帝王院高等学校
好かれるのも嫌われるのも体力を消費します
「利益、か。それは正しい考え方だねー」

この時、感情など一つも存在しなかった。
あらゆる全てが、そう、一つの外れなく想像通り、ただの現実だ。

彼を見つめる異国からやってきた男の瞳からは、偽りとは思えない愛情をこんなにも感じるのに。

ああ、彼は。

…二葉はどうして、それを無視するのだろう。本人を目の前に『利益』だなんて、幾ら何でも酷すぎる。それとも。本当に彼の想いに気付いていないとしたら、二葉もまた、可哀想だ。

「ぼくは、SUNをあいしている、よ」

およそ流暢とは言えないながらも、日本の言葉で精一杯そう紡ぐ彼の表情からは、無欲な愛ばかりが、こんなにも。

そう、彼には二葉こそが『太陽』だったのだ。名前ばかりの自分とは違う。二葉ほど輝いた人間に惹かれない者など、何処に存在するのか。
少なくとも自分は、この世で最も彼を愛しているのだと恥じらいなく信じている。だから、彼の幸せを精一杯考えた上で、零れ落ちた方程式の結末は間違いではなかった筈なのだ。


「約束を覚えているかい。ずっと黙ってたあの約束の答えを教えてあげる」

やめろ、と。
二葉の口が動いた様な気がした。音は聞こえない。鼓膜の奥、ずっとずっと奥で酷い轟音が唸っているのだ。それは心臓の叫びだろうか。加速する血液の断末魔だろうか。

いずれにせよ、



「あれはね、」

今死んでしまえば後悔を抱かずに済むのに、と言う至極当然な考えは、消しゴムで消してしまうしかないのだ。


単純な算数と数学は、違うものなのだから。


















「お待ち下さい紫水の君!」
「数年振りと言うのに、どうしてつれなくされるのです!」

ああ、もう、そろそろ泣いても良いだろうか。
一般客に紛れてOBが来校する事はある程度想定していた。何せ今朝も自称執事達からくどくどと、それはもう執拗に言い含められていたからだ。
にも関わらず油断したのかと詰られれば、していないと声を大にして言える。痙き攣り笑いでハイビスカス柄のシャツの布地を握り締めた東雲村崎は、どうも見覚えはあるが名前までは残念ながら覚えていない、恐らく同級生と思われる男らから囲まれたまま、頭を回転させた。

「何とか仰って下さいっ!」
「我らをお忘れですか陛下ぁ」

いや、忘れてはいない。
多分、自称親衛隊気取りの誰かだ。本物の親衛隊はABSOLUTELYのメンバーであるからにして、東雲の右腕にしてうざい執事兼元副総帥の副会長がこれを見てしまうと、それはもう鬱陶しい事になるに違いなかった。
結婚して子供も居るにも関わらず、隙あらばお慕いしていますと頬を赤らめる恐ろしい執事だが、あれに関しては恋だの愛だのと言うよりは陶酔に近い。東雲村崎以外の人間は、例え東雲の父である財閥会長でさえ「アンタ」と呼ぶ男だ。

「忘れる筈がないだろ。…でも俺はもう一介の教師だ、陛下はやめてくれないか?生徒の手前がある」
「ああっ、失礼致しました陛下!…いえ、紫水の君」
「我々の陛下は紫水の君ただお一人でございます!ああっ、僕も貴方の生徒になりたい…」

悲鳴を飲み込めたのは奇跡だ。
近頃、教室の脇に勝手に増やされつつあるBL漫画で知識はあるものの、ホモには一ミリの興味もない東雲にとって、これはもう地獄である。最上学部へは進まず、逃げる様に地方の大学へ高跳びしたのも、誰も居ない所へ行きたかったからだ。

然し東大を受験していた筈の副会長と書記が揃って入学式の会場で待ち伏せていた時は、まだ標準語だった東雲も流石に「なんでやねん」と言わざるをえなかった。他に言葉が見つからないとは、正にこの事だ。

「わ、悪いが、俺は仕事中やで…ごほん、仕事中だから、離してくれ」

ダサいダサいと、教え子達からは散々な評価を与えられている小豆色のジャージの裾は、先程からずっと人質だった。下手に逃げれば生地が伸びると抵抗はしなかったが、良く考えたら古着屋で上下3000円だった代物だ。庶民にはともかく、東雲には安かった。
但し、彼の給料の大半は連日ネットショップに流れている。山田太陽に負けず劣らずのゲーム好きで、しかも主食が駄菓子類となると毎月の出費はかなりのものだ。その上、家電マニアだった。私立教師の収入では、古着屋で3000円は痛手である。その為に逃げたくても抵抗できなかったのだから、余りにも情けなかった。

