帝王院高等学校
お喋り上手な男には困ったものです
「愛だ。単純な様でこれほど難しいものはない、これは私の持論でね」

ふっとニヒルに笑った男は、表情一つ変えない運転手と助手席の背中を横目に、今すぐ帰りたいと叫びそうな口元を押さえた。

「…所で、このトンネルは何処まで続くんだろうか?幾ら旧友の頼みとは言え、仕事を放り出してきた身だから、そう長居は出来ないと言うかお取り寄せの和三盆プディングが届くかも知れないと言うか、何と言うか…」
「失礼ですが、サー。人目を避ける為にアンダーラインを選んでおります故、今暫くご辛抱下さい」

サー。
言われなれない敬称にビクッと肩を震わせた男は、近年見事に白髪へと変化してきた元はブロンドを、努めて平然を装いながら掻き上げた。
近頃ろくに余所行きの格好などしなかったから、取り急ぎクローゼットから引っ張り出したダブルのスーツは何となくカビ臭いし、下に着ているシャツに至っては三日前から着替えていない。ネクタイの絞め方も何だか曖昧で、社交界に出れば一目で『何だ、ノーマルノットのつもりか』と笑われる様な出来だ。

「サーはやめて貰えるかい。一介の教授には、相応しくない称号だ。ミスターで良いよ…」
「畏れながらサー、我々は貴方の本名を存じ上げております」
「貴方を無事セントラルへ送り届ける事こそが、ネルヴァ卿のご命令ですので」

迎えにきたプライベートヘリの操縦者も無口な若者だったが、ヘリポートへ降りるなり黒塗りのロールスロイスと共に待ち構えていた黒服の男達は、自分と同世代の様だった。然し世代の近さを以てしても、友好的な態度は窺えない。

「本名、か。別に隠しているつもりはないんだが、私にはブライアン以外の名前はないんだ。僕が言うのも可笑しい話だがね、家庭を省みなかった父が唯一僕に与えてくれた名前だからね。まぁ、平凡な名前だけれど」

まるで機械を相手にしている様だ。返事のない会話など独り言と何ら変わらない。手応えのないナンプレの様だ。惰性で解いているだけで、楽しさなど微塵もない。

「…君達は、カミューの部下なのかい?特別機動部と言う部署はどんな仕事をしているのか、昔は興味があったのだけれど、とうとう一度も教えて貰えなかったよ。カミュー=エテルバルドは秘密主義者でね、結婚していた事も最近まで知らなかった」

あの男は、一応、あれでも自分達の関係を『友』だと思っていたらしい。笑い話だ。娘が死んだ事を教えてくれた時は、貴様は死神かと怒鳴り散らしたものなのに。何十年振りの再会を喜ぶ事もなく、ただただ、喚き散らすしかしなかったのに。
歳を取る度に、あの時の後悔は色褪せて行ったのだろうか。捨てた妻子の近況など一度として知ろうとしなかった癖に、死んだと聞いて目の前が真っ暗になった事を覚えている。

可愛らしい娘だった。
自分の金髪は遺伝しなかったが、赤みを帯びた栗毛の、我が娘ながら可愛らしい顔立ちをしていた天使だった。
物心つく前から人見知りが酷く、王子様とお姫様が幸せになる童話ばかりを好んで読んでいたものだ。帰宅した時は真っ先に駆け寄ってきて、眠るまで本を読んでくれとせがまれた覚えもあるだろうか。お父様は疲れているのよ、と。嗜める妻に言われ、悲しげに目を伏せる娘の顔が忘れられない。

『パパ、次はいつ帰ってくる?』
『サラが良い子にしていたら、すぐに帰ってくるよ』
『…本当?良い子にしてるから、早く帰ってきてね!』

7歳になる頃には関係が冷めきっていた妻の方から離婚を突きつけられ、二つ返事で受け入れた。その頃には年に一度帰宅するかしないか、妻に愛人がいた事などとうに知っていて、放置していた頃だ。
名家の義父母は申し訳なかったと謝罪してきたが、謝罪される様な事は、何一つなかった。彼らの援助で今の立場を得た自分には、家族よりも仕事の方がずっと大切だったからだ。

