帝王院高等学校
喘いで怒鳴ってパラッパラッパッパ
「こんな所に紛れ込んでやがったとは」

呆れ混じりの声に、呆けていた人は漸く虚ろな眼差しへ光を滲ませた。

「大好きな弟を怒らせたか?」
「まさか。…油断したつもりは…なかったけど」
「立て。とっとと出るぞ、アレが起きる前に」

男が指差す先、崩れ落ちる様に倒れている二人の体を認め、息を吐く。我ながら器用だ。意識を手放したまま、

「ふふ。その二人は僕が眠らせたんだよ。この程度で起きると思ってる?」
「まさか殺してねぇだろうな」
「お望みならそうしようか?」
「その冗談は笑えねぇぞ」

冗談じゃない、と。
笑いながら立ち上がれば、足元がふらついた。再び座り込みそうになっていた所を支えられ、礼を口にする。

「優しいねぇ」
「勘違いすんな。勝手に動かれたらこっちが困んだよ」
「そう?だって僕はあの子を殺してあげられなかったんだよ?それなのにのこのこ助けに来てくれるなんて…ふふ、物好き」
「…無駄口叩いてんじゃねぇ。ゲートを繋げてある。行くぞ」
「はいはい」

砂地からフローリングへ足を踏み入れた刹那、背後へ顔だけ振り返った。横たわる金髪に散る紫を一瞥し、口許へ笑みを浮かべる。


「んー。…ちょっと、喋りすぎたかな」

何を、と。想像していた疑問は返ってこなかった。そもそも彼には興味がないのかもしれない。

「ナイトには秘密にしてたけど…怒られるよねぇ」
「あ?」
「ほら、僕には制約があるから」
「…前から聞きたいと思ってたんだが、そのナイトってのは誰の事なんだよ」

脱衣場にしては広いウォータールーム、バスルームである筈の奥のドアはエレベーターへと掏り替わっていた。

「僕には名前が言えないんだ。こう見えてくの一だから、簡単に主人の名前を自白する事は出来ない」
「何がくの一だ馬鹿らしい」
「あのねぇ、僕は君より年上だよ?少しは労ってよ、お姉さんなんだから」
「何処からどう見ても男にしか見えねぇ奴が何ほざいてんだか」
「待って。今は変装してないんだけど」
「そりゃ悪かった。水平線より真っ平だもんで、判らなかったよ」

上へ上へと登り、横へと動きを変えたエレベーターの中、可愛いげのない男の赤く短い髪を見上げつつ、薄ら笑いを浮かべながら己の胸元を押さえた人は、艶やかなサファイアの瞳を細める。

「…そこまで水平じゃ」
「水平器使ってみろ」
「失礼だねぇ、そんなんだから弟から煙たがられるんだよ…っと」

エレベーターが開いた先、降り立った瞬間、目の前に想像だにしていなかった男を見た。


「おや、ご機嫌よう烈火の君」
「あ…ああ、相変わらず元気そうだな、お前」
「女性を連れ込むのは構いませんが、後輩には見つからないようにお願いしますよ」
「…煩ぇな、判ってるよ。失せろ」
「はいはい」

慌てて傍らの男の背後に隠れ、正面のエレベーターへ乗り込んでいく二人の背を盗み見ながら、エレベータードアが閉まるのを見送る。緊張感が解ける感覚が漂った。

「…吃驚した」
「何つーか、改めて思ったが、やっぱ似てんな。顔はともかく、喋り方っつーか」
「そう?」
「人を小馬鹿にしてる所とか、ひねくれてる所はそっくりだ」

中々失礼な台詞だ。とても同盟関係を結んだ仲間の台詞とは思えない。

「つーか、堂々としてろ。変な動きするから目ぇ付けられんだよ。大体その顔、アイツは知らねぇだろうが」
「そうなんだけどねぇ。自慢じゃないけど僕の家は情強だし」
「情報強者って?それはそうだろうが」
「何せ勘が鋭い一族だからねぇ。何処からバレるか判らない」
「…だったらばらせば良いだろ。何で隠す必要があるんだ」
「信じて貰えないから」
「はぁ?」
「僕はあの時、本当に死んだんだよ。お葬式もして貰ったし、ちゃんと毎年命日にはお墓参りもして貰ってる。なのに今更生きてたなんて…」
「ああ、頭固そうだもんなぁ、叶は」
「喜ばしちゃうだけだもん」
「………は?」
「僕がふーちゃんを助けたのは本当なんだよ?この身を犠牲にして、守ったの。他でもない、この僕が!」

