帝王院高等学校
悩むくらいならふわっと飛びましょう
「こんにちは」

初めて足を踏み入れたロッジの様な喫茶店は、出入口の木戸に嵌め込まれた硝子以外に、店内を窺える所はなかった。
恐らくテラスだろうと思われる戸口から右側は、青々と繁る木々で目隠しされており、アーケードを経年劣化で取り払った商店街の中にあっても、客と通行人が気を差す事はない。

「猫が犬になるのか」
「…猫?」
「俺には近寄ってこないんだ。決して」

同級生で、最近まで違うクラスだったと言っても、それ以前は七歳の頃から同じ空間で学んできたクラスメートに、偶然か気紛れか、話し掛けられたのはほんの数ヶ月前の話だ。

大好きだった母方の祖父が亡くなり、運悪く選定考査前日だった為に帰省する事が出来ず、通夜にも葬式にも間に合わなかった事を一人悔やんでいた川南北緯は、中等部二年の後期で降格を許してしまった。

いつもの彼なら、余程の事がない限りは20番以内に入っていた筈だ。直前まで予習復習も欠かさなかったし、器用で要領の良い双子の兄である北斗には敵わずとも、30番から漏れる要素など皆無だった。
けれど試験前夜に祖父の急逝を聞いた北緯は、それから三日間に渡る選定考査の記憶が殆どない。
本来なら試験など捨てて帰省するべきなのだ。身内の不幸だと言えば、慶弔扱いで一時帰省が認められる。選定考査の規定に『如何なる事情があれ当日に受験出来なかった場合は、後日行われる期末考査を受験する事』と記載されてさえいなければ、北緯は迷いなく学園を飛び出していただろう。

川南兄弟に帝王院学園を勧めたのは、実業家である父だった。
帰省する度に学園での話を話して聞かせる内に、母方の祖父母も孫を応援してくれる様になり、中等部に進級すると同時に進学科に所属する様になってからは、我が事の様に喜んでくれたものだ。
両親よりもずっと喜んでくれたのは、北緯がなついていた母方の祖父だった。快活な北斗に比べて大人しい北緯は、度々大人から『何を考えているか判らない』と言われる事もあった為、若い頃同じく口下手で苦労したと言う母方の祖父は、北緯の心の拠り所でもあったと言えよう。

北斗も勿論、祖父の急逝を悲しんでいた。
けれどそれと同じだけ、自分達に期待してくれていた祖父を裏切れないと、選定考査に出席する事を覚悟したのだ。北緯はその言葉に首を振る事が出来ず、結局三日間に渡って受験したものの、結果は惨敗。
初めて44位と言う結果を突きつけられた時には、祖父との最後の別れを果たせなかった所か、祖父の期待を裏切ってしまったと、雑木林の中へ隠れて悔し涙を流したものだ。

両親が北緯を責める事はなかった。無論、北斗に至っては北緯がそこまで思い詰めていた事を悟ってやれなかった己を悔やみ、ごめんと何度も謝ってきただろうか。その辺りの記憶も曖昧だ。
気遣わしげな表情で外泊届を受け取った元担任は、後期からAクラスへ下る事になった北緯に幾らか慰めの言葉をくれたが、掛ける言葉が見当たらなかったのだろう。特待生扱いを享受する代わりにえげつない生存競争を強いられるSクラスでは、降格も昇級も珍しい事ではない。

『来季、戻ってくるの待ってるからな』
『…はい』
『今からご実家に帰るんだろう?気をつけて行ってこい』

脱け殻の様な気持ちで、北緯は実家へ帰省した。選定考査が終わって、二日目の事だ。

プリントアウトした試験結果と、財布と携帯。荷物はそれだけ。
久し振りに見上げた実家は最後に見た記憶のまま変わらなかったが、出迎えてくれた父親に試験結果のプリントを無言で手渡せば、恐らく北斗から連絡でもあったのか、無言で目を通した父は北緯の頭をくしゃりと撫でて、『お義父さんの所に行こう』と車のキーを持ち上げて見せた。

