帝王院高等学校
デバッグは念入りに執念深く宜しくね!
「あきちゃん、ゲーム楽しい?」
「楽しいよー」
「どうしてあきちゃんはゲームするの?」
「クリアしたいからに決まってるじゃん」
「ね、しーくん。いつもご本を読んでるね」
「ん」
「どうしてしーくんはご本を読んでるの?」
「終わらない物語に出逢えるかも知れないからだ」
「ねぇ、太陽君。暗い所でゲームやっちゃ駄目だって言ったよねぇ?」
「さ、桜、ごめんねー?怒ってる…?」
「ゲームってぇ、そんなに急いでやらなきゃ駄目なのかなぁ?」
「だ、だってつい先が気になっちゃうんだよ…!決着を見守りたいってのは、男のロマンじゃんか!」
「ねぇ、俊君。宿題の途中で漫画読んだらぁ、宿題終わんなぃよぅ…?」
「もうイイにょ。諦めた訳じゃないのょ?ただ宿題よりも大切な事ってあるじゃない?」
「ぇ?ぅ〜ん、それって、BLとかかなぁ?」
「溢れ出る好奇心に終わりはないにょ!宿題なんて!やってられっかァアアア!!!俺はァ!宿題なんかに負けない腐男子になってやらァアアア!!!」
「うーん。二人共、これでもまだSクラスなんだもんねぇ…。俊君に至っては帝君だしぃ、太陽君は何かいつも気づいたら21番に居るしぃ、はぁ。まぁ、良ぃか。二人が降格しそうになった時はぁ、助けてあげるんだぁ。きゃっ!」
きらきらと、蛇の死骸は白銀の鱗粉となり空へと舞い上がった。
光のない世界に落ちた人々は絶望の果てに、その美しい光景を見たのだ。
『ああ、光だ』
誰かがそう言った。
舞い上がった蛇の鱗粉は、分厚い雲にまで届き、そして雲を貫く。
割れた雲の狭間から差し込む光の、何と暖かく優しい事か。
そして人々は気づいた。小さな小さな蛇一匹に、己らが犯した罪は何と残酷だろうか。
傷つけられた訳でもない。
ただ、蛇がそこに居ただけだ。
楽園で我らの父と母を騙した、あの狡猾な金の蛇とは違う。
たった一匹の、美しい白蛇を我らは殺してしまった。
蛇の亡骸を、子供が泣きながら抱き上げた。
これは神様なのだと子供は言った。
あの神々しい龍の神様なのだと、震える声で。
果たしてそれが真実であれば、人間とは何と罪深い生き物だろう。先祖の恨みを罪のない相手で晴らし、あれほど焦がれた空を手に入れた。
然し喜びなどない。絶望の果てに、更なる絶望を知っただけだ。
ああ、後悔とは。
何故こうも心を容易く蝕む、毒薬なのか。
ピシピシとそれは、時を刻むのと同時に、遠くから。
近くから。
遥か彼方から。
ほんの至近距離から。
それは、何処から?
「それだったら、俺は、…俺じゃないと言う事か?」
「お前は創られた」
「アダムに名を与えた瞬間に」
「全ての罪を浄化する者として」
「まるで聖母の如く清くあれと」
「朝と夜の狭間」
「満月の夜、お前は最も慈悲深い」
「人はお前に名をつけた」
「シーザーシルバームーン」
「黒い毛並みの犬」
「お前の首輪は今、誰のもの?」
たった今、まるでパズルのピースが填まる様にピタリと、全てを理解した。唐突に。
そしてそれは、何の意味も成さないのだと知る。唐突に。絶望へと落とされる様に。無抵抗で。
「本物の俺は、そうか。初めから俺は」
「そうだ」
「初めからお前は」
「初めからお前は」
「肺呼吸を始めた刹那からお前は」
「そして俺達は」
「何も変わってなど居なかった」
「始まる前から全ては終わっている」
「騎士」
「棋士」
「キシ」
「葬る者として」
「お前は神への挑む覚悟をした」
「クロノス」
「俺はお前を知っている」
「けれどお前は俺を知らない」
「初めから俺は、今のこの状況すら知っていて、だから俺は、初めから、そうだ、何一つ変わっていなかった」
朝と夜の狭間、此処は何処だ。
見渡す限り本の山、まるで本の洪水の様だ。他には誰も居ない。カチカチと刻むと同時にキシキシと軋む音、時限爆弾の様に。
「どうせ終わるまで偽り続けるのなら出てこい、本体」