そうして家族を失った代わりに、娘の不貞を恥じた義理の両親から献身的な援助を受けて、離婚後に苦労した事はない。
引き換えに、たった16歳でこの世を去った娘の葬儀にすら、顔を出せなかったくらいで。

「ナイン…キング陛下は未だ独身だそうだが、今のノアはプレイボーイだろう?あの子の派手すぎる友好関係には、君達も頭を痛めているんじゃないかな?」

けれどそれから程なく、三歳で大学に入ってきた神憑り的な天才が愛娘の遺産だと知った。
それまで理数だけでなくあらゆる学科に通じた超天才になど興味はなかったが、教え子でもあった叶二葉に何度も何度も頭を下げて、会わせて貰える事になった時は跳び跳ねるほど嬉しかったものだ。

「我々は神の忠実な下僕」
「ノアの為に在る命でございます」

そのノアとは、どちらを指す言葉だと。
口にした所で、機械じみた黒服達から望む答えが得られるとは思えない。
孫とは言え、満足に会話をした事も滅多にはない、知性と美貌に恵まれた銀髪の子供は、たった9歳で王冠を被せられたのだ。世界を統べる、皇帝として。

「元老院、だったか。70年生きてきて無知だと思われるかも知れないが、どんな組織にも、経営陣とは別に相談役が置かれているものだ。独裁的にならないよう、平等な目で指導者を導いていく存在だろう?」
「如何様にもご想像を」

長い長い、既に一時間以上走り続けている車窓から見えるのはトンネルばかり。等間隔で並んでいる蛍光灯を数える事をやめられないのは、研究していない時はお喋りくらいしか暇潰しが出来ない、余りにも不器用な性格からだろう。
相手がこれほど無口な人間ばかりなのは久し振りで、呆れながらも会話の相手をしてくれる職場の同僚や、教え子らは如何に優しかったのか、今更思い知らされた。

「あとどれくらいこのトンネルは続くのかな?アメリカにこれほど長いトンネルがあったなんて、僕は知らなかったよ。単純計算で100マイルで走るこの車は今、」
「サー=ブライアン=C=スミス、お側にお飲み物をご用意しております」
「宜しければ軽食もご用意しておりますので、今暫くのご辛抱を」

願わくは、あの平和な場所へ帰れるようにと。


「了解」

ああ、可哀想に。
大切だった娘が産んだ、自分にとって最後の宝物は、こんなに長く暗いトンネルの向こう側で一体どれほど、寂しい思いをしたのだろうか。
何度一人で眠り続けたのだろうか。優しさなど微塵も存在しない、大人達に囲まれて。何処へも行けないと思い込んだまま、何処へ行っても狭い星の中、大地と言う鎖に繋がれていた白銀の子供は。

『また、昼寝をしているのかね。今日はそれほど日差しが強くはないよ、曇っているから』
『…眠る度に、死と言う真の眠りが近づくのであれば、私は幾らでも眠り続ける』
『寂しい事を言わないでくれ。この世には楽しい事が幾つもあるんだよ、カエサル』

母なる地球よ。
父なる太陽よ。
貴方達に愛された日本はあの子に、少しでも優しい国であったのだろうか。























柔らかい女の体に触れるのは久し振りだったが、抱いている最中の熱は、避妊具を満たした途端に跡形もなく消えてしまう。男とは単純な生き物だ。
我ながら酷い男だと思わなくもないが、用が済めば長居する理由はない。役所仕事の様なものだ。