『ごめん、マスターが帰ってきたら僕もすぐに追っ掛けるから。お祖父ちゃんに謝っといて?』
『…判った』

当時既に風紀委員会の副局長だった北斗は、選定考査直後に数日間の外泊届を提出していた叶二葉が戻るまでは離れられないと、帰省する北緯を見送りながら悔しそうだった。
定期的に京都の実家に帰省している二葉は大抵すぐに戻ってくるのだが、一般的には夏休みと言われる時期だった為に、彼の誕生日である8月31日までは帰して貰えないかも知れないとは、北斗の弁だ。結局、そんな心配は徒労に終わり、初めから三日間の外泊届を提出していた二葉は、ぴったり三日間で帰った来たらしい。

北緯より一日遅れて帰省した北斗は、祖父の墓石の前で男らしく土下座すると、

『ジジ不孝な孫でごめん系!初盆は来年だけど、怒って戻ってこないでね!』
『こんの罰当たりが!墓場で大声を出す奴があるか!』
『あたー!何すんだよ暴力親父!北緯は殴んない癖に、俺ばっか…!訴えて慰謝料ぶん取られたい系かよ!』
『罰当たりに払う金は一円もない!お前が降格したら笑って退学届を書いてやるからな、馬鹿息子が!』

派手に親子喧嘩を始め、住職と母親の二人から睨まれた。
そんな中でも一人だけ口を開かなかった北緯に、父も母も気遣わしげな表情だったと思う。存外ナイーブな北斗は喜怒哀楽を派手に表現するが、子供の頃から大人しかった北緯はあらゆる意味で鈍く、転んで擦りむいた膝から血が出たのを見ても、『お母さん、何か痛い』と呟いて手当てもしない様な子供だった。

器用で要領の良い北斗は完全に父親似で、顔立ちの大部分は母親に似ている。引き換えに顔立ちは父親に似たが、性格は家族の誰にも似通っていない北緯は、母親曰く『私の祖父に似たのね』だそうだ。


慶弔休暇はほんの三日間。
帝君でもなければまして自治会役員でもない北緯は、それ以上の欠席は出来なかった。とは言え、後期が始まる9月からはSクラスではなくAクラスへ転属になる為、セコセコと死に物狂いで単位を稼ぐ必要もない。
このまま普通科で過ごすつもりであれば、一般的な中学校で必要とされる単位を取得すれば、進級するには十分だ。北斗には一円も出さないと怒鳴っていた父親は、授業料の事も生活費の事も心配するなと言ってくれたが、北緯には少しも響かなかった。

主人を亡くしたばかりの祖母は、けれど強いもので、一人になってしまったから老人ホームに入るつもりだと言った。鯨幕が残る家を慌ただしく片付けながら、泣いている暇はないとばかりに、余りにもいつも通りの祖母が、北緯には異質なものに見えてしまう。
形見分けに祖父のものを何でも持っていけと言われて、北緯は写真が趣味だった祖父のカメラを貰った。高校生になったら一眼レフを買ってやる、と言うのが祖父の口癖だったが、約束は果たされないままだ。だからせめて、祖父が愛用していたカメラを選んだ。セルフ現像もやっていたと言う祖父の遺品には、色んな薬品や器具などもあったが、北緯が手にしたのはカメラだけ。高価なものだから祖母に許して貰えないかも知れないと思ったが、祖母は『やっぱりそれか』と笑っただけだった。

フィルムの巻き方は知っているが、触ったのはその時が初めてで、想像以上の重さに驚いた覚えがある。ショルダーストラップがついていた重いカメラを首に下げて、線香が消えるまで遺影の祖父を眺めた。カメラの中にフィルムは入っておらず、祖父は亡くなる数日前まで自分で現像していたそうだ。


