帝王院高等学校
この裁き、陪審員裁判ですか?!
「Küsse gab sie uns und Reben,(摂理はキスとワインと、)
 Einen Freund geprüft im Tod.(死に等しい試練を越えた友を与えて給う)」

彼は本を読んでいる。


「万事、一切に抜かり無し・か。」

彼はただ、本を読んでいる。

「天蓋を彩る銀河は、斯くも灰燼の如くあさましかれど、万物不変磐石の礎に揺るぐ理(ことわり)莫れ」

彼は、今尚、本を読んでいるだけだ。
(彼の刻は動いていない)
(停止すらしていない)
(始まりから刹那さえ)
(不動)



「布石、只微塵の相違能わず、一様に我が意思の許」

彼の目の前に鎮座する盤上の駒は、次に動く事は永劫、ない。

「Wollust ward dem Wurm gegeben,
 und der Cherub steht vor Gott.(愉悦は矮小なる魂にも等しく差し伸べられ、聡明たるや対翼は、天王山に堕つ











Dear My Caesar
-我が神へ告ぐ-



シンフォニア・ノーヴェ・ラ・クワトロ

交響曲
第9番
















五感は、何処に在・る?
矮小にして脆弱、七年もの時を懸け殻を脱いだ羽虫は、何故、豊かな翼を得られぬまま死に逝く・か。

(目は見えている)
(心臓は脈を打つ)
(ならば何故)
(時が動かないの・か)



「哀れな」

子供の声だ。
それは酷く静かな、子供の声だった。

「人の最中(はざま)に在りて人に拒絶(ひてい)されし同胞(はらから)よ。希う(まつろう)須くが人の創造せし空蝉(むくろ)だと、何故気づかない」

ノイズが酷い。
ああ、鼓膜だけが先に、戻ってきた。

「…誰ぞ、其処に在るか」
「己が理に在りて目も見えぬ、触れもせぬ、御するが悉く適わぬ、哀れな靈よ」
「たまし、い、とは。斯様に嗤わせる妄言が、あろうか…」

耳が戻れば、良い。
視覚のない生活には、とうに慣れている。

「私の名を知りたいか、理に招かれざる盲者よ」
「ああ、それには及ばん些末事だ。固く黙したまま我が眼前から寂滅せよ、スケアクロウ」
「下らん事をほざく」

ああ、見えた。
既に想像した通り、憐れな程に透ける白肌銀髪の子供が見えた。然し想像だにしなかったのは、その唇が吊り上がっている所だろうか。

「四肢を許されぬ理を捻じ曲げる力もない癖に、浅慮この上なく儚い戯れ言を歌うな、仔羊が」
「…ほう。私の記憶の一縷に過ぎん分際で、歿するまでもない囈言を宣う」

懐かしい眼だ。(いや、初めて見たんだったか)
笑える程に記憶している眼だった。何せ目の前に、砕け散ったステンドグラスが見える。同時に、体が動かない理由も把握した。

「甚だ頭が高い、汚泥の羊が」

あの時あの男は、微動だにしなかったのだ。
(金髪の悪魔)(王の銘を与えられた)(男爵)

「貴様の命を以て償え、カイザー・ノア=グレアム」

身の丈にそぐわない、それは巨大な鎌だった。
デスサイズ、死神を思わせる鋭く尖った長くも大きな刃が、真っ直ぐに下りてくる。


「畏れ多くも死神を準えたつもりか、黒羊如きが」

言葉が通じていると言う事は、話していると言う事だ。
話していると言う事は、声が出ていると言う事だ。
腹に溜めた空気を肺へ搾り取り、喉を震わせ、舌を打っていると言う事だ。