「お待ち下さい紫水の君!」
「折角お会い出来たのに、それはあんまりですっ」

東雲は半泣きだった。
自覚はないものの、このダサジャージは弱くはない。寧ろ強い部類に入る筈だ。暴れ回る嵯峨崎佑壱を簡単に捕獲する程度には、腕は立つ。
然しいかんせん、押し問答に弱かった。壊滅的に。彼女との喧嘩では、大抵一言も言い返せない内に全てが終わっており、自称執事達にも口で勝てた試しがない。生粋のボンボン故に口喧嘩などした事もなく、学生時代に学園から抜け出して毎晩繰り出した町中では、いきなり怒鳴られ殴り掛かられて仕方なく正当防衛。良く判らない内に不良チームとして認識され始め、収拾がつかなくなったと言う経緯もある。

引退しようにも逃げられそうになかった為、東雲の卒業当時、まだ中等部に進学したばかりの癖に夜な夜な抜け出していた嵯峨崎零人を半ば脅し、総帥の座を押し付けたのだ。流石に中央委員会まで引き継がせるには、零人は若すぎた。
然しあの当時から彼は175cmを越えていた為に、立派な不良へと適応した様だ。東雲ですら感心する程に。


「あ、あんまりなのは、こっちの台詞やぁあああ」

もう駄目だ。
先生は泣いてしまう。ごりごりとしたとんでもないものをダサジャージで包まれた太股に押し付けられて、全身はバスケットボール並みに鳥肌三昧。幾ら彼女が居ないからといって、幾らモテないからといって、あんまりだ。

「ホストパープルせんせー!」
「東雲先生っ、大丈夫ですかー?!」
「そこに見えるはホストダサパープル、何があったのさ!」
「む!ダサパープルが絡まれてるのさ!カツアゲは許せないのさ!」

東雲村崎26歳が守り続けてきたお尻の貞操を失う覚悟を固めた瞬間、現れたのは四匹の眼鏡だった。これまた見事に四匹共眼鏡だった。

「はぁ、はぁ、みんな〜ぁ、待って〜ぇ」

然しその後ろ、離れすぎて豆粒ほどしか見えない生徒を2.0の視力で窺えば、どうも一年Sクラスの中で最も足の遅い生徒らしい。彼だけは眼鏡ではなかった。

「我らは一年Sクラス、天の君親衛隊にして風紀委員なのさ!」
「カルマとはおこがましくて到底名乗れないけれど、敢えて名乗るならそう、天帝親衛隊なのさ!」
「天帝親衛隊?わぁ、それはカッコいいねー、宰庄司君」
「そうだね、イマジネーションが湧いてきたよ。ちょっと待って、新しい衣装とポスターのイメージが出来たから書き留めておくよ」
「ちょ、お前ら助けに来てくれたんと違うん?!待って待って、村ぱち先生を先に助けてからにしてぇな〜!バカバカ!」

どうしてこう、一年Sクラスの眼鏡はマイペースなのか。泣き崩れた東雲の態度に目を丸めたOBらは、その光景に夢が覚めたのか、ぼそりと「「うわ、だせぇ」」と呟いて去っていった。学生時代の恋心など、所詮はこんなものである。

「はぁ、はぁ、し〜の〜の〜めぇ、せぇんせ〜ぃ、はぁ。大丈夫でしたか〜ぁ?」
「安部河ぁ、ゆっくりでええよー。つかお前は歩いた方が早い!歩いてき」
「はぁい」

さくさくと歩くのは早い安部河桜が近づいてきて、東雲は胸を撫で下ろした。桜のあれは、走っているのではなく足を上げているだけだ。ほぼほぼその場から動いていない。蟻の方が早いのではないかと言うレベルだ。どうやら、走る為の動作や仕組みをまるで理解していないらしい。

「いやー、何か良く判らんけどほんま助かったわー。然し何や、お前らが一緒て珍しい組み合わせやな」
「ぁ、僕はさっきまで俊君達と居たんですけどぉ、はぐれちゃってぇ。皆、足早いんですよぉ」
「あ…はは、そっか、安部河はかけっこ苦手やもんな?」
「はぁい。それでぇ、皆を探してたらぁ、先生がさっきの人達から追われてるのを見掛けてぇ、助けよぅと思ってたらぁ、野上クラス委員長さん達がぁ、」
「先越されたっつー訳かい。何でもええ、助かった。おーきに」
「どぉいたしましてぇ」