燃え尽きた線香が灰の中から白い煙を立ち上らせて消えるのと同時に、北緯は再び線香を灯した。
身内の不孝はそれが初めての経験で、所作も仏具の名前すら良く判らなかったが、お数珠をぎゅっと握り締めてただただ線香と遺影をぼんやり眺めて、位牌に刻まれた漢字の羅列を何と読めば良いのか、そんな事を考えたかも知れない。戒名と言う言葉は知っていたが、それがそうだと言う事は知らない。賢い賢いと誉められる帝王院学園本校中等部進学科とは言え、14歳の子供だ。自らの複雑な心情を言葉にする事も出来ない、思春期の子供でしかなかった。
お前は悪くないと言われても、お前の所為だと言われても、全てに反抗してしまいそうな訳の判らない加虐心を抱えたまま、声を出せば泣いてしまいそうで耐える事しか出来ない、人生経験に乏しい子供。何を考えているか判らないと言われてきた北緯本人こそが、その時の自らの感情が判らなかったのだから、誰が知り得ただろうか。

『北緯や、お腹空いたろう。この通り、物持ちが良すぎたお爺さんの部屋を片付けるのに忙しくてね、何にも用意してないんだよ。出前で良いかい?』
『俺がコンビニで買って来る?』
『こんな暑い日に出掛けるもんじゃないよ。あちらの法事も大変だろうねぇ…』

仏壇の隣で幻想的な光を放っている盆提灯だけが、酷く目についた。
昼間だったので室内の照明を落としていたから尚更だろうが、窓の向こうの明るさに比べて明度が落ちる室内の壁や天井に、青い和紙を貼った盆提灯がくるりくるりと回る度、淡い色の光が走る。人の魂が目に見えるのであれば、きっとこんな色をしているのではないかと、北緯は思った。

『お寿司…は、やめようか。お爺さんは生魚が苦手だったからね。ラーメンじゃ芸がないね、と言っても東京と違ってイタリアンだのバーミアンだのは届けてくれないんだけども』
『ラーメンで良い』
『暑くないかい?』
『クーラー入ってるから、平気。じーちゃんが好きだった味噌ラーメン、コーン大盛の奴にして。それと、』
『半チャーハンだね。ふふ。全く、お前は昔からお爺さんの真似ばかりしたもんだ。変わらないねぇ』

久し振りの帰省で親戚への挨拶回りに駆り出されて行った北斗は、最後の最後まで北緯に引っ付いてごねていたが、心此処に在らずの北緯は、父親から引きずられていく北斗にヘルプを求められても応えられなかった。
本来なら北緯も挨拶回りに行くべきなのだろう。一般的には夏休みの8月は、何処もお盆の法要がある。
初七日が済んでいない北緯の祖父の初盆法要は、来年の一回忌と同時になるだろうが、父方の実家は毎年親族で集い、マイクロバスを借りて墓参りに繰り出していた。中等部に進級し夏休みと言う概念がなくなってしまった去年は、北斗も北緯も出席しなかった為、父方の親族に会ったのは年末に帰省した時が最後だ。

Sクラスに基本的に休みがないと言われるのは、単純に課外カリキュラムで単位を補う必要があるからだった。一斉考査や選定考査の他に、定期的に行われる小テストの結果で合格点を取得すれば、単位補充が行われる。逆に合格点に満たなければ追試となるが、唯一の例外が帝君だ。
選定考査で帝君、つまり一位に認められた者に限り、その期間の単位は自動的に満期扱いとなる。だから授業免除権限が付与されるのだ。引き換えに、帝君だからと言って油断すれば、次回の選定考査で帝君から転落する事も十二分に有り得ると言う事だ。

既に学年一位になる実力がある者に、学園は通常カリキュラムを強制しない。
以降、授業免除権限を利用し遊び回るも、一歩進んだカリキュラムを希望するも、自室で自習するも、自由だ。
自由だからこそ、全ての責任は本人にある。

今年の前期に一学年下の進学科に、鎌倉分校から昇校するなり帝君になった生徒がいた。あらゆる意味でかなりの有名人だ。

入学式典で挨拶をした新入生帝君は、堂々と棒つきキャンディを咥えたままステージに上がり、慌てて走ってきた東雲村崎が『飴ちゃん出さんかい阿呆!』と叫んで口から棒を引っこ抜いた。
その時の飴は知らない者がいない某お菓子メーカーのロングセラー商品で、そのCMで『スイーツスターで君もスターになっちゃえ』と言う流行語を産んだ正真正銘のスターこそ、神奈川県から突如本校東京の学年一位の座を手にした神崎隼人だ。

