帝王院高等学校
ちょっと休もうだなんて甘すぎます!
裏切られた。
強くそう感じた瞬間、怒りなのか悲しみなのか判らない感覚に支配されていく体に気づく。

張り詰めていた気力がスコンと抜けた様な、ふわっと支える力が抜けた体は然し、ずっしりと重さを増して、ありとあらゆる気力を根こそぎ持っていってしまう様な気がした。


「野良猫が原因だったって、マジっスか?」
「あー…何だったか、デスパレードとか何とか名乗ってたあのチームだろ?」
「デッドパレードじゃなかったっけ?」
「潰したチームの名前なんざ覚えてねぇっつーの」

やる気になれない。何も。無力感だけが精神を支配していく。体は何一つ抵抗出来ない。凄まじい眠気に襲われた時の様に、余りにも無力だ。
脱力した体は、このまま二度と動かないのかも知れない。例えば今、地球に危機が迫っていたとしても。母親に抱かれて眠る赤子の如く、安心した表情で眠り続けるのだ。

愚かにも。
浅はかにも。
間抜けな寝顔で迫り来る死をただ、受け入れるばかり。

「何にしろ、総長がぶち切れた原因なら野良猫で間違いねーよ」
「…野良猫を虐待したから、って事っスか?大したチームでもないし、そもそもただのツーリング集団でしょ?」
「人数もたった20人程度で、わざわざうちの幹部が出てく相手でもなかったよなぁ…」
「だけど実際は、レッドスクリプトを叩きつけた訳だ。総長自ら、直筆のサインまで入れて」
「停めてたバイクのベンチシートを野良猫に引っ掛かれた腹癒せで、猫が泡吹くまで蹴り飛ばしたチーム長の血で書いたらしい」

走馬灯にしては、映像が濁っている。
晴れた朝、目覚めたばかりの様に、眼球を差す強い光に襲われた様に。意識も映像も酷く白濁している。

「…本当ですか、それ?あの穏やかな総長が?」
「ユウさんが仲裁してなかったら殺してたかも知れねぇ。穏やかもへったくれもあっか、あんなもんただのリンチだ。あのユウさんが歯が立たない総長が、喧嘩慣れしてる筈がないそこらのバイク好きを無言で殴り付けたんだからよ」
「無言?!」
「いつもの指揮なんざ全くなかった。俺は偶々コンビニ寄ってたから遠目で見てただけだが、物の数分で元気だった人間が動かなくなるもんだって思ったね」

ああ、無気力だ。無力感は無気力と似ている。
体はピクリとも動かないのに、何故か忘れていた記憶を再生していた。けれど明瞭なのは音だけだ。映像は変わらず濁ったまま、真っ白な世界に放り出されたかのよう。
理由など知らない。間違えて再生ボタンを押したのだろうか。例えば脳内オーディオのボタンがあったとしたら、いつの間にか押していたのかも知れない。けれどもう一度ボタンを押そうにも、体に力は入らなかった。
酷く怠い。何もしたくない。消えてしまいたい。眠るように、一切の恐怖も痛みもなく、今。

「で、ユウさんが止めてやっと落ち着いた総長が、ピクリとも動かないそいつの血でレッドスクリプトを書いた」
「『救われない魂へ葬送曲を捧ぐ』、だろ?」
「猫を虐待したのは、結局そいつだけなんスよね?だったら何で、チームごと壊滅させる必要があったんですか?それも、カルマの幹部総出で…」
「カルマの掟にあるだろ?『オーケストラのミスは指揮者の責任』ってのが」