「はァい」
どさどさと、積み重なる本が雨の様に降り注いだ。
目の前には分厚い眼鏡を掛けた、自分と全く同じ体格の男が立っている。
「お招き有難うこざいますん!呼ばれて飛び出てぷはーんにょーん!僕がお探しの遠野俊15歳ですにょ。ご用件をどーぞ?」
「今の俺は何を考えてた?」
「愛のままに我儘に果てしない欲望のままに、108の煩悩を正当化しようとしておりました」
「…何の為に?」
「あはん!自分を正当化する為に決まってるにょ!」
「人を犠牲にして?今回の騒ぎも全て計算通り、描いた脚本のままで満足か?」
「はァい。結果的にどっちに転んでもハァハァしませんか?もし誰かが死んだら誰かが悲しんで、色褪せない思い出が永遠に美化されるだけ。もし皆が辛い運命を乗り越えたら、誰もが幸せになるだけで、何処を切っても金太郎飴ちゃんみたいなハッピーエンドざます!」
「それが許されるとでも思ったのか?」
「そーょ?だって僕ってば主人公なんだもの、何してもイイにょ。だってこの物語は僕の為にあるのょ?」
「本当にお前が、俺なのか」
「悲しいにょ?お可哀想に、僕も俺も何一つ変わらない、同じ人間だろう?」
自分と同じ手が、眼鏡を外すのを見た。
滑稽だ。鏡越しではない、自分の顔を見る事が出来るとは思わなかった。
「チミは皆から好かれるシーザー、可愛いワンコ達のお父さん。折角脚本通りだったのに、僕が自分を消しちゃった所為で頭の中にお化けが住み着いちゃったなり」
何の表情もない。
我ながら何と言う目付きだと哀れむ程に、目の前の自分の顔と声音は合致しなかった。声音だけは歌っている様だ。余りにも、楽しげに。
「困ったにょ。ガミガミ怒鳴る遠野夜人も、満月の時に勝手に出てくる様になったレヴィ=グレアムも、自分で自分を怖がらせるなんて予定外過ぎるんだもの」
「…そうだ。頭の中で誰かが、俺を弱虫だと言った」
「僕は気づいたにょ。きっとそれは罪悪感って奴なのょ。僕の物語を勝手に書き換えようとしましたねィ?無意識で、何も気づいてない癖に、全部ぶっ壊そうとしましたねィ?」
「俺が?いつ?」
「違うにょ。ぶっ壊そうとしたのは、僕」
にこりと、目の前で自分の顔が笑う。
ぐにゃりと歪んだそれは、原型を残さず歪んでから、ゆっくりと人の形へと戻っていった。
但し、今度の自分は、今の自分とは何かが違った。
身長も、髪の長さも、全てが。
「そう、俺は全てを壊そうとした。漸く集め終えた家族に対して、描いた脚本の何と悍しい事か」
「後悔したのか、俺は」
「後悔などない。あるとすれば、計算外だ」
「計算外?」
「蜜柑」
「蜜柑?」
「ポンジュースで狂った」
「何を言っている」
「俺が唯一の例外である健吾を持て余していた事を、悟られてしまったからだ」
「健吾…?」
「このままでは『今回も』約束を果たせない。終わらせる気がないあの子と、許されたい俺は、何度生まれ変わっても交差しないままだ」
「少しは判り易く話せ」
「あはん!それそれ、僕も昔、同じ事を言ったにょ。でも何年経っても治んないから、諦めました☆」
ケラケラと、目の前の自分に良く似た他人は軽快に笑った。
「喜劇喜劇、愚か者は夢の跡♪」
歌声。
何を言っているのか判らないと言う言葉は、声にはならなかった。
「俺は新月にしか出られない。
真っ黒な夜に産まれた俺は、真っ黒な夜にだけ目が覚める。
それは何故か?
そこに気づいた時にはきっと手遅れだろうが、っつーか何を言ったってどうせ忘れるんだからさらっと諦めて、主人公と言う名の操り人形を楽しんでらっしゃい♪」
ひらひらと手を振る誰かが見えた。
「この物語はタイトルのまんま、主人公が極々平凡な高校生活を送るだけのお話なんだからねィ?」
それが最後だ。
目覚めた時には何一つ覚えていなかった、儚い幻。
(ああ)
(真っ黒な)
(真っ黒な自分に絡みつく、あれは何だ?)