「!」
「何を斯様に驚く必要があろうか、幼き同胞よ」

喉を穿つ前に鎌の切っ先を片手で止めれば、小さな死神は判り易く目を見開いた。微かな変化だったが、今の自分に比べるべくもない、豊かな表情だ。

「己の表情を逐次確かめるには鏡が必要だが、生憎、私は己の顔を見たいと思った事はない。一度として」

知っていると言わんばかりの眼だった。
然し、その囂しい唇が再び音を奏でる事はない。既に自分の足元に伏しているからだ。

「私こそが最も私を嫌悪する。私こそが最も私を拒絶している」

躊躇った事などない。
人生のどれを遡っても唯一の例外を除いて、躊躇うに値する事象など存在しないと、知っている。

「その俺の前に俺の姿で現れるとは、あえかに尽きる愚考だ」

足の下で砕ける音がした。
あの日あの時、ステンドグラスが砕け散った時の音を思い出した様な気がしたが、錯覚ですらない。ただの記憶回帰だ。ほんの一秒にも満たない。

「駒、ただ微塵の相違あたわず、一様に我が意思のもと・だ」
「…何だと?」

既に五感はある。
あれど気配はなく、反応が一瞬遅れた。



「やぁ、お兄さん。ゲームは好きかい?」

明確に。
先程までの声を雑音と呼ぶなら、今度は濁り一つない湧水の如く澄んだ声が、落ちてきた。
やはり勘違いではないと目だけ上へ向ければ、王冠を被った男が空中で胡座をかいている。見慣れない、似合わない姿だ。

「…この場合、客とはどちらを指すのだろうな」
「チェスをしよう。お前さんにはお似合いのゲームだと思わないかい、神帝陛下」

彼の父親であればまだ、腑に落ちる。
然し砕けたステンドグラスを背に、太陽と見間違えんばかりの巨大な月を背に笑うそれは、憎たらしいほど無邪気な笑みでコインを取り出した。

「お前さんにお似合いの銀貨、これで先攻後攻を決めるから」
「そなたのつまらん遊戯にベットした覚えはないが?」
「やるしかないのさ。だって君はルークの癖に、『王様』なんだろう?」

虫酸が走る。
目映いばかりの名を持つ、明らかに自分に近い生き物。誰かがあれをソルディオと宣ったが、ディアブロの間違いではないかと言っておけば、少しは気が晴れたのだろうか。

「幸福の反対は不実、魔術師の反対はペテン師」
「…アルカナか。そなたにタロットの趣味があろうとはな」
「何か勘違いしてないかい?此処は現実とは程遠い、虚無の世界だよ?」
「それがどうした、泡沫(うたかた)の山田太陽」
「皇帝は『指導力』と『無気力』が表裏一体、お前さんにぴったりだろう?」

ぴんっ、と。
その指に弾かれた銀貨が、一度高く舞い上がり、やがて落ちてくる。

「『太陽』の表は幸福、裏は不幸。だから俺は表に懸けるよ」
「『死神』の正位置は文字通り死だが、逆位置は回避だったな。…良かろう、裏だ」
「あはは。ノリがいい男はモテるんだ」

音もなく落ちたコインは、頭蓋を砕かれた醜い子供の血だまりに沈んだ。耳障りな笑い声を響かせながら降りてきた男を前に、何の感慨もなく口を開く。

「見ろ、裏だ」
「だね。じゃ、お前さんが後攻って事で」

似合わない冠を被った男は悪びれもせず、ヘラヘラと口の中からチェス盤を取り出した。一々驚く事もない。総じて『ただの白昼夢』だ。

「一般論だが、コイントスを制した者は先攻ではないのか?」
「つまんない事を言うんだねー、神帝陛下ともあろう方がさー。じゃあ聞くけど、『先攻と後攻どっちにする?』」
「『お前程度に加減した所で目に見えた勝利だ、後攻で構わん』」
「あはは!でしょ?じゃ、問題ないよねー?」

