帝王院高等学校
燃えよドラゴン?嬉し恥ずかし恐ろしや
室内へ入ろうとして硬直してから、どのくらいの時間が経ったのだろう。
通常、人様の部屋をノックして返事があれば、大抵本人だと疑わずにドアノブを捻るものだ。

などと、嵯峨崎財閥会長である嵯峨崎嶺一の、誰に向けたものか判らない孤独な胸中は、彼の背後で同じ様に動きを止めたままの三人にも伝わっているものと思われる。
いや、伝わっていると思いたい。


「………」

部屋の主の姿がない代わりに、果たして想像だにしなかった人物が窓辺を背にしたデスクに座っていた。好き好んで沈黙している訳ではない来訪者四人を、静かな眼差しで見据えたまま、その人物もまた、一言も発しない。

目を逸らせば負ける。いや何に負けるのかは知らない。

誰がこの異様な状況を打破してくれるのかと、祈る様な気持ちで誰ともなく考えた頃、長きに渡る膠着状態は終わりを告げたのだ。

それも、思わぬ所から。

「ええい、忌々しい…!あの老い耄れは本当にボケておるのか?!的確に人の急所を狙いおって、兄弟喧嘩でうっかり死ぬ所だったわ!………ほ?」

ガタンゴトンと床下へ降りていった本棚の裏側から、随分よれよれな男が出てきた。脱げ掛けた白衣も髪も明らかに乱れており、一瞬、情事後ではないかと錯覚する様な風体だ。
これに目を丸めたのは、嵯峨崎嶺一を含めて三人だ。無駄に色っぽい白衣の男に思わず口元を押さえた高坂夫人を除く、嵯峨崎親子である。

「シリウス卿?!」
「何で貴方が大殿の部屋に?!」
「冬月先生?!」

三者三様、台詞は違えども、驚いた表情は良く似ていた。
流石はファミリー、などと見当違いな所で驚くマダム高坂は、ワンピースさえ着ていなければイケメンにしか見えない恵まれた容姿に、困惑を装った。

「クリス達の驚いた意味が私には判らないんだが、そこの金髪のルークは、反抗期から髪を染めて学園長室を乗っ取ったと言う訳ではない…で、OKかな?」

此処に息子が居たら崩れ落ちただろう発言を、真剣な表情で口にした高坂に悪気はない。
全員の視線を一身に浴びた彼女は少しも狼狽えなかったが、ボロボロの白衣がちらりとデスクに座る男を見るなり膝から崩れ落ちたのには、流石に狼狽えた様だ。

「は、反抗期で染髪…!その歳で漸く反抗期が来たか、それは誠に目出度いのう、キング=ノヴァ!は、あは、あっは、あはっ!」
「…今のは褒められたのか?」

そこで再び硬直した高坂は、無理もないだろう。まさか学園長の机に座る男が、あのキングであるとは夢にも思っていなかったのだ。
今にも涙を流さんばかりに、ヒーヒーと床を叩きながら笑い死に掛けている保険医は、もうどうにもならなかった。確実に父親に似たのだろうと思われる。

「笑い事ではない、シリウス卿!何故この場に兄上が居られるんですか?!」

キッと眉をつりあげた嵯峨崎夫人の台詞で、笑い死ぬ寸前だった保険医は垂れ目を引き締めた。
引き締めたが、元々どうしようもなく垂れ目なので、大して変わらない。真顔でも笑顔に見える、オールウェイズスマイリーフェイスだ。

「おぉ。何故と言われても居るものは居るのだから、他に説明のしようがあるまい?師君らこそ、揃いも揃って大殿に何の用だ。どうせ儂らには聞かせられん様な、キナ臭い話でもするつもりだったんだろう?」

にまにま。
立ち上がりながら、膝の汚れを叩いた男は、人の悪い笑みを浮かべている。ぐうの音もない来訪者達は口を閉ざし、逃げるに逃げられない状況だ。
が、開いたままだった本棚の裏側から、ぬっと現れた白髪頭が何とも言えない表情でのそりと出てきたので、張り詰めた空気は解ける。

