帝王院高等学校
チミお腹減りたもう事なかれですわょー!
「ほむら」

懐かしい声だと、何度聞いても同じ事を思う。

「此処が現世であれ常世であれ、貴方様に名を呼んで頂ける日が来ようとは。…与えられた役目を果たせば消えるものだと、思っておりました」
「だが、私も貴様も消えていない」

人間と言うものは、どんな時であれ変わらないらしいと、腰掛けている椅子にしては不格好な、虹色の大蛇へ目を落とした。

「蛇、か。…因果な」
「己より大きな存在と面しても恐れず立ち向かった覚悟、救いの采配は下されましょう」
「貴様も、吾子の顔を見たか?」

静かな声音で呟いた女へ、男もまた、静かに頷く。
顔立ちや立ち振舞いが似ている二人は、性別と髪の色が違うだけだった。

「北緯と言うそうです。何の因果か、殿子の双子であると」
「因果の鎖が切れた証だ」
「然し、同じ血を継ぎながら、弟だけが召喚された理由が我には判りません」
「…全ては、神の御心の中にのみ」

明るいだろう、と。
女は深い緑の隙間から差し込む光を指差した。

「『負』とは決して悪ではない。覚悟を負う者、悉くを赦す者、負とは転じて正となり得る。光が闇に転じる様に」
「…」
「『緋』とは糸に非ず、紡ぐ者ではなく、続く者。王の頭に白と書いて『皇』。その冠を黒にするも白にするも、全ては主の裁量だと俊秀の宮様は仰せになられた」
「秀之の宮様は何故、自らお下りになられたのですか?本来であれば宮様が明神を騙るなどあってはならない事だと、我は感じておりました」
「俊秀の宮様の強すぎるお力を、寿公は畏れておられた。人の姿をした我が子をいずれ、神が拐かせてしまうのではないかと…」

懐かしむ様な女の声に、男はゆったりと息を吐く。

「それでは寿公が、正妻の長男である俊秀の宮様ではなく、側室の元に産まれた秀之の宮様を、正式な嫡男に指名なさろうとした理由は…」
「愛するが故だったのだろうと思う。然し俊秀の宮様を誰よりも慕っておられた秀之の宮様は、幾度となく父上様へ直訴なさった。それを知ってか知らずか、俊秀の宮様は漸く妻を迎えると仰ったのだ」
「…桐火様、ですか」
「俊秀の宮様には、やはり全てが見えておられたのだろう。さもなくば妻を娶る事なく屋敷に籠り、人との接触を嫌う事などなかった筈だ」
「はい。俊秀公は誰よりも慈悲深く、お優しい方でございました」
「死ぬより他に救いのなかった桐火を救うて下さった、我ら雲隠の王ぞ」
「なれど、弱く愚かしい我には因果に思えてならないのです。二人目の妻が産んだ不忠の子は、在りし日の俊秀の宮様の様に、己を軽んじています。我の血が流れているとは到底思えぬ強い男であるのに…」
「二葉と言ったか」
「芙蓉は俊秀の宮様を裏切り、二葉は俊の宮様に仕えねばならない使命を放棄し、…よもや榛原の嫡男に従うとは」

何と愚かな。
絶望とも取れる声は吐き捨てる様に、落胆を込めて大気に溶けた。

「貴様から雲隠を名を奪い、十口に落とした榛原が憎いか?桐火をも殺そうとした榛原が、憎いか?」
「…」
「榛原の呪は、我ら雲隠から貴様の名を奪った。生きている内はとうとう、焔と言う名を思い出せなかった愚かしい母を憎んでいるか?」
「憎むのであればそれは、己の弱さばかり。叶の籍を抜けた筈の孫娘は、何を思って子に『北斗』と『北緯』の名を与えたのでしょうか」
「焔、北斗、北緯。ふむ。貴様らは『ほ』の系譜か」
「…母上」
「ふ。だが健勝の様だな。その大蛇は、北緯が一人で伸したのか?」
「多少助太刀は致しましたが、不要の烙印を頂いた我が子にしては誠に強く育ったものです」