「…ねぇ、本当は高校生なんじゃない?」

密着していた体を離すと、ひやりと汗が冷えた様な気がする。微かに枯れた声で投げつけられた問い掛けに振り向けば、手で顔の汗を拭う唇が笑っていた。

「体が出来てるから騙された。何か、肌が若い気がするんだよね」
「…どう思う?」
「何、やる事やったら話しもしないで帰るとか言っちゃう?最低」

どうせ『やる事をやる為だけ』に誘ってきた癖にとは思ったが、確かに安普請なホテルでも、一応はスイートと名のついた部屋なのだから、時間までは滞在しても良いのかも知れない。枕元のコンドームはまだ、三枚も置かれてある。
その内の一つへと手を伸ばす女に誘われるまま、掴んだシャツを手放した。

「最低はお互い様だろう。ノリノリでこの部屋を選んだのは?」
「だってぇ、良い男とする時は雰囲気重視じゃん。…良いよ、こっちだって大学生っつったの嘘だし」

裸のままベッドの転がりケラケラと笑う女は、街中で声を掛けてきた時の派手な化粧とは真逆の、素顔だ。眉が消滅した以外は、何処となく幼さが残る顔立ちだとは、シャワーを浴びて出てきた時から感じていた。

「あ、何か『やべぇ』って顔してる?」
「…子持ちの人妻だけは、勘弁して欲しいな」
「ギャハハ!ないない、それだけはない!高2でガッコ辞めて、4区でキャバやってんの。安心しなよ、此処のお金はお姉さんが払ってやっから」

言った女は、化粧を落とすとそれより若く見える。初対面の大人びた態度は演技だったと悪びれなく暴露する女の手が、履いたばかりのボトムスへ伸びるのを受け入れる。

「実は今日で19歳なんよ。バースデーに祝ってくれる彼氏も居ないんじゃ、寂しすぎるでしょーが」
「ああ、道理で」
「ちょっと、それどう言う意味」
「咥えたまま喋るなよ」

精々、誕生日祝いがてら励んでおくかと、シーツに転がった二つ目の避妊具を破った。
やはり、興奮が冷めると他はどうでも良くなる。流石に二度も励んだ後では無駄話をする体力もないらしい女は、ぐったりとベッドに横たわったまま、身繕いする自分を静かに眺めていた。

「帰るの?」
「何、もう一回?」
「んな体力ないっつーの。アンタ、腰の使い方がグロい」
「何故だろう、褒められた気がしない」
「へっへっへ、褒めてるっつーの。やっばいなー、年下に目覚めそう。お金持ってるオジサンは別の意味で美味しいんだけど、参ったなー」

嘘のない、明け透けな物言いは好印象だ。
特に周囲が嘘つきばかりだと、こんな人間と会話する機会など殆どない。取り繕うばかりで気が抜けない世界もゲームの様で楽しいが、気を張ってばかりだとどうしたって疲れてしまう。

「変な大人に騙されるなよ」
「なーに、心配してくれてんの?ちょっと優し〜じゃん」
「俺は基本的に優しいんだよ」
「ギャハハ!自分で言ってるやつ!」

何だか、同級生と話している様な錯覚を覚えた。
こんな同級生など身近には一人も居ないが、時々見掛ける他校の生徒がこの様な会話している光景に、幾らか覚えがある。誰も彼もとても楽しそうで、羨ましいと思った事もあっただろうか。

「腹筋、割れてんね。鍛えてんの?」
「それなりに」
「あーあ、もう着ちゃうんだ。まだ一時間もあるのに」
「三時間ぶっ通しでセックス出来る奴は、どれくらい居るんだろうな」
「あー、オッサンのエッチは長いよ。何か無駄にねちっこい感じ」
「聞きたくなかった情報だな。俺もいずれそうなるのか」
「…最後にさ、名前くらい、聞いても良いでしょ?」
「ひでたか」
「字は?」
「眉目秀麗の秀に、隆盛の隆」
「あー、判んねー。あたし馬鹿過ぎ。ちょっとこれで変換してよ」

ぽいっと投げて寄越された携帯を操作し、打ち込んだ字を見せる。嬉しそうに画面を撫でた女へ『ハッピーバースデー』と呟けば、何故か礼を言われた。

「ばいばい、秀隆。あんま夜遊びしてっと、お姉さんみたいになるよ」
「気をつけるよ」
「ねちっこいエッチする様になったら、また誘うから」
「それについても、気をつけるよ」
「ギャハハ!」