これが現実であれば、恐らく躊躇わずその首を圧し折ったに違いない。自分の脳内で変換された、現実とは異なる山田太陽は表情豊かな振りをした、感情のない人形に等しい。

「光風霽月、一天の曇りなく誇れ。そなたの笑みは私の知る限り最も癇に障る、万物唯一無二の醜悪だ」
「ありがとー」

腹の奥底で唸る音がする。
これが殺意や憎悪ならば、いつか金髪の悪魔に差し向けたそれは、蛇が龍を舐める程のものだったと思えた。

「精々一瀉千里に傲り貫くが良い、蝉の仔よ」
「さぁ、始めよう。お前さんのキングはお前さん自身、さて、それじゃ俺のキングは『誰だと思う?』」

予感はしていた。
僅かなりと想像すれば、刹那でも脳裏を過れば、それは瞬く間に実像と化すのだろう。

「…嗜好すら醜悪に尽きる。虚構は所詮、虚(うつろ)に過ぎぬと知れ」
「そうだね、俺の王様はお前さんが知ってるだけの記憶で創造した、言う通り想像の具現でしかない。それでも、少しは退屈しないで済みそうじゃないかい?」

くすくすと似合わない笑みを零す男の指差す先、チェス盤の上、敵陣の中央に、そのノアは立っていた。

「名付けて、『シーザー=ノア』かな」
「それでは私は、カイザー=ノアと言った所か」
「ルールは簡単、跳ねられた駒は二度と戻らない。引き分けはなし。制限時間もなし。但し、」

つくづく、気に喰わない。
これが現実ではないとすれば尚更、自分は『山田太陽と言う人間を此処まで評価している』と言う証明に、最早他ならないからだ。



「負けたら王の首を刎ねること」

笑顔で宣う男の、銀だと思っていた冠が灰色だと気づいた。

「さっきみたいに表情一つ変えないで、今度はシーザーの頭を砕く所を見せておくれよ、マジェスティ」
「θορυβώδης διάβολος.(悪魔が)」
「あはは。…お互い様だろ?」

苦手意識などない筈だ。
あまつさえ、嫉妬など微塵も抱いていない。












そんな事

考えて









時点・で、














「さて此処で状況分析しよう。
 見るからに毒々しい料理を散々見せつけられた直後に、何の変鉄もないマグカップが、二つ」

呆気ないほど淡々と、その声は世界を支配した。

「冷静に考えれば、そのカップが二つ共『毒入りじゃない』と言う証拠はない」

にこにこと。
この世界で笑っているのは今、その男だけだった。

「勿論、君はそれを『飲め』とは一言も言っていないし、今後『飲め』と言うつもりすらなかったのかも知れないけどねえ」

無意識に肩の力が抜けた事を、神崎隼人は冷静に感じている。
腹立たしいばかりだが、場が隣の男のペースに引きずり込まれた事を痛感したからだ。目前の女の表情を、わざわざ確かめるまでもなく。

「さて、だったら何でカップを二つも出したのか気になるよねえ?先に一つ飲めばまだしも、二つ共飲まずに卓上に差し出したまま。僕にはまるで、選ばせたいかの様に見えちゃった」
「…意地悪な方」

カップの取手から、両方の手を離した女が搾り出す様な声で呟いた。例えるなら、ゲームオーバーと言った所か。
あざといほど丁寧に、悪く言えば鬱陶しいまでに執拗に、単純な足し算をわざわざ展開する様な説明は、悪意を感じさせない暢気な声が吐いたものだ。見事なまでに、その全てが悪意にしか思えない。

「ねえ、糸魚くん。疑いなさいと言ったでしょ?」

出来れば見たくないが、警戒すべき女からは、先程までの奇妙さが消えていた。よって隼人の視線が隣に移り変わったのも、至極自然な流れではないだろうか。

「君が此処に存在するならどうして、僕は存在しないって思えたの?その根拠は?どんな考え方でその結論に至ったのかな?興味があるなあ、僕とはまるで違う思考経路に、興味があるなあ」
「…そうです!私は馬鹿なんですから、龍流さんに勝てる筈がありませんっ!」