そうだ。
舎弟の失態は総長の責任だと、常々嵯峨崎佑壱が理想としていた自身の戒めを、彼は違う言い回しで掟へ加えた。あの時の気持ちを何と表現すれば良いだろうか。

「裏を返せばそれは、チームのミスはチームの責任って事だろ」

同じ価値観の人間が居た喜びか、この人ならば信頼出来ると感じた喜びか、今となっては判らない。

「それでも、やっぱ今回のはやり過ぎだと思うんスけど…」
「やり過ぎだろうが何だろうが、指揮者が振ったタクトに従うだけだ」

それは自分の声だった。
あの時、確かにこの台詞を言った覚えがある。だからと言って何がどうなる訳でもない。

「それが嫌なら辞めろ。主人に従えない犬は、カルマにゃ要らねぇ」

犬。
そうだ、犬だ。自分は犬になりたかった。いつもならみっともなく目を逸らすだろう幼い理由で、犬になろうと思った日から、ずっと。

下らない理由だろう。
振り向いて欲しい人がどう足掻いても振り向いてはくれないから、最後の最後、切り札の如く躊躇っていた台詞を清水の舞台から飛び降りる覚悟で吐き捨てて、それでも駄目だった子供の遺言じみた捨て台詞だ。

いつか、初めて自分と言う世界にやって来た同年代の子供。
いつか、天才だと讃えられた自分の前にやって来た本物の天才。
嫉妬はすぐに羨望へ変わり、粉々に砕け散ったプライドは、自分より優れた雄に従う事で辛うじて体裁を取り繕う。まるで狼の群れだ。優秀な雄はボスとして、他の雄の完全な忠誠を一身に集める。死ぬまで。文字通り、神の如く。


「さようなら、兄様」

血を吐く思いで告げた台詞に対して、恐ろしい程の美貌は表情一つ変えなかった。地中に咲く月の化身、純白の花で溢れた庭で目を閉じたまま、人間らしい表情など最後の最後まで一つとして見る事など敵わず。

「そなたならば何処へなりと飛び立てよう。愛らしい仔猫」

人でも、犬でもなかった。
彼の中で自分は何だったのか。呼んでも返事をしない猫、可愛がったからと言って愛し返してくれるとは限らない猫、我儘な猫、


私は。
(いつか)(誰になりたかった…?)



「おい」

酷く近くから声が落ちてくるなり、何故か体に力が戻っている。

「はよ。今朝は良く寝てたな」
「………は?」
「朝飯まだ?」

ぱちっと開いた瞼の向こう、すぐ近くに朝日に負けないきらびやかな黄金が見えたのだ。


















「ひょわっ」

助けを求めて駆けつけてきた癖に、いざ皆で走り始めると道案内をしなければならない加賀城獅楼が最も足が遅かった、と言う余りにも残念なオチはともかく。
こうなれば自棄だと、痛む脇腹を千切らんばかりに全力疾走で励んでいる満身創痍な神崎隼人の傍ら、軽々と並走していた高野健吾は視界にちらつくオレンジの前髪を掻き上げながら、悲鳴が聞こえてきた背後を振り返った。

「何してんだシロップ、こんな時にどじっ子発揮してる場合かよ。デケー男が尻餅ついて転けてんじゃねーっしょ(((;´ω`;)))」
「だ、だって白百合が消えたんだもん…っ」

見るも無惨に青ざめた獅楼が、ぶんぶんと腕を振り回す先、確かにやる気なくついてきていた筈の叶二葉の姿がない。
虹色と言うには毒々しい玉虫色のヘドロを拭った派手なシーツを、最後の最後まで回収するかしないかで悩んでいた魔王を、然し貴重な戦力になると宣った隼人が『山田太陽の隠し撮り写真』と言う交換条件で仲間に引き入れた時までは、確かに居た覚えがある。

「は?消えたって何処にだよ(´`)」
「そんなの判んないよ!ふって、いきなり消えたんだ、本当だよっ」
「はあ、はあ、消えたもんは仕方ねえ、忘れろ!…つーか此処何処だっつーの!」
「あ?判んねーのかハヤト、森だぜ?」
「ナイスボケユーヤ、そりゃ見れば判るっつーの( ´Д`)σ)Д`*)」

二葉が消えた程度で狼狽える犬などカルマにはいない。獅楼はまだ子犬の卵なのだ。いや、犬は卵から産まれないので、獅楼だけ鶏なのかも知れない。無駄にデカいひよこ。

「ちょ、ちょいタンマ。はあ、隼人君は何と言われても休憩するから…!」
「そんな!酷いやハヤトさん、ばか!カナメさんが大変なのにっ」
「馬鹿はてんめーだっつーの!この俺を腕相撲で秒殺してくれるカナメがホイホイ負ける訳あるかあ!」