ずかずかと詰め寄れば、男、嵯峨崎零人は同じだけ後退り、ついには今しがた降り立ったばかりのエレベータードアにぶつかる。ごちりと後頭部を打ち付け、悶えた。

「っ、」
「君だってファーストが可愛いから守りたいんでしょ?わざわざ日向を遠ざけて、あの子が罪悪感を抱かない様に、イギリスへ追い返したいんだよね」
「おい、その話は…」
「知ってるよ、君は日向を殺す気なんかない。日向が死んだら困るものねぇ、可愛い可愛い弟が、あっと言う間にお爺ちゃんになっちゃう」
「何が言いたいんだ…」
「君に教育実習を命じたのは僕だよ。ちゃんと見張っててって、あれほど言ったのに。…どうして黙ってたのさ」
「あ?俺が何を黙ってたって?」
「憎い憎いあの子、とんでもない噛ませ犬だった」

顔に散る艶やかな黒髪を左右に分けて、額を晒す。訳が判らないと眉を寄せた零人は、暫くして気付いたらしい。

「…山田、か?アレがどうしたっつーんだよ」
「ナイトが封じたのは狂暴性だったんだ。これだから東の人間は野蛮で嫌なんだよ、冗談じゃない」
「はぁ?」
「さっき二葉と一緒に居たの、榛原大空だね?」
「ああ。それがどうした?」
「何か隠してる。調べても判らない事だらけだ。あんなお粗末な方法で死んだ振りなんて、灰皇院がやる筈がない。少なくとも冬月も叶も、絶対にしない。…ねぇ、何を隠してるの?」
「んな事、俺が知る筈ねぇだろう。…大体、俺は皇子達が何をやろうとしてるかなんざ、端から興味ねぇ」
「そう、だったねぇ。…君はそう、グレアムと縁を切りたいんだったか。可愛い弟と、自分が。この、光の当たる国で暮らせればそれだけで良いと思ってる」
「…」
「でも君の母親が本当の意味で自由になる為には、どうしても必要なんだよねぇ。…ノアの座が」

笑みを一つ。
誰も彼も、人間とは欲塗れだと囁きながら、蒼い眼差しを眇めた。

「君の眼は僕より深い、ダークサファイア。君の弟と同じ」
「ッ、黙れ…!」
「アシュレイでも嵯峨崎でもない、それは君こそノアの証。イクスでもファーストでもない、ゼロ。…ステルスを無に還す、0番目」
「ふは!…んの糞アマ、俺を怒らせたいのか?」
「オリオンは君を見てる」

伸びてきた零人の手が、喉を掴む間際、動きを止める。

「皆を見てる。全ての物語を集めて纏める役目。その為に全てを忘れる魔法を掛けた」
「前に連れてきた、あのじいさん、か。…誰なんだ、あの人。ボケてんじゃねぇのか?」
「彼は全てを記憶したまま全てをリセットしたんだ。新しい物語を脳に書き留めて、一つに紡ぎ直す為に」
「訳が判らない。そら、何の為だ」
「ナイトの為に」
「またそれかよ」

見開かれた偽りの黒眼を見つめ、その眼差しに写る、笑みを消し小首を傾げている己の顔を見た。

「帝王院の代替わりは灰皇院の代替わりを差すんだ。空蝉はその力量を示される。試練はいつも、王が与える」
「…どう言う意味だ、それ」
「冬月も叶も帝王院の試練を乗り越えられなかったのさ。だから皆、都から追われた。富や名声を求めた訳じゃない。狗としての役目を果たせなかったから。それだけ」
「…何だと?」
「まだ判らない?帝王院の狗には必ず試練が与えられる。ねぇ、似たような話を君は知らない?ほら、君の近くに。誰か居たでしょう?」

いぬ。
その二文字を噛み砕く様に呟いた零人の顔から、血の気が引いていく過程を見ていた。ああ、遅い。決して馬鹿ではない筈なのに、理解力が乏しい。これが、一般人か。

「君にはがっかりだよ、ゼロ。ABSOLUTELYの総帥だった頃はあんなに格好良かったのに、引退して二年程度でもう平和ボケしてるんだねぇ」
「それじゃ、まさか…」
「榛原は小狡くて、悪知恵が働くんだ。皆知ってるよ。冬ちゃんが言ってた。皇子の側に堂々と居られるあの人が、羨ましくてならないって。だって冬ちゃんの方が賢いんだもの。冬ちゃんの方が強いんだもの。なのに冬ちゃんは龍神で、鯉は滝を昇って龍になれたとしても、天までは昇れない」