黒が混じった赤毛は、焦げ茶に近いほど色が濃い。
幼い頃に離されて以降、死ぬまで会う事のなかった母親を、死んだ後に見る事が出来るなどとは、想像だにしなかった。

「なれば、芙蓉と不忠の子の元には行かんのか?」
「火霧様こそ、桐火様のお姿は?」
「己の妹を他人行儀に呼ぶ。追放された身とは言え、貴様は十口の主に上り詰めたではないか」
「…滅相もない。十口で重宝されたのは、火霧様より頂いた雲隠の血でございます。二人の妻を頂き、先に生まれた芙蓉には哀れな名を授けました」
「…」
「脆弱な我の愚かな振る舞いが、芙蓉を裏切りの道へと陥れたと思えてならないのです。榛原より名を剥奪されたからと言って、我は死ぬまで雲隠を忘れた事などありません。失った名を取り戻したいと心の何処かで願っておったのです。十口を名乗りながら、真は失った腕と共にいつか帰る日を待ち望んでさえ、いた」

木漏れ日がゆったり、降りてくる。
キラリキラリと乱反射する地面、凪いだ深い森の木々を見上げた二人は長く沈黙した果てに、揃って息を吐いた。

「聞こえたか」
「しかりと」
「三度の来客だ。咎なくして落ちぬ負の庭とは言え、罪人である私が人を裁くなど、傲慢だと思うておろう?」
「それが我らを蘇らせて下さった宮様のお望みとあらば、死者と言え、否などありますまい」
「貴様は叶に相応しい、聡明な子ぞ。母を傲るには烏滸がましい身なれど感謝する。私の息子、愛しい焔」
「…勿体ないお言葉にございます、母上様」

樹海へと落とされた新たな来訪者を二人は、静かに待ち構えている。
キラキラと光っていた木漏れ日が、瞬いた。




















そう、その時酷く耳障りな音がした事を覚えている。
世界が唸る様な、轟く様な、生命であればそれが命を脅かす音だと、否応なく誰もが気づいただろう。

「キタさん!イースト!」

嫌な予感と言うのは、えてして感じた時には手遅れになる事が多いものだ。ただでさえ重機で掘削していた地面は脆く、剥き出しになった地下に降りて作業していた人々から、悲鳴や怒号が聞こえてくる。
自治会長だからと言う責任感かと言われれば、高等部2年Sクラス次席の西指宿麻飛は悩まず否定しただろう。無意識だ。どんな悪者だろうと予想だにしない事態を前にすれば、目の前で起きつつある災難から目を背ける事など出来ないものだ。

「きゃっ。ぁわわ、わわゎ、リンちゃん、僕に掴まってぇ!」
「ひょわ!ちょ、ちょ、何が起きてる系?!」
「イースト!早く桜ちゃんを!」
「ああ、判っている!下がっていろノーサ!」

幼少の頃から父親の跡を継ぐ為に育てられてきただけに、育ちは悪くないとは言え、今の彼の優先順位は家でも親の期待でもましてや自分でもない。
同じ父親の血で繋がっていながら、姓を名乗る事は勿論、家の敷居を跨ぐ事さえ許されていない弟の、平穏だけだ。

「佑壱様ぁ!」
「んの、馬鹿女が!」

揺れる地面を転がる様に駆け出した女の事など、構う必要などなかった筈だ。大体、女は悉く身勝手だ。夫にも子供にも構わず、己の思うまま好き勝手仕事に生きている母親を嫌いと思った事はないが、隼人の母親もまた同じ様な女だと知った時に、哀れだと思っただろう?

「私がお助けしますからっ。何処ですか佑壱様っ、佑壱様ぁあ!」

だからその時、自分の人生に何一つ疑問を持っていなかった西指宿麻飛は、それが如何に哀れで愚かな事だったのか、思い知った。隼人を哀れだと思うのであれば、それは己もまた哀れなのだと言う事なのだ。

「よせ!お前は向こうに行ってろ、マスターの身内に怪我させる訳にはいかねぇんだよ!コラっ、マジで此処はやべぇんだって!」
「離してよぉ!佑壱様っ、私の佑壱様が死んじゃう!嫌っ、嫌ぁ!ラン!冬ちゃん!文仁っ!お願い、何でもするから助けて文仁!助けて、パパぁ!」
「危ねぇ!」

