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群青
Collision course
大粒の雨垂れが、制帽の庇を伝ってぽとぽとと落ちる。
降り続く雨粒が、制服の上に着た、レインコートを叩いて弾けた。
黒いレインコートは、雨に濡れて鈍く光っている。
目深にフードを被り、白ユリの花束を胸に抱いた佐久は、いしぶみの前にじっと立ち尽くしていた。

「殉職者慰霊碑」

和光から東京駅で新幹線に乗り換え、更に二時間。
近くはないこの海軍基地に、毎月わずかな暇を見つけては通っている。
――後悔はするな。未来だけを考えろ。
そう言った黒部大尉の言葉を、忘れたことはない。

「教官、約束、守れなくてすみません」

ずっと後悔だけが胸の奥にずっしりと残っていた。
過去の一点に心は囚われたまま、色を失った時間を見つめている。
いしぶみの御影石には、昨今の戦争の犠牲者のための花束が手向けられている。
その、時間を止めた殉職者のなかの一人が黒部大尉だった。
ここには、ヘリパイとしての未来も、誓も、そして自らの生も、何もない佐久がいる。
玉砂利も、周りの植木も、そして慰霊碑も、雨に溶け出した陰鬱な色彩に濡れていた。
ビニールの包みも、ユリの花弁も、びっしょりと濡れてしまった。空を見上げた佐久の顔に、一粒の雨がぶつかり、頬を伝い落ちる。

忘れたくない。忘れることはできはしない。

あの時、佐久を救うためにベイルアウト(緊急脱出)を諦めた黒部大尉の声を、佐久は今でも聞き続けている。
未来を見つめる度に、過去を呼び戻すその声が佐久の罪を問う。

未来に。誓に。
この手で触れることが赦されるのだろうか?
手を伸ばせば届くものも、過去からの呼び声を聞く度に、まるでガラス張りの向こうにあるように感じられる。

「ベイルアウト!!」
「しかし」
「邪魔だ!早くいけ!」

ごうごうという風の中で聞いた、短い、最後の言葉。
その言葉、あの一瞬は、そのまま氷漬けになって心の奥にある。
その記憶の氷河は、果てしなく重く冷たく、沈黙している。
エンジントラブルが事故原因と判明した後、エンジン担当の整備員は自殺していた。
だが佐久は生きている。

記憶も、何もかもを背負って生きることを決めたから。


海軍の戦闘機パイロット候補生であった佐久は、ジェット練習機での訓練段階にあった。
いつもと変わらない、機体に慣れてきた頃の一日。
教官である黒部大尉を後席に乗せた佐久の機体、コールサインアルプス12は三番目に離陸した。
刷毛で掃いたような、軽く白い層雲が浮かぶ、美しい青空。
気圧は3000インチと高く、風は爽やかな南風だった。
安定した気象の、絶好の訓練日和。
だが訓練空域に向かう途中、エンジンが不調になりだした。

黒部大尉と、基地への帰還を決める。
エンジンの出力は下がり始め、黒部大尉と佐久は緊急事態を通報。
飛行場10マイル(約19km)付近で、とうとうエンジンはフレームアウト(停止)。エンジンがフレームアウトすると、機体はグライダー状態になる。
飛行機それ自体が、紙飛行機のように滑空するのを佐久は妙に冷静に体感した。
コォオオーーー・・・とキャノピーの上を空気が滑っていく。
エンジン音は消え去り、風鳴りのなかに無気味な静寂が張り詰める。
コックピットから見える地上の景色が、流れるように去っていく。
主翼と垂直尾翼、水平尾翼の舵を操作すれば、グライダー状態でもある程度の操作は出来る。微妙に左右に機体を降りながら、慎重に減速、降下していく黒部大尉の操縦は神業だった。
家々や田畑が、徐々に大きく見えてくる。徐々に滑走路に真っ直ぐに向き合っていく機体。
ギリギリの減速に、機体はガタガタと揺れていた。
滑走路まで5マイル。
模型のようなその滑走路の近くには、消防車や救急車が待機しているのが見えた。
一秒一秒がやけに引き延ばされ、何か違う時の流れを感じた。
まるで、誰かの視点を映画館で見ているように、ただ高度1500フィートの景色を見つめている。
奇妙な覚醒感。
空が眩しいほど鮮やかだ。
高度計がその針を下げていくのも、風の中を鮭のように掻き分けていく機体の揺れも、ただ無感情に佐久は見つめていた。管制塔の人間が、双眼鏡でこちらを見ているのさえ視認できた。
自分が死ぬとは思っていなかったし、恐怖感も無かった。
ただ、飛行場だけをまっすぐに見ていた。


だから、6時の方向(真後ろ)から接近してきたセスナに気付くのが遅れた。


気付いたときには、バキバキという凄まじい音と、機体を揺さぶる衝撃に呑まれていた。
波の中の船のように、激しく揺れる視界。
水平線がスーパーボールのように上下する。
セスナにぶつかった垂直尾翼が、木の葉のように吹き飛んでいくのを佐久は見たような気がする。「佐久っ」
教官が、激しい振動の中でマイク越しに怒鳴った。

