帝王院高等学校
魔王共が鬼に金棒でチワワと化したそうです
「娘が呼んでる」

ぱちっと目を開いた女が、まったりと男の声で呟いた。
コードをコンセントに差し込んだまま、キョロキョロとサファイアの瞳で辺りを見回すと、カッと目を見開いたのだ。

「え、ええーっ?!オリオン、貴方そこで何してるんですかっ?大変だぁ、オリオンの所在がバレてますよ夜刀殿っ!」
「判った判った、お前は黙ってろアラレ。今はそう言う空気じゃない」
「でも夜刀殿!オリオンのデータは秘密の部屋に閉まってあるんですよね?!バレたら不味いですよねっ?!」

その昔、ヴィーゼンバーグの馬鹿殿とまで揶揄された公爵の性格を忠実にコピーしたアンドロイドは、魔女と謳われた女帝セシル=ヴィーゼンバーグの手に余る男だった事など微塵も感じさせない涙目で、びとっと107歳に張り付いた。
ポカンとアンドロイドの狼狽を眺めていた全員が、頭を抱えている遠野龍一郎へ目を向けたのだ。

「…魔帝とまで謳われた男が、この様か。俺の設計ミスなのか、ジジイが勝手に弄ったのか」
「俺は何もしとらんぞ龍一郎!お前は何でもかんでもミスを人の所為にしてっ!たまにはパパを敬わんか!四年に一度でイイから!」
「黙れ、四年に一度は誕生日だけで十分だ。貴様と話していると頭が痛くなる、黙らんなら黙らせるぞ」
「パパァ」

びくり。
遠野が誇る鬼神二匹が動きを止め、恐る恐る向かい側のソファへ目を向けた。
150センチあるかないかの小さな体を三人掛けのソファに横たえた女豹が、足を中国マフィアのボスの上に、胴体の殆どを日本の天神と謳われる男の上に、腕枕をした頭部は沈黙している祭美月の膝の上に乗せた余りにも余りな姿で、にまっと笑いながら遠野龍一郎を見つめている。

「今さァ、秘密基地がどうのって言ってたよねィ?」
「…そんな事を言った覚えはない」
「へぇえ?だったらァ、さっき聞いた話を全部シューちゃんに言ってもイイっつー事よねィ?アンタが作ったデータで、そこのイケメン白衣がみーちゃんのクローンを作って、そのクローンの所為でパパスとママスが追い詰められるザマになってェ、シューちゃんが逃げ出さなきゃならない状況になっちゃった、って」

にっこり。
恐らく遠野一族最強の『鬼』は、まず間違いなくこの女だろう。冬月兄弟は痙き攣る口元を押さえながら目を見合わせ、互いにどうにかしろと押し付けあっている。

「ねェん、叔父様ァ?」
「ひ…!お、叔父様と言うのは、よもや儂の事ではあるまいな?!」
「アンタ以外に誰が居るっての?」
「儂は隼人の祖父だが師君の叔父ではない…!りゅ、龍一郎と儂は最早他人の様なものだ!今でこそ冬月を名乗っておるが、戸籍が残っておれば儂は冬月ではなく神崎龍人なんじゃ!妻が神崎と言ったからなっ」
「………へぇえ?」

にたり。
暫く沈黙した鬼が、人間を数万人くらい殺していそうな表情で微笑んだ。さっと目を逸らしたドイツマフィアは窓の外をわざとらしく眺め、同じくさっと目を逸らした中国マフィアもまた、窓の外を眩しげに見つめている。

「今日は天気が良いね、大河君」
「全くだ、今日は絶好の祭日和だのう…」
「そうだ、午後から西園寺学園執行部と下院執行部の出し物合戦が予定されているのだよ。君の息子は謹慎をこれ幸いに戻る気配がないが、気晴らしに天の君の出し物を見るのはどうだね」
「天の君とは天の宮様の事か。ふむぅ、朱雀が居れば紹介したのだが、仕方ない。我だけでも宮様に挨拶をしておくか」
「ナイトは少々気難しい様に見えるが、若い頃の皇子に比べればずっと素直な子なのだよ。知らぬ事とは言え、私も随分な無礼を働いた事だ。君を紹介する時に謝罪しよう…」

