッサージする。

明日で、この景色も見納めだ。
ここが自分のふるさとであるような、そんな郷愁にとらわれる。

明日付けで誓は、和光から入間に戻ることになっていた。
入間中央戦闘指揮所の地上班に異動し、もう恐らく佐久と会うこともない。
目を閉じて心の中に空を感じる。
この広い空に、もう一度Vortex10が舞う。
ただそれだけが誓にとって全てであり救いであった。
美花子の死を背負うに値する、救い。
そして、松本やみほが無事であったことが、少しだけ誓の気分を軽くした。
整備員や、松本、バックアップしてくれた人々への感謝を胸のうちで呟く。
さまざまな光景が蘇る。

いがみ合った訓練。飲んで騒いだ和光の駅前。
彦根が踊った腹踊り。
初めての戦場。
佐久の目で見た世界。そして墜落。
支えられて撃った引き金。
その後の悪夢に苛まれた日々。
ヘリポートに沈む夏の夕日。赤く染まった機体。
秋の三沢の肌寒さ。夜の果て。
水平線の向こう。
唇の柔らかな温もりと、優しさ。
知ってしまった佐久の過去。
そのときのお、あやめの瞬き。
そして、訪れた対峙の夜。
それから過ぎ去ったいくつもの冬の夜。

いつもそこにあった、自分たちを包む青空。
それらは遠くにありながら、川底に鮮やかなまま沈んでいる。
両手を広げて、抱きしめた空に、不意に目が潤んだ。

さようなら、私が愛してやまなかった空よ。

命を燃やした空も、涙した夜も、蛍のように儚く揺れて輝く。
青春は、過ぎた。
この場所には、二度と帰らない。そこに永遠があったとしても。

「バーカ」

そして、懐かしい声が誓を呼んだ。

「バカって言うほうがバカでーす」

誓の隣に、佐久が防寒ジャケットに手を突っ込んだまま並ぶ。
少し痩せたその輪郭、戦場の時間が鋭くした眦。
うっすらと青く瞳が光っている。
昨日まで渡米し、技術研修を受けていた為に、まだ誓と会っていなかったのだ。
だが、当然、誓がもう二度とフリオペには戻れないことを知っていた。
佐久は何も言わない。誓も、黙って俯く。
風が吹き抜ける。

「明日、帰るんだな」
「はい」

変わらない声音に、以前より少し落ち着いた口調。
耳に懐かしい、佐久の声。

「新しい奴は優秀だよ。お前より物覚えはいい」
「そりゃおめでとうございます」

肩をすくめながらも、誓は安心した。
佐久を任せられる優秀なフリオペがついたとあっては、もう何も思い残すことはない。
でも、と佐久が呟く。

「誓の代わりにはならない」

7ヵ月の時間に、佐久が何を経験し、何を見たのか誓は知らない。
だが佐久の背には、以前にはなかった覚悟と穏やかさが感じられるようになっている。
誓は何も言わず、佐久を見た。
誓はくすりと笑う。
――未来。
冬が来ても、夜が来ても、時間は過ぎていく。
自分もまた、その時間の中で、変わっていく。
未来とは、遠い彼方ではなく、明日。
最も信頼できるパイロット。そして、片腕に等しいフリオペ。
それは過去に変わってゆく。
髪を飾る、名残り雪を感じて、誓は気付く。

青春とともにまた、冬は去った。
肺いっぱいに吸い込んだ冷たい空気に、次の季節の匂いがする。


「谷川軍曹は、本日付で入間基地空中警戒指揮隊に原隊復帰を命ぜられました。なお、谷川軍曹は自らの身を省みず重要な通信装置を守り抜き、防衛に貢献したとして、統合軍十字章を授与されています」
寒い朝、いつもより少し早い朝礼。
格納庫前、整列した整備員や、松本たち科学者の前で、紹介される。
いつまでたっても、人前に立たされるのは好きになれない。
過ごした年月に比してあまりにもあっけなく、転出者紹介は終わる。
台に昇らされ、部隊長に敬礼し、胸に十字と鷲のあしらわれた勲章を授与される。

「ありがとうございます」
「おめでとう、谷川軍曹」

老練の部隊長、富士中佐が微笑んだ。
敬礼し、部隊長をまっすぐに見返す。
久しぶりに着た制服の、背筋が伸びるような心地はなかなか悪くない。
ただ、ネクタイを結ぶのに大変苦労したのだけれど。
拍手に包まれ、整列する部隊に向かって敬礼をする。
何もかもが最後だと、分かってはいるが実感が沸かなかった。
雲ひとつなく冴え渡った早春の空。

「谷川軍曹から、一言お願いします」

あまり人前でしゃべるのは好きではないが、そうも言ってられない。
誓は大きく胸に息を吸い込んだ。
そして、台の上から皆を見下ろした瞬間、不意に胸がつかえた。
そこにいる、深く親しんだ面々と、目が合った。

