帝王院高等学校
だって大胆にエンジェルスプラッシュ!
やっと逃げ切った、と。
人の目につき易いなだらかな煉瓦の坂道ではなく、テニスコートと雑木林を仕切るフェンスを乗り越え、足場の悪い道のりを滑る様に駆け降りた男は、ボロボロの作業着の泥を半泣きではたきながら、安堵の息を吐く。

「…はぁ。どえらい酷い目に遭った。太一は何処に行ったんだよ、何で俺が初代に脅される羽目に…」

魔王の様な腹黒初代レジスト総長に声を掛けられ、舞い上がったのが最たる失態だ。
判ってはいるが、やるせない。簡単なお留守番と言う言葉に半信半疑ながらも頷いたのは自分である。幾ら舎弟や兄を半ば人質に取られていたからと言って、大人しそうな社会人一人をロッジに閉じ込めておくと言う、罪悪感より『簡単そう』と感じてしまう内容に血迷った。
まさか簀巻きにされた仲間が、初代総長の息子とは思いもよらず、その上、胸に核爆弾を搭載した恐るべき女に貞操を狙われる羽目になるとは。

「俺は絶対に、妥協しねぇ…」

友人にも舎弟らにも非童貞だと思わせている平田洋二は、そっと初体験への期待を新たにする。
阿呆だが面倒見が良くおおらかな兄、平田太一の最たる短所は、下半身が弛すぎる事だ。中等部に上がる頃には元から体格の良かった太一は、初等部から柔道部に入っていた事もあって、工業科の先輩からも一目置かれる存在だった。女が駄目と言うまでもないが、男の方が何かと融通が利くと言って憚らず、束縛されるのが嫌だと言って正式に交際している相手はいない。
見た目は熊な癖に面食いなので、中等部時代から高野健吾に猛アプローチを掛けては蹴り飛ばされ、擦れ違う度に死んだ魚の目で「殺すぞ」と囁いてくる藤倉裕也と小競り合いを繰り広げながらも、些かも怯まない能天気さが長所だと言えるだろう。

「…それはそれとして、天の君を探して謝っとかねぇと不味いよな。あの痴女に正体バラしちまったし…」

阿呆だが鈍い訳ではなく、外部生帝君をカルマのシーザーであると真っ先に見抜いた太一は、誰もが遠巻きにする左席会長に対しても毎回挨拶を交わしていた。
仲良くしておけば色々と得だろうと言う太一に、洋二は釈然としないながらも頷くしか出来ない。あの神帝が一目置いているシーザーを取り入る様な真似が、阿呆な兄に出来るとは到底思えなかったが、いつの間にか「ご主人様」などと宣って山田太陽に取り入ったエルドラドの様な例はある。何事も試してみなければ判らないと言う事だ。

「カルマに睨まれるのは何が何でも阻止したい。卒業したら関係ねぇなんて言ってらんねぇわ、今回ばかりは…」

あの遠野俊が常に側に置いているSクラスの生徒の内、太一より大きい灰皇院は得体が知れないオーラを漂わせており、俊が遠巻きにされている最たる要因だと言えなくもない。とにかくデカいのだ。片や山田太陽が全てに於いて平均値なだけに、大層目立つ。

BK灰皇院もまた、遠野俊とは違った意味で有名人だ。
秋葉原に居そうな風体なのに、背筋が異様に伸びていて、足は無駄に長く、顔が掴めそうなほど小さい。モデル体型のオタクが目立たない訳がない。あの神崎隼人と並んで、体型だけは見劣りしないのだから。

野暮ったい眼鏡の下はとんでもない美形が隠れているなどと言う根も葉もない噂が蔓延しているが、ただでさえSクラスの同位一位帝君に表立って喧嘩を売る真似はしないが、それでも左席会長よりは格下だと言う者も少なくはなかった。
レジストやエルドラドの様に、学園内のメンバーだけで構成されている不良集団は結束も固いが、カルマの様なチームは稀だ。学園外のチームに所属している不良らには学園内での抑止力がない事もあり、徒党を組んで先走った真似をする者がいる。
現に始業式典翌日、俊の姿がないほんの僅かな時間を狙って灰皇院に制裁を与えようとしたFクラスの生徒が、放課後保健室に運ばれたと言う話があった。怪我の理由を頑なに喋らないらしく、結局何があったのかは判らない。