どうやら隼人は色々と限界らしい。
叫んだ所為で咳き込んだモデルを哀れみの眼差しで見つめた仲間らは、喘息状態の隼人が回復するまで待つ事にした。呼吸も満足に出来ないらしいモデルを置き去りにするのは、流石に気が咎める。

「そう言や、さっきキモいだの総長だの叫んでたろ?あれ、何だったん?(*´Q`*)」
「オメーんとこも奇抜な色合いのヘドロ出たかよ」

隼人の言い訳じみた台詞も一理あると、気楽な健吾と裕也は獅楼に話を振った。焦り顔の獅楼は要達の居る方向をチラチラと振り返っているが、太い木の幹に額を押し付けて肩で息をしている隼人に急げと言うのは躊躇われる。どうせ人の頼み事を素直に聞く相手ではないからだ。

「奇抜な色合いって、どんな?」
「良く言えばレインボー、本音で言えば水溜まりに油を流した時の色?」
「ユーヤ、オメーやった事あんのかよ(;´Д⊂) 何つーか、メタリックな玉虫色だったっしょ(;´Д⊂)」
「おれが見たのは、小さな子がレインボーの沼にはまって溺れてて、清廉の君と王呀の君が助けようとしたら二人とも沼に呑み込まれちゃって…」

裕也ほどではないが説明が上手いとは言えない獅楼曰く、二葉のドッペルゲンガーから逃げる為に散り散りになった後、無意識で北緯を追う様に走り出した獅楼は、同じ方向に逃げる西指宿と並走していたらしい。
身軽い要はすたすたと木を登り、枝と枝をひょいひょい飛び越えてあっという間に見えなくなり、クラスメートなのに全く会話のない北緯と西指宿に挟まれながら逃げ続けたそうだ。

「哀れみの眼差し発動(°ω°)」
「白百合が木から落ちてきたのも、カナメみてーに木の上を走ってたからっつー事かよ。魔王の正体はとんだ野生児だぜ、ユウさんだったら過重で枝ももしかしたら幹もポキッと折ってんぜ?」
「ユーヤさんが食いつくのそこなんだ…」

暫く走り続けて二葉が追ってこない事に気づくと、森の中を駆ける子供達の姿を獅楼達は見掛けた。流石にこんな所に子供が居るのは可笑しいと北緯と西指宿は口を揃えたが、足取りも覚束ない様な子供を一人にしておけないと獅楼が言えば、仕方なく皆で子供の後を追う事になる。そこで東條と一緒にいた要と合流した。
そこまで説明した獅楼に対し、健吾が首を傾げる。

「そこに沼があったんか?(;´∞`)」
「その時までは沼なんかなかったよ!イーストとウエストにホークさんが喧嘩売って、呆れたカナメさんが『この場は俺が仕切ります』とか言い出してさっ」
「マジかwカナメらしいっちゃ、らしいべ(*´`*)」
「は、猿山のボス気取りなだけだろうが」
「…ケンゴさん、ユーヤさんが荒むから苛めるのやめたけで」
「へ?(*´3`)」

獅楼の冷めた眼差しに見つめられた健吾は目を丸め、はたりと裕也を見た。苛めたつもりなどないと瞬けば、片眉を跳ねた裕也のエメラルドがそっぽ向く。

「シロップ、オメーの無駄な鋭さだけは尊敬するぜ」
「ちょっと待った、話が見えねぇっしょ。俺を置き去りにすんなし(;´Д⊂)」
「ケンゴさん、無自覚だったら最低だよ。零人の野郎みたい」
「烈火の君も凄そうだぜ。苦労すんな、シロップ」
「オメーらこそ俺を苛めてんじゃねぇか(°ω°)」
「もー、いやー!!!」

