帝王院高等学校
売れっ子モデルのダイエットは命懸け
再会は純粋に、偶然だった。
近頃言葉を交わしたばかりの仔猫とは違い、あれはまるで獰猛な飢えた獣の様な表情で。噛みつかんばかり、口を開いたのだ。


「…テメー、何ガンつけてんだ、あ?」

まるでチンピラではないかと笑いそうになって耐えたのは、表情だけだった。この数年、顔の筋肉を動かした記憶が殆どなかったから、交感神経が怠けていたのだろう。
見ていない、などと安い誤魔化しは逆効果であるのは明らかだ。そして、わざわざそんなつまらない嘘を吐く気にもならなかった。

まだ早い、と。
声もなく呟けば、相手は益々表情を険悪な色合いで染めた。

「髪の色が綺麗で、見惚れた。すまない、気を害したか」
「………変な奴だな。まぁ、良い。これは俺の自慢だ、素直な理由に免じて殴らないでおいてやる。有り難く思え」

満更でもないようだ。
唇の端を片方だけ器用に吊り上げた男はそれきり顔を背けたが、近付いてきた時と同じくズカズカ離れていく事はない。まるで見ろ見ろもっと見るが良いと言わんばかりに、そっぽ向いたまま離れなかった。

「一つ、聞いても良いかな」
「あ?髪の手入れ方法か?」
「それも気になるけど」
「ふん。…今の俺はそこそこ機嫌が良い。頭の悪い質問だったら殺すぞ」
「猫と犬、どちらが好き?」
「ああ?!」

どうやらこの質問はお気に召さなかったらしい。
尖った犬歯を剥き出しにした深紅の双眸は鈍色に光り、およそ友好的とは言えない雰囲気を纏っている。
少しばかり噛みつかれるだろうかと動かない表情筋の下、擽る様な気持ちで考えたものの、眉間に皺を寄せた男の口から零れた台詞は、

「犬だ」

唸る様なその一言だったのだ。

「…ふむ。理由は?」
「猫なんざ人間に媚びなきゃ生きていけねぇ弱い動物だろ、所詮。その点、犬は知恵がある。俺は馬鹿は大嫌いだ」
「そう、か。じゃあ、今度答え合わせをしよう」
「は?」

今度などない、とでも。思ったのだろうか。
怪訝げに歪められた双眸に、吊り上がる唇が映っている。

ああ、やっと笑えたらしいと他人事の様に頷きながら首を傾げれば、髪や瞳の色に負けぬほど頬を染めた獣は何とも奇妙な顔で、膝だけがゆらゆらと揺れていた。逃げ出したいのに逃げられない、と、言わんばかりだ。

「猫が本当に弱いのか、お前は知らないだろう?」
「し…っ、知ってるに決まってんだろ!そんな事!判り切ってる!」
「本当に、そうか?」
「テメ…!」
「ならば野良猫は人に媚びるのか。ならば虎は、ならばライオンは、本当に、弱いのか?」

奥二重の切れ長な瞳が見開かれる。実年齢より二つ三つは大人びて見える彼は、そう、嵯峨崎佑壱は短い赤毛を逆立て、喘ぐ様に口を開閉させたが、沈黙を貫いた。言葉が見当たらなかったのかも知れない。

「主人の指示を待つ犬。番をひた向きに愛する狼。まるで、お姫様の様に。誰に縛られる事なく自由に振る舞う事を許された猫。気紛れに慈悲を与える、まるで王子様の様に」
「…」
「犬を選んだお前は、無意識で待っているのかも知れない。まだ見ぬ王子様を。そう、それこそがお前の『カルマ』だ」
「カルマ、だと」
「でもまだ早い」

ランドセルを置いてきて正解だった。
無論、学校からより家からの方が近い図書館へわざわざ荷物を背負っていく趣味はない。それだけの理由だが、目線は殆ど変わらない。故に、端から見れば恐らく、自分の方が年上に見える事だろう。
何せつい最近、オペラハウスの道すがら、チンピラから絡まれた。間の悪い事に祖父が傍に居た所為か、彼が人質に取られた時は焦ったものだ。