血の気が最も多いと言われている二年Fクラスの生徒だったが、下らない事をした罰として祭美月に個別指導を受け、自ら懲罰棟に入った様だ。

教師の目が届かないFクラスには、帝王院神威に唯一並ぶ成績を誇る祭美月と共に、Fクラスの誰もが一度として勝てない李上香がトップに君臨していた。李の身体能力を体育科の教師らですら高く評価している様だったが、身体測定等のカリキュラムを外れた行事には一切出席しない事から、同級生とFクラス生徒以外は、李の存在を知らない事もある。
そんな化け物じみた男を奴隷扱いしている美月の家業が如何なるものか、わざわざ尋ねるまでもないだろう。プライドの塊である美月が逆らわないのは今のところ、長期謹慎中の大河朱雀だけだった。つまり今の美月には、しがらみがない。

いつもの如く李を従えた美月が、新歓祭前日にFクラス全生徒に通達したそうだ。
左席委員会に逆らう者は容赦なく粛清する。これには能天気な平田太一も驚いたそうだが、言われなくともレジスト一同は左席に逆らうつもりはない。左席のメンバーを数えれば明らかだろう、殆どがカルマメンバーなのだ。余程の馬鹿でない限り、金を積まれても敵対する事はないだろう。

「訳判んねぇ。時の君の弟と母親がシーザーを探してて、初代がワラショクの社員と実の息子を拉致監禁、どっちも何の為にンな真似するんだ…?全然判んねぇ、頭から火が出そうだっつーの。何が起きてんだよ、うちの学園は…」

がさりと雑木林から抜け出した平田洋二は、ぱたぱたと体についた小枝や葉を手で払いながら崩れ掛けた部活棟を見やり、ビタッと動きを止めた。


「おっ、おおお前…っ、何やってんだーっ?!」

ああ。
次から次にどうして自分は、こんなトラブルにばかり首を突っ込んでしまうのか。


























「ほら、これが麻雀牌だよ」

その声は大抵いつも笑みを帯びていた。子供の様だと思った事もあっただろうか、どちらも未成年だったと言うのに。

「どう?触って、何か感じる?」
「…少し、凸凹してる様です」
「当たり。少しだけ包帯解いて、見てごらん。数牌には三種類あって、萬、玉、竹の順に並ぶんだ。ま、本番じゃ敢えてバラバラに並べて相手を撹乱するって手法もあるんだけど、初めは綺麗に並べた方が判り易いからねー」
「馬鹿だな。そんな濃い話を先にして、判る筈がないだろう?」

原色の光が暗い部屋を彩っている。
赤、青、黄、緑、橙、そして最も目映いのは白。

「煩いな、もー。ありとあらゆる娯楽を教えてやるには、早い内から仕込むしかないだろ?情操教育って奴だよ」
「説得力が感じられないな。単に自分の相手が欲しいだけだろう?」
「だってお前さんと二人麻雀なんて!いっつも負けるんだもん、面白くない!…あーあ、此処に小林先輩を呼べればなー」
「受験生に無理を言うな…」

日が明けきる前にUVクリームを塗り込まれる感触で、目を覚ます。
目出し帽は蒸れて可哀想だ・と言う言葉が聞こえてくると、また包帯かー・と言う残念そうな声が続いて、二つの手から頭を撫でられてもう一度眠りに誘われた。

再び目覚めるのは、バトラーが朝食を運んできてからだ。
甲高い女の声が廊下に響くのを合図に、咳払いが聞こえてくる。忌々しい男の声が『騒がしい』と囁けば、女は猫撫で声で『陛下』と言った。