「陛下、やはり耳栓をしたままではどうにもなりません。畏れ入りますが、どうにか宥めて下さい」
「情けないのう、ネルヴァ。若いお前が無理なら、こやつは絶対無理だわ。相手が悪すぎる」
「龍一郎に手を挙げろと言うのであれば、私の返答は一つ限りだ。『やだ』」

ぷいっ。
学園長デスクに座っている理事長は、無表情で囁きながらそっぽ向いた。

「…は?」
「『やだ』」
「………陛下?」
「嫌な事は嫌と言えと、55年と三ヶ月前にそなたが言った言葉だ。忘れたか」
「ネルヴァ、落ち着いた方がよい。師君の為だ…」

カチンと、無表情に青筋を立てたエメラルドの瞳が細められたが、呆れ顔の保険医から肩を叩かれて長い息を吐き出している。

「私は今すぐにでも寂しい思いをさせてきた息子を羽交い締めにして、大人げなく最低三日は不眠不休で頬擦りしたい気持ちを抑え込んでいるのに。それを言うに事欠いて、嫌?出来ないのであればまだしも、単に、嫌と?…シリウス、すまないが優秀な君の頭脳で正しく翻訳して貰えるだろうか。どうも私の日本語理解力は、自覚する以上にお粗末らしいのだよ」
「大人げないぞネルヴァ。三日も息子に頬擦りするのはやめてやれ…」
「君の可愛いげのない孫ならいざ知らず、私のリヒトは全世界の私を大人げない父親に陥れる小悪魔だ。頬擦りが駄目なら何が良いのかね」
「儂の隼人は天使も霞む可愛さ………は、今は置いといて、いかんぞネルヴァ!師君、久方振りにガチで頭に来ておろう?!」

ポキッ。
首の骨で返事をしたドイツ人の目は、死んだ魚の様だ。
あわあわと白衣を振り乱している保険医は、声なき叫びで理事長を睨んだが、奴は無表情でそっぽ向いている。

「ネルヴァもこう言っておる事だ。妥協して頂けんか、ノヴァ」
「い・や・だ」
「くぅ!一文字ずつ区切りおって、なんと可愛いげのない…!」
「チッ。何十年経っても図体ばかりで、糞の役にも立たない男だよ」
「…ネルヴァ、客の前ではせめて最低限の世間体を守らんか?ん?日本語がどうだの言っとった癖に『糞の役』だと?斯様なスラングを使いこなすとは、よもや師君こそ反抗期か?ん?63歳になろう男が、今更ヤンキィになるのか?ん?」
「ああ、すまないねシリウス。既にステルシリーサーバーから消えた私だ、いい加減実家に帰らせて貰うのだよ」
「待て待て待て、今更ドイツに戻ると言うか?!」
「何を馬鹿な事を。そこの屋敷に決まっているだろう?我が家は徒歩十分だ」

眉を跳ねて、エメラルドの瞳に不機嫌を露にした元理事長秘書は、そっぽ向いたままの理事長を壮絶に睨み、戸口の四人へ目を向けた。さも今気づいたと言わんばかりの表情だ。

「これはクライスト卿、クリス殿下。お二人がお揃いとは」
「…ネルヴァ卿、サーバーから消えたとはどう言う事です?」
「嵯峨崎嶺一君、聡い君が判らない筈はないだろうに、わざとらしい事をするね。マジェスティルークの決定により、我らノヴァの円卓は崩壊したのだよ」
「まさか、本当だったなんて…!」
「つまり今の君もサーバーから消えた存在と言う事だ。残念だが、右元帥のファーストがどうなったかまでは、今となっては知りようがないがね」