まだまだ談義中の眼鏡らを横目に、どうしたものかと頭を掻いた。東雲こそ先程の部外者達に捕まるまでは、連れがいたのだ。

逃げられずあくせくしている内に置いていかれてしまったが、自称執事達が現れない所を見ると、東雲の父が到着したらしい。
東雲財閥に就職している彼らは、如何に主人である村崎の側から離れたくないと思っていても、雇用主は会長である東雲の父である。彼が到着した時点で、優先順位が切り替わるのは致し方ない。

「そや、安部河、今日のニュース何か見たか?」
「ぇ?今日はぁ、まだテレビ見てないですぅ。朝からずっとぉ、お弁当とぉ菓子を作ってたのでぇ」
「そっか。お菓子て、お得意の桜餅もあるん?一つ頂戴や」
「もぅないですぅ。皆にぃ、あげちゃったのでぇ」

今日は厄日か。
甘いものは和菓子も洋菓子もガムシロップも好きな東雲は唇を尖らせ、アンダーラインのジェラートで諦める事にした。

「それよりぃ、先生知ってましたかぁ?俊君のぉ、お父さんがぁ、俊君にぃ、そっくりでぇ」
「…う?!何、えっ?!あの人居たん?何処で会った?!いつ?!」
「ぇ?えっとぉ、まだ…一時間はならないと思いますよぅ?並木道の中腹でぇ、はっくんとケンちゃんとクララくんとぉ、あ、あと太陽君も居たんですけどぉ、はぐれちゃったんですぅ」
「ん?ん?何人か判らんのが居るけど、ハック?クララ?て、誰?ケンちゃん?」
「あ〜、はっくんは神崎隼人君でぇ、ケンちゃんは高野健吾君でぇ、クララくんはぁ、藤倉ユーヤ君ですぅ」

とんでもない。
東雲は改めて、この毒気のない大人しい教え子をマジマジと見た。

あの平凡な振りをして扱い難い山田太陽と、流石は同室なだけある。今までカルマ以外ではつるまなかった隼人や健吾、あの藤倉裕也をクララと呼ぶ人間はまずいない。
中等部時代の内申書を読んだが、比較的日和見主義で、山田太陽程ではないが友人と呼べる友人はなく、休憩時間は読書で過ごす様な生徒だと認識していた。他人とは必要最低限以外で口を利かないと書かれていた太陽と比べると、本当の意味で桜は平凡な生徒だった筈だ。

「あーっと…。安部河、何か最近生き生きしとるなぁ。ガッコ、楽しいか?」
「はぃ、楽しいですょ〜。それが何かぁ?」
「や。楽しいなら、ええんや。良かったな」
「はい〜!俊君のお陰様ですぅ」

弾ける様な笑顔を見て、東雲はつられて笑った。
ぼりぼりと癖毛を掻きながら考える事は一つ。



「明暗、どっちに転ぶか…」

何にせよ、学園は新しく塗り替えられるだろう、と。

























『何を考えているんだ君は!良いから早く戻ってきなさ、』
「Bye.」

聞くに耐えられない怒号を最後まで言わさず携帯電話を遠くへ離した男は、ローミングの表示を一瞥し、息を吐く。

「異国・だ」

知ってるけど、と。呟いて彼は歩き始めた。
半日以上飛行機で過ごした辛さなど感じない清潔なシャツの胸元へ携帯電話をしまい込み、着陸した時より濃い藍の空を一瞥し、息を吸い込む。

「案外、埃臭い。晴れた日のマンハッタンと同じ臭いだ」

サングラスを外すほどでもないだろう。
タクシーと言う表示を掲げた車へ真っ直ぐ進み、ガラガラとキャリーケースのキャスターを転がし続けた。

「excuse me」
「は?あ、お、お客さん?」

車外でぼーっと立っていた運転手に声を掛ければ、明らかに狼狽している。成程、この程度の挨拶にも対応出来ないのかと嘲笑を噛み殺し、これは急がなければならないとサングラスを押し上げた。

「そうデス、ワタシ、ここに行きたい。お願いデキますか?」
「日本語お上手ですね!えっと、…帝王院学園ですか。ナビに登録するので、中に乗って下さい。あ、お荷物は預かりますよ」

