帝王院高等学校
愛しています、眼鏡の底から!
「カルシウム定着確認。骨折箇所は正常に構築されています」

良かった、と。
呟いた白衣姿の男は眼鏡を外し、その足元で顔を覆ったまま微動だにしない白衣姿の女へ手を伸ばした。

「愛子。まだ、納得してくれないか?」
「…出来る訳がないわ!どうしてあの子を助けてくれないの?!あの子を救う為に医師としての自尊心を捨てたのに、どうしてよ!」
「…愛子」
「あの子は…!雅孝は生きてるわ!だって心臓はまだ動いてる!の、脳死だなんて、そんなのは認められないっ、認めたくないのよぉ!」

啜り泣く女の泣き声に、疲れた表情の医師は短く息を吐く。

「僕は諦めない。泣くのは後でも出来る。今は、…信じて」

混乱のどん底にある妻に今は何と言おうと、無駄だ。息子を失ったばかりの悲しみに、彼まで呑まれる訳にはいかなかった。

『………配合結果、α…99%、β…99.8%、γ…93.1%』
「数値は悪くないみたいだ。愛子、確かに雅孝の体はまだ、諦めていない」
「ほ、んと?」
「ああ」

顔のない、マネキンの様なロボットから声が漏れる。
こぽこぽと、響くのは魚が泳ぐ部屋一面の水槽。出入口以外の全ての壁が、まるで水族館の様な巨大なガラスがはめ殺しになっている。

『シナプスオールクリア。適合率の低いγは除外、補正します。シンフォニア、停止していた脳波を覚醒します。エラー。被検体、主人格に10%程度の亀裂を確認』
「プラン2、展開してくれ」
『エラー』
「だったらプラン3だ!展開してくれ!」
『エラー。全てのプランが弾かれました』

ああ。此処まで辿り着いたのに、これでは何の為に息子の人権を蔑ろにする様な真似をしたのか、判らないではないか。
榊孝輔は、穏やかな気性に似合わない舌打ちを響かせたが、啜り泣く足元の妻が肩を震わせたのを見てとると、くしゃりと顔を歪めた。

「…院長、これ以上は危険です」
「だろうな」

諦めたつもりはない。けれど、榊の持つ医療全ての知識を絞り出しても、ゴールは見えないままだろう。初めから判っていた事だ。

「出来ると、過信していました。例えそれで医師免許を失おうと、逮捕されようと、後ろ指を指されようと…」

運ばれてきた傷だらけの息子が、救急車の中で一度心臓を止めたその時から、0を示すバイタルサインに妻が絶叫を迸らせたその時から、後悔は何度もした。仕事を理由に子育てを疎かにした事を、患者を優先する余り息子との関係がマイナスだった事を、この数時間で何百回も悔いたのだ。

「馬鹿だと思っておられるでしょう、遠野院長。…いや、冬月さん」

蘇生を試みて再び心臓が動いた事を確かめて、けれど脳波計を見つめた救急医の表情が優れない事にも、病理医が言い難そうに目を伏せた事にも、気づいていて足掻いた。

「儂の研究を知っていたのか」
「…はい。前院長が最後に行った大改築の際、僕は建築図面を見ていました。けれど完成した院内で、地下4階だけがなくなっていた」
「成程。お前を医局長に指名したのは儂だが、迂闊だった様だ」

裏切りにも等しい真似を。

「その男達は、何ですか?生きているんですよ、ね…?」

こぽこぽと、水泡が音を発てる。
見渡す限りの水槽の中、水の中にも三つ、透明な箱が並んでいた。その内の二つには『8』と書いてあったが、中には銀髪の白人と、黒髪のアジア人が裸のまま閉じ込められている。白煙が時折吹き出しているが、恐らく液体窒素だろう。