『えー、東京の皆さんご入学おめでとうございます。今季帝王院学園中等部に入学した神崎隼人君以下359名はあ、とりあえず中学生らしく頑張ればよいんじゃなーい?勉強ばっかしたってえ、ぽっと出のスーパースターに首席乗っ取られるレベルだからさあ、君らの未来は真っ暗闇だもんねえ?お可哀想に、隼人君がどんより根暗な君達を照らすお星様になってあげてもよいよ。何せ何処に居ても目立っちゃう運命だからねえ、愚民を照らすのは選ばし者の宿命ですからあ、崇めてくれてもよいよー』

生の芸能人を至近距離で見た生徒・保護者らの黄色い悲鳴と、およそ祝辞に相応しくない新入生挨拶に混乱した教職員で犇めく中、ジャージ姿で隼人を引き摺り下ろした東雲は職員室で小一時間説教をしたと言われている。

Sクラスの教師は一度中等部一年を受け持つと、三年生までの三年間必ず担任として持ち回るシステムだ。
教員歴三年目で初めて担任を受け持った東雲は高等部一年の担任だったが、複数の教員免許を取得している数少ない教員だった為に、中等部一年の世界史も担当していた。公立校では基本的に教師が複数の科目を掛け持つ事は有り得ないとされるが、私立校ではこれには当たらない。
式典内で教職員紹介が行われる事もあり中等部入学式典に出席していた東雲は、担任教師を差し置いてガミガミと隼人を叱ったが、暖簾に腕押し、馬耳東風。東雲に奪われていた飴を取り返し再び頬張っていた隼人は、『そんなに怒鳴ると血圧上がるよ?』と吐き捨てたそうだ。

この件で生徒とのコミュニケーションに不安を感じたらしい東雲は、初めての担任でやる気が漲っていただけに精神的ダメージを喰らい、暫くげっそりしていた。
が、ポータブルゲーム機を買ったと擦れ違う生徒らに自慢しまくる頃には、復活していた様だ。但し受け持っている高等部Sクラスにゲームで遊んでいる生徒は居なかった様で、通信型ゲームを延々一人プレイしていたらしい東雲は、普通科や工業科の生徒の中に仲間を見つけわ光明を見出だしたらしい。

然し彼女に振られ全寮制の学園で生活している二十代の東雲は、今更勉強しなくても帝王院学園在学当時卒業するまで帝君を貫き、中央委員会会長を努めていた様な超優秀な男だった。それだけにゲームの中でも圧倒的な強さを誇り、東雲に勝てない生徒らは『もう遊んでやんない!』と次々に離れていっている様だ。

とうとう希望を失った東雲は中央委員会顧問でもあった為、泣きながら愚痴りに来るのだと北斗がぼやいていた事がある。
二葉に奴隷扱いを受けている北斗は、風紀委員会に入った事で自治会役員の指名を拒否したが、飴ちゃん帝君事件で一躍有名になった星河の君が現れて以降、西指宿のサボり癖と貞操観念が益々悪化した為に、自治会の仕事も手伝っている様だ。その分、西指宿の弱味を握っている為、あれやこれや脅しを掛けている様である。



祖父が亡くなって、暫く経った。真夏に食べたラーメンの熱さをすっかり忘れた秋の暮れ、冬がそこまで来ている。
Aクラスには少しも慣れない北緯は完全に孤立していたが、北斗の手前、表立って苛められる様な事はない。けれど見えない所では確かに、地味な嫌がらせは後を経たなかった。幾ら鈍い北緯でも、流石に顔を顰める様なものも日を追うにつれて増えている。

北緯が北斗に告げ口していない気配を察していたのか、単に嫌がらせが習慣化して限度を越えていたのか、理由は定かではない。時折取り囲まれて殴られたりする様な事もあったが、痣は制服を着れば見えない場所に限定されている。この辺りの陰険さが、北緯は許せなかった。
むざむざ殴られるばかりではなく、それなりに抵抗する。複数人に対して出来る事など高々知れていて、勝つ事はない。ただ、負ける事もなかった。余り派手に痛めつければ北斗の耳に入るので、敵はそれを恐れている。


