帝王院高等学校
一足ごとに、終幕へ。
「母上、暴れないで頂きたい。手荒な真似は、俺の本意ではないのだ」
「なァにがっ、母上じゃアアア!!!お主!俺はピチピチの16歳だぞコラァ!離しやがれェイ!下ろしやがれェイ!何しやがるコラァ!日本人舐めてるとぶっ飛ばさすぞボケェ!!!」

びちびち、釣りたての魚宜しく暴れまわる体を真顔で担いだまま、どうせ開かないエレベーターを華麗に通り過ぎた金髪は、消火栓の赤い扉を蹴り開けた。

「ナイト、先に降りろ。此処を伝えば、王…美月の元に辿り着く」
「むがー!もがががー!!!」

担いだ騒がしい口を片手で塞ぎ、無表情の金髪は藍色の眼差しを俊へ注ぐ。然しそこまで大人しく着いてきた筈の男は、吊り上がった人相の悪い目を眇め、何やら物々しい雰囲気だ。

「一つ、聞きたい事があるんだ。さっき、銀色の人に向けた殺気は何だ?なのに彼からは何も感じなかった。咄嗟に俺は君を庇ったけれど、君が善だとは限らない。つまり彼が悪とも限らない」
「…今は、それを語るべきでは時では。俺が信じられないと言うのなら、あちらへ戻れば良い」
「ふむ。戻るも何も、あそこにはつい先日会ったばかりの貴公子が居た。彼は俺を嫌っているだろう。…少し本気で、殴ってしまったからな」

何やら考え込む俊に首を傾げ、ドスドスと腹を蹴ってくる人を蹴り開けた消火栓の中へ放り込む。中身は、学園のシステムにハッキングした祭美月が繋げたダストシュートで、キャノンの正面玄関に続いている。
階下では美月が待っている筈だ。

「昼とは少し雰囲気が変わった、か?お前は…遠野俊で間違いない、と、理解しているが、違うのか?」
「困ったな。どうして俺の知らない人が、俺を知っているのか判らない。そもそも此処は何処なんだ?イチのマンションでもない、カルマでもない、当然、俺が通う学校でもない。…今は殆ど通っていないけれど」
「…何を言っている?此処はお前が通う学園だ。校舎最上階、クラウンが統べる中央委員会の領域」
「中央委員会?」

李上香は暫し沈黙した。
聡明な彼の頭脳では計り知れない何かが起きているのは理解しているが、それが何を指すのかが判らない。


「…ん?」

答えが出ないまま沈黙を貫いている男の前で、締め切られた廊下の窓へ目を向けた俊が外を覗いている。

「ああ、仔猫の声がする。何だ、また要を怒らせたのか」

無表情が解け、神々しい笑みを一瞬浮かべた俊の両手が嵌め込まれた窓枠へ掛かり、決して外れる筈がないそれを容易く取り外す光景を捉えた眼球が乾いていく刹那、

「申し訳ない、知らない人には着いていくなと言われてる。俺は失礼するよ、金色の人」

余りにも晴れやかな笑顔を前に、一歩も、動けなかったのだ。
























「はあ?!サブボス、の、母親あ?!」

呼吸困難でうっかりあの世に渡り掛けた神崎隼人は、何故か友好的なスーツ姿のおっさん共に甲斐甲斐しく介抱されながら、要に張り付いている巨乳を凝視した。
日向の尽力で、寮のエレベーターを校舎まで繋げて貰ったお陰で、何とか時間内に間に合った為か要は若干不機嫌気味に「何度も言わせるな」と吐き捨てる。

「やっばい、ちょー似てる!うっそ、何これ、笑ってもよいとこ?」
「やだわー、生ハヤト綺麗過ぎてこっちこそ笑えるんだわ!サイン頂戴、ヨーコちゃん宛で!」
「オッケー、ヨーコちゃんねえ、もしかして漢字だと『陽子』だったりしてえ。あは。スペシャルサービスで写真も撮ってよいよー」
「マジ?!肩組んでくんない?」
「よいよー、はい、ピース☆」
「いぇーい!」