ばん!っと、初めて喜怒哀楽を派手に現した女がテーブルを叩き、顔を真っ赤にして立ち上がった。
到底そんな態度を取りそうには思えない冷静な女だとばかり思っていただけに、隼人の隣に座って堂々と頬杖をついている猫背男が如何に質が悪いのか、明らかだ。隼人の感想は一言、『コイツうざい』である。

「なーに、もう白旗なのお?えー、やだやだ、つまんなあい」
「だからって、私が家族に毒を飲ませる筈がないでしょう?!酷いです、龍流さんが私を疑ってらっしゃるなんてっ、酷いです…!」
「え?君を疑ったなんて、僕いっぺんでも言ったっけ〜?」
「っ、え…?」

段々、彼女が可哀想になってきた。
現状対岸に座っているから現実味がないのか、二人は夫婦と呼ぶには極端過ぎたからだ。

「糸魚くんがそんな事する訳ないじゃんか。やだなあ、もしかして僕を疑ってたの?」
「そ、そんな、私が龍流さんを疑うなんて…!」
「そうだよねえ、仕方ないよねえ。いつまでものらりくらり独身でさあ、研究と勉強が趣味のつまんないオッサンだもんねえ、僕なんて…」

猫背でモサい男と、不気味さから目を逸らせば見目麗しい女は、誰が見ても夫婦とは思わないに違いない。少なくとも、隼人の理解の範疇を越えていた。越えすぎて眠たくなってきた程だ。

「嫁がなきゃなんなくなって、あんな格好やこんな格好させられて、まだ若いのに孕んじゃってさあ」
「あ、な、そ、っ?!」

欠伸を噛み殺し切れなかった隼人は目元を擦り、こんな時にも欠伸は出るのかと、どうでも良い事を考えた。ほんの少し、ほんの小匙半分くらいだが、認めたくない事を認めたくなってきた気がする。

「しかもいきなり双子だもんねえ。独身時代はいっぺんも失敗しなかったのに、結婚するなり二人の子持ちとかさあ、僕のモチベーションが右肩下がりだよねえ」
「へえ、モチベーションなんて言葉知ってるんだねえ、オッサン。記憶共有って感じ?」
「あは。オッサンなりにバイアグラもない時代、若い奥さんをどうにか引き留めたくて、そりゃあ頑張るつもりだったんだよお?隼人くんには判るよねえ、この男心がさあ」

下ネタに硬直してしまった妻から目を外した男が、頬杖をついたまま隼人を覗き込む様に近寄ってきた。悩まず足で押し返し、大袈裟な仕草で肩を竦める。

「いやー、全然判んねーっすわ。隼人君は中折れ知らずの高性能イケメンですからー」
「はあ。それがさあ、僕らの場合双子だもんねえ。龍人だけなら良かったのに、龍一郎なんかもう、産まれた瞬間から僕の事『エロジジイ死ね』って目でさあ、見てたもんねえ…」
「産まれた瞬間から?」
「そうだよお?隼人くんも覚えてるよねえ、母親の顔」
「…どうでもよいとこから突っ込んでくんだねえ、そーゆーのってさあ、不躾なんじゃない?」
「そうそう、友達からさあ、挨拶代わりに『お前は人の気持ちが判らない』って言われてた事あるよ?」
「うわあ、それ隼人君も言われた事ありまくりなんですけどー。やだあ、こんなキモいオッサンに似てるのマジ迷惑なんですけどお」
「龍流さんはキモいオッサンではありません!」