別れの台詞にしては、余りにも無邪気な。
外へ出てから相手の名を知らない事に気づいたが、だからと言って戻って尋ねる必要はないだろう。互いに一晩だけ、退屈凌ぎの相手が欲しかっただけだ。こちらは向こうの名を知らず、向こうも自分の本当の名は知らない。


「遅かったですね、マジェスティ。きっちり2時間も待ちました」
「…待ってくれと言った覚えはないんだが?」

嫌な予感とは当たるもの。
早めに終わらせたかったのは、口煩い監視が追いつく予感があったからだ。見てみろ、ラブホテルの入口で堂々と一人で佇む男は、やはり堂々と制服を纏っている。
ブレザーを脱いだだけで社会人に擬態する見た目は、流石と言うべきか、老けていると言うべきか。

「今夜の相手は今出てきた女ですか?これはまた、不細工な女ですねぇ」
「おい…」
「冗談ですよ、誰も出てきていません。所でホテルから男が一人で出てくると、浮気を疑われますよ」
「誰にだ」
「坊っちゃん」
「問題ない、オオゾラと俺は清く正しい仲だ」
「わぁ、その偽善者振ってる感じ、鬱陶しい男ですねぇ。心の底から見下してしまいそうですよ、陛下」
「既に見下しているんじゃないのか?」
「おや、夜遊びついでにホイホイナンパについていく様な馬鹿を、この小林、わざわざ見下したりしません。理由は単に、見下すまでもないからです」

口が減らない男だ。日本一と言っても過言ではない。
流石は、初等部入学式典当日にずかずかと一年生の教室へやって来たかと思えば、堂々と吐き捨てただけはある。

『貴方が宮様ですか。ひねくれた性格してそうですねぇ、この小林は人を外見で判断します。外見、所作、言動はその人を現す標識の様なものですから』

幼馴染みとは言え、盆正月くらいしか会う事がなかった榛原大空との再会を喜んでいた帝王院秀皇は、この日、人生で初めて『私は貴方が苦手ですね!とても!』と言われた。

『こんな男がいずれ帝王院財閥の後継者になるなんて、この小林は認めたくありませんが大殿は素晴らしい方ですからねぇ、ええ。我慢しますよ!大丈夫です、この小林の言いつけをしっかり聞いて下されば大殿に恥じない後継者になる事がうんぬんかんぬん』
『お前さん、秀皇の悪口を言ったな!滅ぼす!』

余りにも堂々と宣う二年生を前に目を丸めていると、隣で聞いていた大空が怒り狂い、見事な飛び蹴りをカマしたのだ。
青ざめた担任が入学式当日に倒れた事は、忘れられない出来事の一つと言えよう。

とは言え、大空の蹴りに惚れ込んだ小林守義は、その日から大空を生涯の主人と認めたのである。小林家の大人達は秀皇に対して暴言を吐いた守義に青ざめた様だが、榛原の嫡男に仕えると言われては否とは言えない。
灰皇院で最も格式に煩い家だっただけに、灰皇院なき今でも、筆頭だった榛原には一目置いているのだろう。雲隠が東雲と嵯峨崎に分かれた今では、京都の叶を省いて、一族そのものが消えた冬月もない。
実質、帝王院には榛原と明神しか残らなかったのだ。

その為、明神本家を自称している小林家は、榛原以外の家を見下していると聞いている。裏切り者の冬月、格下の叶を心底嫌っており、秀皇の幼馴染みとして側にいる榛原大空が灰皇院の筆頭家老になると信じている様だ。

