帝王院高等学校
ああ可愛さに眩んだおめめがドッキンコ!
「………マジか…」

さて。
素っ裸で便器に座るなり顔を覆って絶望した男は、褐色の体躯をげそっと丸めた。182cmの体躯に纏う無駄すぎる筋肉が、いつもより大幅に小さく見える。見えるだけで、バキバキに割れた腹筋は凶悪なままだ。

「何処かでこの状況に覚えがある様な、ない様な…」

起きたら犯されていた生娘の様な、そんな話を最近聞いた覚えがあった。覚えも何も俊から渡されてきたBL本に似た様な話があっただけだが、脳内で男女の恋愛物に変換して読んでいた佑壱が思い出せるのかは謎だ。
うんうん言葉にならない感情を唸る事で発散し続けた男は、暫くしてドアをノックする音で我に返った。ごくっと息を飲み、ドア一枚隔てた先に居るであろう、高坂日向の声を待つ。

「大丈夫か、まさか倒れてねぇだろうな?」
「倒れっか!大丈夫だ馬鹿野郎、下手な優しさで惑わせようとすんな!」
「あ?惑わせようとって、何だよ」
「何でもねぇ!ウォシュレットの心地好さに感動で打ち震えてただけだ、頼むからそっとしとけ…!」
「判った、いや良く判らんが、悪かったな。ごゆっくり…」

何なんだ、何でチビ日向が佑壱の部屋にいるのだ。何度考えても全く判らない、納得の行く理由が見つからない。

「何なんだ、マジで意味が判んねぇ。総長が総長じゃなくなってて、高坂が可笑しくなって…それから、どうなった?何で高坂が縮んでんだ、俺の筋肉は見た感じ変わってねぇのに。…トイレから出たら居なくなってたりしねぇかな?…しねぇか、幾ら何でもしねぇよな」

何で日向は半裸で自分は全裸なのだ。寝る時は着ぐるみパジャマを着る男、それが可愛さをも極めたシーザーの嫁である。
単にアニマルグッズに目がないだけだが、嵯峨崎佑壱は頑なに己の動物好きを認めなかった。動物を愛でるのは男らしくないと思っているからだ。


「…男らしくない、だと?この俺が、男らしくないだとぉ…?」

そうだ。
トイレで悩んでいるのは男らしくない。全く以てナンセンス、嵯峨崎佑壱と言う男の辞書に、敵前逃亡ならぬトイレ内に逃亡と言う言葉などない筈だ。寧ろあってはいけない。

「上等だ。何でこの俺が、カルマ副総長のこの嵯峨崎佑壱様が…!マイクロチビ高坂如きにビビらなきゃなんねぇんだコラァ!」

カッと眼を見開いた佑壱はパンッと頬を強めに叩き、しゅばっと立ち上がった。ちょっと痛かった。
その瞬間ウォシュレットのボタンを押してしまったが、良く考えれば佑壱が機械に触れると大抵ショートして使い物にならなくなるので、自宅マンションのウォシュレットはそもそも使えない。便座についてるだけのお飾りだ。心地好さに感動していると言うさっきの理由は、佑壱の髪色と同じく真っ赤な嘘である。

「おい…っ、高坂日向ぁ!」
「あ?」

ぶらぶらと股間に凶悪な一物を垂れ下げたまま、佑壱はトイレのドアを殴り壊さんばかりにドカンと開いた。佑壱のベッドに寝転がってテレビを見ていたらしい日向が顔だけ振り返り、ピューと口笛を吹く。

「凄い格好だな、嵯峨崎。…まぁ良いけど、パンツくらい穿いたらどうだ?」
「喧しい!自分の部屋で服なんか着てられっか!」
「そうかよ。…何か今朝はサービスが良過ぎて恐ぇな」
「ンな事ぁどうでも良い、だから何でテメーは俺の部屋でまったりしてんだ…!」
「何でって、朝だからだろう?」
「朝だから?!」
「つーか、朝飯は?腹減ったっつったろ」

プレイボール!