こんな事もあろうかと、日本語専攻の生徒にメモを書いておいて貰ったのが功を奏したと言えよう。抜かりはないと母国語で呟きながら、自国では滅多にしない愛想笑い一つ、大したものは入っていないが重いだろうキャリーを手渡した。
想像通り、異国の運転手は腰を抜かし掛けながらトランクへ積み込んでいる。

「…ふぅ。脊髄反射で旅に出るものじゃないな。土産は愚か、着替えの下着すら持ってきていない」
「え?何か仰いました?!」
「イイエ、素敵な国だと思いましてネェ。やはり日本は、アメリカと並ぶ、先進国ですネェ」
「はは、有難うございます!アメリカの方ですか」
「Yes、ミシシッピご存じデスか?ロブスター美味しいですよ」

嘘だ。甲殻類は食べない。
然し律儀に対応しベラベラと話しながらナビを操作し終えた運転手が、ハンドルを回す。


空はどんどん夜へと傾いている。今日はどの月だろうか。




「Sorry, I have kept you waiting my SUN.(長く待たせてしまってすまなかったね、私の『太陽』)」

大切に大切に、パスポートへしまい込んだ写真を取り出し、カメラ目線ではない横顔へ口付けを落とす。何と綺麗な花緑青だろう。まるで珊瑚礁豊かな海の様だ。

「I'll be with you in a minute.(すぐに行くよ)」

ああ、でも。
せめて着替えた方が良いかも知れないと思い至ると、男の顔からは血の気が引いていった。土産は愚か、花束すら用意していない。キャリーの中には幾つかの数学書、そんなもの、とてもではないがプレゼントには値しないだろう。

「ス、スミマセン、近くにフラワーショップと…イエ、その前にクローズショップはありまセンか?」
「えっ、クローズ?」
「あー、着る、新しい、テーラー…」
「ああ、服屋さんですか!あー、この辺だと都心にはお客さんに合ったお店がありますけど、目的地は結構な山の中ですよ?どうしますか?」

何と言う事だ。ネイティブの日本語を舐めていたらしい。今のは殆ど聞き取れなかった。
苛々と痙き攣る目元をサングラス越しに押さえつつ、どちらかと言えば茶に近い濃いブロンドを撫で付けた彼は組んでいた足を解く。


「…OK、英語が通じるホテルに向かって下さいマシ」

何故運転手が笑ったのか、教授を生業とする彼には理解出来なかった。





















「…おい?」

戸口のドアから覗いていた、中分けの女性には気づいていた。然し着せ替え人形と化し、三つ編みだの最終的にはドレッドだの凄い髪型にされそうだった嵯峨崎佑壱には、そんな事より命より大事な髪が優先だったのだ。
なので日向に助けろと叫んだのと同時に、『喋ったー!』と言う悲鳴と共に飛び込んできた覗き魔が、タックルする様に抱き付いてきた瞬間、無様にもすっ転んでしまったのは仕方ないと思う。

すっ転んだものの、床で頭を打つ前に素早く助けてくれた日向はともかく、母親二匹は沈黙しており、

「失礼、」
「ただいま〜、って、あれ?」
「ん?」
「あ?」
「は?」

開け放たれたドアからぞろぞろと顔を出した男共は、派手な山吹色の甚平姿でドレッドヘア寸前の佑壱を見るなり動きを止め、それ以上入ってこない。要の健やかな寝息が自棄に響く。

「ふわー!いい体ー!」
「っ、いつまで抱きついてんだ!皆が見てんだろうが!」
「は?誰が見てんのよ」

佑壱に抱き付いた小柄な女が、キッと背後を見た瞬間、何故か二人の見知らぬ男達が先にくるっとターンし、足早に消えた。

「あぁん?今の、専務と常務じゃないの。ま、いいんだわ。はぁあ!すっごい固いー!腹筋?!これが腹筋なの?!いいわー、ゴツゴツしてるんだわー!はぁはぁ」
「ちょ、おま、やめ、」
「もう言葉がないんだわ!好きー!この腹筋、私に頂戴ー!」

血走った目で見上げられた嵯峨崎佑壱は、人生で初めて女を怖いと思ったのである。然し助けてくれと目を向けた戸口の男達は、派手なチャイナドレス姿の父親を含め、何故か次々に居なくなっていく。
この世には神も仏もないのかと顔を覆った佑壱は、腹筋にボニョボニョと凄まじい質量を押し付けられており身長差の悲劇を肌に感じた。多分、155cm程度の彼女と、180cmを越えている自分としては仕方ない。

