帝王院高等学校
枯れ果てた楽園の回帰録
「セントラルライン・オープン」
後は知った事かと、警備に押しつけた他人の背には目も向けず、近場の掲示板へ張りつく。充電切れの携帯は沈黙したまま胸ポケットの中、タッチパネルだけに操作し辛い画面を叩いた。
「侵入者はどうした」
『マジェスティの支配下に』
「誰を狙ったか、判ったのか?」
『統率符黄昏』
腹の底で唸る音が聞こえた気がする。
「…怪我は」
『未確認ですが、問題ないものと思われます。紅蓮の君自ら捕らえられ、引き渡したと報告を受けておりますが』
「………そう、か。判った、嵯峨崎の現在地を寄越せ」
『了解、プロテクトを解除します。サーチ開始………エラー』
「左席のセキュリティが邪魔してんのか?」
『ステルシリーの介入を確認。コード:ファーストの最上位セキュリティが敷かれています』
「何だと?…奴にそんな知恵があったのかよ、糞が。良い、コード:ルークに繋げろ」
『エラー』
「あ?」
『セントラルサーバーに該当のコードは登録がありません』
左手が汗ばんでいく。
小さな画面を叩き続け、表示させた中央委員会リストを一瞥し、息を吐く。
「生徒書記、伊坂颯人、だと?…どう言う事だ、アイツは」
『三年Fクラス、伊坂颯人。前期一斉考査順位は7位。選定考査は辞退』
「………帝王院の仕業か!何故俺様にまで隠してやがった、あの野郎!」
中央委員会会長、嵯峨崎佑壱。
中央委員会副会長、高坂日向。
中央委員会会計、祭美月。
中央委員会書記、伊坂颯人。
まるで、遺言の様だ。
「だからテメェは質が悪いっつーんだ、人格崩壊者が…!」
これでは、異を唱える事など出来もしない。
「何故嘘を吐いた、ネルヴァ」
電話だと席を外した男の背を追い、暫く辞めていたシガレットケースから一本、取り出した。
「…どの嘘の事かな?」
「叶芙蓉の孫娘は、師君の奥方の方だろうに」
耳が痛いほどの静寂。
賑やかだった食卓から離れただけで、こうも世界は静かだ。
「否、庶子だった大河朱花が大河に嫁ぐ際、擦り替えられたのかも知れんの。将校の娘とは言え妾の子では、大河へ嫁がせる訳にはいかん」
「………知っていたのか」
「名で、のう。推測だったが、確信した」
久し振りに吸い込んだ紫煙は酷く苦い。
「私の方が、先だったんだ。本妻の子である妻を娶る際、実家との縁を切らせたのは…義父がステルスを畏れていたからに他ならない。その所為で、妻の義妹である彼女は表向き、妻の身代わりにされた」
「その畏れが、虎の威を借る狐に変わらんとは言い切れんからのう。それさえなければ、師君は伯爵家の当主だった。結婚に際して、問題はなかった筈だ」
吸うか、とシガレットケースを向ければ、一回り年若い男は首を振った。
「煙草も酒もやらんとは、とことん面白味のない男だのう。だが、師君は若い頃とは変わった」
「子供扱いはやめてくれ」
「子供ではあるまい。師君は、嘘が吐ける様になった」
「…」
「だが、後悔している」
「…そう、後悔している。私の屋敷の誰もから愛人の子だと蔑まれた妻は、酷い仕打ちを受けてきた。それを私には最期まで言わずに耐えてきたんだ」
「それでも師君は、妻の家と絶縁させねばならなかった。それは息子の為だろう?」
「…そうではないよ。全て、自分の為だ」
「叶の血筋となれば、それだけで命を狙われる事になるからのう。その上、帝王院となれば…」
「違う。単に、奪われたくなかっただけだ。…私は己に自信がなかった。いつ若い妻に捨てられるか、いつ妻や子供を奪われるか、怯えながら生きてきた。妻の逃げ場を奪えば私から離れられなくなるだろうと、全ては狡い、考えだよ」
世知辛いな、と。
呟けば、咥えていた煙草を奪われた。
「妻を失った大河白燕は叶を恨んでいた筈だが、…君が真実を告げたのかね、シリウス」