球技が得意だとは言え、別に野球が好きな訳ではないが、佑壱の頭の中で主審が叫んだ。
早い話が戦いの火蓋が切って落とされる音だ。しゅばっとマウンドの上で足を振り上げたオカンが、豪速球を投げようとしている。バッターボックスには高坂日向、守備などない。打たれたら終わりの背水の陣こそ、男の武士道である。

「テメーの飯なんざ知るかぁあああ!!!」

卓袱台だ。ひっくり返せる卓袱台が欲しい。
シュパァン!と放り投げられた豪速球が佑壱の脳内で日向の顔面に直撃したが、当の日向は癇癪を起こした妻を見る夫の眼差しで、「元気だな…」と呟いた。

「朝飯なんか喰わんでも死にゃしねぇ!河豚だ!お前なんか天然もんの河豚の肝だけ食い続けろハゲ!」
「何でンなカリカリしてんだよ。低血圧が過ぎるぞ、とりあえず血圧計ってみるか?」
「馬鹿野郎!どっからどう見ても高血圧振り切ってんだろうか、毛穴と言う毛穴から血が出そうだわ!俺を殺す気か!何で俺がテメーの飯を用意してやらななんねぇんだコラァ!俺はテメーの母親じゃねぇっつーんだよボケがぁあ!卓袱台!殺傷力高そうな卓袱台を買ってこい、ファッキンビッチ!」
「…声デケェな。何にキレてんのかをまず明確にしろ、早口で捲し立てられても判んねぇ」

ヒスを起こす子供を宥める父親の様な表情で覗き込んできた日向を認め、途端に怒鳴り散らかしていた事が恥ずかしくなった赤毛はもじもじと毛先を弄ぶ。
ぶらぶらさせている股間も気になったが、それを態度に出すのは女々しい気がした。男らしさの基準とは何処にあるのか。

「だから、あれだよ」
「だから、どれだよ」
「Youは何しに俺んちへ?」

言い回しを間違えた気がしないでもない。
恥ずかしくなった赤毛は顔を覆い、クネっと悶えながら日向に背を向ける。鍛え抜かれた尻を見せつけている事には、気づいていないらしい。

ふーっと息を吐いた日向は円らな眼差しを細め、天を仰いだ。

「嵯峨崎」
「んだよ」
「可愛い」
「は?」

真顔の日向が宣った台詞で、哀れ高等部二年首席帝君は感電した。

「お前の可愛さは犯罪レベルだな…」
「…あの?」
「抱き殺すかヤり殺すかしそうで、そろそろ自分が信じられねぇ。お前の殺傷能力は半端ねぇから、卓袱台なんかよりお前を投げてこい」

耳鼻科だ。そうだ耳鼻科に行こう。どうにも鼓膜が病んでいる気がする。語学力には多大な自信があるのに、翻訳機能が停止している様だ。

「高坂先輩」
「他人行儀だなぁ、先輩とか言うなよ、興奮する」
「黙れ。黙って俺の話を聞け畜生、ぶっ殺すぞ」
「何だよ」
「捨て犬をどう思う?」
「は?どうって、可哀想とか?」
「じゃ、捨て猫は?」
「そりゃ、連れて帰るだろ」
「最後に、俺は?」
「あ?お前は普通にあれだろ、可愛い」
「…判った、お前は眼科と脳神経外科で、俺は耳鼻科だ。手遅れになる前に保険証持ってこい高坂、悪い事は言わねぇから」
「はぁ?保険証?」

冗談を言っている様には見えない日向の小さな頭を撫でながら呟けば、大人しく撫でられているもののの、何とも言えない表情で眉を跳ねた日向は目を細めた。

「大丈夫か嵯峨崎。嫌に神妙な面して、腹でも下したか?」
「お願いします、普通の高坂さんに戻って下さい」
「訳判んねぇ奴だな」

ぎゅむっと佑壱の胸元に引っ付いてきた日向が、上目遣いで見上げて来た。佑壱が見てきたどの男よりも可愛い仕草に、男らしさに傾倒しているオカンさえ痺れる程だ。

「何か怒ってんの?」

こいつぁ、可愛い。
可愛過ぎる。睫毛はばっさばさで、唇はつやっつやだ。叶二葉が霞むほどに可愛いではないか。とても同じ男とは思えない。股間に恐ろしい汚物を生やしていても、それさえ見なければ天使が逃げ出す可愛さだ。
こんな男に何度可愛いと言われても、馬鹿にされている様にしか思えない。