ああ、もう。
馬鹿な女だと初めから思った。高嶺の花と言う言葉を調べろとも思った。

頭が可笑しいにも程がある。
あの殺しても死にそうにない男の名を連呼するなど、正気の沙汰とは思えないからだ。あの、どんなに想っていてもただの一度として振り返らない男を呼び続けるなど、余りにも愚かだ。

『紅蓮の君』
『…』
『嵯峨崎君』
『うぜぇ。後ろから何度も呼ぶな粘着野郎、存在そのものがきめぇ』
『存在そのもの…』

目の前に立たねばろくに返事もしない背を嫌と言うほど見つめてきた自分なら、痛いほど知っている。

『おい嵯峨崎。昨日カルマの店にサブマジェスティが居たじゃねぇか。どう言う事だよ、副総帥が何でオメーんとこでお茶してたんだ?俺こないだ言ったよな、隼人に会わせろって』
『…』
『シカトすんなっ、おい!』
『この場で俺に再起不能まで叩き潰されるか、カルマの敷居を跨いで俺ら総出で完膚なきまでに叩き潰されるか、選ばせてやらぁ』

高等部からはたまに振り返って貰っても、夫の浮気相手を見る様な目で冷たく睨まれる悲しみが、誰に判るのか。言っておくが浮気をしたのは父だ、この件に関して西指宿に非はない筈だ。

『何で弟の顔を見るだけで死の二択なんだ、頭可笑しいんじゃねーの?だからお前は数学89点止まりなんだよ。因みに俺は98点。悔しいのか?え?悔しいんだろ嵯峨崎君』
『やんのかコラァ。総長に認められてねぇ奴が気安く8区の境界を跨ぐんじゃねぇ』
『8区にも入るなってか』
『テメーなんぞコンクリート貼り付けて排他的経済水域に沈めセメダイン』
『誰が粘着物だよ』

だからシーザーなんか嫌いなのだ。
後から出てきた癖に、嵯峨崎佑壱も神崎隼人も独り占めしている、癇に障る男。
8区所か都内の誰もが一度は聞いた事があるだろう、銀皇帝。黙って何も彼もを諦めるのは余りにも癪だった。そう、余りにも。


だから赤い赤い文字で書いたラブレターを、一度だけ、その男の靴箱に入れたのだ。

(すぐに判った)
(自尊心の塊である帝君が)
(たった一人)
(まるで子供が親を見る様な目で見つめる相手)
(彼らはそれをファーザーと言うらしい)
(ホームから一歩出ればシーザー)
(父親であり皇帝であり)
(今度は、外部生でもある様だ)

光炎親衛隊が外部生の制裁を画策している事は知っていた。
わざと高坂日向の耳に入らないよう、少しばかりセキュリティに手を加えておいたのは西指宿である。上級生の宮原を筆頭に、学年では同級生である国際科所属の宝塚が手を組んだ事も、全てだ。
全てを西指宿は知っていた。けれど見て見ぬ振りをした。計画が滞りなく進む様に。

理由は単純に、その程度で潰れる様な男ではない事を知っていたからだ。寧ろそれで潰れてくれるのであれば願ってもない事だと思っていた。


『負の感情は捨てた方が良い。君の為だ』

そんな事をどうして、忘れていたんだった?
(真っ黒な男が)(酷く慈悲深い眼差しで)(言った)(いつ?)(昔だった様な)(昨日だった様な)



(明日だった様、な)





「………あ?」

凄まじい亀裂が走ったのと同時に割れた芝生の狭間に、落ちそうだった女へ無意識に手を伸ばした。
そのたった今までの緊迫した光景が、まるで紙芝居の様にそっくりそのまま切り替わるのを、自分は確かに見ている。

そうだ。
目を限界まで見開いたまま少しも逸らさず見ていた筈なのに、たっぷり間を置いて、吐息と共に疑問符を吐き出して尚、理解は遅れていた。と言われても大半の人間は訳が判らないだろう。それが己の身の上に起きれば、それ以上に訳が判らない。
今の今まで学園の敷地、見上げれば中央キャノンを望む校庭に居たのだ。視界に溢れていた人間、ブルーシート、芝生、白い壁、煉瓦、植木、そのどれもが今、一つとして存在しない。そんな事、有り得るのか?