後輩の命懸けの猛ダッシュに軽く感動していたOBがパシャッとガラケーを光らせ、魔女と隼人はガシッと手を取り合った。

「何だろ、カナメ様とは畏れ多くて話せないけど、ハヤトとは初めて会った気がしないんだわ。テレビで毎日観てるからかしら」
「ちょっとお、すっごい失礼なんですけどお。ヨーコちゃん、カナメちゃんってばよいのは顔だけだよー?その点、顔もスタイルも性格もよい隼人君ってばエッチもうまくて、あた!」
「ハヤト!貴様はクラスメートの保護者に向かって何をほざいているんですか!恥を知れ!」
「ぐすん。狂暴なカナメちゃんに叩かれたあ、ヨーコちゃん慰めてえ」
「よしよし、可哀想だけどカナメ様に叩いて貰えるなんてちょいと羨ましいんだわハヤト、だからつねっちゃう」
「もー、意地悪オババー」
「何をー?オババ攻撃はこんなもんじゃないんだわー」

ウフフアハハ、デカい隼人と室内で最も背が低い巨乳がいちゃついている。逃げた佑壱は要をマダムキラーだと思っていたが、隼人の方が余程おばさん受けが良かったらしい。但し、遠野家の貧乳女に限っては、そのスキルが通用しなかったが。

「あ…こんな事してる場合じゃなかった。そろそろ良いかしら、山田君の奥さん。皆、移動して貰える?」
「あ、ああ、そうだったねレイ。では私はアリーとヨーコと共に、小林に着いていこう。アリー、ヨーコ、それで構わないかな?」
「構わない、私に断る理由はないさ。…所で、今更言っても良いのか悩んでいたんだが、クリス」

名残惜しいとばかりに隼人と抱擁を交わしていた山田嫁は、しっかり隼人とメアド交換を果たし、今度リッツパーティーしようと言わんばかりのノリで「今度エビフライパーティーしよう」「そうしよう」と約束を交わしていた。

「君のSP、佑壱君が居なくなった頃から姿が見えない様だが…」

いい加減にしろとワラショク常務が魔女を引き離し、頭一つ大きい隼人をギラリと睨み付ける。睨まれた隼人は唇の端を吊り上げ、「あは、こっわ」と含み笑いを零した。
高坂家の侍嫁の台詞に顔を見合わせたのは、鬼畜秘書と赤毛だけだ。

「ふふ、リンか。あの子は良いんだよ、ファーストに恋をした様でね。大方、ファーストの後を追ったのだろう」
「な、んだと?」
「初々しいと思わない?ふふ、若さとは罪深い程に潔いものだね。羨ましいよ」

愉快げに微笑んだ嵯峨崎夫人を前に、高坂夫人は顔面蒼白だ。ふるふると頭を振り、

「そんな…!それでは日向はどうなるんだ!」
「どうしたんだアリー、そんなに声を荒げて…」
「あ、あの子は幼い頃から佑壱君に心を奪われて、つい最近も寝言で『俺の天使マジ天使』などと流石の私も心配になる台詞を口にしていたと言うのに…!」

室内はシーンと見事に沈黙した。
無意識で目と目を合わせた要と隼人は寝起きの様なあどけない表情で「俺の天使」「マジ天使」と呟き合い、きょときょとと美女二人を交互に見つめた山田夫人は下がり気味の眉をきゅっと顰めると、稀に見るイケメン二人、日向と佑壱を思い出す。

「…待って、あの子達ってどっちも男の子よね?どう言う事?どっちもがっつり体格は良いしどう見ても男にしか見えないし、…天使?天使って何なの、はー?天使?男に…天使って〜?!」