「あのセカンドがああまで擦れてしまったのは、殆ど師君の所為だぞ?大河朱花が死んだのはとばっちりに近い。…吸わんなら返してくれんかのう、ネルヴァ」
「私にナイトの記憶は殆どないが、…それでも彼が煙草を嫌っていた事は覚えている。だから陛下は、吸わない」
「けちな事を言うでない。儂とてここ15年程禁煙しておったのだぞ。それを師君、」
「君の孫は禁煙を始めたそうだよ。内偵からの報告だ」
「15歳で禁煙とは早すぎるぞ…隼人…」
火を消した吸い殻を押し付けられ、渋々灰皿へ放り込む。静かな夜だ。喧騒は余りにも遠く、現実味がない。
「私は、後悔してばかりだな」
「師君だけが悪い訳ではあるまい。師君の叔父が悪事を企んだ事も、大河の珍しい『目』が狙われた事も、悪い要因が重なり過ぎただけだわ」
「…そうだとしても、大河朱花が死んだのは妻の代わりに狙われたからだ。大河白燕は私を恨んでいるだろう」
「いや、あれは自己嫌悪ではないかの。愛する者を守れなかった己の歯痒さに耐えきれず、息子を手放し、セカンドに冷たく当たってしまった」
「何故、君にそんな事が判る」
「酒を飲んだ。面白いほど強い男だが、酔うて愚痴っておったわ。遺品を全て捨ててしまった所為で、妻の写真すら残っていないらしい」
自分も似たようなものだ、と。
笑えば、懐中時計を取り出した男が眉を潜めた。
「私も写真は持っていない、な。結婚式は二人だけで、仕事の合間に教会へ足を運んだだけだった。裕也が産まれたのはその3年後で、妻には苦労ばかり掛けたよ」
「師君の方がマシだ。儂は娶っただけで結婚式は愚か、家には殆ど帰らなんだ。子供を欲しがっていた事は知っておったが、望みを叶えてやったのはアレが死ぬ間際だ。夫の責務は一つとして果たしていない」
「…ステルスには不甲斐ない男しか居ないのか」
「仕事しか出来ん男など、誰しもそんなもんだわ」
口寂しい。
仕方なくポケットから飴玉を取り出し、口の中へ放り込む。亡き妻が甘党だった為に、テーブルの上の小鉢には沢山の飴玉が残されていた。隼人も良く、飴頂戴とねだっていた様な覚えがある。
「先の件だが、若様のDNA検証はまだ終わらないのか?」
「ノアから見放された儂らに、何が出来ると思う?」
「…話を反らすのは君の悪い癖だね。まぁ良い、何が出来るかは定かではない。陛下の命に従う事こそ、地に埋もれし我らステルスの役目だ」
「そのお陰で妻を亡くし子を危険に晒してもか?」
「君と同じなのかも知れない」
「ほう?儂と同じとは?」
「どちらにせよ、私はリヒトより先に死ぬ。夫としても父としても何一つ十分ではなかった私に出来る事は…正直、見当もつかないよ」
「師君は、妻を亡くすまでナインが日本に向かう事を反対しておったな。ロードの監視として先に日本へ渡った儂を、裏切り者と呼んでおった」
「事実、何も監視していなかったではないか」
「痛い所を突く奴だわ。…確かに、教師として潜り込む事すら、あの頃の儂には難しかった」
隼人はまだ赤子だったのだ、と、遠くを見る目で囁いた男の白衣が靡く。
「愚かな娘の居場所を探す事に気を揉み、見つけた途端、押しつけられた孫を育てる事が、陛下の命より重要なものとなってしまった。…あの時に儂は、空蝉ではなくなったのだ」
「だが君は、オリオンと同じ事をした。…ナイト程ではないとしても、少々の毒では死なないのだろう?」
「多少は、のう。だがその所為で見ろ、隼人の髪も眼も、日本人のものとは到底掛け離れておる。生後間もなくからああも幼い子に、儂がしでかしてきた行いの、何と鬼畜な事か」
手持ち無沙汰に弄んでいたシガレットケースのファスナーがチャリチャリと小さく鳴いて、何処からか、笑い声が響いてきた。若者の甲高い、幸せそうな声音だ。