陛下、義兄さん、どれがその男の名前なのかは良く判らない。興味がないのかも知れなかった。どうせ、それに関してはあちらも同じだろう。

「内部受験じゃん。キャンパスは区内らしいけど、本当は判ってるだろ?…小林先輩は理事会の言いなりにならないから、アイツが遠ざけてるんだよ絶対。だって一ノ瀬には贔屓してるじゃん。…誰かさんもねっ」
「おいで神威、一緒にテレビを見よう。今日は面白い番組があるんだ」

口数の多い男に睨まれて、苦笑いを噛み殺した男は話をすり替えた。

「そっちこそまたバラエティーなんじゃないの?教育には向いてないと思うけど」
「そっちこそ好きな癖に。嫌ならお前だけ見るな。俺達は見るぞ、なぁ、神威」
「あーあ、また彼女に怒られちゃうよ、俺達」

天井まで隙間なく設えた大きな本棚は三つ。
子供でも手を伸ばせる最下段から三段目までは絵本が並んでいて、それから上の段には分厚い学術書ばかりが並んでいた。

「ねー、神威。女の子はヒステリックに怒るから、勝てる気がしないよねー?」
「そう言う時は陛下の所為にすれば万事解決だと秀隆君は思います」
「確かに。神威くーん、君のお父さんはとんでもないヘタレだけど、たまには役に立つんだよー」
「そうそう、たまには役に立つんだよ。と、秀隆君は思っています」
「あ、始まった。遠山の銀さん!」

テレビは1台、リモコンは三つ。
時代劇専門チャンネルかと思えば、どうやら違うらしい。

「…贋作じゃないか。いつからバラエティー専門チャンネルを契約したんだ」
「ちょっと暑苦しいから退いてよ、アホタカ」
「聞いたか神威、今のが世に言う苛めだ。お前は好きな子にあっちいけとか言っちゃ駄目だぞ?」
「はいはい、黙りなねー。銀さんの凍える雪吹雪が舞う前に黙らせても良いけど?」
「聞いたか神威、アレは人間の皮を被った人非人なんだ。真似したらいけないぞ」

ステンドグラスが嵌められた窓は、等間隔に全部で12枚。それぞれに異なった女神の絵が刻まれていて、それぞれに星座のマークがついている。
時代劇とは程遠いコントに、笑いながら「今日もクソつまんない」と呟く男に、黒髪の父親達は顔を見合わせた。

「つまらないものを何故観たがるのか」
「ワフン」
「俺には理解出来ない。秀隆はどうだ?」
「クゥーン」

大人しい父親達は、コントの落ちで腕に雪だるまの絵を描いたお奉行様が決め台詞を宣った所で、

「あははははは!毎回やって滑ってるのに、懲りないねー!流石は極寒の寒さ、銀さんの凍える雪吹雪は何度見ても面白くない!だがそこが良い!」
「…オオゾラは人格に多大な問題があるらしい」
「クゥーン」

またこれだ。
快活な榛原大空の笑い声は、良く響く。

「父上、パパ上は病気なんですか?」
「ああ。残念だが、不治の病だ」
「そんな…」
「純粋な神威に変な事を吹き込むんじゃないよ。僕の何処が病気だって?」
「頭かな?」
「畏れながら中央委員会会長、何か仰いました?」
「…前言を撤回する。左席委員会会長には今後も変わりなきよう、心から願うばかりだ」
「本音かい?」
「本音を言ったら怒るだろうが」
「成程、僕が怒る様な事を考えているんだねー?秀隆、秀皇に噛みついちゃいな!」
「クゥーン」

賢い犬は困った様に泣き、悲しげに尻尾を垂れ下げた。
犬に命じた癖に自分から噛みついた男と言えば、綺麗に歯形が残った左手の甲を笑いながら見つめ、

「…ど?痛かったろ?」
「ああ。死ぬかと思った」
「嘘つきめ。それ、暫く残るよ」
「だろうな。俺に曾祖母の血は継がれてない」
「ざまーみろ」

ケタケタと笑った男は、テレビのチャンネルを公共放送に切り替えると、大して面白くもない天気予報に目を奪われている。 明日から晴れ続きの様だ。

「曇りの日もないのかー。これじゃ何処にも行けないね、神威。…ま、彼女の目が光ってる内は何処にも行けやしないんだけど」
「サラは義兄さんと出掛けている筈だ。今夜は戻らないだろう」
「油断大敵ってね。予定が狂うなんて事は、比較的良くある話さ」