ああ。
黒いそれに写り込む黒髪の自分は、なんて見窄らしいのだろう。瞳だけが爛々と蒼く、肌はまるで幽霊の様に白い。

「ねぇ、僕らは空が恋しい。僕は明の宮だけど、仮初めだ。嘘ばかり。冬月もそう。往生際が悪いよね、月なんて」
「…」
「榛原だけ。帝王院の影である灰皇院だけが、空を名乗れる。大空、太陽、夕陽。ねぇ、小憎たらしいでしょう?なのにどうして僕らは、焦がれる事をやめられないんだろう。まるで本能。…血に、刻まれているみたいだ」
「お前の雇い主…ナイト、っつーのは」
「コード:ナイト」

コード。
やっと判ったとばかりに息を吐いた零人は恐らく無意識で眉間を押さえ、瞬いた。

「想像もしなかった、って訳じゃないみたいだねぇ?ふふ。そうだよ、ナイトの正式な呼称はイクスナイト=ノア=グレアム」
「んな…馬鹿な事が…」
「君がゼロでも意味はないんだ。キング=ノヴァのジジイが正式に譲位した、十番目のXはイクスナイト。イクスルークは代理に過ぎない。ルークはCEOだけど、事実上COOだってセントラルマザーサーバーにもちゃんと書かれてる。まぁ、誰も気にしてない些細な事だけど」
「じゃあ、ステルシリーの最高総帥は…」
「イクスナイト=ノア=グレアム。二葉はCFO、佑壱はCAO。ステルシリーソーシャルプラネット、総括業務管理者であるCEOは誰も顔を知らない、ノア。マジェスティ・ナイト」

マジェスティ=ノア。
夜の皇帝。ああ。どうして今まで誰も、気付こうとしなかった。少なくとも神威は何かしら知っている様だったが、それを悟らせる様な可愛いげはなかった。十も離れているとは到底思えない男だ。

「夜でも騎士でもない、カオスの別名だよ。勿論、名前は言えない。理由は簡単、僕は魔法を掛けられてる」
「そ、う言う事か…。あのじいさんは、」
「彼以外の前でその名を言った瞬間、僕の心臓は止まるかもしれないよ。半分、機械だからねぇ」
「…あいつ、全部知っててやってんのか?いや、考えれば考える程判らなくなってきたぞ!始めからだ、何企んでんだ?!まさかカルマまで仕込みか?!可笑しいだろ、ただの復讐にしては、」
「復讐?ナイトは何も恨んでないよ。それ所か、全てを元に戻そうとしてる。ただそれだけ」
「それだけって、はぁ?!」
「でもね、僕にも判らないんだ。遠縁とは言え身内の僕が言うのも何だけど、あの双子はどちらも面倒臭くてねぇ。李の方は見ず知らずの人間には姿を見せないし、ルークの方は見ず知らずの人間じゃ会う事も出来ない」

ならば何故、と。思い至って、推測は一つ。

「試練を除いて考えてみると、どうかな」
「除いてだと?」
「全部一つとして考えるから変になるんだ。帝王院と、ナイトを別にして考えると、判る様な気がしない?」
「…のび太と帝王院を別、かよ。全然判んねぇ…」
「ナイトは嘘なんか言わない。人間は嘘をつくけど、ナイトは普通の人間じゃないからねぇ」
「そりゃ同感だが…」
「ただ僕にはちょっと、難しいねぇ。腐男子って何を考えてるんだろう」
「は?」
「去年からナイトは何も教えてくれなくなったんだ。それまでは決まって十六夜に、連絡があったのに。この半年何の連絡もないから、僕、我慢できなくなって」