やれやれと、彼は肩を竦めた。
グレアムに近い誰もが恐れた、皇帝の右腕にしてヨーロッパ最強の男とは思えない、自棄にあっさりした表情。違和感に気づいたのは、秘書の現役時代を直接は知らない、嵯峨崎零人だけだ。

「だがまぁ、この状況は使えるか…。最上学部自治会長」
「…は?え、あ、はい?」
「君に一つ、頼みがあるのだよ」
「藤倉理事が、俺に、ですか?」
「そう、君にだ」

こくりと頷いた元秘書は、未だにそっぽ向いている元上司を見つめ、胸元から取り出した万年筆を投げつけた。誰もが狼狽えたのと同時に万年筆を受け止めた金髪と言えば、若干、唇が尖っている。だが無表情だ。

「『あっちいけ』と言われたくらいで不貞腐れるのは、みっともないと思うがね」
「違う、『邪魔だあっちいけ、金玉潰すぞ愚か者が』だ」

見つめ合う元男爵と元秘書以外が、ポカンと口を開いた。
世界が恐れる先代男爵が、今『金玉』と言った気がする。そんなまさか、最も狼狽えたのは妹だったが、余りの混乱についつい夫へ『金玉って何?』と聞いてしまう程だ。
幾ら混乱していても、根っからウブなオカマは口を閉ざした。うっかりベルトに手を掛けそうになった零人は己の頬を素早く殴り、事なきを得る。

「シリウス、君は榛原の弱点を明神だと言ったが、灰皇院は一族の大半が血が近いとも言ったね」
「まあのう。雲隠が四家の長と呼ばれた所以は、帝王院に嫁ぐ者が多かったからだ。女系である奴等に反して、帝王院の家系には男が多いからのう。儂が知る限りでは、だが」

雲隠の単語でピクリと肩を震わせた嶺一に、零人は目敏く気づいた。
とは言え、テメー何隠してやがる、とは流石に言えない雰囲気だ。

「ともすれば、ミラージュの一人息子であるクライスト卿、並びに烈火の君のどちらかに、耐性がある可能性は?」
「ううむ。雲を掴む様な話だが、仕方あるまい。鳳凰公の声を記憶しおったアレには、他に方法がないからのう…」

こそこそと顔を寄せ合う男達に見つめられた、嵯峨崎嶺一&零人親子は揃って嫌な予感に震えたが、

「のう、クライスト。師君が大人しく協力してくれれば、ファーストの劣性遺伝の抗体を作ってやるぞ」
「ああ、ヴィーゼンバーグの優性遺伝による治癒能力不足についても、解決する可能性があるのだよ」

にっこり。
悪魔が二人、笑っている。それもそうだろう、元ステルシリー左右両元帥と言えば、とどのつまり、現在の嵯峨崎佑壱と叶二葉に値する、狂暴にして最悪の代名詞だ。

「「どうする?」」

無意識で父親の背後に隠れてしまった嵯峨崎零人はともかく、放心している嵯峨崎嶺一を余所に顔を見合わせたブロンド美女らは、すっと悪魔へ目を向ける。

「二人を決して死なせないと、お約束出来ますか?」
「嵯峨崎会長と零人君の身に万一の事態が起きたら、光華会並びに英国王室を敵に回す事を覚悟なさいませ」
「ほっほ、何、死にはせん。………多分な…」
「万一の事態が起きれば、我々は涙を呑んで陛下の命を差し出すと誓うのだよ。そして一人息子と余生をひっそり過ごすだろう」

晴れやかな程の笑みを浮かべて、それはそれは優雅に頷いたのだ。

「…理事長、遠回しに死ねって言われてますけど?」
「案ずるな、最上学部4回生嵯峨崎零人。ネルヴァは基本的に、私を馬鹿にしている」
「マジっスか…」
「ああ。そもそも人間扱いしているのかすら、怪しい」

