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群青
Alearfa
「佐久。起きろ」

ずっしりとした重さが全身を押さえつける。
霞んだ目に、パノラマのように広がる夜空と、枝を伸ばした木々の黒い影が映えた。
重いヘルメットが首をじわじわと加圧する。
バックパックにぎちぎちに詰め込まれた荷の、ずっしりとした重みに寄りかかっていた。
汗まみれのぬるぬるの膚、張り付くTシャツに、すえた臭いのし始めた迷彩服。
それに、蒸れた感じの不快な冷たさのコンバットブーツ。

「黒部大尉」
「いつまで寝てるんだ」

みんなはもう行ってしまったらしい。
信じられない。
目の前で腕組みをして立つ黒部大尉に、佐久は慌てて立ち上がった。
山道を一昼夜歩き続ける50km行軍は、パイロット候補生の数多い試練のひとつだった。
肩から吊った89式小銃がかちゃかちゃと音を立てる。

――何故皆、起こしてくれなかった?

呆然としたまま、暗い森のなかを見回す。
道の向こうにも、同期の背は見えない。

「お前一人で行くんだよ」

何も見えないほど暗いはずなのに、迷彩帽を被った黒部大尉の顔はやけにはっきりと見える。
四角い顔。濃い眉に、ギョロッとした眸。
厳しく、力強く、佐久を見据える目。

「一人で?」

夜の霧に、黒部大尉が霞んだ。
姿が、よく見えない。

「ほら、起きろ」

すーっとと森の夜霧が流れていく。
黒部大尉?と問うた佐久の声に、大尉は答えない。



そして佐久は、今度こそ目を覚ました。

「起きろ!佐久!!」

呼んでいるのは、彦根中尉だ。
外来の部屋のソファーから跳ね起きた佐久は、彦根の顔色が変わっているのを見た。
さっきの夢はなんだったんだろう、と思いながらも、体はもう戦闘服を着始めている。
廊下の往来は激しく、バタバタとうるさい。

「和光基地が敵襲に遭った!」

ロッカーを乱暴に閉めた彦根の、吐き捨てるような言葉。
一瞬息が詰まった佐久は、ついチャックを閉める手を止めた。

「な、何だってー!?」

にわかには信じがたいその言葉に、浮遊するようなめまいを覚える。
稲妻のように、出撃前に見た誓の顔が脳裡を掠めた。
襲撃の規模も場所も分からないが、最悪の想像をしそうになる。
誓。松本。栗駒。みほ。美花子。

精々呼集訓練かとタカをくくっていた臓腑に、せりあがるような圧迫感を感じた。
装備を身に付け、ブーツのチャックを上げ、紐を絞め直す。
右手でペンと紙を胸ポケットに詰め込みながら、左手でヘッドセットを掴んだ。

「ほら!早く!」

彦根が放つように開けたドアに滑り込む。
廊下の激しい行き交いをすり抜けながら、佐久は見えない戦場へ走り出した。
駆け降りる階段の先、薄暗い蛍光灯が照らす壁の影、夜の冷気が吐息に揺れる。
白く曇った目前の呼気が震えた。
怒声や靴の擦れる音が不安のざわめきをふつふつと呼び覚ます。

「すぐ出動ですかッ」
「いや、まだ分からんッ!!」

揺らぎを打ち消すように吐き出した言葉に、彦根の答えが谺した。

分からない。まだ何も。
分からないことは、恐怖だ。

開け放されたブリーフィングルームに、佐久は飛び込んだ。



飛び込んだ廊下を、何かに突き動かされるように駆け抜ける。つり上がった誓の目には前方しか映らない。

腰から提げた拳銃がベルトの金具にぶつかり、ガチャガチャと音を立てる。
団子に結った髪の毛が上下の度に揺れた。
胸が六気筒エンジンのように熱く震える。
肺の収縮はニトロの爆発を内包し、気管を焦がした。
一刻も早くと、何故か感情が溢れて悲しみに似た戦きを覚えた。
赤い光に濡れた廊下に、一瞬場違いな香水の残り香がうつろう。
――ああ、誰の香りだろう。
言葉を交わしたこともない誰かの残り香。
華やかでいて優しい、日常の残香を吸い込んだ。
足のすくむ様な恐怖が追いかけてくるのを、誓は全力で振り切っていた。
敗残兵のように、敵の幻影に怯えながら。
何度も恐怖のピークを超える。
今はどこにいても安全などないが、たった一人の自分の影は心許ない。
無意識に構えた小銃の、安全装置を何度も弄くる。