「…畜生」

その日、相手の一人の腕に噛みついてやった北斗は、驚いた相手に振り払われ、地面で顔を擦った。北緯の唇の端から血が出た事に気づいた彼らは、流石に不味いと思ったのか逃げていったが、一人残った北緯は座り込んだまま、ゴシゴシと滲む血をシャツの袖で拭ったのだ。
ネイビーグレーのブレザーは、高等部のオフホワイトのブレザーに比べれば汚れが目立たないものの、流石に血が滴れば染みになる。黒いシャツだと目立たないので、ハンカチを持たない北緯にはそれしか出来なかっただけだ。

「服で拭くな」
「…っ?」

ポトリと、北緯の頭の上にハンカチが降ってきたのと、聞き覚えのある声が落ちた来たのは同時だった。
反射的に見上げれば、部活棟に程近い第4キャノンの校庭で座り込んでいる北緯の真上には、建物を取り囲む様に並んでいる植物の枝葉の隙間から木漏れ日が覗くのが見えるが、そのまだ上。

中央キャノンへ、架け橋の如く伸びている渡り廊下の真上にある窓の一つから顔を出している咥え煙草の男が、フーッと白い煙を吐きながら見下していた。祖父の仏壇に立てた線香を何故か思い出した北緯は、頭から滑り落ちたハンカチを慌てて受け止めたが、再び三階へ目を向けて瞬く。

「テメー、ノーサの弟だろ。見ねぇと思ったら、バッジはどうした?」
「…」

何故、話し掛けてくるのだろう。面と向かって会話するのは初めてだ。
初等部の6年間は一度も同じクラスになった事がない。中等部では二年の前期までクラスメートだったとは言え、ブレザーを脱いだノーネクタイ姿で白煙を吐き出している不良生徒は確かに、後期も帝君のままだった嵯峨崎佑壱その人だ。髪も目も赤い男を見間違える様な生徒は、少なくとも帝王院学園本校には居ないだろう。

佑壱が言うバッジとは、Sクラス章の事だ。ネイビーグレーのブレザーには良く生える、金のSバッジ。それを外している意味が判らない筈がないだろうに、たたでさえ授業免除権限をフルに行使している佑壱ならば、クラスの誰が降格していても知らない可能性はある。

「降格した、から。Aクラスに…」
「は。ンな事ぁ、授業に出てねぇ俺でも知ってるっつーの」
「…だったら何で聞いたんだよ。性格悪…」
「大人しいだけの雑魚かと思ったら、ユーヤ寄りか」
「…は?」
「気が弱ぇ訳じゃないが、単に実力が足りねぇな」

何で判っている事をわざわざ指摘されなければならないのか。

「勉強やスポーツは、やればそれなりに出来る様になるが喧嘩はセンスだ。やろうと思っても実行に移す力量がない、だからあんな雑魚共に舐められる」

ムッとした北緯に気づいたのか、煙草を手に持っていた灰皿へ押し付けた男は前髪を留めていたヘアクリップを外すと、後ろの長い髪を片手で纏め上げ、しゅぱっとヘアクリップで留めた。
何故か前髪の半分だけ長さが短い。左眉の上だけがパッツンだ。

「………変な髪型…」
「テメー、俺の地雷を踏みやがったな。俺はさっきの雑魚共と違って、ABSOLUTELYのノーサにビビる理由がねぇ。躊躇わず殴るぞ」
「っ、俺の事なんか放っとけよ!帝君のアンタに関係ないだろ!」

何かを握り締めながら久し振りに大声を出した北緯は、肩で息をしている己に気づいた。わざとらしく小指で片方の耳を塞いだ赤毛は、何が面白いのか窓辺で俯いて肩を震わせている。