(漆黒の己に)
(まるで蛇の如く巻きつき)
(螺旋の如く絡みついた)
(あの『白』は?)
女が笑っている。
地の底からだ。
彼女は愛する男に裏切られた。
己の命と引き換えに、炎の神を産み落とし死んだ。
女は闇の国の女王となりて、男を手招き続けている。
(おいで)
(おいで)
(そして)
(存分に、召し上がれ)
(貴方の為に沢山の)
(ご馳走を用意したの)
「隼人さん、早く召し上がらないとお料理が冷めてしまいますよ」
彼岸花。赤い赤い、それは咲き誇る曼珠沙華。
毒々しい程の艶やかな赤を滴らせながら、顔色の悪い女は微笑んだ。狂気さえ感じさせる毒気のない笑みは、この世のものとは思えない気味の悪さだ。
「お肉はお嫌い?新鮮なお肉は生で食べる方が、美味しく頂けるんですよ」
「さぁ、隼人。ご飯を食べないと遊びに行かせないよ。お前は放っておくと、日が暮れても山から帰ってこないからね」
長い長い、食卓の上の豪華のご馳走はどれもが真っ赤だった。
不気味な肉の塊を、いつまでも冷めない熱された鉄板の上で焼いている女の隣、真っ赤なお椀に真っ赤な何かを注いでいる記憶の中と全く同じ育ての祖母は、やはり記憶の中のままの表情だ。
「罪人のステーキは本当に美味しい。きっと隼人さんも気に入るでしょう」
「ぜんざいだよ、隼人。今日は特別に、お餅を好きなだけ入れてあげる。ゆっくり食べるんだよ」
祖母だけなら良かったのかも知れない。
きっとまともな思考を維持出来ずに、心まで蝕まれたに違いないと思えるからだ。けれど見覚えのない薄気味悪い女が同席してくれたお陰で、神崎隼人の混乱は、然程続かずに済んだと言えるだろう。
「あのさあ、こんなどっからどう見ても怪しいもん、食べないっつーの」
「ステーキはお嫌い?」
「好き嫌いはいけないよ、隼人」
そうだ。隼人は昔から、記憶力だけは異常に自信があった。
一度読めば記憶してしまうので、教科書の類いは手にしたその日に目を通し、以降勉強なんてものに時間を割いた事はない。過去に一度もだ。
『…良いか、隼人』
子供の頃は加減が判らなかった。
我ながら青いなと思えるのは、正しいものを正しいと言って何がいけないのかと、誰もいない所で叫んだ事があるくらいか。
『目に見える物を易く信じてはならん。
お前の善が必ずしも他人の善ではない様に、目に見えるものは見る者の目によって形を変える』
「…うん。何か今やっと、判ったかも知んない」
どんな小さい事も覚えている為に、同級生のつまらない嘘や仕草なども覚えていて、度々それを指摘する為に鬱陶しがられたものだ。
子供であればまだ良い。
『何も信じてはならん』
「うん。じいちゃんも信じたら駄目だったんだ。隼人君はまだまだ、ピュアなエキストラバージンイケメンだったんだねえ」
大人は子供から指摘されると必ず誤魔化そうとするか、恥から目を逸らす様に怒り出す。あれにはほとほと苦労した。大人は平気で嘘を吐くから、自分の失敗を認めない。子供の所為にする事も躊躇わない。
山の中は裏切らなかった。
何を叫んでも覆い隠してくれる。嘘つきな大人を罵っても、馬鹿な同級生を馬鹿と罵っても、木の上に拵えたダンボール製の秘密基地は築一ヶ月で梅雨に負けた。
それならばと、次は煉瓦造りに切り替えてみる。三匹の仔豚が三度目で成功したそれを、隼人は二度目で成功させたのだ。
煉瓦秘密基地のメリットは見た目の豪華さだが、デメリットは間取りだ。どう頑張っても、ピザ窯程度の大きさにしか造れなかった。
五歳の隼人にはそれが精一杯で、完成した時の達成感こそあったが、ドキドキしながら中に入った時の『うっわ、せま』と言う台詞はその達成感を越えた気がする。とは言え、造り直すのは癪だった。折角作ったものを壊したくないからだ。
知識はあっても、隼人に建築は無理だと悟った。
二度の失敗で飽きたのだ。三度失敗すれば、仔豚兄弟に負けた事になる。何かを作るのは嫌いではない。作るのは嫌いではないが、誰の為に何を作る?