「一人は神、一人はその伴侶、最後の一人は神になれなかった出来損ないだ」

淡々と呟いた男は、学会帰りのままスーツ姿で、かつかつと杖を響かせた。

「お前達が考えている事はおよそ見当がついておる」

厳格な眼差しに射抜かれ、ヒッと息を呑んだ妻は怯えた様に尻這いで後退ったが、一国一城の主が常の様に声を荒らげる事はない。

「神の手と言わしめる儂の研究論文に、息子の命を救う方法がないか調べておったのだろう。どうだ、希望は見つかったか?」
「院長、雲隠のDNAでは…」
「停止した脳を甦らせる事は出来ん」
「私は、脳移植を考えていたんです。此処の設備は素晴らしい。息子が臨終間際なのに、僕は震えました。特にこのロボット、何万通りものオペを仮想実験してくれている!例え1%でも可能性があるなら僕はっ、」
「榊」
「成功率が最も高いプラン1が良いと思います!移植した部位を再度摘出するか、人格シナプスに仮想メモリをバイパスし、主人格をバックアップするしか方法はありません。『8』の保存体は死亡日が今から50年も前なので、こちらの比較的新しい『9typeA』を使わせて下さいませんか!」

ああ。
自分は何を生き生きと、ともすれば笑い出さんばかりに叫んでいるのか。穏やかな男は狂った様に拳を握る。

「榊、早く上へ戻れ」
「何を仰るんですか院長!人が悪い、今までこんな夢の様な研究室を独り占めなさって、酷いですよ!僕はずっと院長についてきたのに!」
「儂が帰った頃、榊雅孝が二度目の心臓マッサージを受けていた」

間に合わんかも知れんぞ、と。
言った男の眼差しに、若干の哀れみが滲んでいる。嫌だと言わんばかりに耳を塞いで首を振った榊外科部長の傍ら、呆然と涙を止めた榊愛子は最早声もない。カタカタと震える体を掻き抱いたまま、大丈夫大丈夫と繰り返し呟いた。

「『9』の死因は転落死と記載されていますけれど、転落時に負傷した部分は生命活動に支障を来たす可能性が極めて高い。摘出すれば、最悪、昏睡状態も有り得ます」
「………適合率の高いβをメインに、人工回路をセカンドデバイスにすれば、どうだ」
「…成程、有り得るかも知れませんね。では再構築します。シンフォニア被検体、大脳移植を開始します」
『メインブレインにβ移植、………適合率43.4%…100%の人格崩壊』
「そんな馬鹿な!そこまで下がるとは…!」

涙が枯れた訳ではないが、夫の必死な様子を静かに見守っている妻は、皺だらけの白衣をそのままによろよろと起き上がる。

「あ、貴方…?」
「何か…何か手はないか?何でも良い、全ての可能性を試してくれ。この子の命がある内に…!」
『メインブレイン、全ての交配をシミュレートします』
「あ、ああ!見て………見て貴方、院長!結果が出ました!適合率120%、驚異的な組み合わせが確認されています!これなら雅孝は、雅孝は…!」
「…αとβを共に40%、これにγを15%を直列に繋いだ場合、セカンドバンクに影響なく被験者に適応します。院長、可能性が繋がりました…」

藁にも縋る思いの夫婦から見つめられた男は、仕方ないとばかりに再び溜息を零した。見込みはない。けれどそれを認めるには、目の前の二人は追い詰められていた。
医者でありながら、何もしないまま息子を失う事を、恐れているのだろう。

「だがそれでは数が足りんぞ。残りの5%は何だ」

茶番だ。判っている。ただ、息子の為に『何かした』と言う結果が必要なのだ、今は。誰しもに訪れる定められた死を受け入れるには、まだ若すぎる。

「通常人間が使用していない部位から支障のない回路を採取し、充てがってみてはどうでしょう?ただでさえ個体に三種の遺伝子を交配しています、これ以上は…」
「あい判った。頼む、始めてくれ」