「ビビった野良猫が威嚇してる様にしか見えねぇ…」
「だ、誰が野良猫…!」
「おい。夕飯食った後、20時回ったら寮の裏口から外に出ろ」
「は…?外にって、どうやって…?」
「地下一階の屋内プールの鍵を開けといてやっから、入って右の二階アリーナの突き当たりにあるドアから出れば良い。業者通路だが、24時間非常灯がついてっから迷う事はねぇ。すぐに外に出られる階段が見えてくる」

中等部の生徒は基本的にアンダーラインから出る事はない。
北緯がその日、偶々中央キャノン方面に出たのは、以前あったらしいカメラ部の復活が出来ないかと北斗に相談していた事があり、報道部に所属している北斗が報道部が発行している新聞に掲載する写真を撮影する事を条件に、部室の一部を使用する許可を取ってくれた為、高等部の活動エリアである部活棟へ挨拶に来たのだ。

基本的に高等部の先輩らは部活棟で編集をするそうだが、中等部で報道部に入っているのは北斗だけだった為、指定した写真を撮ってくれるのであれば、部活棟に顔を出す必要はないと言って貰えた。中等部生徒が高等部の活動エリアをうろつくのはハードルが高いので、先輩らの気遣いは有り難い。
中等部の生徒が新たに部を作るのは珍しいそうだ。とは言え、カメラ部を正式に申請するのは来年以降になるだろうと北緯は考えていた。部室の承認だの、顧問になってくれる教師を探すだの、部の設立には幾つか条件があるからだ。若干面倒だと言うのが本音だった。

然し一学年年下の一年Sクラスに、愛好会を設立した生徒がいるらしい。先程顔合わせに行った報道部の部室で、先輩らから聞いた話だ。何でも、庶民愛好会だとか名乗る、正体不明の部活動らしい。顧問は高等部一年Sクラス担任にして、中等部世界史担当でもあり、中央委員会顧問でもあるあの東雲村崎だと言うのだから、益々意味が判らない。
庶民愛好会会長にして一人きりの部員の名前を聞いたが、聞き覚えのない名前だった。辛うじてSクラスの生徒ではある様だが、噂に疎い北緯には顔が判らない。曰く、北緯が初等部6年生だった時に皆を騒がせた「あの外部生」ではないかと言う話だが、そもそも他人に興味がない北緯には友達と呼べる存在が居ないので、あの外部生と言われても「どの?」としか思えない。

「弱ぇまんま腐れてくつもりなら、強制はしねぇ。負けっ放しが悔しいっつーなら、まぁ、面倒を見てやらん事もねぇがな」
「…何、で」
「丁度8時頃、馬鹿がアンダーライン周辺をうろついてる筈だ。フードコートで働いてるセフレだかパトロンだかが、残った料理で餌付けしてやがる」
「セフレ…?パトロン…?」
「三年だが、まぁ、気後れする様な奴じゃない。他の二人よかマシだろう、理由は単に馬鹿だからだ。カルマに奴以上の馬鹿は、今の所居やしねぇ」
「…何度馬鹿馬鹿言うんだよ。三年生相手に、何をしろっての?」
「喧嘩の基本を教わってこい」
「は?」
「俺じゃ相手になんねぇからな。何つーか、俺のスタイルは物心ついた頃には勝手に出来てた代物だ。遺伝子が覚えてるとしか言いようがない。テメーが俺の真似をしたら、多分死ぬ」

本気で言っているらしいが、北緯は眉を顰めた。
それに気づいたらしい男はシャツの胸ポケットから煙草を一本取り出すと、手慣れた仕草で咥えて火を着け、煙を吐きながら火が着いた煙草を己の左掌へ押しつける。
声もなく飛び上がった北緯が目を見開けば、無表情で煙草の火を左手で包み込む様に揉み消した佑壱は、吸殻を右手で引き抜くと、握った左手を開いたのだ。