そして格納庫に繋がる扉を前にしたとき、鮮やかなオレンジの炎が瞬いた。

あれほど予期していたにも係わらず、誓の頭の中は一瞬空白になる。
紺色の迷彩服の袖が、かまいたちにでも遇ったかのように裂かれていた。
駆け抜けてきた廊下の角から、黒い影が僅かに身を出している。
小銃を構えながら振り向き、引き金を握り潰すように引いた。
腹の底が重く冷えていく。
夢の中のように奇妙に覚醒しながら、壁を斜めに横切る自分の着弾を見送った。
銃の側部から飛び出た撃ち殻が、きん、きんと壁にぶつかっては跳ね返る。
あと3秒敵を制さなければ。
小銃のオレンジの火焔、その中心部の白熱さえも瞳は捉える。
アンモニアに似てツンとした、火薬の爆発した臭いが鼻を突く。
その臭いは白い煙に交わり急速に拡散した。
腕に残る打撃のような反動と、背中に感じたドアの感触。
銃撃で敵を制しながら、誓は肘でドアノブを押し下げた。
体重でドアを、押し倒すように解放する。
ドアの重みが逃げていく。
バランスを崩しながら、瞳を貫く閃光に眉をしかめた。


映像伝送班の日比谷大尉、神原曹長はヘルメットを脇に抱えてすっくと立ち上がった。
長身の日比谷とずんぐりむっくりの神原のコンビは、その身長差もあって目を引く。
ヘリのカメラから映像を司令部に送る任を持つ、二人のパイロット。
その後ろ姿を見ながら、佐久は苛立ちを堪えきれずにいた。
一目でハーフと分かる、気象予報士官の最上川少尉が彼らと何事かを話し合っている。
線が細いのに、どこか精悍な美形が印象的な最上川が、バインダーに何か図を書いて説明していた。
彼の銀縁の眼鏡越しにちらりと眼が合い、佐久は自分が周囲を睨んでいたことに気付く。

「佐久、冷静になれ」

瞳の赤い瞬きに、彦根が佐久の苛立ちを汲み取った。
彦根自身も足踏みをしながら、それでも佐久を制する。
――なぜ出動できないのか。
佐久と彦根たちを残し、海兵隊やヘリパイたちは出動していく。
残る本部要員の中に混じり、二人はどうにもならない苛立ちを隠しきれずにいる。
出動する高千穂の後ろ姿を、無意識に何度も佐久はリフレインした。
前屈みに座り、組んだ手を貧乏揺すりしながら周囲を見渡す。
俺のフリオペと言いながら、命令が下らないという理由で無力になる自分。
あの日、自分を命がけで守った誓に、今なにもできないでいる。

「・・・なぜ」

焼けるような胸の痛み。
空回りして感情は、夜のうわべを滑り落ちる。

「なぜ飛んではいけないのですか・・・」

その力を求めているひとが、いるのに。
誰よりも誓のための、力でありたいのに。
見据えた視界が、不意に溢れて曇って、零れそうになる。
――自らが標的の一つであることも知らない佐久は、ただ無力さに震え続けていた。




何かに弾かれたかのように、体が宙を舞った。
ドアの狭間へ倒れかけた体が、更に吹き飛ぶ。
スローモーションのように、何かが目の前を通りすぎていく。
それでも身に叩き込まれた戦闘プログラムは、戦うことをやめない。
とっさに右手だけで小銃を敵に向けながら、引き金を絞る。
誰かの左腕が目の前を回りながら過っていった。
バシッ。
スイカが破裂するようなイヤな音がした瞬間、誓は敵の方を見ていた。
身体がコンクリートに激突する。
その衝撃を受け止めながら、顎から上がザクロのように消し飛ばされた敵の兵士が斜めに崩れていくのを見ていた。
舌が剥き出しになり、下顎部の歯が模型のようにその周りに並ぶ。
戻ってきたドアを足で蹴り飛ばし、勢いよくその景色を遮断する。
何故か赤黒いオイルが辺りには散乱していた。
誓は、体を起こそうと手を床につこうとした。

