帝王院高等学校
一難去って男難来たる主人公
「ぅむ、ふ、ふぇ、んむっ、むにょ」

無意識に両手を突っ張り、広い胸元を押し返していた躯が傾いた。
背中から倒れていく感覚に目を見開き、背後にはあの押しても引いてもびくともしなかった扉があった筈だと瞬く。
誘拐されたばかりで、神帝から逃げてきたばかりで、混乱最高潮のこの時にまた、予想を超えた事態だ。

「ゃ、めっ、ぅんっ、んっ、んっ」

神威は何故こんな事をするのだろう。身を挺した無慈悲な苛めだろうか、ただの暇潰し程度の揶揄いだろうか。
どちらにしても立ち直れそうにない。平気な素振りをするには、もう他人とは言えないくらい受け入れてしまった。


「ゃ、だ!ふァ、むむむっ、ぅにゅ、」

膝が笑う。楽しくもないのに笑うなんて可笑しい、なんて慣用句に文句を吐いても不毛なだけだ。
全力で突っ張った両腕がギシギシ悲鳴を上げた。無力ではないと思っていたが、もしかしたら自分は男にあるまじき非力なのだろうか。10kgの米を五袋抱えた時は近所のオバサン皆が「力持ちねぇ」と誉めてくれたのに。



「逃げるな」

口付けが離れた僅かな合間に囁く声。後ろへ後ろへ落ちていく体は、然し床に倒れながら何の痛みもなかった。
まるで羽根布団に包まれた様な柔らかさで、然し固い床の上に倒れた背中。庇ってくれた神威が跨る様な態勢で口付けてくる。その美貌に震えながら、両腕は最早役に立たない。

「俊」

名を呼ばれ、唇を舐め上げた他人の舌先が歯列を割る。
特に並びが良いとか象牙の様な歯だとか言う訳でもない、お子様用ピーチミント味の歯磨き粉で朝夕磨いているだけの何の変哲もない永久歯が、こんなにも気になったのは初めてだ。まるでそこにも心臓があるみたいに思える。

「ふ…、む、ぷはァ、ゃ、むにゅん」

キスが気持ち良い、と書いてある漫画も小説も嘘ばかりだと思った。
気持ち良いなんて考える余裕がないくらい恥ずかしい。逃げたくて堪らない。キスでこうなら、その先は想像するのも恐ろしいではないか。


「俊」

また、名を呼ばれる。
ぐるぐるぐるぐる、ああ、食べた後に歯磨きしておけば良かったとか、せめてエチケット用のタブレットでも舐めておけば良かったとか、ああ、せめて焼き肉はやめとけば良かったとか、訳の判らない事ばかり考えた。

「俊」

もしかしたら受け身だから恥ずかしいのかも知れない。もしかしたら攻め側に回ってみたら、気持ち良いと思えるのかも知れない。
そんな出来もしない事を考えながら、野良猫にキスして引っ掻かれたなんてどうでも良い昔の記憶を思い出す。

「俊、」

貪られながら合間合間に繰り返される単語が、まるで神聖な呪文か厳かな祝詞の様に聞こえるのは何だろう。
食らい付く様な激しさは濁流の様に精神を蝕み、なのに抱き竦める腕の優しさは体から力を奪っていく一方。

「カイ、ちゃ、」

視界がブレたのは脆い涙腺が壊れているからだ。伸ばした手が、生きる芸術の様な男の頬に触れただけで電流を走らせる。
目元を和らげただけで微笑む秀麗な顔が、また近付いた。だからまた、泣きたくなった。