これには目を丸めた隼人に向かって、頬杖をつきながら振り返った男は、伸び放題で跳ねる前髪を掻き上げ、露になった顔にやはり、笑みを刻んだのだ。

「ねえ、かっわいいでしょ?僕の糸魚くん」
「顔だけは、まあね」

それは何処までも優しげにしか見えない、心からの笑みだった。

「僕はねえ、何でもよいんだよ。カラスが何色だとか、そんなのには興味がなくてねえ。だから学生時代の大半は、か〜なり無意義に過ごしたんだー」
「あっそ。隼人君はあ、超有意義なスクールライフ送ってますから、草葉の陰で悔しがってもよいよ?」
「父親は自尊心ばっかの馬鹿だし、母親は跡継ぎ産んだら自分の役目はお仕舞いって、僕の世話を姉さんに押し付けちゃってさあ。僕らそんな歳変わらないのに、ほんと僕が育ったのは僕の優秀過ぎる頭脳と姉さんのお陰だよねえ」

けれど台詞は最低で、人が混乱するのを喜んでいるのが痛いほどに判る。認めたくないが類友だ。血は争えないと言うが、確かにその通りなのだろう。
認めたくない。認めたくないが、隼人は自分がこの男に似ていると言う事実を、半ば受け入れていた。

「西指宿は分家の不始末で高森との縁を疎かにした所為で、帝王院の機嫌を損ねたと怯えるんだ」
「西指宿っ?!」
「冬月が皇だったのは祖父の時代までなのにビクビクしてさあ、頭を下げに来た。『糸魚との結婚を断ったのは巳酉お嬢様の事が好きだったから』なんて、判り易い嘘でしょ?馬鹿だよねえ、人間なんて傲慢な生き物が他人の生活にまで介入するなんてさあ、愚の極みとしか言えなくない?」
「ああ、アンタ自分の事しか考えてなさそーだもんねえ」
「あは、あっは、あはっ!政治家なんて馬鹿ばっか、お綺麗事の大義名分並べて、権力に酔いしれたいだけだと思うんだあ♪あは!時間の無駄遣いだよねえ!あはっ。人生なんてあっという間に終わるってのに、自分の為に生きなきゃ無意味じゃんか!ねえ!」

然し、心底認めたくない。

「何か良く判んないけど、この状況で良く笑ってられんねえ、趣味悪すぎ。つーかアンタ、性格悪すぎ」
「んー。性格はねえ、産まれ持ったものだからねえ」
「…つーか、アンタってボスの曾祖父ちゃんでもあるんだよねえ。何か、判ったかも」
「俊は僕よりずっと優しいと思うんだけどなあ」
「はあ?てんめーなんぞに言われんでも知っとるわ、エロジジイ死ね」
「隼人くん。16歳まで真面目に大人を揶揄って遊んでた僕と、12歳で大人のお姉さんとやらしー事してた君と、エロ度で現すなら隼人くんの方が、」
「黙れ」
「あっは!初々しいねえ、よいねえ、青春!」

どうも揶揄われている様だ。

「僕にもあったなあ、青春時代。セーヤくんに会いたいなあ。僕の親友、心の友セーヤくん…」
「嘘吐け、おめーにンな大層なもん居ねえだろーが。見栄張るのよしなよ、悲しくなっちゃうにょー?」
「やだなあ、隼人くんが『ぼっち』だからって…あ、ごめんねえ、事実の指摘は時として残酷だってセーヤくんが言ってた」

カチンと来るが、態度に示せば益々喜ばせるだけだろう。何を隠そう隼人が、そうだ。

「セーヤくん、ね。そんなひと、ほんとに居るなら出てこいっつーの。こっちは奥の手でカナメちゃん呼んじゃうから!ボコボコにされとけ、ばーか!」
「カナメちゃん、ねえ?」
「錦織要さんですね」

にやにやと、隣だけではなく向かいからも、何とも言えない笑みが向けられてくる。無言で眉を跳ねた隼人を余所に、目と目で会話した夫婦は、それぞれそっぽ向いて同時にブフッと吹き出したのだ。

「…ちょっと、何なの?」
「何でもありませんよ、隼人さん。ふふ…」
「そうそう何でもないよ?誰かさんが昔、ジュースだって嘯いて飲ませたシャンパンで、悪酔いした『王響ちゃん』からお尻に指突っ込まれた事とか、」
「油断している要さんを押し倒して犯罪スレスレの所で半殺しにされた事なんて」
「僕らは全然っ、知らないからねえ…?」