非難の目で獅楼と裕也から睨まれた健吾が呟けば、幾らか体力が戻ったらしい隼人が発狂した。

「見渡す限り緑緑緑、何処も此処もユーヤも!目に優しすぎい!隼人君はもう走れない病なのお…!」
「成仏しろやハヤト、疲れたら寝ろ」
「オメーら、カナメ達を助けに行く気ねーべ?(;´Д⊂)」
「おれだってもうやだよ!これ、出口は何処にあんの?!」
「さあ、ないんじゃないかなあ?」

はたりと、全員で隼人を見やった。
見つめられた隼人は荒く息継ぎしながら、力なく手を振っている。今の叫びで回復した体力を再び失った様だ。

「ち、違、今のは隼人君が言ったんじゃない…」
「あは。だっさ、ちょっと走ったくらいで息切れしてんじゃん、お・じ・さ・ん」

瀕死の隼人がピキッと青筋を立てて顔を上げた先、健吾も裕也も半泣きの獅楼までも目を丸め、揃って己の頬をつねった。
おじさん呼ばわりにぶち切れた隼人もまた、自分が見ている人物をまじまじ眺めると、忙しなく瞬いたのだ。

「…何なの今度は、さっきよりイケメン過ぎるドッペルゲンガーが見えるんですけどー?」
「あのさあ、隼人君と同じ顔で運動不足とか笑わせないでくれる?しかもオジサン、何かデブくない?」
「デブ?!てめ、隼人君に向かってデブっつったかコラー!」

にやにやと、勘に触る笑みを浮かべた、今の隼人より幼さの残る隼人そっくりな男が立っている。
ネイビーグレーのブレザーを羽織り、ネクタイは蝶々結びで、今の隼人より長目の前髪を星がついたヘアピンで耳元へ流していた。対して、白いブレザーを纏う隼人はネクタイも髪もよれよれで、脇腹を押さえた手を外せない。

「あは、デブにデブっつって何が悪いのかなあ。弱そうなオジサンが群れて、ダサいよねえ?」

カツアゲだ。
中等部の制服を纏った隼人が、高等部のブレザーを纏うカルマをカツアゲしようとしている。
弱そう、と言う単語は真っ直ぐに15歳の隼人を見つめて投げつけられた台詞であり、隼人以外の三人は吹き出しそうになるのを慌てて耐えた。自分そっくりな中学生に馬鹿にされた「弱そうなオジサン」が、垂れ目を吊り上げたからだ。

「…はあ?何アイツ、この世界が認めたイケメンスーパーモデルに向かって、弱そう?オジサン?デブ?!はあ?!ぷちっと潰されてえのかコラー!」
「あは。弱い奴ほど良く吠えるんだよねえ、どうでもよいけど膝笑ってるよお?立てますかあ、オジサン?」

今にも座り込みそうだった隼人は、カチンとむかっ腹を立ててビシッと立ち上がったが、188cmの図体が無惨に震えていた。誰が見ても生まれたての子馬の様だったが、指摘するのは酷だろう。

「あー、何か昇校してきた頃のハヤトさんを思い出すね、すっごい生意気そう。身長はおれとあんま変わんないけど、こっちのハヤトさんより舐めてる感じがする。色々と…」
「シロ、それって結局いつものハヤトじゃね?この世を舐めてないハヤトなんか存在しねぇっしょ(*´`*)」
「まーな、ハヤトは飴も蜂蜜もカルピスの原液ももれなくこの世も舐めまくってるかんな。糖尿まっしぐらだぜ?ハヤト、しっこが甘ったるい匂いしたらアウトだってよ」
「余計なお世話あっ!」

最も近くにいた獅楼の腹に一撃喰らわせ、全ての体力を使い果たした神崎隼人は崩れ落ちた。ちーん、と言いながら手を合わせた健吾と裕也は一秒ほど黙祷し、八つ当たりで腹筋を痛め付けられた獅楼は震えつつも気丈に耐える。