判っているが、胸板に頬擦りされている今、その下、下腹部に当たるそれは、確実に胸板だ。脂肪だらけの、女物の胸板。

「オーマイガー」

何とした事だ。
健吾とは違い、巨乳好きではない。嫌いではないが、今までここまでのレベルには中々お会いした事がなかった。小振りな肉まん程度のものばかりだったのだ。いや、揉んだ手触りが。
それがここまでになるともう、男としての本能を忘れて恐怖すら感じる。何故だろう、喰われるのではないかと感じるのだ。チビりそう。

ちらりと日向へ目を向けようとした瞬間、ぐいっと体が傾いだ。
あ、と言う間もなく尻餅をついてしまい、呆然と見上げた先には、巨乳女の肩を抱く日向の顔。

「な」
「…ちっ。いつまでヘラヘラしてやがる、テメェは」
「日向!なんて事をするんだお前は!すまない、佑壱君。怪我はないか?」
「大丈夫、この子はやわではないよアリー。いつまで座っているんだ、立ちなさいファースト」

手を貸そうとしてくれた優しい高坂夫人に比べ、我が母親の何と可愛くない事か。見下してくるサファイアの瞳を睨みつつ起き上がり、日向に目がハートマークになっている巨乳女へ目を向けた。改めて見れば、誰かにそっくりだ。誰だったか…、

「………山田?」
「おふぁあ!はっ、はい!」
「まさか、お前…アンタ、山田の母ちゃんかよ?」
「そ、そうなんですぅ、や、山田太陽の母ちゃんです…う、うっうっ」
「泣くなや、何で今ので泣いた?!あ?!俺が悪いってか?!」

日向の腕の中で、へろへろと膝から崩れた魔女は、顔中真っ赤だ。良く良く見れば最新モデルのカルマシャツを着ており、ベッドで爆睡中の要モデルではないか。

「あー、要は寝てんだけど…起こすか?」
「いっ、いいの!いいのよ!寝かしてあげて!下さいっ!それよりサ、サイン、を!」
「あ、ああ、サインな、判った。何か書くもんあるなら、」
「な、ないぃ…」

ぼろり。
魔女のアーモンド型の瞳から、巨大な涙が零れ落ちた。何とも不機嫌げだった日向もこれには琥珀色の目を丸め、オロオロしている佑壱の奇抜な髪を一瞥し、ブレザーの胸元を漁っている。いつものは万年筆かボールペンを差しているが、今日はそもそも用意していなかった様だ。

「ヨーコ、何も泣く事はないだろう?マスカラもアイラインもボロボロじゃないか…」
「私には良く判らなかったんだけど、彼女は何故泣いてしまったのかな?」
「う、うっうっ、サイン、ケ、ケル、ケルベロス、サイン欲しいのにぃいいい、色紙がないのぉ!うわーん!」
「ケルベロス?」
「ああ、判った。貴方はファーストのサインが必要なんだね?さぁ、ヨーコ?泣き止んで。色紙は後日郵送で送らせるから、後でアドレス交換しましょう」
「うぇ、…え?魔女C…えっと、確かクリス?だっけ?貴方何で、そんな事出来るの?」
「ふふ。ヨーコ、テリアでお互い自己紹介したじゃないか。クリス嵯峨崎、彼女は佑壱君の母親だよ」

山田家が何処にも誇らない最終兵器である魔女は、きょろきょろ佑壱と母親を交互に見やり、呆然と、しがみついていた日向を指差した。

「あ、あの、じゃあ、この有り得ないイケメンは?王子様みたいな男の子は?」
「これは私の息子の高坂日向だよ。ほら、父親にそっくりだろう?」
「うっそー!何なのアンタら、どっちも息子がイケメンなんて酷い裏切りなんだわ!それに引き替えうちの太陽ときたら!」

何とした悲劇だ。
何も悪くない、ただ母親に似てしまっただけの息子は、実の母親から盛大に顔を貶されている。ただちょっと薄毛疑惑と身長詐称疑惑があるだけの、極々平凡な男だと言うのに、だ。

強く生きて欲しい。


「やだー、だったら写真もお願いしようかな〜!ちょっとちょっと、二人の間に挟まったスリーショットいい?いやーん、旦那に叱られるんだわー☆」

はしゃぐ魔女は、叱られる所か旦那を叱った事しかない癖に頬を染めつつ、ぐいぐいと佑壱と日向の腕を強く引き寄せ、キャピッとポーズを撮った。律儀な金髪マダム二人はそれぞれ、持参していたデジカメや携帯カメラでパシャパシャと撮影を終え、女三人固まってあーだのこーだの雑談を始める。
残された日向と佑壱は沈黙したまま、寝ている要がくしゃみをした瞬間、我に返った。