窓の外は恐らく青空と、眩しいばかりの白昼があるのだろう。
UV加工を施された窓硝子越しに空を見る事は叶わないが、地下の秘密の道を使えば、再び空中庭園へ行く事が可能になると、父は言った。

「現状、アンダーラインの拡張は滞ったまんまじゃない。お前さんの魂胆には気づいてない筈だけど、やる事なす事文句をつけられたら堪らないよ。どうせサラが告げ口したんだ」
「スコーピオの地下で誰にも気づかれず採掘を続けるのは、どちらにせよ難しかったからな。表向きは工業コースの演習にしておいたつもりだったが、義兄さんを騙し続ける事は俺には出来ない」
「自分を卑下するもんじゃないよ。盲目なお前さんに何を言ったって無駄だろうけどねー、…簡単に弱味を見せない所は似てるのかな。他人なのに」
「ん?」
「なーんでもない。ちょいと秀隆、尻尾揺らさないでおくれよ。お前さんの尻尾は鎌みたいに牌をぶっ飛ばしてる」

パタパタと、根元で曲がった尻尾をテレビで見る犬よりゆったり振るドーベルマンは、変形した骨格で意思に反した動きをしてしまう。

「ってか、本当今更なんだけど、去勢した雄にも母性本能が産まれるって聞いた事があるんだよねー。秀隆なんて名前つけちゃって、可哀想な事したかなー」
「む。俺の名を然り気無く罵倒しているのか?」
「もっと中性的な名前が良かったのかも知れないね。だって秀隆、僕らよりずっと親みたいなんだもん」

麻雀牌は色とりどり、色んな形がある。
尻尾に薙ぎ倒された牌を拾っていると、起き上がった犬がそれを手伝ってくれた。はむりと咥えては、卓上へと乗せていく。

「秀隆にも教えたら出来そうだよねー、四人打ち」
「それは無理だろう、流石に」
「良いかい秀隆、これと同じ牌を拾ってごらん」
「ワン!」

言われるままに牌を拾っていく犬は、然し飼い主が示した真っ白な牌ではなく、神威の目には適当に目についた牌を拾っている様にしか見えなかった。それを提案した男もまた同じ様で、大空はがくりと肩を落としたのだ。

「やっぱ、無理かー」
「…いや。そうでもないぞオオゾラ」
「へ?」
「見ろ。国士無双だ」

パラパラと、神威は麻雀の本を捲った。
卓上と本に書かれている絵を見比べて、ポカンとしている大空の膝の上に座る。

「パパ上、絵と牌が違います」
「えっと、それは…」
「説明を良く見てみろ神威。国士無双の役は、13面全ての牌が上がり牌になるんだ」
「13面全て」
「そうだ。1・9の数牌の頭尾が3種、字牌に当たる東南西北、白牌、中牌、リューファー。以上の13牌を揃えた上で、13牌のどれが回ってきても上がる。他家捨て牌で指しても、面前揃いだろうとも、役満だ」
「じゃあ、」
「秀隆の方が俺達より博打の才能があるかも知れないな。お前と一緒にマニュアルを読んでいたから、秀隆の方が先に覚えたのだろう」
「凄いや秀隆ぁあああ!!!天使!やっぱり神威とお前さんは僕の天使だね!これは…行ける!麻雀を打つ犬だよ?!テレビに出れば一躍お茶の間のヒーローになって、ガッポガッポ…!」

札束のプールだ!
形容し難い表情で宣う大空を眺めていると、ピトッと尻尾が目元に張り付いた。

「偉いぞ秀隆。こうなった大空はもう駄目だ、マネーゲーム廃人に理性は残されていない。残念だが、放っておこう」
「ワフン」
「父上、マネーゲーム廃人とは何ですか?」
「大空の様に頭が可笑しい人間の事だ。良いか、お前はあんな奴と友達になったらいけないぞ」
「父上はパパ上の友達では?」
「そうだな。俺達は盟友…いや、ライバルだ」
「ライバル」
「何事も競い合える相手は、人生に於いて何よりもの宝になる。判るか?」