ふぅ、と。
魔王達は他人事の様に外を眺めながら息を吐いた。
その背後では、にやにやにまにまと冬月兄弟を笑顔で追い詰めている、オタクの母が寝転んでいる。

「神崎、ねィ。ふ…ふふふ、神崎かァ、そォ、神崎かァ…」
「と、俊江、その笑みは何だ…?!師君は何故、そうも遥か昔に死んだ儂らの母と同じ様な笑い方をする?!龍一郎、貴様はどんな子育てをしおったか!」
「子育てに関して貴様にとやかく言われる覚えなどない。貴様の娘は孫を育児放棄した馬鹿娘だろうが、馬鹿だがそこの俊江の方が立派だぞ…!少なくとも俊は、俊は儂の可愛い孫…!ぶふ!」
「龍一郎兄!それは鼻血か、吐血か?!」

孫可愛さからか、オタクに負けじと鼻血を吹き出した龍一郎は真顔で震えていた。兄の凄まじい姿を直視して硬直した保険医は身動きせず、アンドロイドに背中から抱き締められている107歳は顔を覆っている。

「判る、判るぞ龍一郎…!歴代、人の話を聞かん傲慢な人間ばかりぽんぽん産まれてくる我が遠野家に、自ら『じーちゃん、肩揉もうか?』なんて言ってくれる心の清い子は、シュンシュン以外に居らん…!俺がちょっと引退して目を離した隙に俊江が高校生を誑し込んでいたと聞いた時は寿命が縮まる思いだったが、今となればシューベルトGJ、よくぞ俊江を孕ませてくれたと感謝してもしきれん!」
「皆まで抜かすなジジイ!例え結果的にそうであれ、冬月の分際で帝王院の嫡男に手を出すなどあってはならんかったのだ!確かに俊は、俊は可愛いが…!」
「龍一郎」

咽び泣きながら震えている遠野夜刀の傍ら、同じく鼻を押さえたまま震えていた遠野龍一郎を静かに呼んだのは、にまにましている鬼女を膝に転がしている帝王院駿河その人だった。
森羅万象を見聞きした仏の様な表情で悟りを開いた学園長は、何処に出しても恥ずかしくないイケメン過ぎる還暦の美貌に微笑を讃えたまま、

「秀皇の身に起きた顛末に気づきもせず、…いや、寧ろ気づかない振りをする事で帝王院を守ろうとした、親として不出来なこの私に、俊は一言、『大好きだ』と言ってくれた」

だぱっ。
今朝から涙腺が崩壊して修理が間に合っていないらしい学園長の迸る涙が、オタクをつるっと産んだ鬼母の上にぼたぼたと落ちた。
仕方ないと起き上がった鬼は、義父の顔をティッシュで雑に拭うと、よしよしと頭を撫でてやったのだ。

「ったく、何かもう、恥ずかしくないのオッサン達。こんな純粋な人を泣かして、私が言うのもアレだけど、あーたらまともな死に方しないんじゃない?」
「………う、ううむ、返す言葉もないわ…」
「…」
「で、みーちゃんのクローンっつーロードってのは何処に居るの?」
「ロードは私が廃棄した」

俊江の台詞に静かな声で答えたのはキング=ノヴァ=グレアムだったが、ちらりと父親を盗み見た女は唇の端だけで笑うと、駿河学園長の上からゆっくり降りる。

「私の馬鹿息子がカルマって言うチームやってんの。パヤトきゅんにはお世話になってるみたいねィ、叔・父・様?」

にやり。
数億人くらい殺していそうな眼差しで微笑む姪を前に、冬月龍人は産まれて初めて貧血を覚えた。明らかにこれは、脅迫ではないか。

「それと藤倉さん、あーたがうちの子に何してくれたかまでは聞かないけどォ、藤倉って事はユーヤきゅん関係よねィ?」
「…ひ、裕也は私の息子なのだよ、クイーン=メア」
「あら、そ。…長い付き合いになりそうねィ、藤倉さん」