『隼人』
(誰の為、って…)
『7色のイルカクッションを並べて、お魚クッキーに貝殻形のゼリーが入ったソーダ、くじらケーキに、亀の甲羅形のメロンパン』
(そんな事思ったの、最近と言えば最近)
『要の誕生日は、お金を使えないんだ。盛大に祝うと怒られる。去年イチが叱られた』
(人を簡単に信じちゃいけないのに)
『だから今回は全員手作りのプレゼントを用意するんだ。飾り付けも料理も全員で。見てくれ隼人、俺は貝殻ゼリーが入ったソーダのソーダを注いだんだ』
(何処で狂ったのかなんて、今更過ぎるよねえ)
下らない人間の群れに慣れすぎて。
新しく知った世界の眩しさに麻痺した。積み重ねてきたどの知識も役に立たず、失敗を嫌う余り窺う事に慣らされる。
『げに恐ろしきは人だ。人は優しさの中に毒を持つ。胎内に二匹の蛇を飼う、DNAの犯した罪そのものだからのう』
「…ん」
然しそれも記憶し対策を知ってからは、無駄な失敗はしない。
無駄な事を好んでする人間は馬鹿だ。百点ばかりのテストに同級生の誰かがカンニングを疑い始め、ついには担任までその下らない話を信じ始めた事がある。遥か昔の話。
『良いか、隼人』
『おい、隼人』
『全てを疑え』
『総長の料理はあらゆる意味でやべぇ』
『全てを信じるな』
『俺ら程度の理解を遥かに越えてくる』
『お前を守るものは常に』
『要はやる気はあるが、空回りし過ぎて大体失敗する。健吾は厨房に入れるな、総長の次につまみ喰い常習犯だ』
『お前だけだと、血に刻み込め』
『頼りは自炊経験者のお前だけっつーこった』
馬鹿だと思った。
わざわざそれを指摘するのも億劫ではないか。どうせ誤魔化すか、逆ギレだろう。自分の恥を認める人間は少ない。そう、心が弱いからだ。
『ボス、隼人君がデザインしたさあ、くじらさんのケーキ知らない?』
『難しい質問だ。パヤタ、くじらさんのお目めが俺に「食べて☆」って言ってたんだ。俺はその抗えない誘惑に負けた、不甲斐ない雄…』
『あは、言ってる事はアホっぽいのに、何でそんなに格好よいの?ケーキ美味しかったあ?』
『はい!是非ともお代わりを頂きたいと思っております!』
『そっかあ。あ、そうそう、後ろでユウさんが拳鳴らしてるけど』
『ヒィイイイ』
力があればあるほどに。
知恵があればあるほどに。
人は傲慢なほど強欲に、嘘を着るものだと。
「あは。…昔話にねえ、あるんだよねえ」
そうと判っていながら、隼人は食卓に並ぶ女二人の対面、どかりと座っていた椅子から立ち上がる。目の前の皿に手をつける気は更々ない。
「黄泉の国で出される料理はあ、食べちゃいけないって奴」
長い長い、何人座れるのか判らない長テーブル。
鋭い真紅の刃に囲まれ逃げ場のない中央、此処はまるで地獄の様な場所だ。夜空だと思っていた天井をもう一度見上げれば、夥しい数のフォークとナイフが刺さった天井なのだと判る。可笑しいと思ったのだ、床は飴色のフローリングなのに。最初から室内に決まっている。
「隼人さんは面白い事を仰るんですね。まるで在りし日の、龍流さんみたい」
「お前が残すなんて珍しいねぇ、隼人。ばーちゃんの料理はやっぱり田舎臭くて、食べたくないのかい?」
空もなく、窓もない、見覚えのない部屋の中。壁もまた見えない。果ては何処にあるのか。
「ばーちゃん」
「何だい、隼人」
「隼人くんねえ、ばーちゃんの事、大好き」
「そうかいそうかい。ばーちゃんも隼人が、」
「ねえ、意地悪しないでよ。ばーちゃんの事は一生隼人君の頭の中に保存して、ちゃんとデバッグするから」
モデル仲間にも居ない様な綺麗な顔をした小さい頭と、皺だらけで笑う懐かしい顔を交互に見遣る。隣同士で座っている二人はまるで別人なのに、何故、同じ様な眼差しをしているのだろう。
「だから、絶対忘れないんだよ。…ばいばい、ばーちゃん」
「行ってらっしゃい、隼人」
にっこりと笑った祖母が、黒砂と化してその場に消えた。
彼女が焼いたパンケーキもまた、テーブルの上で黒いもやと化し、消えていく。