「何度も死にかけた。高熱で魘される孫に薬も与えず、毒きのこをそれと知って喰わせた事すらある」
「私も似た様なものだよ。君だけじゃない」
「けれど儂も師君も、我が子にメスを入れようとは思わなかった。違うか?」
「…それだけは、死んでも有り得ない事だ。愛する妻を失って尚、生きてきた私の全ては、リヒトなのだから」
「そうだろう。流石の儂も、十種類程度の毒に慣らすのがやっとだった。然しどうだ、先祖代々、薬師として過酷な試練を受けてきたグレアムならばともかく、叶にすら、あそこまでの化け物は存在しまい」
「オリオンは、本当に」
「間違いない。己の孫に二人のDNAを用いた筈だ。そう、ルーク坊っちゃんが成功体だとしたら」
空には細い細い、今にも消えそうな、月の欠片。
明日には消えてしまうのだろうか。
「坊っちゃんがナインの完全体だとしたら、かのう」
「…だとしたら?」
「龍一郎はルーク坊っちゃんに、『夜』を与えようとしたのかも知れん。…亡きレヴィ=ノアの傍らに最期まで共に在った、遠野夜人の様に」
「まさか、自分の孫に」
「自分の遺伝子では、ナイトの移植は成功しなかったのだろう。龍一郎も儂も、だ。ナイトの血は、遠野にしかない」
電子音が響く。
携帯電話を取り出した男の白髪に、外灯が煌めいた。
「…クライストから通信が入った。良いだろうか」
「ああ」
それと同時に白衣からも電子音が響いた。
ドイツ語で会話をしている隣を横目に携帯電話を開いた男の垂れ目がちな眼差しが見開かれ、
「ネルヴァ、奴らがセントラルから姿を消したらしい」
「奴ら?」
「ああ。儂のラボに置いてあったハルカらを壊し、サーバーごとデータを抜き取っていった様だ」
「何だと?」
「…大したデータはない。それに関しては良いとして、アンドロイドとは言え、妻を壊されるとは………殺しても足りんのう」
獰猛な笑みを浮かべた白衣から殺意が迸る。
「こちらも非常事態だ。クライストに刺客が差し向けられた。その場にベルハーツ=ヴィーゼンバーグの姿もあった様だが、区間保全部に連行されたランクBだが、特別機動部に引き渡される前に、自害したらしい」
「ちっ、では自白させる間もなくか!おのれ、どんな手を使っても必ずや見つけ出してくれる…!」
「ファーストが狙われたが、直々に取り押さえた様だな。その辺は詳しく判っていない。ベルハーツの手引きもあり、クライスト達は安全な場所へ隔離された様だが…」
「おのれ、今の特別機動部は何をしておるのだ!ネルヴァ、師君の責でもあるぞ!」
かつり。
響いた靴音に、二人は揃って振り返った。
「随分、物騒な話をしている」
夜を艶やかに彩るプラチナ。濃い蜂蜜色の眼差しが静かに、見つめてくる。二人の背に走った恐ろしい程の悪寒は、瞼を閉じたその男が再び瞼を開いた瞬間、恐怖へと姿を変えたのだ。
「な、にをしに来られた、ルーク=ノア」
「お祖母様のお招きに預かり、遅れ馳せながら参上したまでの事。シリウスたるそなたが、わざわざ尋ねるまでもない些末事だ」
「夫人は既に休まれておる。引き返されよ」
「特別機動部はセカンドの部署だ。叱責は、セカンドに与えておこう」
深紅に染まる眼差しが、静かに。
「退がれ。そなたらは最早どのランクにも刻まれていない、外の住民だ」
逃げろ、と。窓越しに叫んだ。
真っ先に窓ガラスを滑らせ顔を覗かせた漆黒の眼差しを持つ男の威圧感が、世界を貫く気配。
「…ようこそ、今度こそ俺は私としてお前を歓迎しよう。健勝で何よりだ、神威」
「ご無沙汰しております、陛下」
どちらからともなく、息を吐く。
この二人は外見はともかく、良く似ていた。
「言ったろう。お前はもう、俺の子じゃない」
「一つ、面白い土産話をお持ちしました」
