帝王院高等学校
第六番:凍土に息吹く唯一の灼熱
怖い。
真っ白い闇が近付いてくる。



「鬼ごっこは終わりですか?まだ続けるなら付き合いますよ」


渦巻いた階段を一歩一歩降りてくる白い爪先を、小刻みに震えながら見つめているのは誰。

「飽きるまで、いつまでだろうと」

天使の微笑みを、何の感情も見えない形ばかりの微笑みを。
浮かべたしなやかな長身が近付いてくる。


あの笑みが嫌だった。初めから。
その笑みの裏側が知りたかった。でもすぐに諦めたけれど。


恐ろしい気がしたのだ。
本能的に。
勘が、嫌な事にだけ作動する勘が、逃げろと警告を発していたから。



「顔色が宜しくありませんね。ああ、鬼を前に笑う人間は居ません。さしずめ、私は貴方を追い詰めた悪しき鬼の一人ですか」
「っ、」

この男から逃げろと。
あの日、襲われた可哀想な生徒を前に何の感情も見えない形ばかりの微笑みを浮かべ、恐かったでしょう、大丈夫ですよ、もう怖くありませんよ、と。


「近付くな!」

まるで赤子相手の様に優しく冷たく囁く声を聞いた時から、ずっと。逃げて来た筈だろう。

「それは命令ですか?」
「来るなっ!近付くな!」
「命令ならば、私は躊躇わずその心臓を止めます。私に命じられるのは、貴方ではありませんからねぇ」
「それ以上近付いたら…っ、」
「舌でも噛み切りますか、時の君?」

笑みを深めた唇が、出来るものならやってみろと言っている様に見える。

「他人の行動を止めるには幾つか方法があります」
「来るな!」
「一つ、足を撃ち抜く。一つ、頭蓋を撃ち抜く。一つ、喉を掻き破る。一つ、心臓を撃ち抜く。どちらにせよ、武器が必要ですねぇ」

武器が欲しいならあげますよ、と。
囁く声を聞いた。

「一つ、相手の弱味に付け込み命じる。一つ、等価交換。命じられる事が何よりも嫌いな私に前者は無意味です。ならば後者、頼み事に代償は不可欠でしょう?」
「や、」
「ああ、そうだ。ハロウィンみたいですねぇ。悪戯されたくないならお菓子を頂戴、」
「近寄るなァ!!!」







輪唱交響曲

第6番
凍土に息吹く唯一の








「それは命令ですか、時の君?」


望むなら命令ではなくお願いしなさい、と。絶えず絶えず笑う赤い唇が囁き続ける。
何がそんなに楽しいのだろう。楽しいなら楽しい様に笑えば良いのに。


「おや、チェックメイト、ですかねぇ」

目前で立ち止まった男がゆっくり屈み込んだ。叫び続けた喉が焼ける様に痛い。
尻餅を付いたまま震えるだけの獲物を前に、酷く勿体付けた仕草でゆっくりと、然し確実に覆い被さってきた。


「ああ、逃げ場が無くなった。」

薄いレンズ一枚、その向こう側。
無機質に呟いた唇から笑みが消える。

「最後に、助けを呼ぶと言う方法があります。鬼を退治する桃太郎、然し帝王院に私を止められる人間など存在しない」


神ならば別ですけどね。

耳に触れた吐息に肩が跳ね上がる。言葉通り逃げ場は何処にも無い。
ひゅっと惨めな音を発てた喉を震える手で押さえれば、伸びてきた冷たい指先に掴まった。

「鳴けない鳥は飛ぶより他に何も望めない」
「っ」
「憐れな憐れな籠の鳥、声すら失い籠の中。…金糸雀も人魚も、声を失えばただの肉片ですよ」

目元だけで笑う男をただ震えながら見上げて、その長い指が頬を撫でるのをただ震えながら眺めるだけ。

「鳴くと泣くは違う。ハミングとクライ、似て非なる二つの共通点は『儚さ』でしょうかねぇ」

濡れた指先を見つめた蒼い左目が笑う。
初めてこの男の感情に触れた気がしたのだ。勘違い甚だしいと笑われるかも知れないが、本当に。



「…塩辛い」


他人の体液など口にする様には到底見えない唇が、赤い舌先を覗かせる。
酷く卑猥なものを見た様な錯覚。奪われた頬を伝う涙は際限無く溢れるばかり、無意識に、己の意思に反して。