「駄、目」
「…何故」
「好きな人としなきゃ、駄目」
「下らん」

身を屈めた神威が、首筋に口付けを落とした。漸くキスをやめてくれたのかと安堵しながら、反面『下らん』と囁かれた声の冷たさに怯む。

「人へ依存する事など有り得ない。殆どの興味は芽生える間もなく消滅し、発生したとして軈て飽き果てる」
「…?」
「俺が今まで得た興味は、『依存』には至らなかった」

冷たい冷たい声と、なのに暖かい舌の感触、何故かひんやりとした冷気を覚えた腹に冷たい掌の気配を覚えて跳ね起きた。


「ひァ、」

いつの間にか外されたシャツのボタンの内側に、神威の手が割り込んでいる。

「お、お腹っ、ぷにぷにしてたっ?」

ズレた眼鏡を押さえ、もう片手で腹を撫でる手を掴み、上体を起こしただけの無理な態勢で上擦った声を出した。

「カ、カイちゃんはスリムだから羨ましいにょ」

運動不足の腹筋が何処まで頑張ってくれるのか気になるが、とにかく今はこの手を阻止しなければならない様な気がしてならないのだ。

「ぼ、僕もカイちゃんのお腹触って、」
「人へ、興味を得た事はない」
「ふぇ」
「俺は、永劫人間には成れぬ存在なのだと諦めていた。依存する事を求めるだけに『依存』し、ただ目先の好奇心を満たす為だけに生きたんだ」
「どう言う意味か、判んないなり…」
「そうだな。人を愛す方法を探す為だけに生きてきた、とでも喩えようか」
「好きな人、居ないにょ?えっと、俺様攻めはセフレがいっぱい居るのに、好きになるのは主人公だけなのょ。だから、俺様攻めは主人公か初恋なんです!これ、お約束にょ!」
「答えは何れ、判る」

腹を撫でようとしていた手から力が抜けたのが判った。安堵する前に口付けられて、今度は不甲斐ない腹筋から力が抜ける。
倒れ込みそうな事態に慌てて手を伸ばし、謀らずも神威の首に腕を回す結果に陥りながら、駄目だと言った口で触れるだけの口付けを受けている矛盾。


「…好意の有無は未だ明確ではないが、興味がどちらに向いているのか。知る機会は間もなく訪れる」
「むにゅ、ぅん、むぅっ」
「人へ注がれているのか、神へ注がれているのか。…答えが前者であれば良いと、これは俺の【願い】だろうか、【祈り】だろうか」

小難しい物言いばかりの神威が囁く台詞は、やはり意味不明だ。
そう強い力でも無いのに、けれど拒絶を許さない抱擁を受けながら、何度も何度も角度を変えた口付けから理性を奪われながら、


「【望み】であれば良いと、…愚かな事を考えているらしい。あの男には得なかった欲を、お前に覚えた脳が」
「あの男って…」
「俊」

抱き上げられていた事に今頃気付いた。頬に額に鼻先に、触れるだけの口付けを繰り返す唇が名前を呼ぶ。

「俺の名を呼ぶ事を許すのは、生涯お前だけで在れば良い。これは俺の願いだろうか、祈りだろうか。それが望みであれば、」

いつの間にかエレベーターの前で、ふわりと下ろされた先はぽっかりと口を開いた密室空間。開いたままのドアの内側に下ろされて、向こう側には秀麗な美貌を高い位置に掲げた長身、


「カイちゃ、」

閉まっていくドアに手を伸ばしたが、最後に見たのは儚げな微笑を滲ませた双眸だけだ。

「カイちゃん」

開ボタンを押しても勝手に動き出したエレベーターは二度と開かない。
呆然と見上げた先の、天秤の様なマークをパネルに点灯したエレベーターが何階へ何処へ向かっているのかにも、閉まったドアの向こうで呟かれた台詞にも気付かぬまま、




「あー…、心臓が痛ェ」


無意識に吐き捨てた台詞は、きっと不良そのものだった筈だ。








「望みであれば、それは如何に醜い欲望だろうか」

強制稼働した機械は方舟の様に、このまま寮へ戻っていくだろう。

「…生涯に於いて初めて人を抱きたいと欲している。
  人間の欲を満たす為だけに」

昇降だけではなく、ベルトコンベアの様に縦横無尽に駆けるのだと知ったら、あの好奇心旺盛な生き物は目を輝かせ笑うのだろうか。
あの光に満ちた笑みを、目前で。


「これが恋慕ならば、俺が人間に成り得るならば。………二度と、この手を妨げられずに済むのだろうか?」

無意識に左手を見つめた。
両利きの手はどちらか一方が使えなくなったとしても不便ではない。けれど出来るなら、この左手を残しておきたいと考えた。
一番温度が高い腹の体温を直に、心臓に最も近い指で感じたまま、他の何にも触れずに。