僅かに動きを止めた隼人は、みるみる内に顔を真っ赤に染め、無言でテーブルを殴り付けた。笑うのを耐えている二人は小刻みに震えており、先程自分が宣った『記憶共有』の本当の意味を思い知らされるばかりだ。

「いやあ、男女問わずモテモテな曾孫なんて自慢だねえ、糸魚くん」
「はい。ご近所に見せびらかしたい程ですね、龍流さん」

少し掘り下げて考えれば判る事なのに、やはり混乱が抜けきっていないのだろう。
そう理由づけておかないと、今の隼人には折り合いがつけられそうになかった。幾ら幻でも、曾祖父母を叩きのめす訳にはいかないからだ。いや、いっそ一思いにヤってしまいたい所だが。ニマニマすんな馬鹿野郎、畜生め。

「…ねえ、隼人くん。此処からは、自分を疑わないと出られないんだよ」
「はあ?唐突に何なの?」
「人はそれを絶望と呼ぶんだ。積み重ねてきた価値観の崩壊、そこから新しい道を見つけられるかどうか」
「何それ」
「俊にとって僕は想定外かも知れないねえ。あは。神の脚本に僕を書き加えたのは、紛れもない神様だからねえ」

頭が可笑しいのかと吐き捨てようとして、諦めた。何を言っても喜ばせる様な気がするからだ。つくづくタチが悪い。

「ねえ、それ飲む?糸魚くんが淹れてくれたお茶は、美味しくないけど温かいよ?」
「不味いもん飲ますな」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、私が馬鹿だから隼人さんにまで迷惑を掛けてしまって…!」
「あ、隼人くんが糸魚くんを泣かせた。泣ーかせた、泣ーかせた。先生にゆってやろー」
「何の先生だっつーの!何なのほんと、エロジジイの癖に餓鬼過ぎ!」
「良し、この俺を呼んだかァ!!!」

余りにも元気な叫び声に、隼人は無意識で立ち上がった。
酷く聞き覚えのある声だったからだが、振り返った先、先程まで毒々しい程に真っ赤な刃が群れていた周囲は、何故か通い慣れた教室へと変わっている。

「え、あ、は?!」
「あは。混乱してるねえ、僕もそれなりに驚いてるけどねえ。糸魚くんは驚きすぎて腰が抜けちゃった?あは」
「席に着けェイ、野郎共!」

ばん!と言う音と共に、白衣を翻した白髪混じりの男が教室へと入ってきた。
何処かで見た様な顔だと目を見開いた隼人は、それが学園長である帝王院駿河に何処となく似ている事にすぐに気づく。然しその声は、それとは全く違う、あの男にそっくりだったのだ。

「出欠を取る、神崎隼人!冬月龍流!こら冬月!男子校に妻を同伴させるとは何事だ、廊下に立っとれ!」
「はーい、宮様、ごめんなさーい」

そう、喋り方までもが、余りにも。
ヘラヘラと笑いながら廊下に向かって妻と共に歩いていった男は、窓をガラッと開けて覗き込んでいる。

「何かさあ、授業参観みたいじゃない?糸魚くん」
「は、はい…っ。隼人さん、頑張って下さい!」
「はあ?何、何を頑張れって?待って、今度は何フラグ?シリアスだったんじゃないの?待って、隼人君の頭が可笑しいの?単に作者の頭が可笑しいの?その場合、全員もれなくダメージ受けちゃうんですけど?!」
「俺は帝王院鳳凰校長先生、足腰が弱ってきた70歳だ!覚悟しろ龍流の息子の娘のそのまた息子、我が帝王院学園の生徒でありながら女を泣かせるとは何事だ!廊下に立っとれ!」