「き…キタさん?イースト?桜ちゃん?」

縋る様に呟いた西指宿麻飛の頭上が、ガサガサと音を発てた。
弾かれる様に見上げれば、椋鳥に似た小鳥が木々の隙間に見える。成程、この光景は見た事があった。
ヴァルゴ庭園から裏手に栄えている、森の光景にそっくりだ。立ち入り禁止指定にされているフェンスの向こうは崖になっており、フェンスに沿って懲罰棟方面へ北上すると、帝王院が祀る神木があるのだ。セフレとの密会中に一度訪れた事があるが、あそこは今の様に樹海の中と見間違えんばかりの深い木々に覆われている。

精霊の一匹や二匹出そうだ、などと。
あの時嘯いた西指宿に、ロマンチックな事を言うねと、その日の恋人は笑った。

「…もしかしてさっきの全部、夢だった、とか?」

叶二葉と言う人を人と思っていない魔王に虐げられたのも、空飛ぶバイクで二葉と太陽がタンデムしていたのも、校庭が地震に襲われて崩れ落ちたのも、そう、全部が。
きっと悪い夢だったのだと、西指宿は張り詰めていた体から力を抜いた。

「何だ夢か。つーかンな所で寝るって、俺なんか変な病気になってんじゃねぇよなぁ?夢遊病だっけ?勘弁してくれよ、どうせなら隼人ン所に行けっつーの…」

ぶつくさ独り言にしてはしっかりした口調で宣うのは、単に気恥ずかしいからだ。早起きが得意ではないのは認めるが、特に低血圧と言う訳ではない。
度々、寮の器物損壊で早朝から自治会を悩ませている嵯峨崎佑壱や、起床後数分は眉間に皺を寄せている叶二葉ならともかく、西指宿は今まで寝た所と起きた所が此処まで違った事はなかった。寝相の悪いセフレに蹴り飛ばされてベッドの下で目覚めた事ならあるが、森の中で寝る様な趣味はないし、森の中で目覚めた事も勿論ない。

然し此処に至るまでの記憶がスコンと抜け落ちている事を鑑みても、無意識下で此処まで歩いてきたと考えるより他ないだろう。冷静に考えれば考えるほど今の状況の方が余程夢じみていたが、つねった頬が普通に痛かったので、考える事を放棄した。

「…何か妙に疲れた。腐れマスターに踏みつけられる夢なんか見ちまうし、嵯峨崎ファンの馬鹿女には噛まれるし、」

変な夢だと苦笑いを浮かべながら右手へ目を落とした西指宿は、うっすら歯形の残る己の手の甲を見つめたまま、沈黙する。
そんな筈はない。あれは夢だ。そうでなければ今、自分は何故、こんな所に居るのか説明出来ないではないか。


「ふざけんな。んな訳、あっか」

きっとこれは、忘れているだけで何処かでぶつけたに違いない。
それにしては綺麗な歯形に思えるが、現実世界の出来事が夢に反映されるのは良くある事だ。

「自分を疑うは美徳か、否か」
「!」

思考を振り払う様に西指宿が顔を上げるのと、その声が鼓膜を震わせるのは同時だった。
精霊や妖精が出ても違和感などない、ノルウェーの森の様な神聖な雰囲気を漂わせる森の中には余りにも似合わない、衣冠姿の男は平安を思わせる。
薄衣が垂れる烏帽子を被り、ベールの向こうの顔は見えない。

「不審者にしてはお綺麗なコスプレしてんな。もしかして迷った?」
「安倍晴明は狐の子と呼ばれたが、紛う事なき人の子。母の腹から産まれたあれを妖と謗るのであれば、安部河の麓、白蛇を祀る社に捨てられた子は、何と呼ぶ?」
「………はぁ?」

奇妙な台詞を投げ掛けられて、西指宿は首を傾げた。そう言えばこんな事が、つい最近あった様な覚えがある。きらきらと零れる木漏れ日が照らす木々、苔むした石、枯れ葉が彩る地面、目の前にはキラキラと、漆黒の烏帽子に戯れる光。