痙き攣った零人の言葉に対して、さらっと呟いた金髪は、何処までも無表情だった。


























悲鳴が聞こえたと言って立ち上がった高坂組幹部の脇坂が駆け出すのを追って、話し相手が居なくなるのは困ると自作車椅子を颯爽と操りながら去っていった107歳。
殺しても死にそうにない彼は、遠野俊の曾祖父である遠野夜刀だ。

それを追う為、テラスに控えていたバトラーに「ご馳走様でした」と頭を下げたアンドロイドは、一口も飲んでいない茶を名残惜しげに一瞥し、凄まじい早さで走り始めた。
オリンピック選手がまるでお子様に思える、とんでもない早さだ。

「ヤト殿〜、待って下さい〜」
「待てと言われて素直に待つ遠野夜刀は粋じゃねぇんでな、はぐれて泣きたくなけりゃついて来い、ロボット」
「僕はアレックスです〜。覚え難いならアレクで良いですよ?」
「かーっぺっ!日本人が横文字名乗るなバカタレ、お前なんぞ『あられ』で十分だわ!」
「おや、お茶に合いそうな名前ですねぇ」

満更でもないらしいアンドロイドは、照れた様に頭を掻く。
プスンプスンと音を発てたオタクジジイの車椅子が、エレベーターを前に沈黙する。鋭い舌打ちを放ったジジイはゴスッとタイヤを叩いたが、動く気配はない。

「くそぅ、充電切れか…!」
「電動なんですか?」
「まぁな。非力な運転手でも軽々漕げる代物よ。俺の手はメスと女の子のおっぱい以外には、やる気を出さんのだ」

単に力がないだけだ。
体格は恵まれている癖に運動神経が死滅していた遠野夜刀は、自転車にも乗れなかった過去を秘めている。職業柄自分で車を運転する事もなかった為、義理の息子から半ば追放される様に院長を引退してからは、如何に楽に移動するかを追求した結果、この『粋すぎる☆カーチェアー3号』に行きついた。

「ちっ、腕立て伏せ3回で腰を痛めてから、暫く乗り回したからな…」
「3回?」
「何か文句があるのかアラレの癖に」

然し余りにも優秀な車椅子だったので、依存してしまっては体が訛ると、最近まで毎朝のランニングは欠かさなかった。女の子にモテる為なら努力を惜しまない男、それが遠野夜刀である。
曾孫にも是非真似をさせたい所だが、奴にランニングなどさせたら地球一周するまで帰ってこない気がしないでもないので、諦めよう。全力でハァハァしまくる主人公は、少しばかり弱った方が良いのかもしれない。

「あっ。野郎、何処に消えやがった!」

自力でタイヤを回してみたものの、数回漕いだ所で筋肉痛を訴えた107歳の車椅子は、心優しいアンドロイドが押している。
エレベーターに乗り込んだものとばかり思っていたが、ジジイがポチっと押したエレベーターはすぐに開いた為、ヤクザはエレベーターではなく、このフロアの何処かに行ったのだ。それに気づいたジジイは杖を振り回し、話し相手が居なくなったとしょんぼりしている。

「僕、センサーで探してみます。…あ、居ました!そこを曲がって突き当たりのドアを越えて三つ目の部屋です」
「流石はロボット。…ん?突き当たりから三つ目っつったら、駿河の書斎じゃねぇか?」
「すみません、僕自分で足を運んでいない所のデータは保有してなくて…」
「書斎の隠し扉から、龍一郎を寝かせてる寝室に繋がる廊下に出るんだが、脇坂の小僧がそれを知る訳がねぇ。…おい、ちょっと急げ」
「はい」
「ヒィ」

あ、ちょっとじゃない。
やはり人ではないと思い知らされる早さで廊下の景色が流れていき、声のない悲鳴をあげた107歳は、うっかり魂を手放したのだ。


























「ご無事ですか、学園長!」

勝手知ったるスコーピオ。
卒業してから実に20年以上が経過したが、時計台の内部は殆ど変わっていない。学園在学中に何度か忍び込んでは怒られていた悪餓鬼は、今や立派な極道だ。
などと、感慨に浸っている場合ではないだろう。