「何を恐れていますか」

緩く首を傾げた男の手で胸元を押され、満足に抵抗する暇無く背中がリノリウムに倒れる。
ドサリ、と。音の割りには痛みなどない。頭の裏に回り込んだ腕が益々逃げ場を奪い、覆い被る眼差しが益々まともな思考を奪う。際限無く。


「ああ、また。塩化ナトリウムを無駄に消費すれば脱水症状を招きますよ」

新たに浮かび上がった涙は零れない。背中の下に冷たいリノリウム、頭の下に冷たい掌、目の前に薄い唇。

「近付か、ないで」

無意識に呟いた台詞は届いたのだろうか。擦れた惨めな小声は自分でさえも理解出来ない微かなものだったのだ。
けれど潤んだ視界にコトリと上下する喉が見えたのだ。


一切の表情を失ったその美貌は、間違っても中性的ではない。明らかに雄のそれだと、混乱した頭は冷静な分析を始めてしまう。


「…私が、」
「嫌、だ。近付かないで、どっか行って下さ、い」
「怖いんですか?」

意味が判らないと言った声音がただただ恐ろしかった。素直に全面降伏すれば解放されるなら、土下座でも何でも出来る。

「何故怖がる必要があるんですか。ほら、いつもの様に小生意気な態度で刃向かって御覧なさい」
「や、だ。はな、離して、下さい」
「そんな事ぐらいで怒ったりしませんから、…ほら。裏庭で暴れていた時の様に、後先考えず抵抗なさい」
「許して、くだ、下さい」

大嫌いな相手に『お願い』だって、幾らでも。こんな惨めな状況でこんな惨めな声で、他に惨めなものなど何も無い。

誰も見ていないのだから。二人きり。
初めて二人きりになった風紀室を思い出した。あの時は新しいゲーム機を投げ付けたのだ。

「引っ掻いて噛み付いて蹴り上げて殴り飛ばして、逃げれば良い。幾らでも追い掛けてあげますよ。だってこれは鬼ごっこなんでしょう?」
「あや、謝りますか、ら」
「私は貴方を捕まえるだけ。傷付けたりしません。鬼は桃太郎に退治されるまで、追い掛けっこをするだけの役目。そうでしょう?ねぇ、」
「おね、お願いし、」
「─────黙れ。」

聞いた事の無い声が聞こえた気がしたのだ。
反射的に目を閉じればまた喉が惨めな音を発てる。息が出来ない。

「ぅ、む、…んんんっ、」

真っ暗で苦しくて息が出来なくて苦しくて怖くて震えが止まらなくて怖くて真っ暗で助けて欲しいのに声が出ない。
両腕を伸ばした。何かを押し退けようと力を込めた。それ以上に強い何かに抱き竦められて、もう、何も出来ない。


涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔以上に頭の中がぐちゃぐちゃだ。
怖い怖い怖い怖い、苦しくて真っ暗で怖くて声が出なくて震えが止まらなくて、死ぬ時はこんな感じなのかも知れないと思った時に、漸く、酸素が戻ってきた。



「どうして、そんな顔をするんですか」

いきなり戻ってきた酸素を取り込み切れない肺が悲鳴を上げている。

「赦しを乞う人間でしたか?素直に頭を下げる人間でしたか?今までの貴方は全て幻だった、なんて、面白くも何ともない」

焼け付いた様にヒリヒリする気管支、つんと痛みを訴える鼻、熱を持った眼球、震える全身。

「何故、そんな顔をするんですか貴方が」

どんな顔をしているのかなんて、知らない知りたくもない。
ただ今は息が苦しくて。瞼が張り付いたみたいに重くて、熱くて、痛くて。

「いつもみたいにほら、『またアンタですか』と睨み付けなさい。『失せろ』と口には出さずとも全身で伝えなさい」
「はっ、はっ、げほっ、ひっく」
「ほら、いつもの様に害虫を見る目で、…違う、今の貴方は私を歓ばせる別人です。何故、泣くんですか。いつもの様に、無関心で無慈悲で無気力な目で!」
「しゅ、ん」