「ねえ、そろそろコント終わった?」

棒つきキャンディーを咥えた中学生に馬鹿にした目で見つめられたカルマは、カチンとむかっ腹を立てた。ゾンビ宜しく倒れたまま唸っている隼人は、凄まじい笑顔だ。

「ケンゴ、ユーヤ、隼人君が許す。あの餓鬼ヤっちまって」
「「イエッサー、ボス」」

あれがもし隼人のドッペルゲンガーであれば、獅楼は戦力にならない。自分でも判っている獅楼は遠い目でその場を離れようとしたが、今にも若隼人に殴り掛かりそうだった健吾と裕也に素早く待ったを掛けた。

「待って!頭に来る気持ちは判るけど、あっちのハヤトさんの後ろに子供がいるよ!」
「は?(°ω°)」
「あ、確かに何か張り付いてんぜ」

がりがり飴を噛み砕いている隼人の後ろ、その長い足に抱きついた黒髪の子供が見える。裕也の指差す先を見た瀕死の隼人は、垂れ目を丸めてポカリと口を開いた。

「はい?何で中等部時代の隼人君に餓鬼んちょが抱きついてんの?」
「そら、オメーがロリコンだからだべ?(*´Q`*)」
「マジかよ、糞だなオメーはよ」
「あの子、さっき沼に落っこちそうになってた子だっ。清廉の君とウエストが呑み込まれて、カナメさんとホークさんが助けようとしたら、カナメさんだけ変なカタツムリに捕まっちゃったんだよ!」
「カタツムリ?」
「総長の声で喋る、虹色のぬるぬるした奴!触覚が生えててエスカルゴみたいだったんだけど、殻がなかったんだっ」

殻のないカタツムリ、獅楼の台詞に顔を見合わせた隼人と健吾は『なめくじ?』と呟いたが、眉を潜めた裕也は自分と目線が変わらない中等部の隼人の頭上に『ぼっちLv99』と言う表記を見つけ、その足元、『ぼっちLv4』と言う文字が浮かぶ子供を見つめた。

「あー、…何か異様に見覚えがあるぜ」
「あ?どうしたユーヤ?(°ω°)」
「お兄ちゃんを苛めないで…!」

子供を連れているからか、自分からは仕掛けてこないネイビーグレーの足元で、顔を上げた子供が叫んだ。その愛らしい顔立ちに瞬く隼人と獅楼を余所に、真っ赤な顔で腰を抜かした健吾は、声にならない絶叫を上げる。

「お願いヒロくん、お兄ちゃんを苛めないで…」
「お、おま、おま、おまおまお前、その顔は…!(°ω°)」
「ケンゴさん、あの子の事知ってるのっ?」
「カナちゃん」

ぽつりと呟いた裕也の台詞に、笑みを消して睨んできたのはネイビーグレーのブレザーを纏う隼人だった。
オフホワイトのブレザーを纏う隼人は異様に機敏な動きで立ち上がると、一切の表情を失ったかの如く真顔で、

「ユーヤ、カナちゃんって何?何でスーパーイケメンモデルの隼人様は猿とアホとバカがお供なのに、あっちの隼人君は子連れなの?しかも超絶マブい、十年経ったらお嫁さんにしてやってもよい」
「ハヤトさん、とうとう自分に様をつけるんだ…」

加賀城獅楼の突っ込みを、自称スーパーイケメンモデルは真顔でスルーした。


















「なぁ、朝飯まだ?」

きらきらと、朝陽が乱反射している。まるで踊る様に。
その手がさらりと掴まえた赤い何かに、優しく口づけるのを見ている。まるで映画のワンシーンの様だ。

「………は?朝飯って、は?」
「寝惚けてんな?だから朝飯、腹減った」

零れんばかりに大きな琥珀色の瞳が、揶揄めいた笑みを浮かべている。
手を伸ばして鷲掴めば片手で握り潰せそうな小さな頭に、短い金髪がさらさらと、惜しみなく流れているのが見えた。

「こ………高坂…?」
「あ?何?」
「何…何って、おま、何で縮んでやがる?!」

飛び起きた嵯峨崎佑壱は、叫んではたりと動きを止めた。
キョロキョロと見渡せば、街の中にある自分のマンションの一室だ。近頃はインテリアと化しているギタースタンドが窓辺に、ロータイプのテレビボードと50インチの液晶テレビ、麻編みのラグは一目惚れして輸入したものだが、裸足で歩くと違和感が拭えないと舎弟からは不評だ。