記憶のまま少しの曇りなく優しい、あの頃の祖母だ。別れの台詞が「行ってらっしゃい」なんて、なんと悪趣味だろうと思ったが、一人残った女の前で何度も泣いて堪るかと息を吸い込む。
「お父さんがねえ、そう言う話が好きなのお。お化け恐いとか言ってる癖にさあ、恐いお話が好き。おっかしーでしょ?」
「隼人さんのお父様は西指宿子爵」
「あんなん父親じゃねーし。会った事もないっつーの」
「当然でしょう?龍人が脅したんですもの」
「………は?」
にこりと微笑んだ女の前から、全ての料理が消えた。まるでケーキに差した蝋燭でも吹き消すかの様に、テーブルの上には何もない。
ちらりと伺った周囲には、未だ赤々と萌ゆる様な刃が突き出ている。逃げ場はない。
「西指宿子爵は、廃藩置県・華族制度廃止後、平成に至るまで政治で生計を立ててきました。1940年代末の事…永く悍しい戦が終わった頃ですよ」
「アンタ何歳なの?」
「女性に年齢を聞くなんて」
「あー、ごめんごめん、野暮ったわ」
「ねぇ、隼人さん」
テーブルの上へ白く細い手首を伸ばした女の手の上に、マグカップが二つ現れた。
「他人は嫌い。西指宿の分家からやって来た男は、私に言いました。『俺が幸せになる為に結婚してやる』」
「…わーお、不遜」
「分家の妾の子、嫡男とは認められず足掻いて、伯爵の縁に縋った醜い豚。私は高森伯爵家の名を汚す事は致しません。けれどお義兄様は、根っからの貴族なのです」
「世間知らずって?貴族同士の結婚に疑問を抱かないタイプかあ」
「糸遊お義姉様は、私に銀の簪を下さいました。圭一お義兄様は素晴らしい方でしたが、糸遊お義姉様を娶る時に一族の大半を敵に回してしまっていた。それでなくとも戦後の忌々しい時代なのに」
シユ。
先程から何度か出てくる名前だ。女なのは何となく判ったが、他に手懸かりらしい手懸かりはない。
どんな字を書くのだろうかと考えた。高森。上級生にそんな名前の生徒が居た筈だ。西指宿と縁のある、ああ、そうだ、東雲財閥の傘下企業。
「割けた絆を紡ぐ、私は一筋の糸。高森糸魚。私の結婚で家族の絆が再び結束すれば良いと」
「あは、家族?華族?単にオニーサマの道具にされてるって事じゃん、馬鹿だねえ」
「お義兄様のお役に立てるなら喜んで、豚相手でも嫁ぎましょう。鈍色の剣を抱き締めて、今度こそ私は、行動します」
「今度?」
「私の目の前でした。人が倒れています。殿方と、その隣に女性の方。二人を踏みつけながら、男達は家中を家捜ししていました。ああ、今ならこんなにも鮮やかに思い出せるのにどうして、生きている内に自分の名を思い出せなかったのか。助けてくれと言った二人は、私の両親だったのに…」
少ないヒントの中から正解を導き出す。まるでクロスワードの様に。それは、隼人の得意とする所だ。
「ねえ、思い出せて良かった?」
「いいえ。何とも思いません」
「何も?」
「私は冬月糸魚。龍へ嫁いだ、一匹の蛇」
「タツル…龍………あは。冬月イトナ、曾祖母ちゃんって呼べばあ、オッケー?」
「ふふ。初めまして、隼人さん」
「ねえ、曾祖母ちゃん。西指宿に嫁ぐのが決まってたのに、曾祖父ちゃんと結婚したの?何で?高森伯爵の命令だったのに、逆らったの?」
「いいえ。結納の前の晩、私が高森の養子だと知ったあの男の方から、断りを入れてきたのです」
「最低な豚じゃん。結婚しなくて良かったねえ」
「けれど圭一お義兄様の期待に応えられなかった私は、死を考えました。お義姉様に頂いた簪で、夜更けに庭へ出た。人目につかない所で、死のうと」
見れば見るほどに、幸の薄そうな女だ。
美人だが透けるほどに色が白く、艶やかな黒髪との対比が目に痛い。
「政略結婚の道具にされ掛けて、ドタキャンされて死ぬって、貴族なんて糞だねえ」
「けれど死の間際、私は月を見上げてしまった。最後に一目見ておこうと、見事な満月を」
「うん」
「そこへ、公爵様からの結納を祝う品を届けにやって来た、あの方に出逢うのです」