「3種9つの獣に囲まれて、私は人の姿をした獣の子として育てられた。犬が運ぶ肉を喰らい、狸が洗う実を喰らい、狐の尾を枕に眠る。それが私の全て」
「何言ってっか全然判んねぇけど、それ演劇部の出し物なん?エントリーリストにはマクベスって書いてた気がしたけど、勘違いかもな。雑用は書記に任せてっし…」
「私の持つ予見の力に価値を見出だして下された帝にお仕えし、都を守るべく私は人と同化した。私の父であり母であり兄弟である獣らは、人から同等には扱っては貰えなかった。それは何故か。姿形が人とは異なったからだ」

しゃなり、しゃなり。
彼は一歩進むごとにキラキラと、光を撒き散らした。
白足袋に草履、安っぽいコスプレイヤーとはおよそ掛け離れた、能狂言師を見ている様にも思える。

「私の家族は彼らだけだった。優しくも強き犬は金の毛並みの狼に見初められ、暁に染まる都の東に住み着いた。珍しい金色の狼は狐が如く神の化身として崇められ、二匹は狗神と呼ばれた」
「悪いけど、長話は他でやってくれるか?抱いてくれっつーなら尚更、今は青姦の気分じゃねぇんだわ」
「狸は世にも珍しい猫に化けた。民は初めて見やる珍しい獣に魅了され、その名声はとうとう帝の元に届く。私を都へ招いてくれた方だが、私は彼の方の顔を存じ上げなかった。帝が唯一御簾の内へ招いたのは、化かす事に長けた、狸だけだ」
「おい、俺の話聞いてねぇだろ、お前?」
「狗は番を永久に変えない。神にすら変えられない輪廻は繰り返され、狼は人に、犬は人に、二匹は今尚、共に在る」

何度となく繰り返される犬と言う単語に、西指宿は眉を寄せた。沈黙してしまった理由は単純に、何度呼ぼうと振り返りもしない真紅の長髪を思い出したからだ。
シャツの上からでも判るしなやかな肩甲骨、捲った袖から窺える褐色の筋張った腕、派手な色合いに騙されがちな端正な顔立ち、鼓膜に残る低過ぎず、然し高過ぎない声。そのどれもが、犬を自称する男のものだった。

「金の、狼…」
「狸は帝に寵愛されるがまま、猫として死んだ。邪馬台国に猫など他には存在しない。嘆き悲しんだ帝は、優秀な術師である安倍に命じる。神をも恐れない、猫の復活を。死して狸の体に戻って尚、帝は己の猫を愛していらしたからだ」

ふわりと、顔を覆う衣が踊った様な気がする。
風など届きそうもない森の中で、漸く、怪しい男の顔が見えたのだ。

「お前、高野健吾?!」
「否。我が名は天守」
「はぁ?!相変わらず意味不明な悪戯仕掛けて来やがって、何の真似だよ!」
「人から産まれた人でありながら化物と謳われた安倍に、神の輪廻を操る力などない。暴走した術は都を恐怖に陥れ、私の家族は次に次に死んでいく」
「まだほざきやがるか!判ったぞ、隼人だな?隼人に頼まれて訳判らん悪戯してんだろ?何が原因か心当たりがあり過ぎて判んねーっつの、本人呼んでこい!隼人の前なら土下座でも何でも、」
「最後に残った狐は悲しみに嘆く私を背に乗せて、崩壊した屋敷から連れ出してくれた。老いて寝てばかりだった優しい優しい兄弟は、私を救い出して間もなく力尽きる。黄色い毛並みの愛しい兄弟よ、私は黄昏に縁取られたお前の死に顔を忘れない。夕日より神々しい、光の様な死に様を」

ざわざわと、森が蠢いた。
ざわざわと、それはまるで、生きているかの様に。

「私には白い狐の姿が見える。それは狐の姿を模した仏の姿であると気づいた。言われるがまま、私は北へと走り続ける。何度となく夜が訪れ、幾度となく朝に抱かれ、幾つもの山と川を越えた先、純白の雪をも越えて、仏の元へ帰る為に」

ざわざわと、囁く様に叫ぶ様に、森が、大気が、世界が震えていた。誰も居ないのに何万人も居るかの様な、音なのに声の様な、何万人もの観客に埋め尽くされたスタジアムに一人、放り出されたかの様な。