すっとんきょうな声を上げた巨乳を、真っ先に睨んだのは赤毛だった。睫毛バサバサの切れ長の目を限界まで見開き、ギラリと睨み据え、

「そうよ、アタシのエンジェルは天使なのよ、だってアタシとクリスの子なのよ、当っ然じゃない!何か文句あんの、この地味顔女っ!」

ババアと呼ばれてもチビと呼ばれても一切動じない山田太陽の母の唯一の地雷を、

「誰が地味顔だって言いやがった、糞厚化粧オカマ野郎がー!どうせ使い道ないんでしょうが、お飾りの腐れ金玉ぶっ潰してやるんだわ!っ、一ノ瀬ぇ!離しなさいぃいいい!!!!!」
「おおお奥様、お願いですから鎮まって下さい!この一ノ瀬の一生のお願いですからぁ!」
「離さないとアンタの金玉もぶっ潰すわよー!本物の女がどんだけのもんか思い知らせてやるわー!!!離さんかコラー!!!チンコぶっ潰してすり潰して剥き出した尿道にずわい蟹の刺足突き刺して奥歯ガタガタ言わすぞコラー!!!!!」

山田太陽にビビってチビる寸前である嵯峨崎佑壱の実父が後先考えず発破し、室内の雄共全員が股間を押さえた。
帝王院学園OBのSOSを一身に受信した隼人は涙目で股間を押さえながら要を見つめ、

「と、とりあえず、お腹は空いてらっしゃいませんか、陽子さん」
「はぁ?!………え?もしかして、カナメ様と一緒にご飯ってこと?マジ?!ねぇ、嘘だったら私何するか判んないけど!本気なの?!」
「ほ、本気です。な、なぁ、ハヤト…」
「はい?!あ、あは、えっと、うん、本気本気………多分…」

気まずげな高坂・嵯峨崎両夫人を余所に、山田夫人は感涙で常務に抱きついた。

「い、一ノ瀬常務ぅ!この子達にフレンチでも蟹でも何でも食べさせてあげたいのー!だから経費で落として」
「えっ?!…わ、判りました、努力します…」

鬼常務は遠い何処かを見つめたが、そこそこの修羅場は潜ってきている。なので考える事を放棄した。
経理に『社長の給料から引いとけ』と言って領収書を投げつければ、事足りる話だ。

「行くわよ、ハヤト、カナメ!ちらほら屋台みたいなの出てたわよね、パンフレットに載ってるとこ片っ端から梯子するんだわ!」
「イェッサー、サブボスのママー」
「イェッサー、マダム陽子さん」

これによってカードがない為に無一文に近い隼人と奢りと言う言葉が倹約の次に好きな要は、ニッコニコだった。その内にワラショクのコマーシャルオファーが来るかも知れない。















 
「あれ?ふふ、何か落ちてくるねぇ」
「あ?」

賑やかな保健室の隣、使われていないのか多少埃臭い小会議室のパイプ椅子に縛り付けられた人が囁けば、離れた位置で密談していた男の内、紅蓮の髪を持つ男だけが振り返る。

「鈍いゼロ、君の上だよ。ほら、近い」

嵯峨崎零人が天井を見上げるのと、空気溝の金網が凄まじい音と共に破られるのは同時だった。衝撃と共に落ちてきたそれを慌てて受け止めたのは隣にいた高坂だったが、ジャケットの胸元へ手を差し入れた部下は素早く身構えると、組長の腕に収まっている人物に気づくなりすっとんきょうな声を上げる。

「ト、トシ?!親父!そいつぁ、族狩りのトシじゃ?!」
「あ?ああ、そうか、お前は餓鬼の時分からチーム率いてやがったな。っつても、コイツが留学した頃はまだ初等部だったろ?」
「わしらが知ってるのは宮田の兄貴が年少にぶちこまれた頃ですから…20年程なります。こりゃたまげた、見た目が何も変わってねぇ…!」
「コイツは俺と2歳しか変わんねぇよ、お前より年上だ。…おい、トシ。起きろトシ!」

ぱちんぱちんと頬を叩く高坂が声を荒げたが、気を失っているのか目を開ける気配はない。舌打ち一つ、

「何があったんだ、糞が!」
「ふ…ふふ、うふふふふふ」

会議室の中央、逃げられないように窓からも入り口からも最も遠い場所で拘束されている黒髪が肩を震わせた。余りの奇妙な笑みに零人が顎を掴み「黙れ」と囁けば、顔を上げた女の蒼い双眸が歪んでいたのだ。