かーっぺっ!
唾を撒き散らしながらビシッと廊下を指差した男に眉を寄せた隼人は、廊下ではなく自分の席にドカッと腰掛けた。


「…は。鳳凰ねえ?不死鳥名乗るならさあ、赤毛と筋肉が足りないんじゃないんですかあ?」

ピクッとこめかみを震わせた教師を前に、ドカンと机の上へ長すぎる足を放り出し、スラックスのポケットにお手てをドライブインだ。ヤンキーのお手本である。
これは俊が来る前までの、神崎隼人のデフォルトだった。ほんの一ヶ月前までの話だ。

「つーか授業なんか受けなくても優秀な隼人君がさあ、廊下なんかに立つ訳ないじゃん、サボるに決まってんでしょ馬鹿なの?デリシャスボスの曾祖父だか何だか知らないけど、マジうざい。声似せてくるなら顔も似せて来いっつーの、設定あめーんだよ、ハゲ」
「こ、この俺の指示に従わん生徒が存在するとは…」
「なあに、言いなりになんない生徒は懲罰棟にでも放り込む?上等だ、レノアハピネスで毛布洗って待ってろ」

口元には笑み、目は刺すほどに強い意思を込めて、隼人は真っ直ぐ教師を眼差しで貫いた。恐ろしい俊の素顔に比べれば、少しばかりイケメンな老教師だ。この程度にビビってカルマの犬はやれない。と言うよりイケメンは敵だ、モデルの敵だ。

「つーか、隼人君に授業受けさせたいなら膝枕持って来いっつーの。サブボスはやせっぽちのでこっぱちだけど、あれを膝枕に使ってると眼鏡のアホが悔しそうな顔するからさあ、やめらんないんだよねえ。あは」

完全なる病んだヤンキーだ。
廊下の窓から無言で見つめてくる二人の視線には構わず、隼人は教師を睨み続けた。
隼人にとって教師とは、悉く見下す対象だったからだ。

「合格ーっ!!!」
「………はい?」
「くぇーっくぇっくぇ!俺では太刀打ち出来ん、虹色のモテ男オーラが吹き出しておるわ。神崎隼人、『激悪エロス』免許皆伝を申し渡す!」
「はへ?」
「先生は『ちょい悪スケベ』だった。スケベは良いぞ神崎隼人、乳や尻に挟まれて見ろ。天国が見えるだろう!」

遠い眼差しで窓の向こうを見ている男につられて、隼人も窓の向こうを見た。帝王院学園進学科の窓の向こうに景色はない。いつもなら、どちらの窓からも廊下が見えるだけだ。


「隼人君のセクシーボス。見た事もないボスの曾祖父ちゃんを勝手に変態設定にして、ほんとごめんねえ…」

けれど今、外には晴れやかな青空が見えている。オタクのゲップが聞こえてきそうだ。ぷはーんにょーん。

「然し六時間授業だった、残念だな神崎隼人。お前は一時間目から四時間目の『大洪水カリキュラム』で一人だけ方舟を作り、その上クラス委員長を庇って好感度が1%上がっている。だがこれは裁判ではない、ただの授業だ!陪審員の加点はないと知れ!」
「何ゆってんのっ?大洪水カリキュラム?…つか1%って少なすぎない?!もうやだ、正しいシリアスって何ですか?!」
「ふむ、今回はロードに命じ龍一郎の痕跡を一掃させたのだろう。我が曾孫ながら、ただの掃除を『劇的ビ腐ォーアフター』するとは、面映ゆい、面映ゆい」
「ちょちょちょちょっとお待ちなさい!劇的ビフォー…何ですって?!ロードとか龍一郎って、何それ、どゆこと?!」
「あー、成程ねえ…」
「隼人さん、給食を食べていないと辛いでしょう?やっぱりお肉、食べておきますか?」

とりあえず保護者気取りの見物人を黙らせて、平常ペースを取り戻さねばならない事だけは辛うじて判った気がしている、神崎隼人15歳の春。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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