「なぁ、嵯峨崎。機嫌直せよ」
「…やめろ、俺にぶりっこ攻撃は効かん。ぶりっこは大根と甘辛く煮てやる!」
「ふは、相変わらずつれねぇ奴だな」

どう見ても今より一年以上若い日向がふわりと笑い、直視出来ない赤毛はさっと目を逸らした。
ドコンドコンと祭囃子の様な騒ぎの心臓には気づかない振り、あれよあれよと意味もなく部屋中に視線を彷徨わせば、脱ぎ捨てられているブレザーに気づく。

ネイビーグレーのブレザーの上に、一回り小さい白いブレザーが乗っていた。

「…あ?高坂は高等部?」
「本気で寝惚けてたのかよ、式典サボって俺様の進級祝いしてくれただろ」
「式典…?進級…?あ?何、つー事はテメーが15歳で俺は17歳?What?」
「俺様が15でお前も15。一昨日誕生日だっただろ、一緒にケーキ喰ったじゃねぇか」

佑壱の誕生日は四月四日、それが一昨日なら今日は四月六日と言う事になる。どう言う事だと眉を寄せた佑壱は然し、その疑問を口にする前に、瞬いた。

「あ?俺がテメーと一緒にケーキ喰った?何で?」
「何でって、付き合ってるからだろ」

ちょっとタイム。
佑壱の頭の中の主審がさらっと呟いたので、そっと日向を押し退けたオカンは、トイレに戻るなり静かにドアを閉めた。



「………マジか…」

そして再びウォシュレット不能の便器に座り、顔を覆ったまま絶望に打ち拉がれたのだ。何が何だか全く判らないが、日向の様子では冗談を言っている風ではなかった。

「どうしたんだお前、どっか悪いのか?」

コンコンと言うノックと共に、気遣わしげな声が聞こえてくる。それが今の日向と全く同じ声なので、姿を見なければ17歳の俺様過ぎる日向から優しくされている様な気になった。
佑壱の中に優しい日向などほぼ存在しない。いついかなる時も俺様過ぎてイラッとする副会長の姿しかないのだ。

「体調が悪いなら病院に行くか?耳鼻科がどうだの言ってたけど、内科のが良さそうだな。それとも消化器科、」
「や…優しいお前なんて、俺に優しいお前なんて!俺は…っ、俺は騙されねぇからなぁあああ!!!」
「何言ってんのか皆目判んねぇけど、元気そうだな。気分が悪いなら素直に言えよ、脇坂に車出させるから」
「ぐすっ、お騒がせしまス…」

何故謝らねばならないのか、佑壱には全く判らない。
判らないながらも滲んだ涙を拭った佑壱は、便座の上で足を組んだ。最早踏ん張る気力などないので、一人作戦会議だ。

「何かが可笑しい。何故か高坂が俺を大事にしてる気がしないでもねぇ。…成程な、悪夢か」

答えはさくっと出た。
ならば仕方ない、醒めるのを待つだけだ。

「同じ高坂なら、こっちの方が幾分可愛く見えねぇ事もないし。付き合ってるだの何だのはまぁ、長い人生、一度くらい間違えがあるもんだ。糞ホモ淫乱チビ猫に掘られたくらいじゃ、俺の男らしさは損なわれねぇ…」

良し、と気合いを入れて立ち上がった佑壱は、いつもの癖で水を流そうとしてレバーへ手を掛けたが、ざぷんっと言う音を立てて今の今まで佑壱が座っていた便座から飛び出してきた巨体に、迸りそうな悲鳴を飲み込んだ。

「テメェ、何度呼んでもシカトしやがって…」
「こっ、高坂?!おま、何っつー所から出てきやがった!」
「嵯峨崎、今の悲鳴はどうした?!」

ああ、見慣れた日向が便器からにゅっと飛び出している。いつもの日向だ。つまり佑壱が知っている17歳の日向だ。
なのにドンドンとドアを叩かれる音と衝撃が、ドアに張り付いた佑壱の背中を襲ってくる。後ろからもまた、日向の声が聞こえてくるではないか。