仮想手術にのめり込む二人を横目に、院内放送のベルが鳴ったスピーカーを見上げた。救急外来の医者の声で、第一外科部長を呼んでいる。冷静を装ってはいたが、何処か陰鬱な声音だ。

「…儂が外に出ておらんかったら、救えた命だったかも知れん。許せ、孝輔、愛子」

ゲームに興じる様に、顔のないアンドロイドと共にモニタに張りついている二人から目を離すと、遠野龍一郎は部屋を後にした。

「助けてやれなかった償いに、記憶を残してやろう。儂に出来る限り、生きている内に」

両親以外の医師に看取られて、短い生涯に幕を下ろした子供の死に顔は、事故のわりに穏やかに思える。
その時、恐らく己の孫と重ねて見てしまったのかも知れない。



「…呼びつけて悪かったな、俊」
「イイ。榊と言う事は、俺の家族だ」

一人の少年が死んだ日から数ヵ月後。
8年前、孫がまだ7歳だった時に。お情け程度のガーゼを頭に貼った孫は、一人で院長室へやってきた。

「ああ、そうなるな。怪我はどうだ」
「異常なしは『異常』だと思った。だから俺は、担当医の記憶を改竄した。カルテには額に擦過傷と書いてある」
「ならば話を合わせておこう。…会ってすぐに悪いが、孝輔の記憶を消して貰えんか」
「失敗したのか?」
「いや、成功した。だが、成功したのは榊雅孝の体にアダムの脳を移植する手術だ。榊雅孝の脳を移植したアダムの体は、そもそも肺と腎臓、脾臓、胃が使い物にならんかった。死体を冒涜しただけだ」
「記憶は脳に宿る。明神の体に、グレアムが宿ったのか」
「…そろそろ目覚めるだろう。愛子は己らの行いに耐えきれず孝輔を正気に戻そうとしたが、孝輔は未だに息子の蘇生を信じて地下に籠っておる」

誰もがいつも、誰かを愛している。
そう呟いた孫は地下へ足を踏み入れるなり、両手を広げて微笑んだ。



「Close your eyes.」


神など、この世に。





「愛子、ナンバー9のセキュリティを解除してくれるか」
「…はい」
『被験者覚醒完了』
「今の所、不具合は確認されません。…孝輔さん、私達は…」
「ふふ、では目が覚めるまでに一般病棟へ移します。立花病院から転院したと言う形で宜しいですか、院長?」
「…ああ、助かった。この事はくれぐれも他言無用で頼む」
「勿論です!こちらこそ、息子を助けて下さって有難うございました!」


神などこの世には、きっと。

























「もしかして機嫌悪い?」

挨拶の様な軽口を笑いながら投げ掛けてきた男は、隣で忙しく瞬いている男の表情に気づいていないのだろうか。

「お前さんは落ちなかったんだね」

その台詞の意味が判らなかった。
帝王院神威の人生に於いて、これほど耳障りで目障りな人間が果たして他に存在していたのか、自ら記憶する事を拒絶した塵芥の如き通行人を加えて尚、恐らくは類を見ない。

「大変だったんだよー?皆怪我してるし、気絶しててさ。俺もどんくらいか判んないけど、意識がなかったみたいなんだ。りばいさんは居なくなるし、そしたら今度は…そうそう、イチ先輩が光王子と半裸でいちゃついてて、助けるのやめよっかなって思ったもんだよ」
「…一年Sクラス21番、山田太陽」
「そんで、おじさんに会ったんだ。俺にね、銀色のキラキラした板をくれた理事長に似てた気がする。でもおかしいな、理事長は帝王院帝都。だからお前さんは3年Sクラス1番帝王院神威」
「俺が知り得る誰と比較しても、お前以上に気に食わん人間は他に存在しない」