こくりと頷いておいたが、 実際の所、良く判らなかった。
それでも大きな手に撫でられて、目元だけ開けた包帯が解れるのを手で押さえる。

「少しずつ、慣らしていけ。少しずつで良い。無理をして病気になっては本末転倒だが、挑戦しないまま諦めるのは、嫌だろう?」
「はい」
「…お前は、俺の様になるなよ」

あの時の記憶はいつまでも消えない。消すつもりがないからだ。

「時間だ。悪い、今日も昼食は車の中で済ます。今回は二日ほど戻れない」
「ふーん。とうとう面倒臭い雑用を、お前さんに堂々と押しつけてくる様になってきたね」
「…オオゾラ。何と言われようと、俺は義兄さんを信じてると言っただろう」
「学園長は大方アイツから御託を並べられて、騙されてるんだ。お前さんを後継者として鍛えるとか何とか、それらしい御託を…さ」
「結果的に俺の経験になるなら、その通りじゃないか。誰だって初めは、雑用で学ぶのが筋だ」

それでもまだ、あの時の言葉を理解してはいなかった事に、気づいたのは最近だった。

「はーはー、自治会の仕事から叩き上げられた中央委員会会長のお言葉だったら説得力あったろうねー。初等部時代から小林先輩の仕事半分やってた癖に」
「東雲のおばさまから解放されて、退屈だったんだ。退屈は敵だぞ、なぁ、神威」

大きな手に撫でられて。
艶やかな黒髪を盗み見る様に見上げる。



「義兄さんは今も昔も、素晴らしい方だ」

ああ、ステンドグラスから漏れる色とりどりの光が、眩しい。



























僅かばかり己に呆れた理由は単純に、この状況で「寝顔が可愛い」と思っている事だけだった。
不埒な事を考えたからか、腕の中で小さく呻いた唇がぎゅっと引き結ばれる。易々と気を失えない壮絶な痛みが今、彼を支配しているのだろうか。

「後生大事にこれだけ肌身離さず持ってんだから、我ながら馬鹿じゃねぇのか…」

今や光を失って沈黙しているルーターを投げつければ、コンクリートにぶつかった音だけは立派だったが、どう言う仕組みなのか大した傷もついていない。これを壊すとなると一苦労だと溜息一つ、スラックスに巻きつけているベルトに引っ掛けていた金属の塊を左手で抜き取った。
右腕には大きな荷物が「一人」ないし「一匹」だ。意識がない人間は総じて重い。しっかりした骨格に余す所なく張り巡らされた良質の筋肉を、張りの良い肌で見事に覆い包んでいる体躯は、実体積以上に重さを感じなくもないだろう。

「…ちっ。あの糞アンドロイド、7発も消費させやがって」

出来れば利き腕で抱えたい所だが、そうは状況が許さなかった。
弾数が足りないなどと、およそ平和な日本の高校生とは思えない愚痴を噛み殺し舌打ちすると、高坂日向は右目を眇める。
音もなく発射された弾丸がルーターに的中した瞬間は、流石にそれなりの音が出たものの、狙撃した瞬間の発砲音はない。

「2錠か。…ないよかマシだろうが」

僅かに変形したルーターのカバーを抉じ開け、ピルケース部分に残っていたタブレットだけを握る。やおら周囲を見回した日向は、不要になった銃をベルトに突き刺すと、今朝から酷い目に遭っているローファーを脱いだ。
それなりに値が張る牛皮の革靴は、度重なる水没に見舞われて履き続けている。とは言え適切に手入れすれば捨てる必要はないだろうが、日向は躊躇わず右足の靴を脱ぐと、内側に敷かれたインソールを剥いだ。靴底の、外からは見えない部分に収まっているのは、護身用と言っても物騒な、折り畳み式ナイフだった。