勝手に来ちゃった☆
と、明るく笑えば、零人は動きを止めた。死んでるのだろうかと他人事の様に首を捻りつつ、

「だから去年、ナイトと連絡が取れなくなって、念の為に君には高等部へ教育実習に行くように保険を掛けておいたんだ。いずれにせよ、君の所へさっきのおじさん達から連絡が入ったのもその直後だったし、僕が動くのも時間の問題だった筈だもの」
「…待てよ、だったら何か?お前、勝手に動いてんのか?」
「そうだよ?」
「光姫を殺そうとしたのも、かよ」
「ああ、あれは毎年トレーニング代わりに襲ってるだけよ?叶は皆、成人するまでに3000回以上死に掛けるからねぇ。父方の親戚とは言え、可愛い従弟を鍛えてあげるのも従姉の役目だよ。うふふ、でもあの子はヴィーゼンバーグの仕業だと思ってるみたいだけどねぇ?」
「…」
「あの程度で死んじゃう様じゃ、僕の従弟とは呼べないよねぇ。ああ、でもそう、君の弟のSP。彼らが僕の知らない所で日向を苛めた事がある。あの人達には少しキツ目に仕返しさせて貰ったから」

僕は組織内調査部長代行だから、と。
微笑んで、日の当たる場所へと歩き始めた。

「君がグレアムを乗っ取ろうと僕は構わないんだけど、ルーク=ノアの組織内調査部長は空席だけど、ナイト=ノアの組織内調査部長代行は僕だから、そのつもりでねぇ?」
「おい、ちょ、勝手に何処に行くつもりだ、お前は!」
「僕はこれでも怒ってるんだよ。皆して僕を騙してたなんて、本当に許せない。やられたらやり返さないと、叶貴葉の名が廃るからねぇ」
「だから何なんだ、その騙してたっつーのは!」
「とんだ噛ませ犬だって言ったでしょ?本当、信じられないよ。僕の可愛いふーちゃん、僕はあの子の為なら死んでも構わなかったけど…」

思い出す。
意識を手放す間際最後に視た、あの冷ややかな瞳を。


『出直しておいで』

唇には笑みを刻み、双眸は極めて冷酷に。あの、凡庸な容姿の男は柔らかい声音で囁いた。身長だって低い。173cmの貴葉の方が目線だって高かった筈だ。
それなのに、指一本触れられていないにも関わらず、最後の記憶では自分は、彼を見上げていたのだ。

「あん」
「?!何っつー声出してんだ、テメ…!」
「思い出すだけで体の奥がゾクゾクしちゃう。はぁ。…どうすれば良いのかな、熱い…」
「は、ぁ?!」
「…許せない。僕を差し置いて、冬ちゃんだなんて…」
「何の話をしてんだ、さっきから!」
「君は知らなくて良いんだよ。君が僕を利用する様に、僕も君を利用させて貰ってる」

ああ。
空が夜へと変わりつつある。東の空はすでに群青で、西側は艶やかな萱草色だ。

「これは等価交換って言うんだ」
「…っとに、アンタは意味が判らんわ。好きにすれば良いが、俺の邪魔すんなよ」
「何、ふふ。まだグレアムに歯向かう気力があるんだ?」
「歯向かう、か。…どっちかっつーと、従弟の味方してやりたくなったって方か」
「…へぇ?もしかして、最初からそうなの?」

曖昧な笑みで唇を吊り上げた男の髪が、燃えている。
抜かりなく毎週の様に染め上げているそれは、偽物なのに。まるで本物の炎の様だ。

「馬鹿馬鹿しくなってきてたんだよ。目的の為に金掻き集めんも、結婚すら出汁にしようとするのも、全部。ま、最近な」
「知ってるよ、加賀城獅楼だねぇ?うふふ、君ってば、既成事実を本物にしちゃうんだもん。流石にこれは、オリオンには報告出来なかったよ」
「…勘弁しろよ、何してくれてんだ。他人のプライバシーは保護しろ」
「でも結局、高々知れてる家柄の女より、あの子の方が扱い易くて権力があった。…それだけの事でしょう?」

呆然と眼を見開き息を飲んだ男の気配に微笑み、頷く。それが人の摂理だ。

「愛なんて綺麗事でしょう?お母さんはお爺様から逃げたくて、お父さんはお婆様から逃げたくて、寄り添う様に結婚へ逃げた。そうだねぇ、愛し合っていたとは思うよ。微かな記憶だけど、お父さんは優しかったもの。顔は、冬ちゃんが一番似てるかな。僕も文ちゃんもふーちゃんも、お母さん似だから」
「…俺は、違ぇ」
「違わないよ。嵯峨崎は皆そう、強欲な人間しかいないじゃない。君のお父さんは大好きなお爺様の為に生きてきたけど、そのお爺様が亡くなってからはどう?嫌っていたお婆様とどう違うの?鬼子鬼子と罵った女と」
「何処まで調べてんだ、マジで…」
「家を捨てて国を出て、一目惚れしたお姫様の為にお姫様の従者を犠牲にした」
「………の、野郎…」
「そうして産まれたのが君。君のお母さんは君のお父さんを愛していたんだねぇ?でも君のお父さんは、君を産んでくれた奥さんを一度だって愛してなんか、」
「あら、面白い話をしてるわねぇ」