重い重い瞼を開いた。
誰かの向こう側に渦巻いた螺旋階段が見える。天井は闇の中。ぐるぐるぐるぐるぐるぐる、まるで羅針盤の様に天まで伸びた長い長い階段。

「…しゅん」

実際には三階分しか無い。けれど今は届かない空みたいだ。


「しゅん、俊、俊俊俊俊俊俊俊俊俊」
「…」
「俊、どこ。俺はここだよ、ね、早く降りてきてよ」

新月から舞い降りてきた銀を覚えている。無限に続く空からひらりと舞い降りて、どんなヒーローより格好良く助けてくれた銀色。
本当に、見惚れたのだ。
無駄の無い動きでいとも容易く敵を凪ぎ払う銀色に、怖いものなど何一つ存在しないと言わんばかりの笑みに、その絶対な威圧感に、全てに。

「俊」

見惚れて、涙が出るくらい、格好良かったから。

「俊、俊、しゅん、」
「貴方は」
「ゲームだって写真だって、おやつだって何だってあげるから、早く」
「本当に、優秀ですね」
「一緒に寝てもいいよ、おかずだって分けてあげる。抱き付かれてももう怒らないから、」

目を開いても世界は真っ暗だ。
独りぼっちの世界はいつも灰色だった。陳腐な世界に生きる陳腐な自分に艶やかな色が芽生えたのは、たった半日前の話なのに。


「お願いだから、」


もう、こんなにも怖い。


「早く助けて」
「…何処まで俺を無視すれば気が済むんだ、アキ」

また、呼吸が止まる。
真っ暗な視界に蒼い何かが移り込んだ気がした。でも、助けて欲しいのは蒼じゃない。


銀色で。
真っ黒で。
笑えばちょっと格好良くなるのに。
普段は無愛想な友達。
不良の癖に頭突きしたら膝を抱えて泣いた友達。
優等生の癖に馬鹿な事ばかり言って困らせる友達。



「しゅん」

まるで呪文の様に。
初めて言葉を覚えた赤子の様に。
同じ単語ばかり繰り返し繰り返し。


「本当に、優秀ですね貴方は」
「退いて。俊が来るんだ」
「…私を怒らせる、天賦の才がある」
「俊が見えないから、退いて」
「汚れてしまえば良かったのに」

耳元で柔らかい声が囁いた。子守唄の様に。

「あの日、穢されていたら良かったのに。何処もかしこも処女だなんて、…本当に、面倒な人間だ」
「邪魔だよ、アンタ。消え失せろ」
「私は言った筈ですがねぇ、命じられる事が何よりも嫌いだと」
「俺の世界にアンタは要らない」

頭が酷く冴えていた。
脊髄から凍えた何かが這い上がって来る。
思考回路が闇に染められていく気配、口が勝手に紡いだ台詞は誰のものだろう。



「Close your eyes(消え失せろ)」

犯罪者が罪を犯すのは、こんな時なのかも知れないと思った。理由なんて無いのだ。ただ、したかったからやっただけなのだ。



ただ、邪魔だったから。
自分の世界に必要無かったから。
目障りだから。
耳障りだから。
眠たかったから。



理由なんてそんなものなのかも知れないと思った。



「勇敢にも鬼へ刃向かった勇者さん」


ブチリ、と。
胸元で何かが弾けた音を聞いた。


「穢れてしまいなさい」

パラパラとリノリウムに弾ける黒いカフス、引き裂かれたシャツ、晒された胸や腹に冷たい空気。

「要らない人間に汚されて、憎悪と絶望をその小さな頭に詰め込めば良い。
  ほら、赦しを乞うなら今が最後のチャンスですよ。お願いしますと、私に向かって強請れば良い。憐れに惨めに同情を誘う態度で、」
「俊、…寒いよ」
「本当に、愚かな人だ」


何かが喉に食い付いた。
引き裂かれる様な音がまた、今度は腹よりもっと下の方で。



「…穢されてしまいなさい」



瞼を這う何かが唆す様に囁いた。
それは耳を噛み、頬を舐め伝いながら繰り返し繰り返し唆してくる。



唇の真横で離れた何か。


腹を撫で回る何か。


瞬きを忘れていた瞼を閉じれば、涙で頬に張り付いた前髪を掻き上げる冷たい何か。



「─────穢れてしまえ」


全てを凍らせる空気。


冷たいリノリウム。


熱を奪う闇の中。



極寒の凍土に、独りぼっち。








「…狂うほどに。」






唇に触れた何かだけが、酷く熱い。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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