辛うじて残っていたドイツ人の最後の黒髪が、さらっと白髪に変色する。流石は世界の皇帝の第一秘書なだけに表情にこそ出ていないが、明らかに怯えているではないか。
ごきゅごきゅっと息を飲んだ加賀城敏史は密やかに『何があっても俊江さんには逆らうまい』と震える拳を握り締め、ちーんと鼻をかんでいる駿河を見た。この状況でも孫可愛さに涙する余裕がある駿河は、やはり一味違うのだろう。流石は天神である。

「で、メーユエたんはカナメちゃん絡みで、さっきから銅像の振りしてるアホ坂はバカ坂おまわりの舎弟だから、おまわりの息子もヤンキーな訳でしょ?」
「おま、うちの親父にバカ坂はねぇだろうが…!おまわりっつーのもやめろ!ヤクザにサツは縁起が悪いッ!」
「あ?ヤクザ如きが誰の娘に『お前』だの『やめろ』だの宣っている脇坂、貴様の卒業証書を取り上げても良いんだぞ…?」

既に俊江を産んだ気になっている帝王院駿河が般若の形相で極道を睨むと、哀れ光華会副会長は乾いた笑みを零して両手を挙げた。
鬼に金棒とは、正にこの事である。日本最強の財閥会長を味方につけた日本最強の鬼女の前では、恐らく脇坂だけではなく高坂組長ですら敵うまい。そう言えば、学生時代から高坂が俊江に勝っている所を見た事がなかった。ただの一度も。

「みーちゃん、あーた、ロードが死んだのをちゃんと最後まで確かめた訳?」
「どう言う意味だ?呼吸が止まったと言う意味であれば、間違いなく確認した」
「遺体を処分したのは誰?」
「区画保全部だ。後片付けは彼らの仕事と決められている」
「つまり、何にも見てない訳ね」
「…何が言いたい?」
「予想はついてんじゃない?今、親父の事を見たでしょ」

その名を聞くだけで腰を抜かす者もいる世界の覇者を前に、圧倒的などや顔で笑みを深めた女は、恐ろしいものなど何一つないと言わんばかりに短い髪を掻き上げた。
それは彼女の髪が長かった頃の、癖だ。

「残念ながら、確かに俊は私の馬鹿息子ざます。産まれた時から喋るわ、産まれた時なんか6666グラムもあって榊外科部長が眼鏡を割っちゃうわ、生後2日で勝手に起き上がるわ、そりゃ手を焼いたもんよ」
「6666グラム…?!」
「生後2日で起き上がっただと?!」
「まーね。でもま、生後すぐに喋ったのは私も同じだから、深くは考えなかったわょ?シューちゃんだって『うちはうち』って言ってくれたから、余所の子と比べたりもしなかった」
「秀皇は生後三ヶ月で喋っていたからかも知れんな」

因みに初めて立ったのは生後半年だと、駿河が呟いた声にそれもまた凄いと脇坂は呟いた。4学年年下の秀皇の事は、Dクラスだった脇坂の記憶にも新しい。

「そこのお姉ちゃん、あーたそのナリでアンドロイドなんでしょ?今の人格は誰なの?」

高坂が高等部卒業と同時に外部進学を希望して中央委員会会長を辞任した後、同時副会長だった生徒が暫く会長を務めると、若干12歳で中央委員会会長に収まったのが帝王院秀皇だった。
当時史上最年少の中央委員会会長に学園中が震撼したものだが、何度思い返しても、あの男から俊が産まれたとは考えられない。

