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群青
split-up
誓はまだ、帰ってこない。
 
黒部大尉が死んでから、初めて涙が流れたあの日。
後から気付いた、自分が何年かぶりに泣いたということ。
封じられていたものは、涸れていたわけではなかったのだ。
工作員含め15名の死者、多数の負傷者と莫大な被害を出したあの襲撃事件は、佐久の精神をも打撃した。
極限に再び、感情は蘇った。
一つ一つのいくさ場の風景が、佐久を砕いていく。
映像伝送のヘリカメラ越しに、デジタルノイズの中で見たもの。

担架の上の誓が、黎明の薄青の中搬送されていく光景。
アルミシートに覆われた小柄な身体、そして担架から垂れ下がった右手。


海兵隊がその担架を、黒い軍用ヘリに運び込む。
プロペラの巻き起こす凄まじい風に、瓦礫の上の埃が舞った。
陰影の中に行われる、無音の救出。
そこにあるのは、佐久が守れなかったもの。

――しかし後悔は、していない。
命令と大勢の支援がなければ何も出来ない。
結局は、それが軍人の限界だと思い知らされただけだ。
黒部大尉も、誓も。
自分の手で掬いとれるのは、ほんの少し。
河の流れの、そのわずか。
その事実を、突きつけられた。
佐久は、それを知った。
――それでも。
それでも、一滴でも多くを掬うために、力を祈り続けずにはいられない。

「佐久中尉」

落ちついたトーンの、若い男の声が呼びかける。
誓が負傷してから半年、代替のフリオペとなった霧島が目の前に立っていた。
佐久は笑って応える。

見た目は坊主頭の童顔だが、成績抜群、留学経験ありの英才だ。
何でも大抵一発で覚えてしまうし、ツソがない。
地上班から回ってきたばかりだが、信頼は既に厚い。

「機材はどうだ?」
「あと30分はかかりますね」

そうか、と頷く。
サイダーをあおって、アルミ缶を握りつぶした。
パイプ椅子に腰かけ、書類に目を通す。
ボロいロッカールームの、開け放した窓からふらりと一粒の雪が舞い込む。
よく晴れ、硬く澄んだ青磁のような空に綿雲が浮かんでいた。
淡い雪が、基地をうっすらと覆う。
昼の日差しに、氷柱の先からポタポタと雫が垂れる。
ふーっと吹いた風に、心地よい冷えが頬を撫でた。
「飲み会の件は?金曜か?」
「あ、泰子ちゃん大丈夫だそうです。金曜日19時に山猫軒で、3500円です」
「はいはい」

事件によって、大掛かりな改修を余儀なくされた格納庫を見下ろしながら、佐久は軽く流した。
青いビニールシートに覆われ、足場が周囲に組まれている。

「あぁ、そうだ」

胸ポケットから、霧島が半分に折られたメモ紙を取り出す。
向き直った佐久の短い前髪が、ふわふわ微風に浮いた。

「ミホさんから伝言です」

幾何学柄の洒落たメモ紙。
それを確認すると、佐久はちらりと微笑んだ。

「ありがとう」

霧島は、それでは、と軽く礼をして辞した。
佐久は広く青い空の浅瀬に目を戻す。この空を誓は見ているのだろうか。
美花子の遺体とシミュレータの中に閉じ込められていた誓。
一体あの晩、誓は何を見たのか。
きっと、癒えない傷を負った。
そして佐久のように、一生何かを背負う。
美花子がなぜ死んだのか、そして何が起きたのか、何も知らされてはいない。
昏睡状態から回復した誓は、情報部による聴取を受け、隔離されている。
面会できるのは鳥海のみ。
長野の軍病院に入院したまま、戻ってくる目処は立っていない。
ヘリで入間の基地に搬送されてきた誓は、深刻な失血を起こしていた。
入間は、半サイボーグ型人間も数多い。
そこで誓は、人工血液やオイルの、輸液を受けた。
佐久や彦根、鳥海も輸液を提供した。
その後長野に運ばれて、緊急手術。
その時から佐久は後悔にうち震え、幾度も悩んだ。
どうしようもなかったとは解っていた。
悩み続け、そしてある日悩むのに飽きた。
答えなんか、出ない。
そして黒部の命を生きながら、誓を待っている。