しくじった、らしい。気配がなかった。
恐る恐る振り返れば、およそ堅気とは思えないスーツ姿の男共がこちらを見ている。唯一、派手なドレス姿の赤毛だけはルージュで染めた深紅の唇を吊り上げ、ごてごてとラインストーンで彩られた扇子を開いている。

「とんだ珍客の所為で散歩に出る羽目になったけど、悪くないわ。高坂、アンタ聞いてたわね?」
「ああ、しっかりな」
「アンタの可愛い可愛い息子、狙ってたそうよ。…そこのお嬢ちゃんが」
「確かに、面白ぇ話だ」

目算するに、女装男よりもまだ質が悪そうなのは、黒髪の男だ。年齢こそ壮年だが、その目。幾つ修羅場を潜ればそこまで研ぎ澄まされるのか、まるで理解出来ない。

「…困ったねぇ。まだ、知られる訳には行かないんだけど」
「悪いが、アンタには全部喋って貰う。…まだ隠してる事がありそうなんでなぁ?」

がしりと、零人から腕を掴まれた。
成程、無駄話で時間を稼がれたらしい。ただの偶然ではないと思っていたが、何らかの方法で零人が父親を呼び寄せたのだろう。もっと早く盗み聞きされていたなら、気づいていた筈だ。

「コバック、捕まえてちょうだい」
「おや、私は女性相手には手を上げられない男ですよ。女性相手には、手を出す方です」
「息子コバック、その男を殺してちょうだい。いい加減うんざりだわ」
「コバックではなく小林です。恐れ入りますが、私は山田社長の手下ですので嵯峨崎会長のご命令には従えません。それにその男は小林ではなく叶です、一緒にしないで下さい」
「こ、小林さん、そんな事を言ってる場合じゃない、と、思うんだけど…」
「お前は私の後ろに隠れてろ。怪我をしたらどうするんだ、決算前に」

逃げ場は限りなく少ない。
困ったねぇ、と、もう一度呟いて、眼を見開いた。




「通りゃんせ」

ああ、群青が近づいてくる東の空の下、それは近づいてくる。


ゆっくり、ゆっくり。
目に見えているにも関わらず、声が聴こえているにも関わらず、それすら幻ではないかと思えるほど、気配がない。


まるで、急に夜へと変化した空の様に。


「通りゃんせ」

彼は微笑んだ。
全ての人間が振り向いた瞬間、彼の光が一切宿らない漆黒の双眸を前に動きを止める。

「黒猫、見つけた」
「…ああ、良かった。ナイト、迎えに来てくれたんだねぇ」
「おいで」

皆、しっかり息をしている。
だからこそ勿論、意識もある。山田太陽が使ったお粗末様な暗示とは違う、これは帝王院の術だ。
だから今、彼らはこの光景を認識出来ていない。

「何をしていたんだ」
「犬に噛まれたんだ。…ゾクゾクしちゃったよ」
「そうか」
「ねぇ、僕を除け者にして楽しかった?悲しかったから意地悪したよ。本物の君を無理矢理起こそうとしたの」
「殺そうとして」
「そう。だから明日、死んでね?」

表情はない。
微笑んでいるのに、彼には表情がない。彼の作る表情は全てが偽物だ。彼の紡ぐ言葉は全てが偽物だ。彼は嘘はつかない。けれど彼は、脚本の通りにしか喋らない。

何故ならば彼は、



「ねぇ、俊。どうしてあんな狂暴な子を飼い慣らそうとするの?」
「太陽」
「そう。あの子は意地悪だよ。人の嫌がる術を知り尽くしてる。警戒心が強すぎる。後は、野性的なほど勘が鋭い」
「一つ、間違ってるな」
「え?」
「あれこそ俺が掛けた暗示だからだ」