ああ、これが。
恐らくは一般論で言う、嫌悪感だろう。言葉にすると殊更、腸が煮える気がしてくる。

「いつ私がお前如きに名を呼ぶ許可を与えた」
「お互い様だろ。俺だってお前さんみたいな厚顔無恥、どう転がろうと好きにはなれないね」
「己の器も知らず過信する根拠は何処にある?脆弱な人間ほど見て見ぬ振りをしたがるものだが、お前はその手本に相応しい」
「自分だけが大切な皇帝陛下が一般論を語るなんて、笑わせるじゃないかい。ああ、そっか、成程ね?今まで手に入らなかったものなんてなーんにもないのに、一つだけ手に入りそうにないから腹立たしいんだ?」

にやにやと、勘に障る笑みを浮かべている男は、どう比較しても全てが共通しない。名前からしてもそうだ。山田太陽、太陽系に存在する星の中で最も巨大にして最も空虚な、核物質と炎だけの星。

「お前さんは子供だったんだね、きっと」
「…何が言いたい」
「何がしたいか判ってない癖に、思い通りにならなくて地団駄踏んでる子供」

その光たるや、遠く離れた地球にさえ届く。人類はその光を神と呼ぶのだろう。
(生み落ちた日)(魂は破滅へと廻り始めた羅針盤の音・を)
(初めて光を映した網膜は母親の顔ではなく)(終焉を見つめ・て)

「泣き喚く事でしか意思表示が出来ない赤ん坊と、どう違うの?好きな子に意地悪しか出来ない口下手な男子小学生と、お前さんはどう違うんだろうね?」

いつか自分が刻んだ文字を覚えている。
(初めて呼吸を覚えた…日)(細胞が酸素に犯された刹那)(刻一刻と飛び越えていく一秒に、赤子は…)
遺言じみた創作は日記にも似た、宙へと還すスクリプト。読み手は何を感じ何を考えたのか、興味がない訳ではないがそれでも、知る必要はなかった。吐き捨てただけだ。それこそ掃き捨てる様に、容赦なく晒したかった。己の行為でありながら、理由は知りたくもない。

「俊は言ってたよ。嫌いじゃないって、お前さんみたいなどうしようもないお馬鹿さんが、どうされたって嫌いになれないって」
「…」
「だけど俊はきっとそれを覚えてない。お前さんは忘れられたんだ。今の俊には必要のない、ただの『先輩の一人』でしかなくなっちゃったんだよ」

見てみろ。
平凡なエキストラの皮を被る、それは自分とは何一つ類似点がない。帝王院神威がその優秀な頭に記憶する限り、誰とも似ていなかった。

「お前と俺の何が違う。俊の中に残っていないのは、貴様とて同じ事だ」
「本当にそう思うの?俊は帝王院の嫡男だよ?お前さんはこの国には必要のない異物だけど、俊は違う。いずれ日本に必要不可欠な王様になるんだ」
「下らん。それが何だと宣うか、下等生物が…」

叶二葉が珍しく青褪めた瞬間を見た。
聡明な猫には飼い主の怒りが伝わった様で何よりだが、傍らで二葉に庇われている太陽は理解していないのか、単に歯牙にも掛けていないのか、平然と笑っている。

「偽っても無駄さ。お前さんは帝王院でも、灰皇院でもない。目障りだよ、ルーク=フェイン。灰皇院の次期当主はきっと俺になる、俊の隣にいられるのは俺。ああ、それか、イチ先輩かも知れないね。明神や冬月には荷が重い役目だもん。ただ、お前さんじゃない」
「Hold your tongue inside, stupid noise.(寝言は一人で宣え雑音)」
「退いて、二葉先輩」
「ですが…」
「退きなさい、ネイちゃん」

太陽より大きい二葉が身を乗り出した事に対して、太陽はお怒りだったらしい。腹から絞り出す様な声音で二葉の脇腹を押し退けた太陽は、煤汚れた額を拭いもせずに近づいてくる。