「同じ男なんだから、判るだろう?溜まるものは溜まるんだ」
「この小林は無駄打ちはしない男ですから、全く理解出来ません。学園内でも好き勝手してるでしょう、訳の判らない女を妊娠させるよりは、男を相手して貰った方がマシです」
「想定外の事態に陥って、それが難しくなったんだ」
「は?想定外?」
「毎回同じ相手だと飽きてくる訳だ。それなのに他の奴に手を出すと、一ノ瀬が煩い」
「一ノ瀬?ああ、私の元に毎日『会計にしろ』と怒鳴り込んできた、あのチビてすか」
「役員仲間の名前くらい覚えてやれよ」
「まさか、役員仲間に手を出したんですか?」
「…三ヶ月も抱いてくれ抱いてくれって迫られたら、いい加減嫌になるだろう?」
「のらりくらりと逃げれば良いでしょうが」
「のらりくらりと逃げて、親衛隊に手を出したら出した相手が次々に登校拒否か退学になってみろ、お前ならどうする」

呆れた溜息が聞こえてくる。溜息を吐きたいのはこちらの方だ。

「会計の親衛隊は過激ですからねぇ…」
「お前の親衛隊にはマゾしか居ないからな」
「困ったものです。制裁だの苛めだの、学園長に何とお詫びすれば良いのか。風紀は何をしているんですか、最早我慢なりません。この小林、明日風紀全員を制裁します」
「やめろ。会長命令だ」
「だったら我儘な会計の言動など、うまく躱しなさい。それかいっそ会計だけで我慢しなさい」
「男より女の方が軽くて抱き易いんだ」
「アンタ人間として最低ですよ?」
「お前にだけは言われたくなかった台詞だな」
「私は無駄打ちはしない主義ですので。誰かさんの様に、安価で身売りはしないんです」
「お前の嫁になる相手に同情するよ…」

帝王院の嫡男が持て余す様な男だ、将来この男に好かれた相手は可哀想だと思ったが、そんな物好きが居るのか甚だ謎めいている。
そう思われている事を知っているのか知らないのか、飄々と街中を見渡し、ネオンを指差しては『下品な色ですね』と宣う男は、ガリ勉と言う程もない癖に『優等生は眼鏡』と言う訳の判らない理由で伊達眼鏡を掛けており、なまじ顔立ちが整っているので『氷炎の君』と呼ばれて慕われている。
秀皇から言わせれば空気が読めないだけの言動も、帝王院学園では『ミステリアスで素敵』になるのだから、末恐ろしい。

「全く、繁華街の夜は目がシバシバしますねぇ。ふぅ、目薬を持ってこれば良かった」
「俺から片時も目を離さずに尾行しなければ、疲れ目に悩む事もなかっただろうに」
「片時も目を離さなかった訳ではありませんよ。この辺りのホテルは大抵東雲財閥の傘下なので、ちょちょいと防犯カメラを覗かせて貰っただけです」
「…東雲のサーバーをハッキングするな」
「そう言えば、東雲の長男は帝王院への入学を希望している様ですよ。私達と8歳離れていますから、来年辺り初等部に入ってくるかも知れませんねぇ」
「相変わらず、抜け目がない情報網だな。父さんからその話を俺が聞いたのは、一昨日だ」

東雲財閥の嫡男は、生後間もなくから日本を離れ、カナダで生活していると聞いている。物心つく前から、あの恐ろしい傭兵上がりの東雲栄子の叩き上げ教育を受け、死ぬ様な目に何度か遭っているそうだ。
一人息子だと言うのに、雲隠の女は鬼なのかも知れない。この程度で死ぬ様な息子に育てた覚えはありません、と怒鳴りつけながら、幼い息子をビシバシ鍛える栄子の高笑いが聞こえてくる様だ。

「ああ、そう言えば、以前陛下も東雲の奥様に鍛えて貰った事があったんでしたか?」
「夏休みと冬休みがあった初等部の頃にな。余り思い出したくない」
「大空坊っちゃんは余りにも運動神経に恵まれなかった為、あの奥様ですら匙を投げられたんでしたか。私は母のお陰で、叶に負けるなと子供の頃から扱かれましたからね、東雲如きに教えて貰う事など一つもありませんでしたがね、ええ」
「お前は暗殺者にでもなるつもりか」
「ご命令とあらば?」