テラスから悲鳴を聞き付けた脇坂は、テラスから並んでいる窓の一つに目をつけ、廊下を疾走した。テラスからはすぐ近くにある窓だったが、内部からは遠回りしなければ辿り着かないので、極道は肩で息をしている。
学園長執務室と言う名の、帝王院駿河の書斎のドアを力一杯開いた脇坂は、走る時に外した老眼鏡を汗だくで掛け直し、目を丸めたのだ。

「…脇坂か。息を切らせてどうした?」
「どうしたも何も、声が聞こえたんで駆けつけたんです!テラスから見える位置の窓が開いてましたけど、何があったんですか?!」
「あったと言うか、なかった事にしたいと言うか、だな…」
「何なんですか、学園長らしくなく歯切れが悪い…。今は一介のOBです、極道が嫌でも元生徒として目を瞑ってくれやしませんか?学園長に何事かあったとなれば、俺ぁ、高坂の親父から殺されますぁ」
「う、うむ」

デスクに腰掛けていた帝王院駿河は、戸口からズカズカやって来た脇坂の勢いに負け、渋々頷く。

「私が戻った時には、手遅れだった…」
「は?」
「………自我を保てる自信があれば、止めはせん」

立ち上がった駿河が指差す先、書斎を兼ねた執務室の右側にある本棚に違和感を覚えた脇坂は、駿河が頷くのを認め、本棚に手を掛けた。

「そこに古い聖書があろう。我が父、鳳凰の形見だ。それを奥へ押せ」
「聖書…これですか?」

バイブルと書いてある分厚いハードカバーを脇坂が押せば、ぶるりと震え始めた本棚がガタリガタリと音を発てて、床下へと沈んでいく。
高坂の屋敷にも似た様なものがあるので、驚きは少ない。手の込んだ隠し部屋だと僅かに息を飲んだ脇坂の目前に、短い廊下が現れた。

「手前の部屋は物置、その先は向かいの廊下に仕掛けられた隠し出入口に続く。奥が私達夫婦の寝室だ」
「今更ですけど、入っても良いんですか?」
「ああ。…何と言えば良いか、お前は下手に騒いでくれるなよ」
「は?」
「嵯峨崎親子が声を荒らげた所為で、奴の機嫌が悪い。寧ろ最悪だ」

奴とは誰なのか、疲れた表情の駿河からは窺えない。
極道と言う危ない商売上、嫌な予感には従う様にしている脇坂は、ごくりと息を呑みながら、奥へ奥へと歩を進めた。

「最悪な事に、あれは今、己を18歳だと思い込んでいる。私が何を言っても黙れ爺の一言だ」
「…本当に、何があったんですか?」
「極道には極道を」
「へ?」
「………お前だけが頼りだ、脇坂…」

何故駿河は同情めいた顔をしているのか、首を捻りながら最奥のドアへ手を掛けた瞬間、中からガツンと言う凄まじい音が響いてくる。
それと同時にドアが激しく震動したが、人の声らしいものは聞こえてこない。

「…学園長?」
「何だ」
「在籍時代、何度も学園長の書斎に忍び込んだ俺が言うのも何ですが、まさか危ないモン飼っちゃいないでしょうね…?」
「馬鹿者、お前や高坂と一緒にするな。お前が想像してるそれとは違う」
「いや、そうですよね、すいません、考え方まで極道に染まっちまって…」
「犬や猫ではない。あれでも一応は、人間だ」
「に?!」
「…いや、極道…はたまた、狂龍と言った方が正しいかも知らん」
「恐竜?!」

噛み合っていないが、強ち間違ってはいないミラクル。

「見た目は辛うじて人だが、人と言うのが躊躇われると言うか…」
「が、学園長、俺ぁやっぱり帰っても…?」
「止めはせんが、…嵯峨崎親子は殺されておるやも知れん。タイミングが悪かった。流石の私も、まさか帝都が戻っておるとは思わなんだのでな…」