「こ、こここ高坂が二人…?!」
「ほざけ馬鹿が、俺様が二人も三人も居て堪るか。こっちが本物に決まってんだろうが、噛み殺すぞテメェ」

ああ、いつもの優しさの欠片もない俺様副会長様だ。
殺気しか感じさせない恐ろしい睨みの下、牙を剥く様な笑みを浮かべる顔は、男前さも相まってとんでもなく恐ろしい。じょぱっとチビりそうだ。

「本物が何で便器から出てくるんだコラァ!あっちが本物に決まってる!」

今にも火を吹きそうな表情の日向が恐ろしい笑みを浮かべているので、玉と言う玉がきゅっと竦む思いの佑壱は股間を押さえながらドアを蹴り開け、眼を丸めている自分より小さな日向に抱き着いたのだ。
何せこちらの日向は佑壱に優しいので、味方にするなら小さい方の日向しかいない。大きい方の日向は敵だ。

「高坂ーっ!いきなり便器からデカい高坂が出てきた!」
「ちょっと待て、話も前も見えねぇから力を緩めろ」
「巫山戯けてんのか嵯峨崎…?それの何処が俺様だ、ぶちのめすぞゴルァ」

抱き着いた日向から宥める様に背を叩かれながら、長い髪をぎりりと引っ張る、強い痛みを感じた。
顔の皮膚ごと後ろに引っ張られるまま背後を睨めば、便器から出てきた無駄に足の長い男が、佑壱より高い所から冷ややかな目で睨み付けてくる。超怖い。可愛さなど一ミリも感じない、ただの金髪ヤンキーだ。

「ヒィ!見ろ高坂、デカいお前が俺の髪を掴んでる…!抜ける、俺の毛が抜ける…!」
「テメェ、いきなり現れて俺様の嵯峨崎の髪を触ってんじゃねぇ!」
「…あ?何がテメェのだ糞チビ、誰に喧嘩売ってやがるカスが。来い嵯峨崎、人が下手に出てる内に言う事を聞いた方が良い」

いつ下手に出たんだなどとは、とても言える雰囲気ではない。
血管と言う血管が切れそうな特大日向は、同じく血管と言う血管が切れそうなミニマム日向と睨み合い、片や佑壱自慢の髪を、片や佑壱自慢の筋肉をしっかり捕まえている。

「離しやがれ間男、咬み殺すぞテメェ」
「どっちが間男だ糞が、八つ裂きにすんぞ餓鬼ぁ」

佑壱の玉と言う玉がきゅっと竦み上がった。
どっちも離してくれと言った所で、どっちも高坂日向であるなら、どっちにせよ佑壱の願いを素直に聞き届けてくれるとは思えない。

「チミが落とした光王子は金の光王子ですか?」
「それとも金獅子の光王子ですか?」
「は?」

体は小さな日向に、髪は大きな日向に決して逃がすまいと掴まれたまま、聞こえてきた声に佑壱は瞬いた。

「あの日あの時あの選択を果たしていたら」
「こんな日々があったのでしょうか?」
「あの日あの時あの場所で」
「手に入れられなかった光王子は、どんな光王子ですか?」

にゅっと目の前に出てきたのは、左席委員会のツートップだ。
バスローブ姿の二人は、段ボールで作りました感漂う翼を生やしており、頭の上に丸い蛍光灯を乗せている。明らかに現実味がない。

「………変態…?」
「「天使です」」

もさもさ頭のオタク眼鏡と、もさもさ平凡野郎が声を揃えた。

「天使…?ああ…総長と山田が召されちまった…」
「テメェは生かしておかねぇ…!勝手に人様のもんを汚しやがってドチビカスが!誰の嵯峨崎だと思ってやがる!」
「テメェのもんじゃねぇ事は明らかだろうが!俺様のもんに何をしようが他人にとやかく言われる覚えはねぇ、雑魚は引っ込んでろ!」

顔の角度を変えれば、未だに睨み合っている日向と日向がいつの間にか取っ組みあいの喧嘩を始めている。うん、見なかった事にしよう。
W日向の所為で腰にくっきり手形が残り、髪はばさばさになってしまった全裸のオカンは、犯された町娘の風体で胡座を掻いた。