 


もう、帰れない。
あの場所には。
 
寝たきりですっかり退化した身体は、軽い運動でもぐったりと疲れてしまう。
新しい左腕は殆ど無感覚で、指を動かすのに全身で力まなければならない。
強い痺れの中から、神経を手繰り寄せるようなものだった。
無音の、色のない病室にフワリと粉雪が舞い込む。
割れた石のように抉れた、鋭い峰が雲を切り裂く。
病院の窓から見つめる、虚ろの風景。
長野の美しい峰の連なりが、綿雲を浮かべた青に突き立つ。
底知れぬ、がらんどうな青。
ベッドの上に足を伸ばして座りながら、ずっとその風景を眺める。
半分開けた窓から、刺すように冷たい風が入り込んだ。
片方に結った髪がさらりと揺れる。
左手の麻痺が無ければ、編み込みのお下げにしていただろう。
片手がなければ、意外と色々苦労する。
柔らかいゴムボールを、右手で左手に握らせた。
最初は全くの無感覚で、指の存在を忘れてしまったようになっていた。
右手で左手の指を動かし、ようやくそこに指があることが分かった。
いまではようやく、指を曲げられるくらいになっている。
左腕の神経の麻痺は一生残ると診断されていた。
千切れてから数時間の放置と出血がなければ、後遺症は無かったかもしれない。
不意にノックの音がして、誓はぼんやりしたまま返事をした。 

「はい」
 
うんざりするほど見た調査官の顔が、ひょっこりと現れる。
前森大尉とその助手の立山軍曹。
30代にして髪の半分が白髪の、疲れたオッサンの風体をした前森大尉と、若手リーマンのようなすっきりとした雰囲気の立山。
前森はかなり額が後退しており、七三に分けた髪の毛がいつも風に吹かれたように乱れている。
誓は密かに彼を「指揮者」と呼んでいた。
制服さえ着ていなければ、コンビニで肉まんを補充していても違和感がない。

だがその外見と穏やかな声音に隠された巧妙な尋問は、いつの間にか本音を誘い出す。
その話しやすさに、誓はかえって警戒していた。
 
「誓ちゃん、リハビリの具合はどう?」
「少しずつ戻ってきました」
 
窓を閉めて微笑む。
今日は、少し確認したくてね、と申し訳なさそうな前森が笑った。
 
「君はシミュレータで鈴江美花子を撃ったね?」
「はい」
 
何度も何度も聴取を受け、僅かな差異を聞き返され、同じことを供述した。
 
「何故鈴江を射撃したのですか」
「緊急性があると判断したからです」
 
シミュレータの通信を介してデータの改竄をされる恐れがあり、そしてそれが極めて危険なものである可能性が高かったこと。
自分以外にシミュレータを扱えるものがいない状況であったこと。
美花子が拳銃を向けていたこと。
――幾度も話したことだった。
 
「あなたは拳銃を向けて制止したと言いましたね」
「間違いありません」
 
立山が手渡した手元の書類も見ずに、前森はまっすぐに誓を見る。
 
「なぜ撃ったのですか?」
「鈴江は引き金を絞っていました」
「殺意はありましたか」
 
「殺すつもりで撃ちました」

最初から変わらない供述だった。
 
「強い憎悪と敵愾心、恐怖を感じたのです。殺さなければ殺されると」
「そのまま撃った?」
「そうです」
 
手元の書類に、前森は目を落とし、眉根を寄せる。
 
「今まで何度戦闘を経験しましたか?」
「一度です。佐久中尉の身体を借りて」
 
俯いて瞬いた誓を、二人分の重みを持った視線が圧迫する。
 
「つまりあなたは、実戦は殆ど初めてに近い」
「そうです」
 
前森が頭をボールペンで掻いた。
険しい顔をした立山は、じっと前森の言葉を聞いている。
 
「どうしても納得がいかない」 
前森が老眼鏡を掛けながら、書類を捲った。
誓は上目遣いで、前森を見る。 
「鈴江を検死した結果、右肺の下部から入った銃弾は、肺の左上に抜けていた」
 