「僕ですか?僕はアレックスです。生前最後の名前は叶アレックス」
「アレックスって、アリィのお兄ちゃんもそんな名前だったわねィ。もしかしてアリアドネって子、知ってんの?」
「アリアドネは僕の妹ですよ?アリアドネ=ヴィーゼンバーグでしょう?どうして貴方が知ってるんですか?」
「は?ちょっと待った、アンタがアレクセイ?アレクセイ=マチルダ=ヴィーゼンバーグ?」
「おや?どうしてフルネームを知ってるんですか?」
「私アンタと会った事あるけど、あん時は金髪だったわよねィ?背だってもっと大きかったし、何より男だった!」
「え?僕のオリジナルと面識があるんですか?」
「あれは何年前だったかしらねィ、確か…あっ、そーょ、物凄い美人なお姉ちゃんが移植手術をするだの何だのって、ドイツの病院に運ばれたじゃない?20年以上前ょ」
「あ、それは間違いなく桔梗ちゃんですよ。桔梗ちゃんは『物凄い美人なお姉ちゃん』で間違いありません、僕も僕のオリジナルと会った事があります。その時に桔梗ちゃんのあらゆる惚気を聞かされました」
「へぇ、あんなヘラヘラした片言の日本語をどや顔で喋ってた兄ちゃんが、まっさかこうなるとはねィ…」
「あっ、今の僕の見た目は娘の外見を模したものですよ?言語データはオリオンが改良してくれましたし、オリジナルの僕より今の僕の方が日本語には自信があります〜」

呑気にも程があるアンドロイドと鬼の会話を聞いていたヤクザは、どう見ても、脇坂が惚れ込んだ俊の目付きと堅気離れした雰囲気は、確実に俊江に似たのだと考えた。
秀皇も雰囲気のある男だが、どの角度から見ても極道に見間違えられる事はない筈だ。

「へー。それじゃ、今の三年生にアンタの末っ子が居るわけ?」
「二葉って言うんです、桔梗ちゃんにそっくりで可愛いんですよ〜。きっとオリジナルの僕も二葉を抱っこしたかったでしょうねぇ…」
「何っつーか、御愁傷様」
「若い頃に負った落馬の怪我が元で感染症を引き起こすなんて、傷が治り難いのって不便ですよねぇ。ふぅ。次に生まれ変わる時は、痛みなんて感じない強い男になりたいものです」
「案外、とっとと生まれ変わってたりして」
「おや、それだと良いですねぇ。僕が覚えているオリジナルは、寝たきりで起き上がる事も出来そうにないくらい憔悴してましたし…」
「ま、そんな落ち込まないでよ。仲良くしましょ、私達ママ友みたいなもんじゃない?」
「僕ママじゃなくてパパですけど?」
「まァまァ、見た目は女の子なんだからイイじゃないょ」
「ああ、確かにそうですねぇ。うふふ」

頭の中身が軽そうな話を聞いている内に、やはり俊は秀皇に似ていると思った方が良い様な気がしてきた。
少なくとも脇坂が知っている遠野俊と言えば、未成年には思えないほどしっかりした男だったのだ。ただの不良チームに入れておくのが勿体ないと思わせるほど、天性の極道オーラを滲ませていた様に思う。

「何よ、改めて見ると、皆、何かしら関係があるんじゃない。加賀城さんの所なんて、まだ高校生のお孫さんが社長に就任したってテレビで観ました!うちの馬鹿息子とは大違いざます!」
「と、俊江殿、それは余りに買い被りすぎじゃ…!」
「馬鹿を抜かせ、加賀城の小僧が俊より優れておる筈がない。俊は遠野と冬月の…延いては帝王院の宝だ」
「そうとも龍一郎、俊は私の目に入れても痛くないほど可愛い孫だ。言っておくが今はまだ遠野を名乗らせているが、秀皇はもう仕方ないとしても、俊には帝王院を名乗らせるつもりでいる。夜刀殿には申し訳ないが、直江院長の所にはご子息が二人も居ると言うではないか。遠野の跡取りは間に合っていると思えてならん」

今となれば帝王院財閥の嫡男であれば無理もないと理解出来るが、あの頃はあの日向が子猫の様に戯れている俊を、喉から手が出るほど欲しいと思った。
日向の前で俊をヤクザにスカウトすると恐ろしい蹴りが飛んでくるので、脇坂は日向の見えない所でスカウトに励んだものだ。日向は幼い頃からサッカーとキックボクシングで鍛え抜いた、殺人級の脚力の持ち主である。色々命懸けだった。