「それはねぇ、陛下のセキュリティが働いたんだよ。クイーンを粗末に扱うと、幾ら君達でも殺されてしまうんじゃない?ふふふ」
「笑うな気色悪ぃ!女でも加減しねぇぞ!」
「おいで、ラン」

ドアが吹き飛ぶ音と同時に、スプリンクラーからしゅわっと霧が吹き出された。誰もが抵抗する暇なく崩れ落ちるのを見ていた女は縛られていた椅子から容易く立ち上がり、マスクを押さえながら入ってきた人を見やる。

「その帽子、似合ってるよ。ふふ、男の子みたいだねぇ」
「キ…キハさん、ほんとにこんな…!」
「しー」

怯えている少女は帽子の下、円らな瞳を恐怖で染めていたが、蒼い眼差しを笑みで彩った中性的な美貌から唇へ指を押し当てられると、口を噤んだ。

「大丈夫、心配しなくて良い。君達が放り込まれたイギリスで、僕は何度も助けてあげたでしょう?心配なんか何にもないんだよ、ラン。いつまでもリンにばかり嫌な仕事押し付けて、逃げたくないんだよねぇ?」
「う…リ、リンは…幸せにならなくちゃ、いけない子なんだ…!」
「そうだねぇ。だから叔母である僕が叶えてあげるから、僕のことも助けて?」
「…うん」
「大丈夫だよ。知ってるでしょう?…僕は二葉を守ったんだ、だから何も心配しなくて良い」

腕へ飛び込んできた姪を抱き締めた人は唇を吊り上げ、睡眠ガスが充満する部屋の戸を閉めた。



「もうじき全てが終わるから、ねぇ」





















すとん。

ニッコニコと魔女に付き従って夜空のエントランスゲートを一歩外へ出た一行の前に、電飾で明るい風景よりまだ上、闇空から落ちてきた漆黒は、緩やかに立ち上がった。

「…ん?変だな、隼人、と、要?何だか、大きくなったか?」
「「な?!」」

囁く様な声音、乱れた前髪を掻き上げた男は驚きの余り固まっている山田夫人を認めるなり柔らかな笑みを浮かべ、その場で片膝をついた。

「これは失礼、お嬢さん。不躾にも、御身の眼前を断りなく汚した無礼、謝罪の言葉が見つかりません」
「な、なん、な、い、今、アンタ、そ…空から降ってきた…?!」
「こんばんは、明星に負けず夜を彩る美しい人。俺の所為でお怪我などありませんか?」

ぱくぱく喘ぐ隼人と要は言葉もなく、イルミネーションをつまみに歓談していた生徒らが俄に騒ぐ声をBGMに。

「け、怪我は、ないんだわ…!美しいって…?!そ、そんな事より、ア、アンタ…!」
「…ああ、これは失礼。つい今し方、人に注意したばかりなのに。俺が同じ轍を踏むとは、愚かにも程がある」

ゆったり、立ち上がった男の漆黒の眼差しが甘く細まる。
ざわざわとざわめきは小波の様に広がっていき、黒の化身がまるで指揮者の様に両腕を広げた瞬間、およそ怖いものなどなさそうな山田陽子は、真顔で腰を抜かしたのだ。

「ご機嫌よう美しい人。俺の名はST、白日と闇夜の狭間、灰を司る銀月に魅せられた哀れな一匹の雄」
「し、し、しるばー、ととととらんすふぁー、って…!」
「近頃は良くこう呼ばれる。…お好きなように、何とでも」

優雅にお辞儀した男の手が、無防備に見上げてくる女性の手を取り、目線を合わせる様に屈み込めば。



「シーザーなりと、カイザーなりと。」


世界を揺るがす悲鳴はまるで、獣の咆哮が如く。

















「あ、れ?」
「どしたん?(*´Q`*)」

校舎の方面が騒がしい、と。
首を傾げた太陽は、自分より大きい裕也を背負っている健吾に呼び止められ、慌てて踵を返した。今は寮まで出来るだけ人目につかず行かねばならない。校舎は反対方向だ。
ざくざくと進んでいく日向を慌てて追いかけながら、太陽は再び足を止めた。