にこり。
平然と宣った男に息を吐く。叶の血を引きながら、その叶を潰す為だけに育てられたと言っても過言ではないだけに、小林守義の人生の大半は、帝王院の為ではなく母親の憎しみの為にあったと言えるだろう。

「何だか知らんが、楽しそうだな」
「おや。おやおやおや、判りますか?帝王院の嫡男でありながら榛原と冬月の特性ばかり伸びて、明神の特性は殆ど育たなかった情緒が欠如した皇子にも、判ってしまいましたか?」
「言っておくが、小林に情緒があると思うな。俺が言えた義理じゃないが、お前もまぁまぁ人間として駄目だぞ?」
「嫌だなぁ、そんなに褒めないで下さい、マジェスティ」
「面映ゆい事を言うな、全く褒めてない」

最近までは何処となく鬼気迫る気迫があったが、近頃、肩の荷が下りたかの様に笑顔が増えた様に思う。

「俺がマジェスティと呼べと言ったら断固として嫌だと宣った癖に」
「グレアムの皇帝を指す言葉でしょう?誇り高き中央委員会にアメリカの流儀など持ち込まないで下さい」
「はいはい、日本贔屓だな」
「当然です、この小林は三食お米を食べないと生きていけない日本男児なのです。元を正せば米は中国からやって来たと言われていますが、その頃の米は今のお米とは似て非なるパッサパサな穀物でしてね、今のもっちもちなお米になるまでに紆余曲折を経てうんぬんかんぬん」

肩の荷が下り過ぎたのか、元々長かった蘊蓄が益々長くなってきた気がした。へらへらと聞き流している大空ならばともかく、秀皇は一切聞いていない。鼓膜が幾つあっても足りないからだ。

「…と言う訳ですよ、ご理解頂けましたか皇子」
「農家さん凄い」
「その通りです」

全く聞いていなかったが、秀皇は持ち前の要領の良さで乗り越えた。米の素晴らしさをこつこつと語り聞かせてくれた男は、深夜も営業している弁当屋を見つけるなり眼鏡を押し上げ、『おにぎりは尊い』と呟いている。
自らを百姓と呼ぶ農家の家である小林家は、東北に広い土地を持っていた。同じく東北地方の出身である一ノ瀬とは話が合う筈だが、ブルジョアに憧れていた一ノ瀬は朝も昼もパンを好んで食べており、その所為で中央委員会副会長と会計は犬猿の仲でもある。

一ノ瀬が秀皇に媚を売れば、パソコンに張り付いている小林が鋭く『食品メーカーの跡継ぎが食えないものを売るな』と突っ込む訳だ。加えて、『あのイビキの煩ささで、ぶりっこしても無駄』とまで吐き捨てる。
何故副会長が会計の鼾を知っているのかと思えば、同じ進学科である二人の寮の部屋割りが、上下だった事があるそうだ。テレビやオーディオの類を一切使わない静かな部屋で過ごしている守義は、夜になると階下から地響きが聞こえてくるのを不審に思い、ベランダから雨どいのパイプを伝って下の階に降りると、一ノ瀬の部屋の窓を叩き割ったと言う逸話がある。最近の話だ。

この件に関しては然程問題にならず、知っている者は少ない。姫扱いされている自分の悪評が広まっては困ると、駆けつけてきた職員に一ノ瀬自ら、不注意で割ってしまったと証言したからだ。
当時一ノ瀬の隣の部屋だった大空が、一連の流れをバルコニーで聞いていた為、秀皇に話してくれた。大空も一ノ瀬の鼾の凄さで眠れない夜を過ごしていたらしい。
これでは小林が余りにも哀れだと、大空は一ノ瀬との部屋替えを打診し、今では防音設備が完璧だった大空の部屋で一ノ瀬は過ごしているのだ。