弾道を計算すると、斜め下から彼女は撃たれたんです、と立山が捜査の資料らしきものを読み上げる。
きみの拳銃で弾道検査もして確認した、と付け加えた。
 
「きみは、そのまま狙いをつけて撃った、拳銃射撃の訓練通りに、と供述したね」
「・・・」
「だが、ひざまづいて撃ったとは言ってない。それに」
 
前森が顔を上げる。
 
「憎悪と恐怖のあまり殺した、という場合には、弾を何発も撃つ場合が多いんだよ。死んでからも撃ち込むくらいに」
 
確実に殺すため、二度と生き返らせない為に。
処刑スタイルと呼ばれるケースだ。
 
「谷川軍曹、私は君の供述には疑問を感じていたよ。相手がスパイだから処刑した、と淡々と話していた時から」
「事実だからです」
 
目を逸らした誓が、落ち着きなく爪を擦り合わせる。  
「検死の結果、鈴江は即死ではなかった。しばらくは生きていたはずだ。なぜ殺さなかった?」
「いずれ死ぬと思いました。もう脅威ではないと」
「殺したい、と思ったのに?」
 
沈黙。
誓の目が宙を泳ぐ。
前森は、恐らくは実戦経験者だった。
戦場の殺意の揺るぎなさを知っている。
 
「私が撃ちました。殺したのは私です」

「その間に、何があったのか私は知りたいんだよ。誤射だとしたら、君の責任ではない」
 
誓が初めて真っ直ぐ、強い視線で前森を見た。
 
「そんなことがあってはならない」

前森は、聞き返す。偽りのない声音に、初めて誓の感情を見た。

「あってはならない?」
「私が撃って、一人が死んだ。誤射だろうと、私が殺したのです」

息を呑んだ前森が、ゆっくりと瞬いて誓を見た。
誓の暗い目。
戦争の渦中にある若い兵士の、妙に老いた眼差し。
誓は、疲れ果てていた。一気に何歳も老けたように見えた。

「美花子が死んだのに、誰のせいでもないなんてことが、あっていいはずがない」

白い右手が、震えているのを前森は見る。
美花子は、誓と面識があった。
親しみのようなものを、誓は感じていたのかもしれない。

「腕を狙ったのです。しかし、美花子に撃たれて照準がずれました」
「撃たれながら撃った?」
「・・・はい」

肌寒いのか、ぶるぶると青白い唇を震わせたその様が、ひどく哀れだった。
美花子の死に責任を感じている。

「認められなかった。例えスパイであろうと、殺す理由なく美花子を殺してしまったことを」
「事故であっても?」
「美花子は、明確な殺意をもって殺されなければならなかった」

確たる理由なく誰かが死ぬという、そんな戦場の真理が誓を怯えさせていた。
そのために、責任の所在を自らにしようとした。
前森は、何も言わない。
誓の口数が少ないのは、言葉にすることができない感情が心にあるからだ。
どれだけ身体が強健なサイボーグであっても、その奥には脆弱な心がある。
精一杯強く振舞おうとした、誓は弱者だった。
二十歳そこそこの、こんな若者が到底背負えない十字架に向き合っている。

「谷川軍曹、君は君が見たままの事を述べる義務がある。軍務で発生したことなら尚更だ」
「・・・すみません」

彼女が背負おうとしている責任は、明らかな越権だった。
前森は、憤りを感じた。こんな小娘が、背負っていい責ではない。
小娘は小娘らしく、さっさと全部吐いて忘れればよかった。

「スパイを射殺したことが正当だったか否かは、上でで決まる」

前森はひとつ息を吸い込んだ。
しかめ面をし、眉間を揉む。

「人間の誰が、自分自身を裁ける?」

ひと一人の命など、そう簡単に助けることはできない。
前森はそれを知っている。
そして、いつまでたっても悪夢は脳裏に付き纏うのだ。
燃え上がる戦火は、人の心まで灼き焦がす。
その悲しみに、前森は強く憂鬱を感じる。

「責任を取ろう、などと思わないほうがいい。君に出来ることなど、そう多くはないのだから」

二度とフリオペに戻ることのない、哀れな下士官に、前森は諭した。
その言葉は、前森自身にも向けられた言葉だ。
彼自身もまた、無力を知るものであったから。
そして、できれば早く彼女が仕事に戻って、多忙な日々に飲まれることを願った。

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あきゅろす。
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