「お前さんは俺が嫌いだろ、多分この世で一番。もしかしたらこの世で唯一かも知れない。それも自覚したのは多分たった今で、つまり俺を個人として認識した筈だ」

聡い男だと、刹那的に考えた。
人の感情の機微に聡い様には見えなかったが、それでも断言するからには太陽にはそれなりの確証があるのだろう。

「理由が判るかい」
「興味がない」

けれど、それを聞くつもりはなかった。
なのに先を促すが如くその場を離れないのは何故か、それが判れば黙らせていたのだろうか。例えば隣で身構えている二葉が止めようと、逆らおうと。

「俺の隣に二葉先輩がいたからだよ。自分の側には俊がいないのに、俺の隣に二葉先輩がいる。お前さんは悔しくて堪らないんだ」
「根拠に乏しい意見だが、好きに宣うが良かろう。榛原も山田も末には村井ですら、俺の妨げにはならん」
「あはは。潰したければ潰したらいいよ、俺の父親もそうだった。実の親を叩き潰して、自分だけ帝王院の養子に入ったんだ」
「…貴様は」
「判った?お前さんが俺の家を潰すなら、俺は父親と同じ運命を辿るんだろうね?優しい優しい俊は、俺を見捨てたりしないよ、きっと。だって俺は、産まれたその日に俊に会ってる。俺の名前をつけたのはね、俊なんだよ」
「はい?」

瞬いた二葉が驚いた様に声を発てたが、笑う太陽は軽く一瞥を向けただけだ。

「約束はキーワードだった。なのにその南京錠に鍵穴なんてない。神様は、真っ黒な中に潜む透明な何かだった。俺達は初めから、出口のない迷路の中なんだ」
「…そなた、何処で何を知った?」
「何も。ただ、考え続けてるだけだよ。俺はお前さんみたいに、手放したりしない。きっと。絶対に」

己に言い聞かせている様な声音に、二葉が眉を潜めるのを見た。神威もまた太陽の眼差しを見据えたが、器用な男だ。喜怒哀楽を控え目に表現している様で、その実、太陽の表情はいつもそれほど変わっていない。
怒っている時も怯えている時も普段も、不器用な笑みを浮かべているだけだった。今の様に。

「チェックメイトの時間だよ、鬼ごっこはもういいだろ?お前さんが探してたカルマの皇帝は、その内この国の皇帝になる。そこに黒は要らないよ。榛原もグレアムも、どっちも足手纏いになる。そんな事はさ、お前さんだって判ってるんだろ?」

神威の表情が動かないことを指摘する人間は数多いが、だとすればそれは、太陽とどう違うのか。平凡な人間の様で、けれどその中身は平凡からはまるで掛け離れている様に思える。

「お前さんは俊に逃げられてしまった。シーザーは逃げた事を忘れて、堂々と姿を見せるだろう。偽りの外部生帝君は、偽りの中央委員会会長と入れ替わる。素直にリコールを受け入れておくれよ、陛下」
「受け入れる必要はない」
「自ら去るから?出来るのかい?自分だけが大切だった癖に、自分より大切なものを見つけてしまった皇帝陛下。傲慢なお前さんは、我慢なんてした事がないだろう?」

ポタリ、と。
空から雫が落ちたきた。太陽と神威の間に落ちてきたそれに気づいた神威が空を見上げるのにつられて、太陽も上へと目を動かす。

「あら?」
「おや?」

すぐ目の前に、ヒラヒラ靡く紐の様なものと黒い何かと肌色が見えた。
それが落ちてくる人だと頭が認識する前に、無意識で腕を広げたのは一人だけ。



「俊、」

太陽でもまして二葉でもなく、酷くあどけない表情で黄金の目を見開いた、たった一人だけだ。

























「今の聞こえちゃったり、した?」
「した」

不審者探索だと、真紅の塔の周辺を鋭い目で調査していた背中が動きを止めた為、哀れ斎藤千明は乾いた笑みを浮かべた。
何とも不穏な雰囲気を放っている悪友に、何を言っても恐らく無駄だ。判ってはいるが、だからと言って下手に動き回らせる訳にもいかない。