何だ、この違和感は。

「おい、何してやがる、置いていくぞ」
「光、王子…」
「あ?」
「マジでどしたん、タイヨウ君?(;´Д⊂)」
「イチ先輩がいません!さっきまで光王子の隣に居たでしょ?!」

素早く周囲を見回す日向と健吾が揃って目を見開き、太陽は何の心当たりもないのに走り出した。



校舎。
何かがあそこで、起きている様な気がする。


「タイヨウ君、待てって!(;´Д⊂)」
「ごめん高野!光王子、藤倉を連れて二人は先に行ってて下さい!聞きたい事が山程あるんですから!」

何だ、何だ、うなじが痒い。
嫌な予感だとは思うが、これは、何に対してのものなのか。

「ちょいとそこ退いて!ごめん、通らせてー!」

中等部のネイビーグレー、高等部のオフホワイト、西園寺のチョコレートブラウン、幾つものブレザーを掻き分けて、山田太陽はライトアップされているティアーズキャノンへの階段を駆け上がり、水路と花壇で飾られているエントランスゲートを網膜に映し込むなり目を見開いた。


「シーザー!」
「いやー!本物のカルマだー!」
「シーザー!シーザー!シーザー!」
「シーザーがこの学園の生徒だったなんて…!!!」

賑わう夥しい数の人間に囲まれて、その黒は立っていた。
燃えるような紅蓮の髪を結い上げた男は跪く様に屈み込み、太陽からはその表情は見えない。


「しゅ、ん」

微かに、呟いた。
雪崩れ込む人の群れを掻き分けながら怒鳴る隼人と要は勿論、他の誰もが太陽を見てすらいない。母親に酷く良く似た女が呼吸困難寸前で倒れ込んでいるのが見えたが、それをスマートに片腕で抱き止めていた男だけが、ゆるり・と。



真っ直ぐ、太陽を見つめ、微かに微笑んだのだ。



「イチ、此処は少し賑やかだな。静かな所に行こう、誰も居ない所に」
「了解」
「沢山聞きたい事があるんだ。…それよりイチ、その髪型はどうしたんだ?斬新だな」
「へ、変スか?!スいません、すぐにっ、」
「いや、格好イイよ。俺の可愛いお前に、とても良く似合っている」

何を話しているのか、喧騒に掻き消されて太陽にはまるで聞こえなかった。涙ぐんでいる佑壱がまるで仔犬の様に戯れながら人混みに消えていくのを、見ていた。眉を吊り上げた要と隼人はその後をついていきながら、何処か楽しげだ。