「夢だ。これは完全に夢だ。脈絡がねぇ」
「そうですにょ、こちら夢の中駅でございまァす」
「夢には一貫性がない♪望んで観る夢、望まずに観る夢、これはどっちかな?どっちかなー?」

にこにこしている俊と太陽は、クネクネ佑壱の周りを踊りながら歌っている。このセンス皆無なダサい音楽は、明らかに校歌だ。

「貴方のピナタは金の仔猫ですか〜♪」
「それとも金の獅子ですかー♪」
「鞄の中も」
「圧力鍋の中も」
「「探したけれど見つからないのに♪」」

校歌のメロディーなのに、歌詞が名曲に似ている気がしなくもない。

「あの日あの時、っつー事は、パラレルワールドみてぇなもんか?」
「あの日あの時あの場所であの選択を選んでいたら、優しい恋人が居たかも知れませんねィ♪」
「お前さんだけを一心不乱に見守ってくれる、お姫様より可愛い王子様♪」

ぱたぱたと駆け回る俊と太陽は、日向達からは見えていない様だ。エセ天使達はにこにこと、何が楽しいのか張り付けた様な笑顔を絶やさない。

「それがどんな選択だか知らねぇが、もしも話を幾ら繰り返した所で無駄だ。生産性がない」
「はァ。夢がないにょ」
「夢の中でも現実主義だねー」
「悪かったな」
「でもイチ、可愛いって言われて満更でもなかったざます」
「そうだよね、イチ先輩。ぎゅって抱きつかれて、嫌じゃなかったもんね」

悪さをした子供が見つかった様な表情で目を見開いた佑壱に、安普請な天使コスチュームをした二匹がによによと唇を吊り上げた。

「お姫様には大切な人がいました♪」
「真っ赤なワインを頻繁に贈っている、愛らしいお姫様だそうです♪」
「羨ましい?」
「羨ましい♪」
「いつも怒ってばかりの光姫♪」
「笑ってる所なんて見た事もない♪」
「どうしてかしら、あんなに可愛いお顔をして♪」
「どうしてかしら、僕の前ではいつも怒ってる♪」

今や、顔中から火を吹きそうなほど真っ赤な佑壱は、パクパクと声もなく喘いだ。黙れ、煩い、言いたい台詞は幾つもあるのに、そのどれ一つも言葉になる事はなかった。

「例えばあの日、盗み聞きしたその時に」
「素直に聞いてみれば良かった?」
「ネイビーグレーの制服を着ている背中に『貴方の天使はだぁれ?』」
「光姫はなんて答えたのでしょう」
「そーれ♪」

チラシを丸めた様な紙製の棒を、しゅるるんと振った俊の頭上に巨大なディスプレイが現れる。
映っているのは庭園で顔を突き合わせている日向と二葉、日向の背後にある植え込みの中にちょこんと赤毛がはみ出ていた。

「例えばあの日、盗み聞きした嵯峨崎佑壱12歳は思いました」
「初対面から怒ってた昇校生が、珍しく穏やかに会話してる。相手は後期直前に漸く現れた、『帝君』」
「祭美月と同じ満点で選定考査をパスしたのに」
「前期は一度も登校しなかった所為で知られていない」
「どうしてあんな性悪と会話してるのかしら?」
「『俺には怒鳴ってばっかなのに』」

ディスプレイの中で、あの日は盗み聞きした事に罪悪感を感じて逃げ出した筈の自分が、何故か日向達の前に飛び出す映像が流される。
音がないので会話までは判らなかったが、何やら怒鳴りつけた佑壱に同じく怒鳴り返した日向は、しまったと言う表情で口を押さえたが、笑えるほどに真っ赤に染まった佑壱を暫く眺めてから、何事か呟いたのだ。

「うふ腐、なーに?なーに?たった5つの言葉♪」
「あ、い、し、て、る」

ぽちっと何処かからか取り出したリモコンのボタンを押した太陽と、もじもじ悶えながら顔を覆っている俊が動きを止めた佑壱の側へと寄ってくる。

「あの日、チミに勇気があったなら♪」
「今みたいな状況があったかも知れないねー」
「今、みてぇな…?」
「怒鳴らない、怒らない、殴らない、優しい恋人」
「可愛くて、優しくて、お前さんだけを愛してくれる、恋人」