「夕日よりも神々しい光の兄弟よ。
 帝をも狂わせた、美しい猫を装った兄弟よ。
 人に謗られて尚、最後まで人を守った仲睦まじい東屋の兄弟よ。

 お前らを弄ぶ輪廻を私は喜ぶ。
 誠なる神の再来を私は歓迎する。
 生命を縛り続けた摂理の崩壊を私は歓待する。

 それが如何に罪深い事だと、八百万の仏に罵られても」

ざわり。
凪いだ森の奥から、爆発する様な音が聞こえてきた。ガサガサと何かが急速に近づいてくる音がする。けれど目の前の男は動じた様子はない。

「地を這う者は空を尊ぶ。空を泳ぐ者は地へ焦がれる」
「お、い。これ、まさかテメーの仕業か?マジ何なんだよ、訳判らん仕掛けで人を脅かすつもりなら、」
「お前はどちらであるか、我が母なる神の眼前に示せ」

ああ、それは間違いなく虹だった。

「んなっ?!」

ただ、虹と言うものは森を引き裂いて現れるものだったか否か、驚愕のまま目尻を裂かんばかりに目開いた西指宿麻飛の知識では、答えられようもない。

「レ、レレ、レインボーの蛙だとぉお?!」
「ゲコ」

巨大な蛙が木々を薙ぎ倒し、晴れ渡る青空の下、西指宿に向かってぷにぷにな手を振っている。
いや、あれは手と言うより前足ではないのだろうか。と、最早意味不明な所で疑問を感じた高等部自治会長と言えば、虹色なのかオーロラ色なのか判断に窮する不思議な大蛙を前に、近年稀に見る笑顔を浮かべたのだ。

「お…俺なんか喰っても、美味くねぇぞ?」
「ゲコ」

蛙がウィンクしてきた様な気がする。
何だか蛙の円らな…いや巨大過ぎて円らと言うより球体な瞳から、これまた特大なハートマークが飛んできた様な気がした。

「お…俺に惚れてしまった?」
「ゲコ」
「マジかよ。蛙まで魅了しちまう俺の罪深さ、な…」

嗚呼。モテる自治会長はツラい。
完全に現実逃避している西指宿を前に、烏帽子を被った高野健吾そっくりな男は、ビクッと肩を震わせた。薄い布の下でオロオロとしている様子が窺えたが、ガサリと音を発てた西指宿の背後に気づくなり、煙の様に姿を消したのだ。

「あー、お前、メス?」
「ゲコ」
「何つーか、色々でっかいな。あ、褒め言葉だぞ?」

蛙と睨み…見つめあっている西指宿だけが気づいていない。
特大且つ虹色なお嬢さんを前に、ナンバーワンホストの如く言葉を選ぼうとした自治会長は、ふっと淡い笑みを浮かべて全てを諦めた。何にせよ逃げるしかない。
今更これが夢かも知れないなどと考えるだけ無駄だ。蛙に求愛される夢など、健全な青少年としては見たくないからだ。然し今現在見ているのだから西指宿は諦めた。

蛙のぷにぷに過ぎる指が伸びてきた。超恐い。これはもう逃げるしかない。そうだ、逃げるのだ。
西指宿麻飛は告白されて振った事がなかった。育ちの良さからなる断れない病とも言えよう。なので傷つけない断り方が全く判らないのだ。然し目の前のお嬢さんを怒らせれば、嫁を怒らせて刺される馬鹿男よりまだ酷い目に遭うだろう。ああ、考えたくもない。

「そんなぷにぷにすっと、俺以外は結構な確率で迂闊に死ぬぞ?良いか、思春期の男の子は壊れ易いガラスの十代だかんな?」
「ゲェェェコ」
「まぁ、神をも恐れないイケメンに触れてみたい気持ちは判らんでもねぇよ?だよな、俺も似たような経験あるしな、うん、判る判る」
「ゲェェェコ」

早く逃げるのだ、西指宿麻飛。
お前は出来る子だ。初恋が嵯峨崎佑壱だと言うしょっぱい事実さえなければ、そこそこ出来る子だ。お気に入りのセフレがマッチョな警備員だと言う事実さえ忘れれば、男女問わず抱ける男だ。
そう言えば西指宿は昔から、ぽっちゃりした子が好きだった。ふっくらした子だ。つまりデカいのが好きだ。そうとも、どうせ俺の初恋は嵯峨崎佑壱だ畜生。
だから西指宿が見上げるほど大きい(そして太りやすい)神崎隼人が、可愛くて可愛くてならない。