「カルマ、シーザー」

いつか外界で見たそれは、指揮者の様だった。
学園では決して楽しそうな表情など見せない要や隼人、裕也と健吾が笑っている中央で。

その男はまるで、神様の様に。

「クロノスライン、オープン」
『コード:アクエリアスを確認、ご命令を』
「会長に繋いでくれないかい、俊に」
『エラー、該当のコードは存在しません』

悲しくもないのに左目から、涙が零れた。右目は乾いて痙き攣っている。
ああ、これで満足なのか、あの男は。ああ、これで全てを終わらせるつもりなのか、あの男は。

「駄目、だよ、イチ先輩。神崎。錦織。俊についていったら忘れちゃう、よ。嬉しかった事も悲しかった事も築き上げてきたカルマを全て、忘れちゃうんだよ…」

誰かこの声を聞いてくれ。
誰か彼らまでの道を開けてくれ。


「ちょっと、そこ邪魔だよ!」
「突っ立ってないで退いてよ!」
「いやぁあああああ!!!シーザー!抱いてぇえええ!!!」

声の限り叫ぶ、全ての人間。
どうして数分後には忘れてしまえるのだろう。今感じている、その喜びを。その激情を。

「ネイちゃん、たすけて」

俺は嫌だったんだ。
あの男が自分を犠牲にして何の躊躇いもなく他人を助けようとする姿が、産まれた頃から、嫌だったんだ。

だから賭けをした。
無償で救われる事を由としない自分に俊が与えた、形ばかりの賭けを。

「駄目だよ、まだ解けたら困るんだ、お願いだから俊…」

縛り付ける魔法の呪文はいつも『約束』。
いつか交わした約束を果たす為に、なんて。ああ、現実はなんて無慈悲なのだろう。



『アイスのレシート一万円分貯めると、何が貰えるか知ってる?』

全ては自分の業だ。
森羅万象の因果は常に、自分のもたらした果てだ。

『…はぁ?知らねーよ、そんな事』

いつもいつでも面白くなさそうな綺麗な顔をした子供を、縛り付けたかっただけだ。きっといつか居なくなるのだろうと判っていたから、出来る限りその日を引き伸ばそうと無駄な足掻きをした。本当に、何て自業自得。

『100円のアイスキャンディーにしなさいよ?!』
『お父さんが500円あげようか』
『はいよ、アイスキャンディー2本で200円ね。いつも有難う、坊や』
『ねぇ、アキちゃん。仲良くして欲しい時はどうやったらいいの?無視しないでよ、アキちゃん…』
『そう、好きな子を苛めてしまうのは男の性だ。だから何も悩む必要はない。生まれつき未熟だった弟に母親が甘くなってしまうのは仕方がない。でもそれで寂しい思いをしてしまったお前がつい弟を邪険に扱ってしまっても、何の罪にもならない。好きだから苛めてしまうんだ。それの何処が、悪い?』



『でもアキちゃんは、お兄ちゃんなのに…』



『そう、お前は悪を悪だと知っている。罪悪感とは愛するが故に産まれるものだ。愛がなければ罪悪感を感じる必要はない』
『…そんな事ゆったってアキちゃんは、秘書なんかなんないよー?アキちゃんってば命令されるの大嫌いだしー。それにいつかネイちゃんをお嫁さんに貰うつもりだから、平凡な公務員とかになるつもりなのー。でもねー、公務員って何なのかなー?』
『さァ、それは俺にも判らない。でもそうか、だったら諦めるしかない。俺はお前と仲良くしたかったんだ。でもそれは、無理に頼む事ではないな』
『仲良くしたかったのー?ふーん。…だったら今度は大人の事情がどうとか言わないで、フツーに話し掛けてきたらいいんじゃないかなー』
『普通、に?』
『そうだよー。ほらー、外国の挨拶あるじゃんかー。ポンジュースってさー』
『ああ、ボンジュールか』
『あはは、ちょいと間違えたかもー』



ざわめきは留まる所を知らず。
ふらり、と。よろけながら人の群れを逆送する太陽には、誰も目を向けなかった。

















「やはり俊の仕業か」
「何と言う事だ、俊は…!やはり俊は私を許していなかったのだな!ごほっ、ごほっ」
「興奮したら喉に詰まりますよ。ほらほら、お茶を飲んで…それは大根おろしですよ、旦那様」

もきゅもきゅと無表情で胡瓜の漬け物を頬張る男の隣、洒落た陶器に入っていた大根おろしを豪快に飲み干した帝王院学園学園長はこれたまた豪快に大根おろしを吹き出し、大人しく味噌汁を啜っていた息子に吹き掛けた。

「…」
「す、すまん、秀皇。まだ口をつけていない私の味噌汁と交換してやろう、それは父さんに寄越しなさい」
「隆子、納豆のお代わりはあるか」
「はいはい、ございますよ。東雲ちゃんもお代わりしてね」
「は、はい!畏れ入ります隆子様!」
「いやぁね、昔は隆子姉ちゃん隆子姉ちゃんって慕ってくれたのに。私達、幼馴染みじゃないの。遠慮しないでね」

杖を付きながら歩行訓練を始めた人は、拙いながらもゆっくりゆっくり三歩程歩き、車椅子に乗り込んだ。手を貸すと上品に叱られるので、ハラハラと見守る父子はそれでも動かない。

「母さん、少し痩せた?」
「私が学園を離れてすぐ気の病から体を崩したと聞いていたが、あれには何もしてやれなんだ。私は何と情けない男だ…!おい、帝都。それは俺の白菜漬けだぞ、吐き出せ貴様!」
「もきゅもきゅ。そなたらに報告せねばならん事がある。隆子に脳腫瘍が見つかった」
「「「な!」」」