大空は時々寝言を言う為、うっかり寝言で他人を催眠状態にしない様に配慮した部屋だったが、結果オーライである。大空の声に耐性がある小林には、寝言程度では何の効果もない。

「陛下が夜遊びばかりなさるから、近頃貴方の親衛隊までも無断外出するんですよ。今頃、街中で必死に陛下を探しているでしょうね」
「おい、まさか…」
「ええ、その中に会計も居ます。九時には寝てしまう坊っちゃんはどんな夢を見ているんでしょうか、小林の夢を見て下されば良いんですがねぇ…」

どうして大切な話を後にするのか、性格が悪すぎる副会長に詰め寄るだけ無駄だろう。この男に見つかったのは寧ろ僥倖だったと思って、大人しく学園へ戻るしかないらしい。

「…はぁ。俺には一人になれる時間はないのか」
「だからと言って頻繁に学園を抜け出す様であれば、お義兄様に叱られますよ」
「義兄さんは近頃、余り学園には姿を見せて下さらない。お忙しい方だからな」
「他人を義兄だなんて、幾ら大殿でも酔狂が過ぎます」
「グレアムの当主が日本に興味を持って下さる事は、我が国の栄誉だ。義兄さんの助言があれば、我が財閥は今以上に繁栄するだろう」
「…そうでしょうか。上手く行けば良いんですがねぇ」
「お前は難しく考えすぎなんだ、氷炎の君」

タクシーに向かって手を挙げれば、難しい表情で何やら考え込んでいた男は、思考を振り切る様に眼鏡を押し上げた。

「性格が読めない相手だと、どうしても警戒してしまいます」
「無理もない。相手は世界の皇帝なんだ、お前が簡単に理解出来る訳ないだろう?第一、俺が5歳の頃から義兄さんは外見に変化がないんだ」
「年齢不詳なんて、益々謎めいていて気持ちが悪い事この上ない。神とは化け物の代名詞でしたか?」
「お前はオオゾラ以外を素直に褒めない男だから、化け物は褒め言葉として受け取ってやる。義兄さんの前では言うなよ」

幼心の尊敬が、現実と見比べると拭いされない違和感に塗り替えられる。神憑った美貌に、万人に平等な皇帝がどうして、別人の様に思えるのだろう。
そんな事を少しでも疑ってしまう自分が、心の底から嫌だ。優しかった義兄は今でも、優しい義兄のままである筈なのだ。

「で、GWに俺を放って随分楽しんできた様だが、土産は?」
「山里の実家に帰省しただけで、他には特に出掛けていませんからねぇ。物理的な土産はありませんが、土産話で良ければ」

乗り込んだタクシーの車内、深夜の繁華街でタクシーに乗る客など酔っ払いが関の山なのか。酷く酒臭い車内に眉を顰めれば、今日のノルマをクリアしたのか、余りやる気のない運転手から目的地を聞かれる。

「帝王院学園まで。すみませんが車内が臭いので窓を開けさせて貰いますね、客商売なんですから気をつけた方が良いですよ運転手さん」

歯に衣を着せない、悪く言えば空気を全く読まない連れの台詞に、吹き出しそうな口元を押さえた。帝王院学園と言う長距離客に対して強く出られなかったのか、痙き攣った運転手はパワーウィンドウを全開にして、また叱られる。

「開ければ良いと言うものではありません、良いですか?こちらの帝王院秀皇様は夜遊びはするわ、ひねくれてるわ、なまじっか頭が良いのでどうも他人を見下してるわ、なまじっか顔が良いのでホイホイナンパされてついていくわ、方向音痴な癖に認めないわ、人間としてはポンコツですがねぇ、これでも帝王院財閥の後継者なのですからうんぬんかんぬん」
「申し訳ない、無視して下さい。酔ってるので」
「あ、ああ、そうでしたか」

小一時間懸かる学園までの道すがら、長すぎる副会長の小言をBGMに、いつになったら土産話が始まるのだろうかと、中央委員会会長は肩を竦めたのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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