「…何?」
「メイルークのDNAから、貴方と、もう一人、随分面映ゆい方のDNAが検出されたのです。ご存じでしたでしょうか、陛下」
神威の背後に隠れる様に立っていた顔面蒼白な男がふらりと、光の元に姿を表す。細めていた漆黒の双眸を僅かに見開いた男が唇を震わせ、
「…大空?」
「ひで、たか。李…君の母親は、サラじゃ、なかったんだ」
「は?」
「っ、あの子から、サラ=フェインのDNAなんて何処にも見つからなかったんだよ!李、李君は…っ、君と俊江さんの子供なんだ!」
悲鳴じみたその叫びに、口を開く者は、ない。
通りゃんせ、通りゃんせ。
此処は何処の細道じゃ。
天神様の、
「お前に鍵を与える」
やっと自由になれるのだと、その時まで、信じていた。
「鍵?」
「空蝉は『声』、天神は『眼』。それら全てが揃った者に対して、鍵がなくてはならん」
「それは、ナイトの事?」
「それだけではない。あれには『耳』まで備わってしまった。脳を少しばかり削り取った所で、その力は幾らも衰えておらん」
衰弱したと思う。
威圧感は昔から変わらず、けれど深い皺が増えた。声にも覇気がない。
「極東四家に代々伝わる術、失われし最後の『歌』は、儂が墓まで持って征く」
「歌」
「それが最後の鍵だ。この世に、完璧なものなど存在してはならん」
呪いの様だった。
まるで遺言の様に彼は、皺だらけの手に握った杖で地面を叩き、
「俊が全ての楽器を壊す前に、鍵を掛けろ。あれを無へ戻してはならん」
まるで、祈る様に。
通りゃんせ、通りゃんせ。
(おはよう)
(新しい物語を書こう)
(今度の物語は結末がない)
(王子様とお姫様が出逢う話)
(沢山の人々が傷つく話)
(始まるだけの話)
(終わらない話)
(ああ、でも)
(それら全て、画面の向こうの話じゃないか)
「生徒代表、1年1組遠野俊」
厳かな入学式の雰囲気に誰もが呑まれていた。
体育館の中央から壇上へ歩いていく彼を、誰もが固唾を飲んで見守っている。
「Open your eyes.」
彼の一言で世界は音を失ったのだ。
「今から俺は、俺であり俺ではない俺になる。それは蔑まれ、疎まれ、社会から淘汰される『俺』だ」
マイク越しに響くその声に、意思の強いその眼差しに。逆らう者は一人として存在しない。
「俺は群れてはならない。俺は存在してはいない。俺はか弱き人間として掃き捨てられ、誰からも記憶されない」
外は桜が舞い散る極彩色。
風は歌い、鳥は躍り、雲はたゆたう。
「さァ、未だ刻まれていない白紙の向こう側へ征こう。」
(俺は常に俺のまま)
(終わらない)
(始まったまま)
(通りゃんせ)
(…通りゃんせ)
「俺は俺のカルマを知っている。俺は俺の詩を紡ぐ」
朽
ち
果
て
た
楽
園
の
回
帰
録
- Crumbled Eden's memoirs -
「いつか歌う為に。」
聴こえているかい、君に捧げるこの歌が。
覚えているかい、果たされなかった約束を。
月が綺麗だね。
君は祈る様に満月を見上げ、歌っていたよ。
悲しい物語を。
寂しい物語を。
聞く者の居ない、己の人生を。
「父上」
夜を身に纏い、
「私は何故、ブラックシープなのですか」
けれど満月よりも光に満ちた、白銀に。ただただ、目を奪われた。
「私はノアになどなりたくない」
何よりも夜に愛された宝石、それを人は月と呼ぶ。
あれより綺麗なものなどこの世には存在しない。
あれより気高いものなどこの世には存在しない。
もっと、もっと、輝かせる為に出来る事は。
もっと、もっと、包み込む為に出来る事は。
「そうだ。
夜より深い、黒だ」
愛しい人よ。
神に最も近いと謳われた貴方を守る為に、Kを守る夜として私は生まれ変わった。
私は騎士。
I am your k-night.