「公爵………判った、帝王院だ。帝王院からの遣いが、曾祖父ちゃんだった」
「隼人さんの様に、私がずっとずっと見上げる程に背が高い彼は、喉元に簪を押し当てた私を見つめたまま、笑ってらしたの」
「笑ったあ?」
「『無駄死にするなら僕の実験台にならない?』が、プロポーズのお言葉でした。ふふ」
どんな男だと隼人が眉を跳ねた瞬間、カタリと隣で音がした。
何だと弾かれた様に振り向いた先、ボサボサの前髪に目元を覆い隠した猫背の男が、ヘラヘラと笑っている。
「あは。楽しそうなお茶会やってるからさあ、来ちゃった〜☆」
「てんめー、どっから湧いて出やがった!」
「糸魚くん、お茶が二つしかないよ?僕と君と隼人、三杯淹れてくれないと」
怒鳴る隼人には構わず、向かいの女へ顔を向けた男の双眸が、前髪の隙間から覗き見えた。横顔のラインを暫し眺めた隼人は、それが嫌に自分に似ている様な気がしたのだ。
「一人だけ仲間外れになってしまうだろう?」
撮影の度に何度も何度も見た、自分の顔と。何故かとても、良く似ている。
「我が家の掟は一つきりなんだ」
「…どうして意地悪なさるんですか?」
「取引を持ち掛ける時はねえ、先に明らかに承諾し辛い要望を提示するんだ。相手が怯んだら、9割こっちの勝ち」
にこにこと、何が楽しいのか笑う唇さえ。
「その時、囁くだけでよい。提示した無慈悲な条件の威力で麻痺した相手に、本当の望みを。そうするとどうだろう、相手は断ると言う選択肢を何故か忘れてしまう」
「ええ。…貴方から教えて頂いた事です、忘れる筈がありません」
「『此処から出たいなら料理を食べろ』『それが嫌なら二つのカップの内、一つを飲め』」
冬月龍流、恐らく目の前のこの男が曾祖父なのだ。判っているが、隼人の脳は理解を放棄しようとしている。
「そのカップが二つ共『毒入りじゃない』と言う証拠はない」
夢にしても幻覚にしても、知識にない人間がこうも生々しく姿を彩るのは余りにも、そう余りにも、可笑しい話だ。
「そうだよねえ、冬月糸魚くん?」
奇妙な世界で奇妙な笑みを浮かべた奇妙な男が、優しげな目元で獲物を追い詰めていく様を、ただ、見ていた。
言葉もなく。
「うん。
終わらせよう、呪われた王の螺旋を。
何の罪もない子が嘆く世の中も。
きっと俺は、その為に生まれてきたんだと思うんだ。
俺は王にはなれない。
俺は神にはなれない。
俺は人にもなれない。
俺は、大切な宝物を守る騎士になると、決めてしまったから」
初めて目的を抱いた日、未来を視た。
それは良い事なのか悪い事なのか、そんな事はどうでも良かったのだ。
「何からも縛られず、負った穢れを無へ還し、俺は俺と言う俺のまま、漸く前に立てるのかも知れない。そうでなければ駄目だ。赦されない。あんなに綺麗なものの前に立つには、俺は余りにも醜い」
ああ、みすぼらしい。
何と汚い生き物だろう、自分は。
目も髪も真っ黒だ。
何をしても楽しくない。何をしても心が動く事はない。ただただ、流される様に生きてきただけだ。言われるまま従って、母親を守る騎士になったつもりになっていただけだ。
「俺は気づいた。これは俺の意思など微塵も含まれていない。俺は騎士になったつもりになっていただけだ。俺に守りたいものなど、本当は何一つなかったんだ」
五歳だ。
誕生日の夜は、それはそれは大層見事な、涙が出るほどに綺麗な満月だった。
「今度こそ」
妖精が歌っている。
寂しげに無機質にただ、己を黒羊だと歌っている。
どうしてあんなに綺麗なものが、そんなに悲しい歌を吟っているのだろう。
「俺は君を守るよ、ルーク」
あの子を悲しませる、全てからだ。
(運命?)(宿命?)(神の取り決め?)
(それら全てからだ)
(全てを取り除こう)
(悲しみの源を一つ残らず)
「だから今はまだ、会えない」
(例えそれが自分だとしても)
←いやん(*)(#)ばかん→
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