いつ祖父がメスでチンピラ達を公開解剖するだろうかと、流石に肝を冷やした。けれど勇ましい金髪の仔猫が一言男達に声を掛けただけで、悲劇は回避されたのだ。


まるで、王子様の様に。



「今はまだ、お前の方が余程王子様に見える。成程、精神と外見は比例しないらしい。知識として理解していたが、目の当たりにすると説得力が違うな。…そう思わないか?」

聞こえているだろうが、返事はない。
そうだろう。判っていて、魔法を掛けたのだ。

「おやすみ、紅の天使。誰もが迎えると言う反抗期で道を間違えないよう、大切に大切に、魔法を掛けたよ。優しい心を忘れないように、大事なものを思い出してごらん」
「………にいさま…」
「そう、それがお前のカルマだ。もう忘れてはいけないよ」

行け、と。
手を振れば、素直に彼は背を向けた。ふらりふらりと遠ざかる背を目で追いかけて、黄昏に染まる空を見上げる。





「けれど幼子は軈て大人へと成長する。それもまた、人のカルマだ」

図書館への手荷物は僅かばかり。
小さなノートとペン、それだけ。



全てを記録し、けれど読み返す事など生涯ないだろう、膨大な物語へ続くレールの欠片だけだ。
























「あ、の」

言いにくそうに話し掛けてきた彼は、そう言ったきり黙り込んだ。二人きりになったのも初めてなら、彼から話し掛けてきたのも勿論、初めての事だ。
何せほんの数日前まで佑壱からは見えない所で度々嫌がらせを受けてきた。声には出さずとも目で、お前など認めないと何度も何度も。

「…」
「…」

どうしたものかと、テラスに置かれたパラソルの下。真新しいウッド調のロッキングチェアーに腰掛けたまま、膝の上に広げた漫画を開いたまま首を傾げる。
何とも頭に違和感があるのは、髪を染めた方が良いだろうかと独り言の様に宣った所為で、蒼白な表情で飛び出していった佑壱が近所のコスプレ専門店で買ってきたウィッグの所為だ。
二時間悩み抜いて銀髪のウィッグを選んできた彼の好意を無下には出来ず、暫く着用しようと覚悟してまだ三日。少しでも首を傾げると外れそうな気がしてしまう。そんな筈がないのに。

「あの、そ…総長」
「あ…はい」
「少し、宜しいでしょうか」
「少しでなくとも宜しいです、ささ、どうぞこちらに」
「いえ!総長がお座り下さい!俺はここで!ここで構いませんので…!」

素早くテラスデッキへ正座し、佑壱がアメリカから輸入したと言う椅子を手で示せば、慌てた様に首を振った男は跪かんばかりに座り込み、髪や瞳の色と負けず劣らず顔を青ざめさせた。

「いや、でも、俺だけ座っているのは…」
「良いんです!それは総長…じゃなく、ユウさんが貴方の為に取り寄せたものですから!俺が触れて良いものでは!」
「え、あ、そ、そう、ですか、はい」
「…気を使わせてしまって、申し訳ありません」
「いやいやいや、とんだ平凡地味チキンウジ虫な俺にそんな、二回しかしゃぶってない鶏ガラより勿体ない…!」
「は?」
「こほん。所で…えっと、要、さん。要君?あ、違う、要様、」
「呼び捨てでお願いします!」
「えっ」
「えっ」

良いのか、と目を見開けば、何言ってんだとばかりに目を見開いた要は、暫くしてくしゃりと顔を歪めた。

「すみません。ユウさんが選んだ方だと判っていたのに…往生際悪く、何度もご無礼を働いてしまいました。その所為で気を使わせてしまって…何とお詫びをすれば良いか…」
「あ、はい、えっと、要が一番陰険且つ攻撃力高めなシカトでした。何回か死を考えました」
「なっ、すっ、すみませんでした…!」
「冗談だ」
「…えっ?!」

今にも死にそうな表情で土下座した要が弾かれた様に顔を上げ、ページの端にドッグイヤーを施し閉じた週刊漫画を放り、立ち上がって屈み込む。

「そ、総長!膝が汚れます…!」
「総長?俺が?」
「そうです!ユウさんより強いんですから、当然でしょう?!」

確かに、数日前に佑壱を投げたばかりだ。
ゴールデンウィーク初日にそんな無体を働いて、舎弟の誰かから首を狙われるだろうと思いつつ、朝方帰宅して朝食を喰らい、図書館へ行く振りで夕方までカフェへ戻り、またまた帰宅して夕食を喰らい、8時には寝た振りをして家を抜け出す生活も早3日目。
夕食が二回に増えたのは喜ばしいが、どうも高校生だと間違われている気配は感じていた。
何度か冗談混じりに中1と宣ったが、残念ながら指一本背の低い健吾も、俊と目線が変わらない裕也も信じようとはしなかった。同級生だと言うのに、だ。
一番初めになつかれた、舎弟で最もチャラい3人組からは、「パパ」だの呼ばれる有様。