私は脚本家。
私は綴り続ける。終わりのない物語を。永久に続く物語を。幸福へ幸福へ、貴方を誘い続けるオルゴール。
「初めまして、で、イイかな?王子様」
「…お前、何でアイツと一緒に居たんだ」
「あの時のにゃんこは、元気にしているか?」
「答えろ!何でテメェ、嵯峨崎と一緒に居たんだ!」
「何故。それは至極簡単だ、話し掛けられないお前と俺は違う」
怒りを露に再会した小さな王子様に、魔法を掛けた。
哀れな王子様は惑わされた事になど気づかず、怒りを忘れたかの様に微笑んだのだ。
「こんにちはピナタ。俺が誰だか、お前は知っているな?」
「な〜んだ、誰かと思ったら、シュンシュンじゃん」
「そう、俺とお前は家族だ。覚えているか」
「家族…うん、判った。家族だ」
「だから俺がイチと一緒に居るなら、お前も一緒に居ればイイ。近くから、見ていればイイ。そうだろう?」
「…そっか。うん、そうだ」
「大丈夫、幸せの代償は俺が支払う。お前に背負わせてしまったカルマと引き替えに、俺は俺の最も大切なものを忘れよう」
「最も、大切なもの?」
「そう。もうすぐ戻ってくる筈だから、俺の代わりにお前が彼を守ってくれるか」
「ん、良いよ」
「その代わりお前は、お前の最も大切なものを守ればイイ」
花が咲き綻ぶ様に微笑んだ王子様は、真っ直ぐ駆け出していった。
小さな墓に手作りのキャットフードを供えている赤毛の背中に話し掛けて、睨まれて、楽しそうだ。
「その代わりお前は、俺の最も大切なものからイチを遠ざけてくれ。所詮俺は、肉親には勝てない」
誰もが快活に。
名も知らぬ他人さえ幸せそうに、笑い、泣き、怒鳴り、まるでそれが当然の様に。
「壊れた楽器は」
壊れた楽器は戻らない。
戻るのはそう、エンドロールを歌う、その時だけだ。
「おやおや、ご機嫌よう、嵯峨崎君。…いえ、今はカルマの副総長とお呼びした方が宜しいでしょうかねぇ」
顔半分覆い隠した仮面の下から、蒼と黒が覗いている。
びくりと方を震わせた佑壱が掴んでいた男が暴れ始め、滅多にない一撃を喰らった佑壱の怒気が大気を震わせた。
反撃で吹き飛んだ男はそれきり動かなくなり、真っ先に飛んできた要が庇うように佑壱の前へ乗り出せば、長いコートを翻した細身の男は優雅に頭を下げたのだ。
「貴方が彼の新しい飼い主ですね。初めましてカイザー、私はカエサルルークの忠実な犬。子供の我儘で反抗しているファーストの次、セカンドと申します」
普段は躊躇わず飛び掛かっていく健吾も、誰よりも暴れまわっていた裕也も、その男を見るなり警戒心を隠さず身構えたまま。
ABSOLUTELYだ、と、ざわめく他人の声を他人事の様に聞いている。
「シュンシュン、そいつと話してると頭痛くなっちゃうよ〜。無視しな、無視」
「おや、酷い事を仰いますねぇ、サブマジェスティ。こんなに従順な私を苛めるなんて、なんてつれないミストレスでしょう」
「キモい」
ああ、そうか。
並ぶと明確だ。こうも身長差がありながら、日向の存在感は隣の男に少しも負けていない。道理で佑壱がガミガミ怒鳴りながらも、追い払わない訳だと納得する。
「新しいお仲間とは仲良く出来ていますか、嵯峨崎君」
悔しげに唇を噛む、深紅の眼差しを見た。
「余り我儘ばかり言うと、また、捨てられますよ」
「…るせぇ」
「もう、一人ぼっちは嫌でしょう?」
「煩ぇ!」
「どうせ誰も、君を愛してくれなどしないのですから」
殺気はすぐ近くから。
ああ、愛らしい王子様が誰よりも、怒りを吹き出している。
けれど、そう。
(そんな事はどうでも良かったのだ)
「…ああ、手加減するのを忘れていた」
弾け飛んだ青銅がからりと鳴く。