「何訳の判らない事ほざいてんだ、テメェは。寝惚けてんじゃねぇ」
「寝惚けてねぇ、ばっちり起きてんだろうが!」
「体がいきなり縮む訳ねぇだろうが、人を年寄り扱いすんな」

だからスリッパを穿けと言っただろうが、と。
お決まりの台詞を思い出して、佑壱はなけなしの眉を震わせた。肩にフェイスタオルを掛けて、濡れて色濃い金の髪をガシガシ拭っている横顔が、ふわふわな綿毛のひよこスリッパを穿いているからだ。
ちらりと背中に掘られた青と赤のコントラストは、三面六臂を誇る阿修羅像の刺青だろう。いや、そんな事をわざわざ思い返している場合ではない筈だ。

「…な、何、何で、シャワー浴びたのかよ?!」
「は?」
「俺の部屋で、朝シャンしたのか?!」
「したけど、いつもの事だろ?」
「いつもだと?!」

少なくとも、高坂日向が佑壱のマンションに来たのはたった一度、それもつい最近の話だった。目の前の、どう見ても佑壱より小さくて細い男がこの部屋に居た覚えなど、一度としてない。ある筈がない。
何せ目の前の男は、佑壱が良く知る日向とは、似ても似つかない数年前の日向なのだ。

「何、一緒に入りたかった?」
「………ひょわ!」
「何だよその悲鳴、傷つくだろうが」

ばさっとタオルを投げた日向を怒鳴る前に、のしっとベッドの上に上がってきた細い体躯にマウントを取られた。何故こんなに簡単に押し倒されているのだと、天井を背景に日向を仰ぎ見た佑壱は、やはり見慣れない顔に息を呑む。
今の日向はこの頃より髪が長く、襟足は肩の付け根より長い。比べて目の前の日向は、耳の位置より幾らか長いだけの短髪だ。今は濡れて頬や額に張りついており、愛らしい顔立ちがセクシャルな雰囲気を纏っている。

「な…何事っスか…?何か、あの、お前、つまり企んでんのか?!何かを!」
「はぁ?まだ寝惚けてんのか、いい加減起きろ」
「って!」

ぴん、と。
額を日向の指で弾かれて、佑壱は額を押さえた。ただ揶揄っただけだったらしい日向はベッドの隅に腰掛けると、ボトムを履いた足を床に投げ出している。
低血圧で目覚めが悪い佑壱のベッドは低めで、その分分厚いマットレスを置いているものの、ソファ代わりにするには低すぎた。体躯の割りに足が長すぎる日向もまた、長い両足を持て余しながらミネラルウォーターのボトルを煽っている。悪夢だ。何故佑壱のマンションなのに、こうもこの男は寛いでいるのか。

「良し高坂、悪い事は言わねぇ、牛乳飲め。牛乳が全てを解決する筈だ」
「あ?」
「元に戻れ!俺にショタコン趣味は、ないっ!」

沈黙。
天使もかくやと言うほど愛らしい顔立ちが、みるみる歪む。

「ちっ。…テメェ、さっきからそれ喧嘩売ってんのか?自分が無駄に育ってるからって調子乗ってんな」
「テメーが急激に縮んでっからだろうが!俺よりデカい癖に、何で若返ってんだよ!」
「はぁ?…あー、ああ、成程、そうかそうか」

ボトルのキャップを頷きながら閉めた男は、濡れた髪をピアスだらけの耳に掛けながらくるりと振り返った。
何故か全裸で寝ていたらしい佑壱は、武士の情けで下半身にだけブランケットを掛けたまま日向が部屋から出ていくのを待っていたが、にまにましている日向が何故か近づいてくるので、ビクッと後ろへ逃げる。
が、高反発マットレスと枕をこよなく愛用している佑壱は、固すぎる巨大な枕に尻をぶつけ、とうとう再び目前で日向を凝視する羽目に陥ったのだ。