「はいはい、そう言う話は本人を交えてしてちょーだい。親が勝手に子供の将来をあーだこーだ言わないのょ?」
「む!そう言うがな俊江、和歌と俊が病院を継いでくれれば鬼に金棒だ!俊は龍一郎に似て目付きが悪…ゴホッ、粋な顔立ちをしとるし」
「…貴様ジジイ、誰の目付きが何だと?」
「龍一郎が冬月の再興を考えているなら、星河の君が継げば良いんじゃないか?俊は秀皇の息子なのだからやはり帝王院を名乗るべきで…」
「然し宮様、そうなると公に宮様の孫として知られているルーク=フェインの立場と言うものが…」

跡取り談義で深刻な家族会議か始まったらしい年寄りを横目に、あの時色んな意味で俊をヤクザにしなくて良かったと胸を撫で下ろした男は、そっとポケットの煙草に手を伸ばして頭を振った。

「ほら、こうなったら敵なんて初めから居なかったって事でイイ訳でしょ?みーちゃんが息子と喧嘩した原因だって、元を正せばジジイと叔父様の所為だもの」
「事はそんな単純な話では…」
「うーむ。我が孫ながら、確かに俊江の意見は真をついているかも知れん。俺の夜人を誑かした男爵なんぞ滅びてしまえば良いと未だに思っとるが、レヴィ=グレアムに恨みはあってもナインに恨みはない。親の罪を子供が被る必要はないからな」
「じっちゃん、イイ事言うじゃない。そーょ、誰が犯罪者だからって、俊だけじゃなく、私達の子供達には関係ない話ざます。違う?」

たった数ヶ月の事とは言え、事実上、指で数えられる程とは言え。まさか俊をホストとして雇っていたとは、口が裂けても言わない方が良いだろう。白いジャケットにワインレッドのシャツが似合う未成年など、奴以外には居ない。
脇坂は眼鏡を押し上げながら弾む心臓を押さえつけたが、くるっと顔だけ振り返った悪縁を見つけ目を見開いた。嫌な予感しかしない。

「で、アンタが俊を18歳だと思い込んで店で雇ってた事、隠せてると思ってんの?」
「何でそれを…!」
「可愛い息子が香水の匂いをぷんぷんさせて帰ってきたら、そりゃぶん殴って金玉蹴り飛ばして、吐かせるに決まってんじゃないね?」

室内の男共が同時に股間を押さえた。
実の母親に使い物にならなくされそうになった遠野俊へ、同情の涙が禁じ得ない。

「わ、脇坂…!お前、俊に何をやらせていたんだ…?!」
「勘弁して下さい学園長、死んでも言えませんよ…!俺ぁ、学園長にンな事を喋ったって知られたら、親父に殺されます…!」
「アンタらに対して思う事はあるけどォ、どんな仕返しをするかはシューちゃんと話し合ってからにするわ。私は所詮、遠野秀隆の奥さんだもの」

にこっ。
今度こそ無邪気な笑みを浮かべた女の台詞に、とうとう秀皇の父である駿河さえ青ざめた。実の父親だからこそ、息子の性格を誰よりも理解しているのだ。

「し、シエちゃん…。秀皇はその、少々性格が悪いと言うか、ひねくれていると言うか、アレだから、その、相談するのはやめた方が…」
「そう言えば、昔シューちゃんが言ってたかしら。言ってなかったかしら。『飼い犬が飼い主に逆らうなんて絶対いけない事だ』」

にま、にま。
無邪気な笑みで冬月兄弟と加賀城を見据えた女は、恐らく正しく理解している。

「まっさか、お父さんと叔父さんの所為でシューちゃんが悲しむ羽目になったなんて知ったら、怒るかも知れないわねィ…?言っとくけどシューちゃんが怒ったら凄いわょ、買い物帰りに銀行強盗を全治半年まで痛めつけた癖に、誰もその事を覚えてないんだから…」