「物騒な真似すんなよ榊。キング=ノヴァに見つかったら圧倒的に不味い立場だって事、俺でも判るんだからお前も判ってんだろ?」
「…」
「あっ、唇噛むなって!判ってるから、そりゃ甥っ子がヤバいって聞いたらムカつくよな?!」
「どんな手を使っても探し出して…相当の報いを」
「怖い怖い怖い、榊ちゃん、そう言うのは対外実働部に任せてくれるっ?俺の分身が何とかしてくれるからっ」
「…」
「榊ぃ」

何故、自分の周囲は激しい人間しかいないのか。
斎藤千明の心の癒しは弟の千景だけだ。絵を描く事が何より好きで、コスプレ趣味が近頃常軌を逸している気配は感じているが、それを踏まえても穏やかで真面目な弟だった。何より頭が良い。勉強しようと教科書を開いた瞬間に眠気に負ける千明とは、全く似ていない。

勉強しようと教科書を開いて20分後には「覚えた」と宣い、もう要らないと教科書を本棚にしまって二度と開かない様な弟子も居るが、あれは論外だ。
下手に何でも出来る所為で、やれと言わなければ何もやらない様な馬鹿弟子だが、中身は極々普通だと思っている。少なくとも、勉強は出来なかったが運動神経には恵まれていた千明が独学で覚えた喧嘩術を、真面目に学んでいた弟子は、売られた喧嘩を買わない術を覚えてくれた筈だ。

「とりあえず、ネクサスから嵯峨崎の現在地を聞き出すまで、待てって。今さっきトランシーバーモードでメールしたから!」

千明の携帯は、独自の改良がなされている。
圏外でもある程度の距離ならば、同一のシステムを持つ端末にメールや音声通話をする事が出来るのだ。カルマで使われているシステムで、開発者は神崎隼人だと言われているが、その開発にチャラ三匹と悪名高い疾風三重奏も関わっていた。
ちょくちょくカフェカルマの手伝いでランチタイムに出没する千明は、その三人と面識があった。
集会時は大抵昼過ぎから現れる幹部らとは違い、帝王院学園には通っていないメンバーは平日でも構わずに店にやってくる事がある。人手が足りない榊が招集を掛ける事もあれば、様々な家庭事情で不登校だったり一人暮しだったりする少年らは、カフェが自分の居場所の様に思っている様だ。

カフェカルマのアルバイトは基本的に18歳以上限定で、正社員登用には幾つかの資格取得を推奨している。現在のカルマは俊が最高齢だと思われていたくらいに平均年齢が低いので、現在17歳の佑壱、現在18歳のチャラ三匹が実質的な兄貴分と言う事になるだろう。

システムエンジニアとプログラマーに必要なスキルを磨き、幾つかのプログラミングを企業にプレゼンし契約した事もある松木竜は、ヘアピンがあれば携帯端末を改造出来る特技がある。
ゲームプログラミングを独自に学びモバイルゲームを開発した事もある梅森嵐に至っては、その利権で未だ幼い弟妹の生活費を賄っている程だ。
Sクラスを狙えるほどの優秀な成績を修め、疾風三重奏のリーダー格でもある竹林倭は将来的に美容師を目指している様だが、佑壱が冷蔵庫の調子が悪いと呟けばその場で分解して修理する程の知識とスキルがある。

そんな三人に、カフェの手伝いで出勤している内に気に入られてしまった千明は、もしもの時の為にと携帯を改造されていた。そんなもしもがあるかとその時は思ったものだが、その技術は確かに便利だと、対外実働部限定で密かに取り入れる事を自分の分身に提案したのだ。
本体と違い優秀なアンドロイドは佑壱にどう説明したのか、それから間もなく部署のメンバーは全員、メイドインカルマの携帯を保有する事になった。