「お前、誘ってんならもっと判り易く誘えや」
「…はい?」
「ほら、お前の大好きなデケェの出してやっから」

ぼろりと。
愛らしい顔が、余りにもえげつないものをズボンの間から引っこ抜いた。眼球が飛び出した様な錯覚を覚えたカルマ副総長は呼吸を忘れ、目の前に晒されたとんでもない物を凝視するしかない。

「あ?何だよ、ヤりてぇんじゃねぇのか?」
「オーマイガー」

怪訝げに首を傾げた日向を前に、気を失い掛けた佑壱は後ろに倒れ込んでゴツッと後頭部を強打する。ベッドのヘッドレストに派手に打ち付けたらしい。
目からチカチカと火花が散ったが、痛みはあったのかなかったのか、今の訳が判らない状況による驚愕で、痛みを感じている余裕がなかったのだろうか。

「ジーザス、何がどうなってやがる。何で寝起き一発目から、他人の凶悪な汚物を観察しなきゃなんねぇんだ…」
「凶悪で悪かったな。その凶悪なもん突っ込まれてよがり狂ってたのは誰だか」
「よがり狂ってただと?!何の自慢話だテメー、ホモの自慢なんか糞食らえだコラァ!」
「おい、あんま暴れんな。俺様が出した奴がまだ残ってんだろう?」

困った様な表情で宣った日向にもう一度叫ぼうと腹に力を込めた佑壱は、枕に乗っかっている自分の尻からどろりとした何かが零れた様な感覚に、眇めた双眸をぱちっと見開いた。
この感じた事のない違和感は、何なのか。いや、正確には覚えがある。座薬をぶち込んだ時に度々、何かこんな何とも言えない気持ちになった事がある。

「お前が、出した…?」
「ああ」
「ど…何処に何を…」
「はぁ?説明して欲しいならしてやるが、お前、ンな趣味あったのか?」
「…いえ、ありません、大丈夫でス…」
「可笑しな奴だな」

風邪には座薬だと頑なに信じてきたナイチンゲールオカンの十八番は、カルマの犬共が震え上がるTHE☆座薬だ。注射を嫌がる子供なら度々見掛けるが、カルマの犬が嫌がるのはまず間違いなく、この座薬である。
ちょくちょく風邪を引く神崎隼人が恐らく一番の犠牲者だが、カルマに入って間もなくインフルエンザに掛かった隼人が初めて座薬をぶち込まれた時、ちょっとした血を見た事がある。単に嫌がった隼人が暴れ回ったのだ。

「お…お前まさか、この俺に座薬を…」
「あ?座薬だと?」
「いや、良い…。聞きたくない…」

何故だろう。
聞いてはいけない気がした佑壱は、さらっと忘れる事にした。男だもの、ちょっと踏ん張りすぎて痔になりそうになる事などままあるものだ。
そんな時はとりあえず座薬をぶち込めば何とかなるものだ。大抵放っておけば治る体だが、やはりデリケートな部分は放っておくにも痛みや違和感が強い。弁慶の泣き所と言う奴だ、嵯峨崎佑壱であれど尻の穴を鍛える事は出来なかったのである。

「おい、何処行くんだ。風呂に入るなら、」
「トイレだっつーの、…邪魔すんなよ!」
「判った判った、邪魔なんざしねぇよ」

ならば踏ん張りすぎるなと言う話だが、何事にも全力投球なのがオカンのチャームポイントだった。
トイレで日々の献立をあれこれ考えつつ、英字新聞を読んだりするのだ。親父臭いだのオカン臭いだのの突っ込みはお断り、トイレは用を足すだけではない、神秘のパワースポットなのである。何のパワーが漲るかは定かではない。

遠野俊レベルになってくるとトイレで食事も済ませてしまうそうだが、生憎、流石の佑壱もそこまで極めてはいなかった。然しトイレで歯磨きを兼ねる事は度々ある。アメリカ人は基本的に、合理主義なのだ。



「………マジか…」

そんなアメリカンがトイレでリラックス出来ない日が、たまにはやってくるらしい。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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