そりゃそうだろう、上げ膳据え膳で佑壱の料理を喰らい、街中にある佑壱の高級マンションに毎晩連れていかれるのだ。因みに必ず数人ついてくる。
ワンフロア三部屋を所有している佑壱は、一部屋丸々舎弟らの宿泊所にしていた。然し俊だけは毎回、佑壱の寝室用の部屋に一人で寝かされる。お陰様で朝方抜け出しても止める者は居ない。

でもまぁ、自宅で朝食を喰らい戻るまでの数時間居ない事は、佑壱にはバレている。起こさない限り昼まで起きない健吾と裕也は疑ってもいないだろう。
朝食が並べられたテーブルの前でどんより座り込んだまま待っている佑壱に、恨めしそうな目で睨まれる度にランニングしてきただのバイトに行ってきただの誤魔化し続ければ、早朝に寝る習性のあるチャラ三匹から「浮気した言い訳みたい」と揶揄われても仕方ないのかもしれなかった。

「じゃ、そんな他人行儀な扱いはやめて欲しい」
「ぅ、え?」
「俺が総長なら、これは命令だ。…駄目かな?」
「い…いい、え。イ、イエッサー、シーザー。仰せのままに」
「ん。有難う」

小さな頭を撫でれば、さらりさらりと、しなやかな毛束が指の隙間を擽る。良い手触りだと微笑みながら呟けば、要は見事に真っ赤だった。

「…要?」
「そ…総長!」
「わっ。は、はい?」
「絶対、俺以外の前で笑ったら駄目ですよ!良いですか、絶対ですよ?!」
「何で?」
「何ででも、です!」

怒鳴られてとりあえず頷いた。
良し、と低い声で呟いた要は見た目に反して、かなり狂暴…いや、男らしい様だ。佑壱をカフェで投げた直後になついてきた健吾や裕也の方が不良らしい外見だが、それまではどちらかと言うと、俊の存在を持て余していた様に見えた。認める認めない以前で、転入生に困惑する在校生の様な雰囲気とでも言おうか。
判り易く睨んできたのは要だけだ。余りにも判り易かった。何度も足を踏まれ、何度も目の前で睨まれ、何度もコーラのグラスにアイスコーヒーをぶっ込んできた男だ。陰険にも程がある。

「じゃ、俺のグラスにコーヒー入れるのはやめてくれると、嬉しい」
「ほ、本当に申し訳ありませんでした…!」
「コーヒーはともかく、せめてグラスを変えて欲しい。若干残ったコーラと混ざったコーヒーは…何とも言えないコーラ風味のコーヒーなんだ。それ以外の何物でもないんだ。でもアレはアレでうまい」
「いえ!もう二度としません…!本当に申し訳ありませんでした…!お怒りは甘んじて受けます!どうぞ、殴るなり蹴るなりお好きになさって下さい!」

キリッと宣った要の背後に、買い出しから帰ってきた佑壱と荷物持ちのチャラーズ、廃棄品の痛んだアンキモを駄目だと言われてこっそりつまみ食いし、腹を壊したとトイレに籠っていた筈の健吾と裕也までもが揃って佇んでいる。
腹を押さえたままげっそりしている健吾の隣、キャベジンと書いた緑色の瓶を咥えている裕也が後ずさるのを見た。


「俺ですらまだ蹴られた事はないのに…テメー、抜け駆けするつもりか要ぇえええ!!!」

どさりと抱えていた袋を落とした佑壱は額に彫りの深い青筋を見事に浮かび上がらせており、商店街中に響き渡りそうな声で叫んだのだ。
何と言う漫画じみた展開だと週刊漫画と佑壱を交互に見やった俊の前で、しゅばっと立ち上がった要はふるふる頭を振り、

「そうじゃないんです!でも殴られても蹴られても絞められても仕方ないんです!総長、一思いにやって下さい…!」
「や、ヤってくれ?!ヤってくれだとコラァ!いい度胸だ、表に出ろ要!この俺自ら半殺しにしてやるぁあああ!!!」

卵が割れてると悲しげに宣うチャラ三匹から、卵液まみれのコーラのボトルを渡されつつ、新任総長はまず、尻尾じみた赤毛を鷲掴む所から始めようと歩を進めた。

「イチ」
「放して下さい兄貴!コイツは俺がこの手でっ、」
「卵焼きのパサパサした端っこと唐揚げと玉ねぎがちょこっと入ってるだけでも有り難いポテトサラダが食べたい」
「な、んです、って…?!」