「どの辺にいるか判らないけど、受信したら返事が来る。それまで頼むから待って」
「…判った。俺以上に焦るなよ、笑えてくるだろうが」
「こっちは何も笑えねぇっつーの!バカキのいけず!」

完全に独自の電波信号を用いている為、電波が届く範囲で傍受されたとしても、解析には時間が懸かるだろう。一筋縄ではいかないシステムは、隼人の得意範囲だ。あの疾風三重奏が「ハヤトさんは凄すぎる」と言うのだから、間違いない。

「然し、通信が届いたと言う事は、ノア保有の衛星回線が開いたと言う事だ。何が起きてる…?」
「衛星回線って、確か強制的にオーバードライブになるんだよな?セキュリティ無視で、全部の信号がマジェスティに届いちまうってやつ…」
「ああ。何があろうと回線は開くな。ノアの絶対支配の前で、プライベートラインは機能しない」
「大丈夫大丈夫、そもそも俺が回線って奴を使った事ねぇもん。東京は全域に電波飛んでるって聞いてたけど、ネクサスとはメールで連絡取り合ってたし」

世界中、何処にいてもステルシリー保有の電波は通じているそうだ。余程秘境だったり、未開発の土地であったり、殉教地扱いされている国は例外だが、聖地とされている日本の首都に専用アンテナが建ったのは現在の男爵が来日してからだった。ほんの数年で携帯会社や電力会社の株式を取得し、裏で独自システムを構築したのだから、やはり化物じみている。

「にしても、焦ってんの俺よりお前だよな。嵯峨崎の件が知らされる前から、不機嫌だったじゃねぇか」
「そうか?」
「すんこの家にルークが居たって事、そんなに不味かったわけ?」
「不味いかどうかはともかく、俺が知らなかった事が問題だ」
「俺だって知ったのはさっきだよ。ネクサスから謹慎処分を受けたって事は報告あったけど、理由までは聞いてなかったもん。また何かやらかして嵯峨崎を怒らせたのかな、くらいで」
「…そうだったのか」
「まさか、マジェスティ自らボコボコにされたなんて、知ってりゃこんな所こなかったよ…」

溜息は長い。
今更嘆いても無駄だが、千明は遠野家で見掛けたあの外国人が男爵その人だとは、当時全く知らなかった。知っていたら、先程話し掛けてきた銀髪の男が俊の恋人だと宣った時、恐らく息を止めたに違いない。

「シャツボタン留めてなくて、何か慌てて羽織りましたって感じのほぼほぼ半裸で、宅配業者にデカいダンボールを幾つか運ばせてたんだよなぁ…」
「つまり、その中に対外実働部の奴らが入っていた、と」
「…どいつもこいつも、呆れるくらい曲者ばっかなんだぞ?ロバートっつー黒人は上から目線な所があるけど、頭は良いし軍隊格闘術を叩き込まれてる。アートはヘラヘラしてっけど、スラムとかマフィアとかに潜入する様な任務で、何故かそこにいた奴らに気に入られて帰ってくる様な奴だって話だし」
「ネクサスに至っては、お前をモデルにしたアンドロイドだ。貿易商ともなれば、相当危険な仕事も受ける必然性がある事を前提に、長男としてそれなりの教育を受けさせられた?」
「…俺だけじゃなくて、千景もだよ。俺の親父方の祖母の実家が、大昔に道場やってたらしい。俺の曾祖母さんの兄貴が破天荒な人で、外国に武者修行に出たっきり帰ってこなかったって。それで道場を閉めて、貿易一本に絞ったみたいだ」

ポキッと首の骨を鳴らした男は、優しげな印象の目尻を若干吊り上げて、

「藤倉涼也っつー、男前だけど中身はただの馬鹿だったらしいぜ」
「お前にそっくりっつー事か」
「おま、親友に酷くない?!友達やめちゃうよ?!本当にやめちゃうよ?!もう愛してあげないんだからねっ」
「そうか」
「引き止めろよ!」

無神経な男の足を踏んだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!