「ベイルアウト!!」

緊急脱出を命ずる黒部大尉の声に猶予はない。
彼はしかし不思議なほど、冷静だった。
垂直尾翼が折れても、ある程度姿勢を保つことは出来る。
彼は激しい揺れを制御しようとしていた。

「しかし」

佐久は短い0.01秒の間、俊巡した。
地上が揺れながらコクピットいっぱいに迫ってくる。

「邪魔だ!早くいけ!」

叫ぶ黒部大尉の声に、一切の教官としての装飾は無かった。
水平飛行をしなければベイルアウトは出来ない。
今、黒部大尉は必死に機体を操縦して水平に保とうとしている。


姿勢、首をまっすぐに。でないと体がGでひしゃげる。
訓練で叩き込まれた事が、頭の中で瞬いた。佐久は夢の中のようにふわふわとした感覚の中で、脱出のレバーを引いた。

衝撃が顎を突き抜けて、目の前が闇のように暗くなった。
遠くの、くしゃっという衝撃音を聞いた。
強い風の音がしていた。
赤い色彩が、暗くなる視界に咲いたのが最後の記憶だった。

座席と共に射出された佐久は、不完全な水平飛行のため、脱出時、機体にぶつかり、右足の大腿部がもげていた。
左足も損傷。切除を余儀なくされていた。
落下傘降下時の記憶はない。
死体のように、気絶した状態でパラシュートで降りてきたらしい。

気がついたときには病院だった。


操縦不能の機体は、滑走路脇の芝生に激突、爆発炎上していた。
黒部大尉は、殉職した。
遺体は、機体の残骸と共に焦げて四散していた。
セスナのパイロットもまた、飛行場の敷地内に墜落し死亡した。

セスナのパイロットが前方を見ていたら。
空港のレーダーが整備で停止していなければ。
セスナが管制塔からの死角でなければ。
あの時、もし佐久が四方を確認していれば。

セスナのパイロットも黒部大尉も、死なずに済んだ。

時間は戻らない。飛行機は後戻りできない。
未来の状況を予測して、最善を考えるのがパイロットの努め。
だから後悔はするな。未来を考えろ。

黒部大尉はそう言った。
彼は、死の直前、コックピットに草の一本まで見えるくらいに迫った芝生を見て、どんな未来を考えたのだろう。
佐久に未来を託したことを、後悔はしなかったのだろうか。
自らの生を、諦めたことを。

答えはない。
そして失われたものはそのままに、佐久は生きていく。
時間は過ぎていくが、肺を圧迫する氷河は消えない。

黒部大尉の母親が、涙ながらに佐久に深々と頭を下げた姿。
セスナのパイロットの遺族が、家に上げることを玄関の扉越しに拒んだ声。
喪われた空。

すべてを背負って、佐久は今日も生き続ける。
海軍軍籍を失い、秘密裏に中枢の統合軍のパイロットとしてサイボーグになった。
一日でも長く苦しむために。

ユリの花を、慰霊碑にそっと置く。
雨粒に包まれた佐久は、屈み込んでそっと語りかける。

「中尉昇進の内示が来たんです・・・お前にはまだ早いって、笑い飛ばして言ってくださいよ」

涙は出ない。事故のあった日から、佐久は泣いたことがない。

「・・・未来なんか俺には見えません。でも、大尉が言うように、自分で明日を選んでるつもりです」

悲しむふりはしない。
それはただ空虚なだけだ。

「何をしても、あなたの命の償いにはならないけれど」

黒部大尉は、答えない。
雨は降り続ける。




レインコートを脱ぎ、シートに座っていると、しっとり湿った制服も殆ど乾いた。
帰りの新幹線の中はしんとして、冷え冷えとしている。
紙コップのホットコーヒーは半分も減らないまま冷えていた。
東京に向かうにつれ、どんよりした雲間に光が差し始める。
ぼーっと窓の外を見ながらも、何も佐久の瞳には映らない。

大きくなる、誓に対する戸惑い。

――俺が、誓の隣にいる事が許されるのか?

胸のうちに確かに大きくなる、誓の温もり。
唇の温かさを思い出す度、心が痛む。

自らを否定してなお、佐久は、人を求めずにはいられない。


「お帰りなさ―い」

格納庫前で彦根とキャッチボールをしていた誓が、こちらに気付く。
東京は晴れていたらしい。
傾いてきた日に、長い影が伸びる。

「おう、ただいま」
「おっ、佐久おかえり・・・ほら、誓、球のリリースが遅いよー」

昭和記念公園にいても違和感がない、ジャージ上下の二人。
見慣れた景色。
その日常の何気なさに、何故か胸の奥がぐっと持ち上がる。

お帰りなさい、か。



この場所で明日も。


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