左腕が、肘から消えていた。
吹き飛んでいった誰かの腕からは、焼け切れたコードが覗いている。

立ち上がろうとしても、体を支える左腕がない。
仰向けの姿勢から起き上がろうとしても、左側だけが妙に軽くてバランスが狂う。
右手でコンクリの床をまさぐりながら誓は、何故か笑った。
右足に提げた拳銃に手をやる。
オイルにまみれた右手はぬるぬるとして、銃のグリップは握りづらい。
慎重に引き抜き、銃口をドアノブに向けた。
引き金を絞ると、軽い反動が右手に伝わる。
弾丸の熱と衝撃で鍵穴は変形し、融けたような穴が空いていた。
これでドアは直ぐには開けられない。
時間稼ぎにはなる。
がらんとした格納庫の天井を睨みながら、誓は、腹筋に力を込めて起き上がった。
ドアの向こうから銃撃音が交錯する。
佐久の機体も、彦根の機体もここにはない。
何もない格納庫の、骨組みの天井。
僅かな赤色灯に照らされたコンクリの床、それに脚立やスペアの部品、タイヤや工具、コンプレッサー。
ぼんやりと浮かび上がる金属の群れの中。
小銃を肩から提げ、右手で拳銃を構えながら転ばないようにややゆっくりと走る。
肩から下が痺れたような無感覚で、不思議と痛みは感じない。ただ脂汗がやたらと流れて、背筋がざわざわとした。
軍人の宣誓の一節を思い出す。

――国家のため、国民のため、法に従い、危険を省みず、国内外の敵と戦います。

不思議な呪文のように、その言葉は上滑りする。
只そうしなければならないから戦っている今があるだけだ。
国家とか国民とか、そんなことは少しも頭に思い浮かんじゃいなくて、誓はまた笑った。
戦闘の衝撃で、頭のネジが緩んできたような気がする。
ニヤニヤ笑いながら、格納庫の角にあるシミュレータを、開け放った。



「あいつ、可哀想なヤツだっちゃ」
神原曹長が眉を潜めて、富山訛りで呟く。
日比谷大尉は離陸前の最終点検をしながら「そうだな」とだけ返した。
じっと俯いて座る佐久や彦根の姿が瞼を過る。
同じヘリパイとして、出撃出来ない無念は痛いほどに伝わった。

「チェック、オールグリーン。行くぞ」
「はい」

口許のマイクに、離陸準備完了を日比谷は吹き込む。

「タワー、ヘルメス01。レディ フォー デパーチャー」
「ヘルメス01、ウィンド170アット6、ランウェイ14、クリアード・フォー・テイクオフ」

打てば響くレスポンスで、管制塔から素早く離陸許可が降りる。
くんっとヘリが揺れ、視界が揺れる。
日比谷と神崎の乗り組んだ観測ヘリOH-1が、宙に浮いた。
縛り付けられて、取り残された哀れなパイロットを残して。
翼を奪われ、自らの基地さえ守りたくても守れずにいる。
爪が紅く染まるほどに、固く組まれた佐久の手。

重要な通信装置がそこにあり、操作に介入される恐れがある。
戦闘にリスクは避けられないが、これは絶対的な阻害要因だった。

神原はそっとため息をついた。
悲しみに濡れた、佐久の瞳の蒼。
あれほどに美しく、悲しく透き通った群青が、世界のどこにあるのだろう。
青年の無念と、無力に染まった蒼い輝きを背負い、神原は夜空に上昇を始めた。


飛び込んだシミュレータ室内の、薄暗く青白い灯りを浴びる。
分厚いドアを、拳銃を持った手でロックする。左腕が欠損したせいだ。
場違いなフルーツとフローラルブーケの香りが、ふわりと扉から漏れ、ふと誓は驚きに目を上げた。

――ゆっくり振り向く栗色の頭が、誓には幻にしか見えない。

とっさに拳銃を構えた腕が、強張る。
光沢のあるサーモピンクのブラウス。
紺色のタイトスカートが、きゅっと持ち上がった尻を強調する。
ブラックのストッキングに包まれた、人形のように形のいい美脚。
緩く巻かれた、透けるように色素の薄い髪がふわりと揺れる。
シミュレータ内に存在しないはずの存在。
武骨で冷たい機材を背にしたその姿は、雑誌の切り抜きを張り付けたかのような違和感をまとう。

「・・・美花子?」

振り向いた、フランス人形のような容貌を見ても、目の前の事態が信じられなかった。

「谷川。また、あんたなの」

心底うんざりしたような美花子の口振り、こちらに向けられた銃口にも、誓は動けずにいた。

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あきゅろす。
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