彼の無機質な微笑みが、見えない。
急に世界は夜へと染まった。星一つない、漆黒に。




「俺は暗示を掛けた。王子様が王子様たる為、三人に。一人は佑壱、一人は太陽、もう一人はこの俺。
 この物語はそう、お姫様へ辿り着くまでの経過に過ぎない」

倒れ掛かってきた体躯を片腕で抱き止め、暗ずむ空を見上げ、聳え立つ白亜の宮殿を見つめる。

「一人は平凡なハッピーエンド、一人はありふれたハッピーエンド、そして一人は特上の終幕を。既に書き終えたシナリオをただ進むだけの、長い長い、道程」

さァ。
白日は夜へと移り変わり、いつしか空は太陽から月へと腕に抱くものを変えるのだろう。



「俺はお前を迎えに来たよルーク。全ての自由を解放し、全ての選択肢を淘汰した果てに堕ちてくるがイイ」

がらり、
がらり、
古びた鐘の音はまるで、壊れた楽器の様に。









「俺は最初から、何処にも逃げていない。」



いつか聴いた、蝉の声を思い出させた。




















「な、に、これー?!」
「文仁!」
「お任せを」

太陽の足元へ雪崩れ込んできた黒い鼠の群れに、鋭く叫んだのは学園長だった。それまで何処に潜んでいたのか、颯爽と太陽を片腕で抱き抱えた男の艶やかな黒髪が舞い、

「おわっ?!」
「ったく、余計な仕事増やしてんじゃねぇ、チビ餓鬼」

太陽を鼠の群れから離れた所へ放り投げた男は、消火器の栓を引き抜き、躊躇いなくぶっ放したのだ。

「ふん、他愛もない」
「ね、ネズミじゃ、なかったんですねー…」
「これがミッキーマウスに見えんのかチビ、知能指数低い事ほざくならそのSバッジ外せ、カス」
「………すいません…」

虫を見る様な目を向けられた太陽は、そっと胸元のバッジを手で押さえた。何なんだ、この偉そう所ではない俺様は。

「んな事より」

二葉そっくりな顔の、二葉よりまだ上背のある、佑壱に匹敵するほど長い髪を掻き上げた男がゆらりと振り返る。無意識で身構えた隼人と榊を余所に、諦めた様な表情の健吾は、無人のソファへ座り直した。

「即席ウォーターバズーカたぁ、用意が良いこって(´Д`) お陰で助かったっしょ」
「これを離したのは貴様だな、高野健吾」
「…違うよ」

じゅうじゅうと、肉が焼ける様な音は、消火剤の代わりに水を詰めていたらしい消火器が撒き散らした水浸しの床から響いている。

「あ?違うだと?」
「多分、甥っ子。こないだ温室から出てきた所を見られてた」
「温室だぁ?」
「コイツの父ちゃんが寝泊まりしてる別荘。薔薇を栽培してるっしょ」
「…成程、山の中か。帝王院の屋敷内だったな」
「ちょ、ちょっと待って、どう言う事?高野、このネズミみたいなもの知ってたの?!」
「あー、これは…(;´Д⊂)」
「バイオジェリー」

呟いたのは、健吾の隣へ座り直した裕也だ。

「有機物を溶かす習性がある、遺伝子組み換えの二十日鼠だぜ。普通はゴミの始末に使う。それだけじゃねーけどよ」
「え?それだけじゃないって?」
「…」
「藤倉君?」

下がり気味の眉を潜めた太陽に、誰もが沈黙する。訳が判らない太陽はキッと隼人を見やり、目を反らされる前に飛び付いた。

「ねーねー、何で教えてくんないの?それだけじゃないって何?」
「隼人君に聞かないでよねえ、知らないよお」
「でも大体判ってんだろ?俺だけ仲間外れなの?ねーねー、パヤティー、教えてよー」
「パヤティー言うなあ」
「理事長先生、パヤティーが俺を苛めます」
「それは遺憾だ。苛めは懲罰に値するぞパヤティー」

隼人のみならず、皆が硬直する。ノリで話を振った太陽もだ。

「…あーもー、だからあ、さっきのキモい鼠ちゃんをねえ?」
「うん」
「例えばあ、生きた人間とか…あー、死体とか?に、大勢放ったらさあ」

姿形残らず溶けて消える。
皆まで言わずとも想像した太陽は隼人から手を離し、ふらりと健吾の前まで近寄ると、見上げてきた健吾へ満面の笑みを浮かべたのだ。

「高野…お前さん、誰か、殺すつもりだった、とか?」
「まさか!(ノД`) 多分だけど、あー、俺を困らせたかったんじゃないかと思うっしょ。えーっと」
「どう言う事かなー、ケンちゃん」
「う、うひゃ、えっと…何か怒ってる?(´Q`*)」
「何を秘密にしてたのかなーとか、思ったり」
「秘密なんて、してねーってw」
「ふーん?」

