帝王院高等学校
沈黙したまま黄昏に潜む者
総ては零から始まった。
そう、何の確証もなく説く者よ。


総ては零から産み落ちる。
そう、何の疑問もなく信じる者よ。



ならば淘汰の限りを尽くした果て。追い立てられるが如く辿り着いた先、空虚の終焉たる虚無はまた、何かを産み出し、始まろうとするのだろうか。
この体に宿る魂が尽きた後、また、他の誰かとして産み落ちるとでも宣うのか。



最後に一つ、言葉に出来ぬ疑問がある。
さりとてその答えは虚無の淵に埋もれたまま産み落ちる事はないだろう。何故ならば、





終わらさねば、始まらないのだろう?













「あん餓鬼ぁ、何処に消えやがった」
「アンタ年下から舐められてんじゃないわよ」

賑わう保健室からやや離れた先、非常階段を一階まで降りた長身二人は辺りを見回しながら呟いた。

「変な奴らが彷徨いてる様だし、アタシはともかくアンタは奥さんから離れない方が良いわ。引き上げましょう」
「つくづく面倒臭い事になったなぁ、おい。帝王院は何処に行きやがったんだ!トシから目を離すなんざ正気の沙汰じゃねぇ!」
「落ち着きなさいよ。あの子…そのトシだっけ?皇子の嫁ってそんなに面倒臭い子なの?」
「………例えるなら、テメェん時の風紀委員長レベルだ」
「………あの時の小林レベルだと…?」
「はいはい、お呼びですか社長」
「「ひ」」

その穏やかな声音を聞くなり、極道と実業家は揃って悲鳴を零す。恐る恐る振り返れば、老眼鏡には見えない洒落た眼鏡を押し上げた男の腕に、怯えた男の姿があった。

「アンタ何処行ってたのよ?」
「申し訳ありません、顔見知りを見つけましてね」

濃いラピスカラーのスーツ。その手に掴まれているのは、チャコールグレーの背広を纏う、サラリーマン風の男だ。

「コバック、」
「小林です」
「そのオッサンは誰なの?」
「いやぁ、先程見掛けましてねぇ、面白そうなので拉致って来ました。ほらほら、怯えていないでご挨拶を。こちらが私の雇い主の嵯峨崎嶺一会長、その隣は光華会高坂組の高坂さんです」

見るのも気の毒な顔色の男は、見た目はそれほど年ではない様に思われるが、白髪の量が多い。何処にでも居そうな年齢不詳な背広男に、オカマと組長は目を見合わせる。誰なんだこれは、と。

「ほら、黙ってないで。シャイボーイで困りましたね」
「…シャイボーイ?」
「何か?」
「いえ…」

ストレス社会に揉まれたのが判る、鋭い眼差しの下に分厚い隈。チラリとオカマを睨んだ組長に、赤毛はふるふると頭を振った。社員をここまで窶れさせるほど、嵯峨崎財閥はブラックではない。

「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。…株式会社笑食、代表取締役マネージメントディレクターの、一ノ瀬と申します」
「山田んとこの餓鬼か」
「一ノ瀬ねぇ?何処かで聞いた覚えがある様な…」

礼儀正しくぴっちり90度の最敬礼を見せたサラリーマンが、名刺を差し出してきた。それぞれ名刺交換を果たした所で、老眼鏡を外したオカマの秘書は眼鏡クロスを取り出す。

「ふぅ。私事でアレなんですが、これが息子の嫁でしてね。ええ、義理の娘みたいなもんです。男ですが」
「「はぁ?!娘?!」」
「そうなんですよ。参りましたねぇ、幼い頃から私の様にはならないと小憎たらしい事をほざく息子でしたが、まさか男に走るとは嘆かわしい…」

顔色が益々悪くなった一ノ瀬は今にも消え入りそうな風体で、二人の社長は心の底から同情した。同情したが、この中で最年長の性悪腹黒眼鏡に逆らう勇気はない。若い頃に逆らい続けて何度か痛い目を見た嵯峨崎会長に至っては、弱味を握られ過ぎていた。

「そ、そうか…。あー…何だ、色々大変だろうが、負けるなよ。笑食っつー事は、山田の部下だろ?一部に上がってからこっち、頑張ってんじゃねぇか」
「大先輩からお褒め頂けるなんて勿体ない事です。陛下方におかれましては、私共の社長が大変お世話になっております。改めてご挨拶に伺わせて頂きますので、本日のご無礼、ひらに…」
「おいおい、よせよ。そこのオカマも元中央委員会会長だが、どっちも誉められたもんじゃねぇ」
「おやおや、良いんですか?成長めまぐるしい企業の常務が、ヤクザとコネを得ても得などありませんよ。ねぇ、元陛下方?」
「「…」」