ついつい綺麗な赤毛に手を伸ばし、触ってしまった事がある。尻尾の様に揺れていたから、西指宿はどうしても触りたくなったのだ。
そして今やカルマの副総長たるあの男は、表情一つ変えず、味噌汁の具材を切り刻んでいた包丁で、西指宿が触れた髪をバサッと切り落としたのである。

〜西指宿麻飛ザベストオブトラウマメモリアルより〜


「ケロ子」

誰だ。
ナンバーワンホストの笑みを浮かべた自治会長は、木々の隙間に聳え立つレインボーを見上げたまま、背後に人が居る事にも気づかず、そっと手を伸ばした。そう、彼は逃げたのだ。

彼の平凡な山田太陽左席委員会副会長閣下は、常々仰いました。
辛い現実から逃げなければ分刻みで死ぬと。脇役のつもりでBL小説に軽い気持ちで出演したら、いつの間にかご主人公にされていたアンニュイな平凡。主人公と魔王と言う二大眼鏡に絶えず監視されている彼は、現実からの離脱が誰よりも早かった。
その割りには誰よりも闇に染まりつつある様な気がしないでもないが、それもまた彼なりの現実逃避なのかも知れない。多分。

「俺の女…つかメスになりたいなら、俺を喰ったり潰したり寝返りで蹴り飛ばしたりすんなよ?」
「ゲコ」

蛙は素直に、そのぷにぷにな手を挙げた。
成程、こうやって見れば中々に可愛らしいではないか。けばけばしいまでにレインボーだが。
男に産まれたからには、小さい男にはなりたくない。そうだ、小さい男にはなったら駄目だ。だって嵯峨崎佑壱がそう言っていた。畜生、いつか『イチ』って呼んでみたいものだ。恐らく死ぬだろうが。

「…良いぜ、俺も男だ。男だの女だの犬だの蛙だので悩むのは小せぇ男のする事だもんな。決めた!お前を俺の恋人にしてやんよ!」
「ゲコン」
「「…マジか」」

きゃ!っと、照れた様に顔を隠した乙女蛙に微笑み掛ける、ストライクゾーンが広すぎる自治会長の背後で、彼らは真顔で呟いた。

「あ?」
「この男…逃げず戦わず、よもや無傷で試練を乗り越えるとは…」
「何と悍しい…」

照れている初々しい蛙のぷにぷにな指に、ゴスゴス頬をつつかれながら、今にも顔が潰れそうなヤリチン自治会長は、つつかれた勢いでぐるんと振り返り、ずるりと鼻水を垂らしたのである。

「また新しいのが出てきやがった。屋外で4Pかよ、んな無理した事あったっけな…」

我らが帝王院学園高等部自治会長は、新しいハニーの巨大な指で押し潰されつつ、ぼそっと呟いた。ベロンと飛び出した蛙の長い舌に尻から背中まで舐められつつ、清々しい程に開き直った様だ。
喰われる前に喰ってやれ。流石はオタクの認めた浮気攻めランキング一位な男だけはある。

「ヒュー、髪の赤い巨乳と、吊り目の細マッチョ。やっぱこれ夢だってか?何となく嵯峨崎アラカルトな気配が出てきたって事は、いよいよ俺って奴はサブマジェスティに殺される訳だな。OK、俺の遺産は全部そっくりそのまま隼人に残す手続きは済んでる」

巨乳な赤毛と、黒髪の筋肉質な片腕の男は身構える。
無理もない話だ。目を丸めている金髪紫メッシュのヤリチンの背後から、円らな瞳を眇めた化物が睨み付けてくるのだから。

「よ、寄るな変態…!」
「火霧様、此処は我にお任せを…!」

プツン。
と言う音が西指宿から聞こえた瞬間、顔立ちの似通った二人は駆け出した。

「逃がすかよ、揃って俺好みの面しやがって。どうせならヤりまくって死ぬ方が良いに決まってら、追うぞケロ子!テメーら片っ端から孕ませてやる!ABSOLUTELYのウエストとはこの俺の事だ!」
「ゲェェェコ」

目がイっている自治会長もそれを追うように駆け出せば、恋する蛙もまた、跳ねる様に駆け出したのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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