灰皇院が帝王院の犬である事を。

「シューちゃんは子煩悩で素敵なダーリンざます。勿論、私のお願いは何でも聞いてくれるの。旦那様だもの、当然よねィ?」
「成程」

手書き名刺を作っていた理事長は無表情で頷くと、

「シエは人心掌握の術に長けておる様だ」
「やだ、誉めても母乳すら出ないわょ?」

誰もが『言ってる場合か』と突っ込まずにはいられない台詞を呟いた。













「む。シエが俺を呼んでいる気がする」

ピクッと耳を震わせた男が、凛々しい表情で窓辺に張り付いている。高層階の窓は基本的にはめ殺しか、開いても空気入れ換えが出来る程度、ほんの僅かだ。

「ボス!シエさんとは奥様の事ですか?!」
「とんでもない美女と噂のシーザーのお母様ですね!」
「そうだ。あっちの方からシエの声がした」
「マジっすか!」
「あっち、あっちか…!」

辛うじて手が出る程の隙間が開いている小さな窓からは、オーライオーライと言う元気な声が聞こえてくる。それ以外の音は、重機が発てるガシャンガシャンと言う音くらいだ。

「お前さん、時々都合の良い幻聴が聞こえるよねー」
「幻聴じゃない、愛の力と言え」
「はいはい。…っと、梅森君、終わった?」
「はい!とりま、脆くなってた地盤は下でセメント流し込んでくれてますし、耐震用の支柱を打てるだけ打ち込んだんで、中央キャノンはこれで大丈夫だと思うっス!」
「わー、お疲れ様。ほんの小一時間でそんなに作業してたんだねー」
「任して下さい。下で現場監督ぶってる鈴木ちゃんは、ああ見えてうちのOBなんスよ。50近い癖にゴリマッチョだし☆」
「鈴木先生、か。僕らの頃には居なかったよね、秀皇」
「ん?いや、進学科以外の教師の顔は記憶してない」
「あっそ。お前さんはそう言う男だよ、昔から」

ずっと操作盤に張り付いていたオレンジの作業着がぴょんっと椅子から飛び降りると、彼の足元に転がされていた二人の内、一人がぱちっと目を覚ます。

「…あ?あら?こちらどちらですか」
「タケコ、おはよ。昨日から寝てねーから鼾掻いてたよ?」
「マジかー。何か恐い夢見た様な気が、」

揃いの作業着に揃いの柔らかな茶髪、がりがりとピアスまみれの耳をさらけ出したベリーショートの男は上体を起こすと、山田大空を見るなり目を丸め、ガバッと口を押さえた。

「ん?何だい?」
「あ、や、すいません、…寝惚けてました」
「ん?」
「おたけは眠りが浅いから良いけど、おまつは起きる気配がねーな。仕方ねー、背負ってくか。おーい、総長のパパさんに張り付いてる馬鹿共、気持ち悪がられてっからやめろ」

遠野秀隆が動く度にあわあわハァハァしているスヌーピー達は、仲間を抱えながら呆れた様に呟くカルマをキッと睨む。ただでさえ、シーザーを間近で見る機会があるのはカルマだけで、その父親をこの距離で拝めるチャンスは二度とないだろう。

「気持ちは判らなくもないだけに、何だかな…」
「竹林さんは何でこんな異様な雰囲気の中でグースカ寝てたんだろ…」

ファン心理だと無言の訴えを寄越してくるスヌーピーに、カルマの作業着二人は沈黙した。窓辺から顔だけ振り向いた男前と言えば、目が眩む程の微笑を浮かべている。

「君ら、並ぶと見た目だけじゃなく背丈まで似てるんだねー」
「あ、オレらっスか?」
「昔はこの梅森が一番小さかったんですよ。それがにょきにょき成長しやがって、負けてられっかって感じで牛乳とか煮干しとかお母さんの手作りドーナツとか喰ってたら、何か三人共180cmで止まっちゃって」
「三つ子みたいだねー」

