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群青
Vortex-2
久々に地上に降り立ったような、すこしふらふらする感覚を味わう。
昼のぼんやりした、薄黄色い明るさが目に刺さる。
レーダーと神経を接続している飛行中に比べて、急に体が小さく窮屈になったような感じがした。

駆け寄る機付長と言葉を交わす。
今日の機体の調子、それに被弾や故障の有無。
車両に曳航されるVortex10を見送り、同じようにふらふら歩く彦根と顔を見合わせた。
任務を引き継いだあと、離脱し、後方で給油を受けた。
衛星ナビによる自動操縦とはいえ、三沢までの飛行はさすがに疲れる。
ましてや津軽海峡を越えるとあっては、燃料に余裕があれど落ち着かなかった。
歩きながらヘッドセットを外す。
急に頭が軽くなり、何だかふわふわした。
目の周りが熱い。



「・・・さん」

「・・・久さん」


呼ぶ声が、無意識に波紋を広げる。

「風邪、引きますよ、佐久さん!」

待機室の机に突っ伏して眠ってしまったらしい。
佐久の頬は、痺れて赤くなっていた。
目の前には冷めて伸びたカップ麺。
作戦後のデブリーフィングが終わって、カップ麺でも食べようかと自販機で買って、お湯を入れたのは覚えている。
あやめが、呆れた顔を隠しきれずにいた。
湯を入れて三分待つ間に寝てしまったようだ。
幾分すっきりした頭で、西日の差し込む窓を見る。
生ぬるくなった麺だが、食えないことはないだろう。

「あの、これ、誓が」

そんなことを考えていると、あやめがビニール袋を差し出す。

「あぁ、ありがとう」

ダイエットコークと、クリーニング済みのフライトジャケットだった。

「あいつは?」
「さっき廊下で、例の海兵隊と話してましたよ」

あやめの目の下には隈があり、なんとなく表情も疲れている。
任務後特有の表情だった。

「・・・そうか」

佐久はそれだけ答える。
失礼します、と言ってあやめはその場を辞した。
軽く温かいフライトジャケットの感触が、指先に残る。



「誓、交通事故でしばらく入院してたんだろ?大変だったな」

いつの間にか、谷川から誓呼ばわりになった高千穂に、曖昧に頷いた。
廊下の自販機コーナーでばったり会ったのだ。

「知ってたんだ・・・、大したことないよ」
「えらい大事故だったって、黒磯から聞いてさ」

連隊長を拘束した高千穂は、先に基地に戻っていた。

「こんな場所で会うなんてなあ」

ベンチに座って、セブンアップを飲む高千穂の横で誓は項垂れた。
高千穂は誓を生身だと思い込んでいる。
俯いた誓を察したのか、しばし沈黙が流れた。

「・・・あんな部隊にいて、疲れてるんじゃないのか?」

あんな部隊。
心が軋む。
佐久がいなければ、空への夢は叶わなかった。
たとえそれが、過酷な条件下だとしても。

「どうしてそんなこと言うの?」

ややあって、沈黙が流れた。
誓は、言葉を探しながら、言葉を見つけられずにいる。
ただ見据えた黒い目が、高千穂を捉えていた。

「どうして・・・って――お前、まさか事故で・・・」

勘の鋭い高千穂が、大事故に遭った誓が軍人でいられる理由を察するのに、時間はかからなかった。
下を向いた誓の、拳が震える。

「高校の時、・・・優しい、高千穂君が好きだった」

戻れない時間。戻れない体。
誓はついと顔をあげた。
その目は泪を湛え、今にも溢しそうだ。
黙り込む高千穂。
耐えられなくなったのは、誓だった。
立ち上がり、誓は早足で歩き出した。
待機室で顔でも洗おう。
涙を飲み込みながら誓は早足で廊下を歩いた。
――泣いちゃダメだ。
堪えれば堪えるほど熱い塊が込み上げてくる。
ドアを開け放すと、乱暴に後ろ手で閉める。

「誓?」

面食らった佐久が誓を見ている。
Tシャツ姿でラーメンを啜っていた佐久の目は、明らかに誓の涙目を捉えている。

「ほっといて下さいっ」

じゃぶじゃぶと勢いよく顔を洗う誓に、佐久は気まずそうに黙り込んだままだ。

嫌われたく、無かったな。
諦念と自己嫌悪と怒りが、胸のうちで渦巻く。
身体中が熱い。
涙と一緒に汗まで出てくる。
誓はソファにどかっと座って、とにかく感情を抜かなきゃ、と脱力した。

ゆっくりと力が抜けるのを意識して――そう、筋肉を緩く緩く。
力んだ肩を意識して落とす。
赤く火照った顔で、天井を仰いだ。

「誓」
「何ですか」

そっぽを向いて誓は返事した。
「泣き顔ぶっさいく」
「すみませんねっ」

まだ溢れる涙を、指先で拭った。
佐久が、割り箸の包み紙を丸めて投げつけた。
ほつれた黒髪に、その紙が引っかかる。
投げ返そうとした誓の手を、静かに佐久が掴んだ。
射し込む西陽に、逆光になった佐久の髪の毛の一本一本が輝く。

「バッカじゃねぇの」

誓を抱き寄せた、佐久の唇がそっと、充血して赤い唇に触れる。
目を見開いた誓の体に、もう一度力が入った。
湿り気のある体温が誓を包む。
佐久の汗の、気づけばいつも傍にいたにおい。
今だけは、過去も、その血に汚れた手も忘れたふりをして、佐久は誓に唇を重ねた。
長いようでいて、短いような、そっと触れるだけのキス。

「海兵なんかにやらねーよ」

唇を離した佐久は、誓の耳元でぽつりと呟く。

この血に汚れた手で。
教官を殺した手で。
あの歩兵のように、幾多の命を粉砕した手で。

俺はこの手で、誓に触れるというのか。


佐久の心に、もう一人の佐久が問いかける。


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あきゅろす。
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