「本日は、本当に朝早くから自分の為に見送りをしていただきありがとうございました」

急に視界が歪んで、下瞼に熱いものがこみ上げる。

――何も出来ない自分を、ここまで育てていただいて、皆さんにはすごく感謝しています。
フリオペとして、これ以上ないほど恵まれた環境でした。
整備の方々が、あの精密機器の塊を夜遅くまで整備してくれたこと。
技術者の方々が、たゆまぬ情熱で飛行のたびに機体や装置を改良していってくださったこと。
私自身の身体を、細部にわたるまで最良に保ってくださった方々。
誰一人として、いなくては任務はおろか、生きることさえできませんでした。
自分はもう二度と、機上の乗組員にはなれませんが、皆さんのお陰ですばらしい空を飛べたことを一生忘れません。

みほや、松本、顔なじみの整備員たちが、誓をまっすぐに見つめている。
そして彦根に、栗駒。――佐久。
言葉に詰まりながらも、まっすぐに前を見据える。
涙が零れていても、胸が熱くても。

――フリオペでなくなるのは、少し、寂しいです。
和光基地を去るのは、寂しいです。
・・・すごく、寂しいです。
もう一度、生まれ変わっても、また和光基地でフリオペになりたい。

最高の仕事をさせていただきました。
本当に・・・、
本当にありがとうございました。

堪えきれず落とした涙の染みが、黒い制服に幾粒も落ちている。
敬礼した誓の睫毛は、びしょびしょに濡れていた。
頬と鼻は赤らみ、唇は震えている。
みほや彦根が、つい目頭を押さえている。

誓は、そして、挙手の礼をした手を降ろす瞬間、微笑んだ。

――最後くらいは、笑って去っていこう。
空は曇りなく青く、風は穏やかで、みんながいてくれる。
飛び立つには、最高の日なのだから。
たとえ胸の奥に、悲しみが燃え上がっていても。
式が終わり、皆が並んで作ってくれた花道に向けて、誓は歩き出す。
去り行くものだけが歩む、栄光の道。
美花子から奪った未来へと続く道。
――この道を、勝ち誇って歩こう。それが、勝ち得た者の義務なのだから。
みほが、涙でちょっとマスカラの繊維を落としながら、ピンク色のバラの花束を手渡す。
彦根が誓としっかり握手する。
松本が「谷川さーん!本当ありがとうね!」と叫んで手を振った。
「お疲れ様でした!」と霧島や整備兵たちが敬礼し、拳を上げる。
栗駒は、「がんばれよ」と、静かに親指を立てた。
そして、佐久は手を差し出した。
誓は、その手を左手に渾身の力をこめて、しっかりと握る。
パイロットとしての訣別。
その瞬間、電流が走った。
胸の奥にこらえてきたものたちが、堰を切ってあふれ出す。
誓は目を見開き、佐久の襟首を掴んだ。
そして、息が詰まったかのように、掴んだ襟首にすがった。
祈る巡礼者のように、頭を垂れる。
熱く苦い涙が、誓の頬を滴った。

――フリオペを、辞めたくない。

噛んだ唇から漏れる、その苦しげな喘ぎは、そう訴える誓の絶叫だった。
顔を歪め、唇を震わせ、誓は佐久を見上げる。
そうして、熱と涙に滲んだ声で、佐久に告げた。

後悔などしないで下さい。絶対にです。
悔やんだりしたら、私はあなたを絶対に許しません。

フリオペの空と美花子の命、そして左腕と引き換えに守った、佐久の命を悔やまれなどしたら、それらは総て無意味になってしまう。
湿った掌が、佐久の手の中で熱を持つ。
佐久は、膝が笑い、呼気が不意に乱れるのを感じた。
滲んでいく感情が、下瞼にみるみる溜まっていく。

「誓」

何も言葉が見つからず、佐久はただその去り行く名前を呼んだ。
思い知らされる。

誓に護られた命を、後悔するのを止めなければ。
悔やむために生かされた筈では、ないのだから。
――でも、やはり易々とそんなことは、できない。

目の前に消える輝きは、終わろうとしている時代は、焦げ付くように美しい。
佐久は、刹那、最後の一瞬を名残り惜しんだ。
無様な唸りを上げながら、思わずその命を抱き締めた。
天を仰いだ顔に、目尻から溢れる涙が伝う。
その鮮やかな熱さを、胸に抱き締めずにはいられなかった。
何もかもを構わずに、佐久はきつく目を閉じ、慟哭した。
機械の体であろうと、そこにあるのは人間らしさの根底。
顎から幾筋も涙が伝う。
佐久の激情に堪えきれず、彦根が顔を背けた。
易く人の心を掴み、揺さぶる慟哭が、響く。

「許すな」

天を仰いだ佐久の目から、あらゆる想いが溢れる。
佐久の瞳の海、群青の輝きが、涙を想いの色に染めた。
誓の肩を掴む。
真っ直ぐに正対した佐久の顔は、悲しみと無力に引き釣り笑っていた。
震える声で、しかしはっきりと、佐久は乞うた。

「俺を、赦すな」




群青 完

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