怯える誰もが後ずさる気配、呆然と瞠った非対称の眼差しが歪み、憎々しげに睨みつけてくるのを眺めながら、抱き寄せた赤は、熱かった。
「悪いが、俺の可愛いワンコを苛めないでくれないか」
(愛しい人に酷く近い血の匂い)
(寂しがり屋なのに)
(誰にも言えない哀れな雄)
(哀れな犬)
この世の全てを憎む、裸の狼。
彼に手を差し伸べるのは自分ではない。
「お前をしつけるのは俺じゃない」
大切なものは指で数えられる程度で良い。
両手で十本、友達はそれだけで良い。
ああ、それでも。
時計の文字盤に刻まれた数は12。満月の様な綺麗な円卓を描くには、二つ、指が足りなかった。
「俺は物語を描く奇術師。あの子は物語を現実へと紡ぐ、道化師」
夜の向こうに朝がある。
裏の向こうに表がある。
「俺の名はナイト。夜をたゆたう、騎士」
「俺の名は太陽。朝を生きる、騎士」
「俺は王であり皇帝であり天神だ」
「俺は平民であり友であり歌い手だ」
「俺は物語の数だけ時を止める」
「俺は物語の数だけ時を紡いでいく」
人はそれを、何と呼ぶのだろう。
友か。
恋人か。
盟友か。
それとも、
「ポーンはクイーンに」
「キングはついぞキングのまま」
「約束を果たそう」
「約束は果たされなかった」
「俺は終わりを望んでいた」
「俺は今のままが良かった」
「どうして」
「どうして」
「俺は月があればイイ」
「俺はあの子を照らす光になる」
「俺はあの子を幸せにするよ。その為には、」
「俺はあの子を幸せにするよ。その為には、」
「自分がどうなっても構わない」
「他人がどうなっても構わない」
「あの子の幸せが俺の幸せ」
「俺の幸せがあってこそあの子を幸せに出来るんだ」
「「お前は間違ってる」」
蝉は鳴いていた、か?
篠突く雨はひたすら街を濡らし、足早に去っていく人々は一心不乱に前ばかりを見ていた。
「にゃーん」
濡れそぼる野良猫は真夏にも関わらず震え、水溜まりに映る己を見やり、何を思っていたのだろう。
「珍しいな。サングラスはどうした」
二度目、だ。
艶やかなプラチナブロンドは濡れる事にも構わず、長い足は水溜まりに波紋を描いた。
「一人か」
鈍色に煌めく白銀の仮面。
それより尚光輝くプラチナブロンド。
「…一人だったら、何か悪いか」
「いつまでそうしているつもりだ」
「テメーには関係ねェ」
震える子猫の様だ。
何も彼もが、勇気のなさが、全てが嫌で仕方ない。
「ばいばい、裸の王様。」
自分はどうなっても構わないと思っていた癖に。
彼の幸せこそが幸せだと、思っていた癖に。
「誰がお前を傷つけた?」
低い体温に。
それでも強く抱き締められれば、温度を感じずにはいられない事を。
「俊」
いつか見た宝石とはまるで違う、満月よりも甘い蜂蜜色の眼差しに見つめられて、低い声音に名を呼ばれれば。魂が甘く痺れるのだと。
どうして、知ってしまったのだろう。
「俺はお前を妨げる全てを赦しはしない」
抱き寄せられて、口付けられて、まるで、睦言の様に囁かれて。それでもその全てがまるで、自分の描いた脚本の様だと思ってしまったから。
(白い紙に幾つもの)
(幸せな物語を書いたんだ)
(だけどいつしか気づいてしまった)
(物語のキャストは全て他人で)
(その幸福は全て、画面の向こうだけの話なのだ)
「美しい、黒」
神よ。
目の前でただただ神々しく眼差しを細める、唯一の、神よ。
(それなら俺の幸せは、何処にある?)
(何処にもない)
(何処にもない)
(はじめから)
(しっていた)
「俊。お前は俺の、宝石だ」
愚かにして浅はかな俺は消え去りたいと初めて、望んでしまったのだ。
(なんて下らない喜劇)
←いやん(*)
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