もし。
もしそんな事が本当に有り得たなら、などと。ほんの僅かでも考えてしまった自分に愕然とした。もしもなんて、今まで考えた事もなかったのに。

「愛して欲しかった?」
「愛した分だけ、いいや、もしかしたらそれ以上に」
「大好きな義兄様は振り向いてくれない」
「でもそれは、愛だった?」

頭の中で、銀髪の男が再生された。
それこそ笑った所など一度も見た事のない、けれどいつか、朧気な記憶の中であの日、確かにあの時は、心から尊敬していた相手だ。
本名すら知らなかった。教えて貰えなかった。
暇潰しで作ったと言うピアスを後生大事に宝物にして、二葉に与えられた大粒の天然石がついたキーホルダーが羨ましくて、羨ましくて。

「忘れたなら思い出しなさい」
「誰も助けてくれないよ」
「依存なんて勘違い」
「人はいつも、ずっと自由」

あの日。
それと同じものを持っている子供を見つけて、自分は。それから、どうしたんだった?(ああ)(蝉が鳴いている)(何処で?)(緑色)(空が烟っている)(湿った匂いがした)(雨がやってくる・と)(誰かにそう言った覚えが、ないか?)

「はァ。これじゃいつまで経っても進まないにょ」
「とまったら老いてくよ。時間は待ってくれない」

奇妙な光景に頭がついていかなくなった赤毛は、考える事を放棄した。無気力と言うよりは、記憶を捲る作業で体がついていかなくなっただけだ。

「待ってくれない、のは、判ってる」
「ちっとも判ってないにょ」
「目の前に餌が落ちてるのに、拾わないなんて警戒心が強いのかな。それともプライドが高いのかな?」

夢の中でも馬鹿にされているのか。
これが自分の観ている夢ならば、自分が最も自分を馬鹿にしているのかも知れない。

「見つからないなら♪」
「選べないなら♪」
「「シャッフルシャッフ〜ル♪」」

ハイテンションな自称天使共が、ばたばたと駆け回るのを見守った。もう何も考えられない。自分が自分を見放しているなら、足掻くだけ無意味ではないか。
全てがどうでも良い。もしもなんて幾ら唱えても、佑壱にだけ優しい日向など、この世の何処にも居ないのだから。何事も諦めが肝心だ。

「諦めるな馬鹿」
「…痛!っ、テメー、何しやがる!」

床の上で胡座を掻いた佑壱の頭の上から声が降ってくるなり、パコンと頭を叩かれた。条件反射で見上げれば、着物姿の長身が眼鏡のテンプルを大きな手で押さえている。

「…はぁ?今度は誰だテメー」
「そこに15歳と17歳が居る訳だ」
「は?!」
「足すとこうなる」

取っ組みあいの大騒ぎを繰り広げている二人の日向をそれぞれ指差した男が、眼鏡越しに琥珀色の瞳で見つめてきた。どれだけ考える事を放棄しても、その顔を見れば嫌でも判ってしまう。

「足す…?」
「Yes, do you know addition?(そう、足し算は知ってるか?)」

然しどう見ても、佑壱が知っている男より老けている様に見えてならない。明らかに幼児に対する物言いだ。馬鹿にしているより、揶揄われている様な。

「知ってるに決まってんだろ。…つーか、何で眼鏡?」
「知らなかったか?昔から遠視気味で、近くのものを見る時は眉間に皺が寄ってんだろう?」
「…知らねぇよ、ンな事」

そもそもこの男が眼鏡を掛けている所も見た事がない。つまり、見覚えがあるだけの赤の他人としか説明が出来なかった。

「おいおい、お前はもう少し俺に興味を持ってやれ。で、血も涙もない嵯峨崎君、15+17は?」
「32…」
「正解」
「ちょっと待て、つー事は何だ、テメーは32歳の高坂だってのか?んな馬鹿な…!夢っつーのはアレだろうが、知らねぇもんは出てこねぇだろ普通!」
「だよなぁ、普通はそうだろう。でも、明神の特性を使えば可能になる訳だ」