呟いた駿河は、ふいっと目を逸らす。
脇坂は頭の中で今の台詞を反芻し、人身売買と言う言葉を連想した所で気を失い掛けてしまった。

「学園長が、人を…」

清廉潔白とまでは言わないが、あの帝王院駿河が知らぬ所でそんな事をしていたなんて、極道の身でも信じられない。信じたくない。

「ま…ちょ…待って下さいや、学園長…!アンタ、俊は知ってんですか?!つーか寧ろ知られない様にして下さいよ…?!」
「何を興奮しておるか、脇坂。此処で余り騒ぐでない。中に地獄耳が、」
「アイツはああ見えて、嫌がってるホステスを庇う為に、50過ぎたそこそこの組長を全治三ヶ月にする様な真っ直ぐな男なんスよ?!」
「何だと?!」

遠野俊を三ヶ月も雇っていたある意味勇者は、今にも倒れそうな表情で吐き捨てる。
あれは丁度脇坂が店を離れていた時で、チンピラ共を率いていた組長が、脇坂が居ない事を理由に、調子に乗ったのだ。酒が入っていた所為もあるだろう。

何が問題と言えば、連絡を受けて戻ってきた脇坂の目に、十人は居ただろう極道のズタボロな姿が映った事だ。彼らが悪いのは先刻承知の上、脇坂は躊躇わずに高坂へ連絡を入れた。
光華会傘下の組を率いていた男だった為、脇坂だけでも締め上げるのは簡単だったが、念の為、上の指示を仰いでおいたのだ。高坂向日葵の決断は早かった。

『酒に呑まれる無様な餓鬼ぁ、咬み殺せ』

任侠に年功序列などあってない様なものだ。立場が全てを物語る。
高坂より年輩の組長であれ、傘下を取りまとめる総大将の指示に逆らえば、昨日までの同志が敵に変わる。
けれど、逆恨みした奴らが俊の身元を調べあげ、復讐する恐れもあった。

どうしたものかと悩んだ脇坂は俊を組へ誘ったが光の早さで断られ、クビにしたのだ。店に残らせるより安心だろうと思ったからだが、今になれば大失敗だった。
そう言えば俊と日向は仲が良かったと思い出したのは、俊をリストラした一週間後である。
珍しくにっこにこと可愛らしい笑顔で歩いている日向を見掛けた脇坂は、運転中に事故りそうになったが、その隣に俊を見た時には老眼鏡が吹き飛んだものだ。

まず日向が弾ける笑顔でチビった。
しかも腕を組んで、媚びる様に擦り寄っていた。何か悪いもん食ったに違いないと、ヒビ割れた眼鏡の下、青信号なのに停車したままの脇坂は随分クラクションを鳴らされたものだが、急ブレーキでエアバッグが作動していたのでどちらにしろ、身動きが取れなかった。
然し日向の恋人(?)を組に入れたりなどすれば、親馬鹿メーターを振りきっている高坂が激怒するのは明白、そうなるとなし崩しに日向が父親をボコボコにするのもまた、明白だ。

リストラして良かったと、エアバッグに顔半分食い込んだ脇坂は思った。ブーブー、クラクションを鳴らされながら。
然し本当の恐怖は、仲睦まじい二人を恐ろしい顔で睨みながらノーヘルで追い掛ける、大型バイクを見つけた時である。

『嵯峨崎会長?!』

ああ。
脇坂が帝王院学園在学時に、陛下と呼んだ男にそっくりな赤毛がバイクごと歩道へ乗り上げ、にこにこしていた恐ろしい日向と笑顔で睨み合っている。
在学時代を思い出した。初等部からワルだった高坂と脇坂が学園を抜け出す度に、風紀委員会に呼び出され、それを無視し続けると、それはそれは笑顔の風紀委員長が迎えに来たものだ。笑顔で人を殺せると有名な鬼の小林を知らぬ生徒は居なかった。帝君の癖に中央委員会を辞退し、自ら風紀委員会に名乗り出た男だ。