「ビビってんじゃねぇ、ほんの軽い火傷だ。興味があるなら目の前で見せてやるよ」

三階の窓から身を乗り出した男が、笑いながら木々の上に浮かぶ。いや、浮かんだのではなく、飛び降りたのだ。

「つーか、いい加減ハンカチ返せ」

けれども北緯がそれを理解したのは、目の前にスタッと着地した男が北緯が握ったままだったハンカチを奪った時だった。言葉にならない悲鳴を呑み込んだまま、三階から飛び降りた癖に飄々としている男の左手を掴む。

「えっ?煙草の火って…」
「800℃くらいだな」
「ちょっとミミズ腫れになってる…だけ?」
「さっきはもう少し腫れてたがな」
「…」
「放っておきゃ、一時間もしねぇ内に消える。言っただろ、俺の真似はテメーにゃ無理だ。…いや、俺以外の誰にも無理な筈だったんだがな」
「え…?」
「俺の百倍は意味が判らない、怪物じみた人に会わせてやろうか。この世で今の所初めて、『初対面から会話が通じる』男だ」

その時、言葉の意味は判らなかった。
猫みたいだと言われてムッとしたのは、北緯が猫より犬より鳥の方が好きだったからだ。バードウォッチングと撮影を兼ねていた祖父に連れられて、帰省する度に写真を撮りに言った事を覚えている。

「下手したら選定考査より難しいテスト、受けてみる気はあるか」

いつしか空は黄昏に染まっていた。
火傷をしている左手をスラックスのポケットに突っ込んだ深紅の髪が靡いて、逆光を背負った帝君は右手を差し出してくる。

「このハンカチ持ってろ。万一ハリケーンが一人じゃなかったら、ドラゴンに噛まれる前にそのハンカチを投げつけてやれ」
「ハリケーン?ドラゴン?」
「一人だけ傍観者振ってる蛇面の奴が出てきたら、『不死鳥の前髪が気になるなら手を貸せ』っつったら良い」

最後の最後まで謎めいた台詞を吐いた男は、ひょいひょいと木を登って三階へと戻っていった。
川南北緯の人生はこの日、祖父が愛した鳥を背に負った男によって塗り替えられたのだ。





初めてカフェに足を踏み入れた日。
真新しいオレンジの作業着を纏う自称『師匠』『親方』『棟梁』の三人に促され、北緯はドアを潜った。

「こんにちは」
「こんにち、は?」

店内のボックス席には、柄の悪い少年らばかり。
カウンター席には色とりどりの派手な髪。その中の一人は知らん顔で、アイスコーヒーを啜っている。初めて会話したのは中等部2年の11月、今は中等部3年の7月。修行と言う名の喧嘩を仕込まれて、傷だらけながら3年へ進級する際、北緯はSクラスに再び昇級した。普段の北緯なら当然だ。

「鳥に誘われた翼の欠片。剥がれた鱗は北極星に変わっていたのか」
「え?」
「猫には嫌われるんだ。干支にも星にもならなかった、気紛れな命は気高い」

カウンターの中央。
色とりどりの髪色に紛れた銀髪の男は、バイオレットのサングラスの下、薄い唇で囁いた。佑壱以上に意味が判らない台詞だったが、彼がこの場で最も偉い立場である事は、わざわざ聞かなくても判る。

「…あ、スイーツスター」

悪気はなかった。他人の振りをしている佑壱の隣、牛乳だかカルピスだか判らないが白い液体が注がれているグラスに刺したストローを噛んでいる不機嫌な美貌を指差せば、青髪、緑髪、橙髪が同時に吹き出す。
垂れ目を眇めた隼人が立ち上がるより早く、パチリと指を鳴らす音。

「隼人」
「なーに、ボス」
「鳥組に仲間が増えたな」

サングラスを外した男がにこりと微笑めば、ほぼ全ての人間が真っ赤に染まる。

「鳥組って、変なの作んないでくれる?!」
「じゃ、星組?」
「宝塚かよ!でもデリシャスボスがお願いするならっ、よいよ!」
「あァ、頼む。お願いを聞いてくれるか、パヤト」
「もお、仕方ないなあ。ボスは甘えん坊なんだからー」

北緯は思った。
カウンターで肩を震わせている後輩達が物語る通り、星河の君と言うのは案外馬鹿なのだろうと。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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