「嵯峨崎」
「ぅ」

中敷きを抜いた靴を履き直しながら、右腕に抱えていた赤毛を下ろす。こんな場所に好き好んで足を踏み入れる様な生徒は居ないだろうが、外だからと言って安心出来ない状況である事は、わざわざ改めるまでもない。

「起きてんのか?」
「…き、て………ない…」
「俺様の前で裸同然で転がれるほど図太い神経があんなら、我慢出来るだろう?」

平和慣れしたつもりはなかったが、と言い訳した所で、お節介な後輩が一方的な約束を果たした事に違いはないのだ。半ば八つ当たり宜しく、左手に折り畳んだままのナイフを握ったまま、手の甲でぺちぺちと佑壱の頬を叩いた。

「起きてんなら寝てろ。反芻は判るか、」
「う、ウモー」
「ああ、そうかよ。判るよな、判るに決まってる。方程式の公式でも唱えてやろうか」

固い。余計な肉が全く感じられない。
何だこれは。猫で例えるなら、柔らかい雌猫とは違って柔軟だが関節が固い雄猫、下手したら剥製の虎。祖父が生前大切にしていた白虎の剥製は、やんちゃすぎる飼い猫達の格好のアスレチックだ。

「さ…三角と円錐は………相似…」
「犯すぞテメェ」

辛うじて意識はある様だが、脂汗が酷い。

「口開けろ。念の為、薬飲んどけ」
「な、んの」
「抗生物質みてぇなもんだ」

日向の肌に比べて格段にメラニン量の多い肌からは、顔色までは窺い知れなかった。薬を飲ませるにも水がない。それでも、これから派手に噴き出すであろう水分を経口摂取させるのは躊躇われた。
タブレットを口の中に放り込み噛み砕いて、引き結ばれた唇を指先で叩く。素直に口を開いた佑壱の舌を指で引っ張れば、微かに目を開こうとするのが判った。片手でダークサファイアを塞ぎ、噛みつかんばかりに唇へ食らいつく。

「ふぉむ」
「変な声出してんじゃねぇ」
「…うげ。不味い」

お前の血清だろうがとは、日向には言えなかった。
何でそんなものを持っているんだと言い返されれば、誤魔化すだけの台詞を掻き集める必要がある。例え何とか誤魔化せたとして、『俺の血で作った薬を後生大事に持ってたストーカー、マジきめぇ』などと吐き捨てられれば、慢性的な胃炎が潰瘍へと栄転するだけだ。
吐血しようが下血しようが構わないが、自分の血を無駄遣いする訳にはいかない。良いのか悪いのか知れない、無駄に長生きな公爵の血は全て、無慈悲な真紅の王子へ差し出す事を決めたのだ。

「あー…。何だこれ、体が動かねぇ。お前なんかに看取られて死ぬのか、俺は…」
「俺様なんかで悪かったな。テメェがくたばったら張り切って喪主してやっから、迷わず死ね」
「へいへい。減らず口叩いてるわりに、アンドロイドの眉間に7発たぁな…ぐ!」

雑木林の木の根元に大きな荷物を抱えたまま、背を預ける様に腰掛けた。その些細な振動も傷に響いたのか、佑壱は息を詰めた様に唸る。

「か」

可愛い、などと宣いそうになった瞬間、総動員して上唇と下唇を縫いつけてくれた反射神経に感謝しなければなるまい。頭が湧いている。今から行うであろう処女懐胎に似た禁忌の真似事に対して、やはり何処かで狼狽えているのだろう。

「ムカつく奴を見捨てられねぇお優しい光王子閣下さんよ、俺が死んだら泣きそうだな…。くっく」
「ちっ、ほざいてろ馬鹿が。ライター、どっかで落とした…ああ、いや、ブレザーの中か。破傷風になる前にシリウスを引き摺って来てやるから、怒るなよ」

丁寧に結われた赤毛が湿気ている。
うっすらと開かれた双眸が、黄昏の終焉か夜明けの様な群青を覗かせたが、すぐに伏せられた。日向が左手に握ったナイフを見ていた様だが、諦めたと言うよりは「任せた」と言わんばかりに力を抜いた男の体が、ずしりとのし掛かる。