日向そっくりな、日向に全く似ていない穏やかな声音の男は、上等の着物の袖から伸びる手で乱れた佑壱の髪を整えると、未だに喧嘩している自分を呆れた表情で見やった。

「言動には必ずその人となりが出る。幾ら繕っても完全じゃない、いつか粗が出ちまえば、簡単に綻んで解れていくそうだ。…見てみろ、馬鹿と馬鹿のあの様を」
「何を他人面してやがる。ありゃ、どっちもお前だろうが…」
「自分が見ても呆れるくらい餓鬼にしか見えねぇのに、あの人にはあの餓鬼がこうなるってのが見えてた訳だ」
「…あの人?」
「見えちまうんだとよ。そいつの性格を把握すると、なし崩しにそいつの行動理論が読める。半年後にはこう動いて、一年経てばこうなって、15年経てばこうなる筈だ…ってな」

その言葉の真意は判らなかったが、何故か酷く納得した。半ば諦めたからだろうか、然し開き直ったと言うには未だに無気力だ。何も彼も否定し続ける事に疲れ、全てを受け入れ掛けている。

「つまり今のお前は、いつかこうなるお前っつー事か。高坂が眼鏡とか…似合いすぎて笑えねぇ…」
「さぁな。夥しい程の岐路を選んだ先の一つに過ぎねぇかも知れないだろう?選択肢なんざ、秒刻みでごまんとある」
「…面倒臭ぇ」
「そう、負の感情を繰り返す度にお綺麗だった自分が消えていく訳だ。狙いはそこにあるってな」
「狙い?」
「綺麗なまんまじゃ、大人にはなれねぇっつー事だ。ま、騙されたと思って汚れてみろ、嵯峨崎佑壱17歳よ」
「は、え、ちょ、おい…!」

がしっと肩を掴まれたかと思えば、ふわっと浮き上がる感覚に眼を見開く。佑壱を軽々と抱き上げた男は、掴みあったまま固まっている日向達にも、踊ったまま固まっている自称天使にも目をくれず、佑壱を抱えたままバルコニーへと歩いていった。

「ああ、若い肌はぱっつんぱっつんしてやがる。年々色気がバーストして来たお前も良いが、この処女臭ぇ感じはまたやべぇな」
「何を変態ジジイみてぇな台詞をほざいてやがる!下ろせコラァ、テメーぶっ殺すぞ!」
「活きが良いなぁ、釣りたての鰤かよ」

何が起きるのか判らないまま着物の肩口を掴めば、バルコニーのドアが勝手に開くのが見えたのだ。

「なぁ、嵯峨崎。犬ってのは不便じゃねぇか」
「ああ?!」
「いつまでも首輪で繋がれてちゃ、背中の翼が腐っちまうだろう?」

晴れやかな笑顔を浮かべた男が、ぽいっと軽々しく佑壱を投げる。余りの事態に思考回路が完全停止した嵯峨崎佑壱の瞳に、ひらひらと手を振る金髪が見えたのだ。

「とりあえずいっぺん死んでこい。内臓が飛び散っても、愛してやるから」
「テ、テメ、テメーはヤクザかコラァアアア!!!」

真っ逆さまに落ちていく感覚の中、バルコニーから頭を覗かせている男に叫んだのは、そんな台詞だけ。

「そうとも、紛れもなくヤクザだ。悪かったな坊や、そんな俺様でも愛してくれんだろう?」
「んな訳あるか、このハゲー!!!」
「お前は何処ぞの議員か」
「っ、嵯峨崎!」

目を見開いた愛らしい顔立ちの日向が、バルコニーから顔を覗かせている。けれど伸ばされた手は永遠に届かない。

ただ、一切の躊躇なくバルコニーから飛び降りた金髪を、見ていた。

にまにま笑っている着物の隣で叫び続けている半裸、きらびやかな金髪が遠ざかるのと真逆に、恐ろしい表情で近づいてくる金髪が見える。何故こっちは、こうも愛想がないのか。

「テメェ、まだ話は終わってねぇぞ嵯峨崎!逃がすかゴルァ!」
「逃げてんじゃなくて落ちてんだボケ!何でよりによってそっちのテメーが助けにくんだよ!ハゲー!!!」
「ハゲてねぇ!咬み殺すぞテメェ!」

ああ。
この世には神も仏もないらしい。

←いやん(*)(#)ばかん→
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