奴は自分がサボる為に風紀委員長になった極悪男だった。
それなのに自分以外がサボるのは許さないと言う、ただの人格崩壊者だ。
小林は度々懲罰棟に入れられたくなければ、中央委員会会長に嫌がらせをしろと脅迫してきた。陛下に嫌がらせをしたがる生徒など、普通は居ない。然し幼い高坂はどうしようもなく俺様だった為に、後先考えず実行したのだ。勿論未遂に終わった上に、学園内で唯一、鬼の小林を拳で黙らせる事が出来る赤毛から絞められた。 

当時、高坂向日葵12歳、嵯峨崎嶺一17歳。
最上学部へ進んだ嶺一が留学を決めるのと同時に中央委員会会長に任命された高坂は、とうとう一勝もしていない。

「あんな見た目に似合わず優しい餓鬼が、貴方の所業を知ったらどうなるか…!」
「それで俊は無事だったのか?!まさかそれが原因で不登校だったのか?!おのれ、一体何処の組だ!この私の孫に手を出すなど容赦ならん!即刻日本から…いや、この世から消してくれる、首を差し出せ!」
「こっわ」

ヤクザの様な台詞を恐ろしい表情で宣った男は、然しそれが出来る立場にある。入院を理由に学園の経営から離れていたとは言え、傘下企業三桁に上る巨大財閥を取り仕切っている、名実共に日本の王様だ。
目には見えない怒りの炎に背を正した脇坂は、慌てて首を振る。

「その件については俺から親父に説明して、処分は済んでますぁ…!舎弟200人たぁ言え、十万を越える光華会会長に指を詰めろと睨まれちゃあ、おしまいですから!」
「…貴様、指だと?私の可愛い可愛いお孫ちゃんに手を出しておいて、高々指の一つや二つで済むと思うてか!我が帝王院の宝を腐れた指で済ませられると本気で宣って、」
「退け爺」

苛烈な怒りが収まらないらしい帝王院駿河が叫んだ瞬間、ガコンとドアが開いた。
吹き飛ばされた脇坂はズレた眼鏡を押さえ弾かれた様に顔を上げたが、今の今まで怒りで顔を赤く染めていた駿河が青褪めているのを認め、眉を跳ねる。帝王院財閥会長とは思えない狼狽が、これ以上なく伝わってくる緊迫した表情だ。


「小僧。貴様、随分面白い話をしておったな」

誰だ。
凄まじい威圧感を秘めた声が頭上から振ってくるのに、ヤクザは震えそうになる体を引き締め、ゆっくりと顔を上げていく。

「馬鹿共が下らん質問攻めにしてくれたお陰で、今の俺は機嫌が悪い。隠せば貴様の身にならんぞ」
「っ、……………あ?」

震えながら顔を上げた脇坂の老眼鏡に、その恐ろしい男の表情が映った。

鬼だ。
いや、違う、ヤクザだ。
あ、ヤクザは自分だ。

「帝王院の宝とは何だ。隠すのであれば無理矢理聞き出すのも一興、」
「と………遠野の親父さん?!」

然しそれは、酷く見覚えがある男だったのだ。
但しヤクザが青褪めたのは怖かったからではなく、幽霊だと思ったからだと、彼の名誉の為に追記しておこう。

「誰が貴様の父親だ、何が遠野か!誰も彼も馬鹿げた事をほざく、俺は冬月龍一郎だ、愚か者が!この俺につまらん戯れ言をほざいた我が身を恨み、仏に祈るが良いわ!」
「っ」

光華会副会長、脇坂享の絶叫はこの日、某オタクの腹の音を越えた。



かも、知れない。

(#)ばかん→
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あきゅろす。
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