普通の女性より、生まれつき足に不自由がある学園長夫人は何をするにも時間が懸かる。
ただでさえ円形のフロアの半分をアイランドキッチン設備のリビングに改築してある為、何処ぞのセレブ顔負けの長テーブルからキッチンまで数十メートルあった。声を潜めていれば、キッチンの向こう側の彼女には聞こえはしない。

「そなたら、声を控えろ。案じる事はない。調べた所、元々先天性の有性腫瘍を抱えていたらしい。隆子がそなたに嫁ぐ前、手術をしたそうだな、駿河」
「あ、ああ。小脳を繋ぐ脳幹に届いていた為、術後も運動機能に制限はあった。然しそれもあり定期的に検査させてあった筈だぞ、まさか手遅れなどとは…!」
「無論、悪性とは言えステージは初期だが、問題は部位にある。日本の医療では制約が多すぎる為、完全除去は難しいだろう」

青ざめた一同を他所に、味噌汁を飲み干した金髪は麗しい美貌ながらやはり無表情で、学園長の漬け物へ箸を伸ばす。今度こそ帝王院駿河が怒鳴る事はなかった。

「然しながらそこのシリウスであれば、二時間もあれば摘出出来よう。どうだシリウス」
「…ふむ、MRI画像を初見させて貰ったがのう、ステージ末期だろうと摘出するに問題はない。我らがステルシリープラネットのマルチスキルは無論、医療にも遺憾なく発揮されておる。元々グレアムは、薬を調合し生計を立てておった医療家計だ」
「ならばすぐにでも!頼む!妻を助けてくれ…!」
「師君の願いならば叶えてやりたいが道理、頭を上げられよ殿。見くびるでない、家名を棄てたとは言え、儂は冬月龍一郎の弟だ」
「…!かたじけない…」

ぐすんと無愛想な顔を涙で曇らせた父に、がつがつと大盛の丼飯をかっ喰らった息子は渋々テーブルの上のフキンを手渡す。

「お、大殿…?!」
「然しネックは機材だのう。セントラルにある儂のラボがそっくりそのまま復元出来れば事は容易だが、此処は日本だ」

青ざめた東雲を他所にフキンで顔を拭った学園長は、キリッと顔を整え、

「構わん、この帝王院駿河に出来る事があれば何なり申し付けてくれ。自慢ではないがタンスに小指を打ち付けても30分程安静にしていれば問題ない男だ」
「がつがつ。我が父親ながら情けない、父さんは見た目騙しなんですよ。がつがつ、ごきゅごきゅ。昔から夜に一人でトイレに行けないからって何だかんだ理由付けて俺について行かしたり秘書に付き添わせたりもきゅん、ゲフ!…だから俺はロードの件を貴方には言わなかったんですよ、使えないから」
「な」

息子にスパッと切り捨てられた学園長は目を吊り上げ、ふるふると震え始めた。ドパッと涙を溢れさせ、慌てた東雲がハンカチを取り出す前にフキンで目元を押さえたが、それは先程大根おろしをぶちまけた時にテーブルを拭いた代物だ。息子である秀皇は無論、判っていて手渡したのである。

「帝都、俺はそんなに見た目騙しな男なのか…」
「そなたは俊に良く似ている、特にセキュリティカメラで見たトイレに山田太陽を従えていく様など親子の様だ。気を落とすな」
「何だと、俊も暗い所が苦手なのか。良し良し、お祖父ちゃんが毎晩トイレや中まで付いていってやるからな、良し良し」
「お構いなく、俊にはトイレのドア全開で踏ん張れと教えてますので。シエが」

それにしても良く食べるな、と。
東雲が呟いた時、漸くお代わりを運んできた夫人はにこにこと納豆をパックのままテーブルへ並べ、

「シエさんのお料理に慣れたのよねぇ、秀皇。さぁさ、皆さん沢山食べて頂戴な。そうだわ、そろそろルークが来る頃なの。嬉しくなっちゃって私、さっきあの子を呼んじゃったのよ」

室内が凍りついた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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