「…なぁ、今の内に逃げた方が良いんじゃねぇか?」
「ちっ」

余りにも鋭い日向の舌打ちに、ビクッと三つ編みを揺らした赤毛は、ちらっと要を横目に、

「………すまん、後は任せたぜ要。お前だけが頼りだ」

女性の扱いはカルマナンバーワンではないかと思われる舎弟に、丸投げしたのだ。













「おーい、高坂」
「…」
「すぐ無視しやがって、お前それでも俺の彼氏か」

スタスタと歩いていく背を追い掛け、ぶーぶー唇を尖らせてみるが、どうも機嫌が悪い。大体、まがりなりにも佑壱の監視役なのではないのか。それを、ほったらかして勝手に動き回るなど、日向らしくない。

「あー、判ったぞ。あれか、俺のお披露目が終わったからもう用無しって事か。ふーん、つまりテメーはルークから俺を会長として仕立て上げるために雇われた訳だ」
「…誰が帝王院に雇われただと?」
「隠しても無駄だぜ。お前、四年前からヨーロッパに会社持ってんだろ?本社はフランスだが、ありゃペーパーカンパニーだ。住所は、ヴィーゼンバーグの別荘になってる」

佑壱が知っていた事が想定外だったのか、足を止めた日向が振り返った。不機嫌と言うよりは分が悪そうな、奇妙な顔だ。

「その幽霊会社が大株主に収まってる企業、あれは欧州統轄部の持ちもんだ。つまり総合するに、あそこのマスターは」
「無駄口は時と場所を選べ糞餓鬼」
「隠して何の得があんだ?権力振りかざして、実家の奴ら黙らせるくらい訳ねぇだろ、お前なら。ヴィーゼンバーグの総資産は全盛期の十分の一だ。放っておいても落ちる」
「…それは何年後だ?」
「あ?」
「お前の言う通り、あの家の資産はやっと底が見えてきた。それは俺が、9つの時から今まで、判らない様にゆっくり、削ってきたからだ」

想像の範疇だ。
つまり日向は実家の資産を奪ってきたのだろう。少しずつ、少しずつ。

「だが、底を突く事はない。絶対にだ」
「王族の一員だからだろ」
「違う。…叶がついてるからだ」
「あ?」
「ババアは俺の行動に勘づいた瞬間、二葉の姪を引きずり込んだんだよ。俺に対する牽制だ。…判るか。あの二人が死のうと知った事じゃないが、」

そう言う事か、と。
心の中で呟いた。それならステルシリーの名など、何の意味もなさない。

「俺様が継げば資産は全て戻る。引き替えに、餓鬼共のどちらかが継げば、二葉が手に入ったも同然」
「…うめぇやり方だな、流石は偏屈貴族。年寄りでも女は女って事か」
「違ぇな。どうせあのババアの事だ、俺様が二葉に決闘を申し込むのを期待してんだろ」
「どっちかが死ぬのを?」
「俺様が死ねば万々歳だろうな。あの女は、二葉を公爵に据える為ならどんな手でも使う」
「…はぁ?何でだよ、叶は名目上、ドイツ空軍の将校だろうが。イギリス国籍もねぇのに、」
「どうにでもなんだろうが、何の為のグレアムだ馬鹿が」

ぴんっ。
長い指に額を弾かれた。鋭い痛みに鼻白んだが、呆れた表情の日向がまたズカズカと歩いていくので追い掛ける。
然し今更、何故日向についていかなければならないのか考えた。ついていかなければならない理由などあっただろうか。


ああ、思い出した。
そう、守る為だった。


「何にせよ、鬱陶しいばーさんだな。何で女っつーのはどいつもこいつも鬱陶しいんだ」
「知るか」
「つーか、いい加減腹減って死にそうなんだけど。米炊けるまで待てねーわこれ、どうしよう」
「知るか」
「お前そろそろ俺から嫌われるぞ?」

呆れ半分、我ながら下らない事を宣えば、大袈裟なほど肩を震わせた様に見えた日向が恨めしげに睨んできたので、目を反らす。

「…そのダセェ髪を何とかしたら、外に連れてってやらん事もねぇ」
「はーい…」

それについては、返す言葉もなかった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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