しゅばっと振り返った佑壱はポニーテールを掴まれたまま、顔を青ざめさせる。怒りは最早、欠片ほどもない。

「ハムもキュウリもラディッシュも入ってないポテトサラダがこの世に存在する訳ないでしょうが!つーか総長に卵焼きの端切れなんて喰わせらんねぇっスよ!寧ろ丸ごと出しますから!卵焼きの限界に挑戦しますから!待ってて下さい、速攻焼いてきますから!む?!何だと、既に卵が割れている、だと…?!ふ、総長に喰われたくて自ら割れるとは、見上げた卵だぜ!」

しゅばばばばとカフェへ消えていった佑壱に、慣れないウィッグを押さえた男は手を振った。

「ワォ、総長お見事♪」
「さっすがパパ、ママの扱いがうますぎ〜♪」
「惚れ直しちゃった〜♪」
「流石だぜ」
「やべ、第四波が出そ(>´ω` <) ちょ、買い出しの中にトイレットペーパーあるっしょ?!え、ない?!マジかよ!大ピンチ!(ヾノ・ω・`)」
「判った、俺がおつかいに行ってくる。待っててくれ」
「いえ総長!俺にお任せ下さい!値切らず最高級トイレットペーパーを買ってきます!」

しゅばばばばとテラスの柵から外へ飛び出していった要に皆が手を振り、俊以外が呟いたのだ。


「「「「明日日本沈没するかもな」」」」
「ま…待てない気配かもっしょ…orz」
「耐えろ健吾、大丈夫、俺は信じてる」


然しその日、錦織要は帰って来なかった。
区内から離れたの高級百貨店にまで辿り着き、日本で手に入る最高級品のトイレットペーパーを手にした彼がやり遂げた表情で戻ってきたのは、翌朝の事だ。



因みにトイレットペーパーは普通に、店の倉庫にストックがあったと言う。

















「いい加減にして下さい」

そんな逸話がある錦織要15歳は、余りの騒がしさに耐えきれず起き上がった。ただでさえ寝不足だった彼は、低血圧ではないが騒がしさに荒んだ目付きで見慣れぬ女共を睨んだ瞬間、戸口に派手な男を見つけ目を見開いた。

「…嵯峨崎会長?」
「騒いじゃってごめんなさいねぇ、ボク。中々場所がなくて、此処、使わせて欲しいんだけど」
「え、ええ、そう言う事なら…。すみません、邪魔でしたら席を、」
「あら、良いのよ。ファーストの監視が仕事も忘れて寝こけてたなんてあっちの耳に入っちゃ、不味いでしょ?」

顔を歪めた要に唇の端で笑んだ男は、出で立ちを覗けば佑壱に余りにも似ていた。けばけばしい化粧などなくとも、そもそもが派手な顔立ちだ。

「さ、アンタ達も入んなさい。…高坂、念のためチェックしといて」
「ああ。脇坂」
「お任せを」

要には見覚えがない男が一人。その男から手早く身体検査らしきものを受けた中性的な黒髪の人間の隣には、顔立ちこそ佑壱には双子ほど似ていないものの、父親にはそっくりな男が立っている。兄弟よりも、それぞれの息子が父親に似ていると言った方が適切だろう。
父親は息子のどちらにもそっくりだが、その二人の息子を並べるとそこまで似ていない、と言う不思議な方程式だ。

「ふふ。むさ苦しいオジサンばっかじゃなくて嬉しいよ。美人なお姉さんばっかだ」
「えっ、び、美人って、アンタ私の事もそれに入れてんの?」

要のベッドサイドに張り付いていた巨乳がぶるりと胸を震わせ、その震動に錦織要は沈黙した。滅多に見ない、パーフェクトな胸だ。サイズも形も妥協が感じられない。何故だか魔力さえ感じる。
腰もぎゅぎゅっと括れており、ちらちらと二度見したが、余りにも見慣れたシャツを着ている。それを着ている人間を学園内で見るのは斬新で、どう反応して良いのか悩む所だ。

「え?当然?だってお姉さん、凄く美人だよ。僕、綺麗な人は男も女も大好き」
「や、やぁだ!誰が見てもアンタの方が美人じゃないのよ〜!お世辞はやめるんだわ〜!」
「ヨーコ、嬉しそうだね」
「ふふ。誉め言葉には素直に礼を言うのがレディーの嗜みだよ、ヨーコ」