「弾、抜くぞ。気を失ってくれれば楽だが、言うだけ無駄か」
「…初めてなの、優しくしてね先輩」
「誰の真似だそりゃ。黙ってろ、舌噛むぞ」
「っ」

さくりと、強い弾力性のウレタンを切る様な感触と共に、膝に乗せた佑壱の肩を抱える様に押さえつけていた右手の中で、一瞬怯える様に跳ねたのが判った。
左目が見えなくなったなぁ、などと他人事の様に考えてみたが、銃創に沿って刃の切っ先を差し入れた瞬間、吹き出した一筋の血液が降り掛かっただけだ。他人の体液であれば今頃発狂していたかも知れないと思ったが、淀みなく褐色の肌を抉っていく左手は自分のものではないかの様に、一瞬たりと躊躇わない。

「何で俺がンな事しなきゃなんねぇんだ。最新式の拷問かよ。今更、人一人殺した所で何も感じねぇと思ってたぜ」

何処だ。
何処にある。
自分ですら触れた事のない天使の内側に、人が作った鉛玉が入り込んでいるなど、本心では一秒でも許してはおけない。けれど普段の冷静さがあれば、手当て程度の医療知識しか持たない素人が馬鹿な真似をするなと、内心の苛立ちを噛み殺してでも言っただろう。

「…笑っちまうよなぁ、嵯峨崎。とっくに一人、殺してる癖に」

護身用にもならない細身のナイフは緊急時用に、帰国前から必ず身につけていたものだ。亡き伯父、アレクセイの私室にあったペーパーナイフを密かに拝借した。
化物だらけのイギリスの屋敷の中は、正に獅子の檻の様なものだ。ライオンの雄は怠け者で、女は良く働く。90歳間近のセシル=ヴィーゼンバーグは、文字通り金十字を背負った獅子の家の女王だ。

下らない事を口にしてしまった様な気がするが、握るナイフに全ての神経を奪われて、正常な判断が出来ていない。油断すれば発狂しそうだ。犯罪を犯す間際の人間は恐らく、今の日向の気持ちに似ている。

「一人、か。大した事ねぇ、な」
「あ?」
「クイーンズのジャマイカ湾が、初めて見た海だった」

ひたりと。佑壱の顎から滴った汗が日向の鎖骨に落ちる。

「アビスの子が外に出る事は許さねぇ、ってな。元老院のジジイがほざいた。…ライオネル=レイ、90歳越えてる癖に元気な年寄りだ。その時は名前すら知らなかった。…いや、名前なんざ未だに知らねぇ。個体識別コード、か」

かちり、と。
ナイフに触れたそれは、銃弾だろうか肩の骨だろうか。判っていてそれ以上切り開く事を僅かに躊躇えば、がしりと左手を掴まれた。

「俺を見逃せば、対外実働部の失態になる。何せ俺は伯父貴に許可を貰う所か、面会する事も出来ないまんまセントラルを飛び出した。対外実働部が追っ掛けてくるのは当然だ、それが仕事だからな」
「…目的地が日本じゃなかったら、追い掛けて来なかったんじゃねぇのか」
「かもな。…日本が聖地だってのは知ってる癖に、聖地の意味を理解してなかったっつー事だ。それ以前に一度日本に行った時は、シャドウウィングを使った。連れ戻せないなら殺すしかないって、ほざきやがった…」

熱い。
燃える様に熱い皮膚は汗ばんでいて、それ自体が燃えているかの様だ。

「ジジイに何が出来るっつってシカトした。ボーイング社の糞デケェ飛行機が降りてきて、鼓膜が破れるかと思った」

掴まれていた手が解放されて、褐色の手が空を掻くのを見た。


「あの日は背中に2発喰らった。それに比べたら、…大した事はねぇな」

刃よりも鋭く肉を抉る指先から吹き零れた赤は、柘榴の蜜の如く。

←いやん(*)(#)ばかん→
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