『非常事態発生、中央委員会を速やかに召集願います』

空間を突き破る様な警報が轟いた。
背後が俄かに慌しくなり、執務室へ駆けてくる役員の足音を聞きながら胸元に忍ばせていた仮面を手に取る。


『ティアーズキャノン、スコーピオ上部に不審物確認。施設内全域のモニタに監視画面を投影します』

右手を一度握り締めた。
耳障りな非常警報に踵を返し、執務室の扉へ足を向ける。


「お帰りなさいませ、陛下。先程、私の部屋の前にこんなものが落ちていましたよ」
「ああ、大儀だ」

何処に居たのか既に会長デスクの上に腰掛けていた二葉が、何処までも愉快げに微笑みながら肩を竦めていた。その手には銀の髪、俊を追う際に投げ捨てたものだ。
受け取りながら、二葉のシャープな眼鏡を一瞥する。顔の造形だけならば、紛れもなく二葉に適う者は少ない。

「何の悪戯かと思いましたが、もしかして陛下、今頃この私の美貌に目が眩みましたか?」
「お前に抱かれる趣味があったか、セカンド」

例え縋り付かれても、二葉を抱く日は恐らく永遠に訪れないだろう。他人と肌を合わせる行為に『飽きた』のは、もう随分と昔の話だ。日向が言うには『枯れ果てた不能』らしいが、それすらに興味が無い。

「おや、そこは陛下の腕の見せ所ではありませんか」

冗談めいた台詞は、然し別の方向を見つめている。
接触嫌悪症、などと自分を揶揄する二葉でさえ、やはり時々は年相応に処理していると言うのに。隼人の台詞を思い出しながら、好奇心を満たす為だけに人を抱いていた自分の方が隼人より醜悪なのではないかと目を細めた。

それを言えば、あの純粋無垢な生き物はどんな表情をするのだろう。間接的な口付けだけで妊娠すると信じて疑わないあの生き物は、眼鏡を曇らせて罵るのだろうか。


『大っ嫌いにょ!』

二度も拒絶されたら、自分はどうするのだろう。興味を無くして、また、前と変わらないのだろうか。
人間ならば愚かに縋り付いて、愛してくれと乞うのだろう。その感情を理解する事は勿論、到底真似出来そうに無い。


「どう言う事でしょうかねぇ、これは。…私の予想が覆された様ですが」

映像を眺めていた二葉の呟きに目を向け、暗闇に映し出された時計塔の最上部を見た。
あれほど求めたものが見付かったのかも知れないのに、それすらどうでも良くなって来た気がするのは何故だろう。

「ああ、俺の予想とも異なる」
「光栄ですねぇ、貴方と同じ事を考えていたなんて。…まぁ、幾ら叩いても遠野君から埃は出ませんでしたが」

俊が探していた人間と同じでもそうでなくとも、最早どうでも良いのかも知れない。
寧ろ別人の方が良い様な気がしてきたのは、好奇心を埋める為だけに夜の街を渡り歩く自分を知られたくないからだ。

「寧ろ、徹底的に不自然なくらい彼は守られていました。久し振りに本気になりそうでしたが、…こうなるとはねぇ」
「まさか『今』現れるとは思わなんだが、」
「おいっ、映像を拡大しやがれ!邪魔だ二葉、退け!」
「高坂君、少しは落ち着いて下さい」

執務室の最奥に映し出された映像を愉快げに眺める二葉を横目に左手へグローブを嵌めて、駆け込んできた日向が叫ぶのにも構わず、


「ガーデンスクエア・オープン、学園内に滞在せし全ての人員へ告ぐ」
『不審人物を拡大─────、





  カオスカイザーを確認しました!』


サングラスの下で優雅に笑む銀髪の男を睨み据えながら、




「我が冥府揺るがす威光を知らしめんが為の聖戦を、…開始せよ。」


心は既に、別の所へ向かっている。

←いやん(*)(#)ばかん→
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