中分けの前髪から覗く丸い額を照れた様に掻いた人は、もじもじと身を揺らしながらぼそり、「ありがと」と呟いた。一斉に女共がキュン死した中、戸口で眼鏡を押し上げた男だけが「…あれ美人か?」と心の中で疑問符を浮かべたが、幸い、口には出さなかったらしい。

「こほん。盛り上がってるとこ悪いけど、クリス。貴方達は別室に移動して頂戴。ここから先は何が起きるか判らないから、無事を保証出来る所に外で待機してる私の秘書達が案内するわ」
「どゆこと?秘書って?」
「入ってらっしゃい、コバック」
「小林です」
「ちょ…!離して下さい、小林さん…!」

眼鏡のイケメン秘書がズリズリ引きずってきた、歳の割りには白髪の多いサラリーマン。暴れまくるそれに、巨乳魔女、山田陽子はアーモンド型の猫目を見開いた。

「常務?!えっ、一ノ瀬常務?!何してんの?!やっぱさっきの小林専務、見間違えじゃなかったってぇの?!」
「う、あ、は…?え、えええ?!な、は、ちょ、奥様?!何故此処に奥様が?!えええ?!しゃっ、社長はどうしたんですか…?!」
「大空?…あ、そうだわ。アイツ!二葉君と消えたのよ!」

ピシッ。
室内が凍る音に、残念ながら気付いていないのは混乱中の常務と魔女だけだ。

「女だけじゃ飽き足らず、今度は男の子にまで手を出す気なんだわ!手伝ってちょうだい、常務!アイツ失脚させて太陽…ううん、夕陽に社長を譲位するわよ!」
「おえええええ?!ままま待って下さい、失脚させるも何もあの会社は…!」
「え?」
「………な、何でもありません。とにかく落ち着いて下さい、奥様。取締役の人事は、株主と弊社会長の許可なく採択される事はないんですし」
「…そうだったわね、今まで経営には口出した事のない私じゃ何も出来ないってんでしょ。良いんだわ、こうなったらその会長さんに直談判するまで!」
「えー?!」

そっぽ向いて笑っている鬼畜秘書に掴まれたまま、弱り果てたワラショク鬼常務は半泣きだ。社員からは恐れられているが、魔女の前では余りにも無力だった。

「だ、駄目です!そんな事したら俺が守…小林専務から叱られるんですよ奥様ぁ!勘弁して下さいぃぃぃ…」
「判んないわよ?確かに専務はあの人にベタ甘だけど、太陽にも夕陽にも甘ったるいんだから!何しても怒んないわよ、寧ろ夕陽に継がせたら喜ぶかもよ?」
「…ひっ、否定出来ない…!!!」

ガクリと、ワラショク敏腕常務は崩れ落ちた。
チクショー小林ぃ!と言う八つ当たり混じりの悲痛な叫びに、小林違いの嵯峨崎財閥秘書が返事をしたが、常務は華麗に無視だ。悲しみの余りの鬼畜秘書への恐怖を忘れているらしい。

「ねぇ、お姉さんの彼氏とふーちゃん…二葉、付き合ってるの?」
「え?それは判んないけど…あんな綺麗な子だったら、男でもトチ狂うんだわ。私だってあの子なら抱けると思ったもの」
「ヨーコ、それは無理だ。男女では体の仕組みが…」
「アリー、君は随分堅物なんだな。肉体的にはそうでしょうけど、今のは精神的な話ではないかな?」
「ああ、もう!ややこしい話は後でになさい!コバック!」
「小林です。はいはい、それではマダムの皆さん、私がエスコート致しますので慌てず騒がず美しくついてきて下さい」

鬼畜秘書の台詞に、真面目なイギリス育ちも、慣れた嵯峨崎夫人も、ミーハーな魔女も頷いたが、然し魔女はハッと我に返った。そしてベッドに腰掛けたまま様子を窺っていた要へ素早く顔を向け、ニタァと、平凡な顔立ちを悪どい笑みで染めたのだ。

「か…カナメ様。初めまして、山田太陽の!…母の、陽子です。ヨーコちゃんって呼んで下さい」
「そ、そう、でしたか。山田君のクラスメートの錦織要と申しま、」
「存じてますとも!カルマのカナメと言えばケルベロスに継ぐナンバー3!幹部四天王のリーダー的存在で、孤高のクールビューティー!本当にお肌つるつる!ふあ?!け…毛穴がない、だと?!」
「…」
「凄い、近くで見ても美人、なのに危険な匂いがするなんて…!いやー!年甲斐もなく騒いでごめんなさい、サイン下さい!」