ワラショク社長が何の気なしに言った台詞で、オレンジの作業着は無言で見つめ合った。

「え?僕何か、変な事言ったかなー?」
「いや」
「別に」

健やかな寝息を発てている一人は平和そうな表情で、何処までも幸せそうだ。



















「…違う。そんな事が言いたかったんじゃ、ないんだ」

見渡す限り真っ黒な世界の中央で、膝を抱えたまま座っていたそれは呟いた。とてもとても大切にしていた大事な子が、絶望に暮れた表情を晒しているのが見える。

「やめろ、イチを苛めるのはやめてくれ。もうイイだろう…?俺はこうして、此処に帰ってきたじゃないか」

見渡す限り漆黒の世界には、星も月もまして温度も音もない。
手を伸ばす先が天なのか地なのか、それともそのどちらでもないのかさえ判らない世界で、純粋な黒ではないのは自分だけ。

「もう何も望んだりしない。宝石の様に綺麗だったあの子にももう、触ったりしないから…」

いつか繕ったドレスは破れ落ちた。
いつか大事に抱えていた魂は解放した。
いつか紡いだ業の物語は今、形を変えている。

「だから、『あの時計』を止めてくれないか」

はらはらと。
涙が幾つも零れていく気がする。
瞼を閉じずとも真っ暗な世界で、自分に良く似た脱け殻を呆然と見つめたまま、赤毛が泣いている。声もなく。涙もなく。はらはらと。
あれは自分に良く似た別人なのだと、声が涸れるまで叫べば届くのだろうか。

「『魂』を持たない壊れた俺は、壊れた時間しか紡がない…」

自分は誰だ。
あれが「遠野俊」だと言うのであれば、自分は誰だ。
いつか全てを知っていた筈なのに、欲張って重ね着した幾つもの衣装に塗り固められて、本当の自分を見失った。これがその罰なのだろうか。
だとすればどうすれば償えるのか、見当もつかない。少しも。

「聞こえているんだろう、神様。…お願いだから、俺の大切な子達に酷い事をしないでくれ」
『弱虫』

ああ、まただ。

『今更全てが遅いんだよ、俊』
『お前は自分の役目を放棄した』
『お前を失った時限が新たな羅針盤を求めるのは道理だ』
「…判っている。幾らでも償うから、許して欲しい」
『弱虫。お前はもう、終わった』
『見ろ、誰もがお前そっくりな脱け殻をお前だと信じ込んでいる』
『惨めだろう?お前を必要としている人間なんて、何処にも居ないんだ』
「………」
『人の欲は酷い色をしているそうだ』
『穢れたお前は何色?』
『惨めだろう?惨めだろう?惨めだろう?』

くすくす、くすくす、笑い声が聞こえるのだ。

『誰も知らない本当のお前』
『ただ一つの特技だった歌を人に与えたお前は脱け殻』
『お前は虚無の為に歌い続けるオルゴールだったのに』
『歌えなくなったお前は逃げ出した』
『退屈な永遠を終わらせる為に』
『人の感情を知る事で、新しい歌を歌う為に』

いつも、いかなる時も、遠くの方で、すぐ近くから。

「どうすれば、許される?」
『虚無はお前を淘汰した』
『お前が新たな虚無へと成り代わる運命』
『新たな羅針盤は今度こそ永遠に止まらない』
「駄目だ。それじゃ皆が悲しんでしまう」
『お前は傲慢にも欲を知ってしまった』
『人の魂に触れる事で感情を宿した気になってしまった』
『新たな時計には不必要なものだ』
「頼むから、」
『新たなクロノスに祝福を』
『脆弱なクロノスに鎮魂の歌を』
『時空の神が歌える歌はただ一つ、偽らざるレクイエムだけ。』

はらはらと。
涙ではないのであればこれは、何が零れているのか。

『お前は主人公なんだろう?』
『主人公らしく最も安全で最も危険な場所で、大人しく見ていろ』
『…聴こえるだろう。お前に捧ぐ鎮魂歌を歌う、「無欲」の声が』
「カイちゃん」
『無駄だ』
『人にお前の声は聞こえない』

『あれは所詮、人間でしかない』

真っ暗だ。
何処までも全てを呑み込み塗り潰す、それは虚無の色だ。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!