健吾から目を離した太陽は、様子を伺っている理事長と学園長を交互に見つめ、偉そうな表情の二葉そっくりな男を睨んだ。

「何、俺に喧嘩売ってんのか?所で、貴様誰かに似てんな」
「人に貴様とは何ですか、昔は敬語でも今は侮辱ですよ」
「あぁ?」
「二葉先輩そっくりな顔で凄むのやめてくれませんか。ほんと、…精神的に病むまで泣かせたくなるんでねー?」

静かな声音だ。
叶次男が目を丸めるのと、驚いた隼人が「はあ?」と呟くのはほぼ同時だった。

「何か良く判んないけど、何となく判った事があるんだよねー。多分全部、俊が関わってるんだ」
「そんな訳ないでしょーがあ!あのねえ、何でユーヤとケンゴの事にボスが関係すんのよ?!アンタ馬鹿あ?!」
「喧しい!」

ビシッ!
何処に隠し持っていたのか、日替わりの夜間パトロール時用に取り寄せておいた折り畳み式の教鞭で隼人の脇腹を殴った太陽は、笑顔を消して、瞳にだけ笑みを滲ませる。

「帝王院俊、ああ、そう、帝王院俊、ね。…ふ、ふふふ、いい度胸じゃないかい。この俺が山田太陽だと知って、近付いてきたんだ。最初から、そう、やっと判ったよ」
「お、前、まさか…!」

文仁と学園長が同時に目を見開いて、榊が頭を掻く。

「あーあ。若がバラしたら駄目だろ、一応、榛原とアンタは無関係なんだから。今は」
「…え?榊さんが何で、」
「榊はまぁ、偽名みたいなもんだ。俺の親父は代々、冬月の駒でな。お陰で、餓鬼の頃からあの人を見張ってた」
「ちょ、ちょっと待ってよお?!何なの、榛原って?!え?!どーゆー事?!」
「俺も知らねーっしょ!何なん?!タイヨウ君って何者?!(;´Д⊂)」
「灰皇院太陽」

呟かれた台詞に、全ての人間が沈黙した。
呟いたのは東雲だ。

「だから私は息子に君を見張らせていた。亡き灰皇院総本家、帝王院の影たる君を」
「シノ先生、に?」
「でも少し違うか。戸籍上、君と遠野俊…彼は、従兄弟だよ」
「「「「「は?!」」」」」

ぽかん、と。
間抜けな顔をする五人を、学園長は「面映ゆい」と眺め、理事長は「愉快だ」と囁いた。確かに皆、面白い顔をしている。

「皇子陛下が榛原から絶縁された息子を養子に迎えたっつー話は、まぁ、俺らの代じゃ有名な話だ。帝王院秀皇は当時未成年だったから、会長の籍に入ってる。事実上、二人は義兄弟って事だ」
「か、叶のお兄さん、詳しいですね…」
「はー…。あー、まぁ、何だ、数々のご無礼、ひらにご容赦を」
「はい?!」

太陽の前で跪いた俺様ロン毛に、跪かれた太陽は飛び上がった。びとっと隼人に貼り付いたが、貼り付かれた隼人は何とも言えない表情で太陽を引き剥がそうとして、

「こっちじゃネルヴァ、こっちに逃げたのを見たぞ!」
「今度こそ間違いないのかね」
「儂の視力は1.5じゃ!師君ら若い癖に老眼とは情けない!ええい、ゴミ処理ラット如きが手こずらせおって!」
「待て、そこは学園長室、」


バターン!


騒がしい声と共に飛び入ってきた二人の男が、玩具にしては巨大な水鉄砲を構えているのを見た全ての人間は、余りにもしょっぱい表情を晒す。

「ふむ。今の話に付け加えるとすれば、そこのシリウスは龍一郎の双子の弟。つまり一年Sクラス神崎隼人、そなたは、」
「私の孫、俊の再従兄弟だ」

のんびりと、理事長と学園長は同時にネーブルの皮を剥きながら宣った。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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