絶望に暮れている常務の胸ポケットに刺さっていたボールペンを勝手に失敬した魔女は、きょときょとと我が身を漁り、書けるものが見つからないと知るやいなや、ガバッとシャツの丸襟を広げ、たわわな胸の谷間を剥き出させた。
驚きの余りすっ転んだ常務は瀕死で、真顔の鬼畜秘書と真顔の極道のW眼鏡だけは心の中で『ヒュー』と喝采している。嫁以外の谷間を見た事がない純情なオカマはここではない何処かを見ているのか遠い目で、微動だにしなかった。

「ボールペンだから布には書けない…直接此処に書いて!」
「…肌にも書けないと思いますが?」
「あー!だったらもうキスマークでも、」
「お断りします」
「うっ」

同級生の、ましてや太陽の母親の谷間にキスマークなどつけて堪るか!と本気で引いている要に、魔女は涙を浮かべた。すとんと崩れ落ち、ぷるぷる震えながらボタボタ大粒の涙を零しては、深い谷間に滴が吸い込まれていく。

「ケ…ケルベロスも、キングスエコーにもサイン貰えなかっ、た。う、ううっ、コツコツ貯めてきたヘソクリでグッズ集めてサイトはこまめにチェックして、うっうっ、シーザーが居なくなってからは街で見掛ける回数も減ってたのに…!うっうっ、酷いんだわ!私が何したってのよ…!も、もう、死んでやるんだー!うわーん!」
「わ、わわ、判りました!夏の新作のデザイン画があるので、それにサイン入れて差し上げますから!」
「…!ほんと?!直筆?!」

目を泳がせた要は頷いたが、カルマのロゴデザイン等、担当しているのは要ではない。寧ろそう言ったセンスが一切ないのが錦織要である。
ああ言ったものを得意とする男と言えば、だ。奴しか居まい。

「待っていて下さい。今すぐ運ばせますから」
「えっ、舎弟?それって舎弟に運ばせるの?!」
「え、ええ、まぁ。…クロノスライン・オープン」
「やだ、不良っぽいんだわー!」
『コード:パイシーズを確認、ご命令を』

ビクッと震えた魔女と巨乳を横目に、要が相手を告げれば。

『ちょっとお、なーに、もしかしてカナメちゃん?何で電話してこないの?今月もケータイ代ケチってんの?今忙しいんだけどお』
「喧しい、今すぐこの間の俺の分のデザイン画持ってきなさい」
『はあ?こないだって…ダサいだのやり直せだの人の苦労を水の泡にする台詞ほざいて叩き返してきた、あれのことお?』

ピクリと眉を震わせた魔女の気配に痙き攣った要は顔を反らし、わざとらしい咳払い一つ。

「余計な話は良い!俺は第三保健室に居ます、五分以内に来なさい」
『無理だっつってんの!隼人君は今スコーピオに居るんだからねえ!どんなに急いだって、』
『おーい、パヤティー。俺もうお腹ペコペコだよー、置いてくよー?』

ん?
目と目で通じあった魔女と常務は、無言のパントマイムでコンタクトを計った。通話中なのでコンタクトはマナーモードだが、他人から見れば変な躍りにしか見えない。

『とりあえずさあ、隼人君今ちょー忙しいから切るよお』
「切ったら利子が30倍にまで膨れ上がると思えよ」
『………20分』
「五分」
『15分!これ以上は無理!物理的に無理!いっぺん寮に戻ってそっちまでウサイン=ボルトでも無理過ぎー』
「知るか、どうにでもしろ。遅れたら1分毎に一割増しだ」
『ちょ!』

ブツッ。
華麗に回線を閉じた要は微笑を浮かべ、瞬いている魔女を横目に腕時計を凝視した。ひらひらと耳元の耳飾りが揺れたが、誰もが沈黙を守っている。

今の無茶振りが聞き遂げられるのか、帝王院OBの男共は内心ハラッハラしているが、大人なので顔には出なかった。



かくして山田太陽の奢りでエビフライ定食を喰らう予定だった一年次席は死に物狂いで爆走し、14分後に呼吸困難寸前で現れた。
その手にはデザイン帳が握られていたが、神崎隼人の借金が今現在幾らに膨れ上がったのかは定かではない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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