磨いた眼鏡をすちゃっと掛けた鬼秘書の微笑に、二人の白髪混じりは握手していた手をそっと解く。それを一部始終見ていたオカマは目を反らしただけ、逆らう者は居ない。

「そんな事より、こんな所で何をなさっているんですか社長。クリス様と零人坊っちゃんは?」
「皆は二階の保健室。ゼロは呼ばれたからって上に行ったわよ。あの子、最上階の自治会長だから」
「そうですか。では冬臣も保健室に居るんですね?嫁、ついてきなさい」
「あ、あの、嫁はやめて下さいませんか、小林さん」
「小林は元妻の姓なので…そうですねぇ、榛原で良いですよ。亡き母の姓です」

ぱちくり。
荒んだ目を丸く見開いた一ノ瀬が瞬いて、同じく、驚いた表情の組長は素早く隣のオカマへ目を向ける。声もなく頷いた嵯峨崎は、髪を結い上げていた髪飾りを弄びながら、

「…そう言う事よ。私があの子…山田大空に手を貸したのは、彼から頼まれたからなの」
「どう言う関係だ?榛原の娘は一人っ子だった筈だ、だから入り婿を迎えたんじゃねぇのか?」
「口で説明するのは難しいと言うか、」
「社長の祖父の弟の娘が、それの母親なんです」

世界が凍る音を聞いた。
最早顔色がない一ノ瀬は石の様に固まったまま動かず、息を切らしやってきた濃紺のスーツで身を揃えた男は眼鏡を押し上げながら、つかつかと近寄ってくるばかり。恐ろしい程の殺気が近付いてくる。

 

「…会長、ご無事ですか?」

そんな中、そっと表れたのは赤に黒を混ぜた様なブラウン系のジャケットを纏う、ヤクザだった。眼鏡がまた増えたと胸を震わせている一ノ瀬を余所に驚いた高坂は飛び上がり、見慣れた部下の顔を上から下まで見やる。
眼鏡は眼鏡だが、この男の眼鏡には薄い茶色のレンズが嵌められていた。

「…脇坂ぁ?お前ぇ、何で此処に?」
「呑めない親父の代わりにワシが杯を交わした九州の親分衆から連絡がありまして、国内に変な動きがあるそうですぁ。先に来ていた宮田達にも話はつけてあります。自分はこれより、親父のガードに当たりますので」
「ちっ。んな時に余計な仕事増やしてくれる」

光華会でも一・二を争う男前インテリヤクザである男は、そこで部外者に気付いたらしい。笑わなければ紳士に見えない事もない美貌だが、笑んだ瞬間誰もが逃げ出すだろう獰猛さが滲み出す。中々残念なヤクザだ。
そんなインテリ部下が手に持っているスマホに、『パパサーチ』とカラフルなロゴを表示するアプリがあった。それに気付いた組長はGPSで探されていた事には気付かず、その画面に可愛らしい猫が描かれていた事に心をときめかせる。

「…会長、然し珍しい組合わせですが、そちらは嵯峨崎の会長さんで?」
「貴方は脇坂君ね、聞いてるわよ。アタシが卒業する頃入ってきたって聞いてるから、高坂より若いんでしょ?」
「畏れながら、今年42です。自分は工業からの跳ね上がり者なんで、本校に移ったのは中等部からでして…って、あ?もしかしてそこの、楓姫?」

組長より派手なジャケットを来たヤクザは細い眼鏡を鷲掴み、睨み合う眼鏡二人に挟まれたチャコールグレーを凝視した。これに素早く反応したのは、父親と似た様な色合いのスーツを身に纏う、ワラショクである。

「人の配偶者を姫なんて呼ばないで貰えますか、殺しますよ」
「せ、先輩!けっ、喧嘩はよくない…!社長に迷惑が掛かる!」
「黙れ。勝手に居なくなったかと思えばこんな男に掴まっていたなんて…はぁ。嘆かわしい、今一度自分が誰のものか思い知らせる必要があると言う事か」
「な…!」
「はぁ。独り身の父親の前でいちゃつくのはやめなさい。全く、二葉にしてもお前にしても…ふぅ」
「あ?嵯峨崎秘書さんは、氷炎の君のお父上でらっしゃる?」
「違います」
「ええ、これは私の息子でしてねぇ、脇坂さん。今36です」
「つかぬことを伺いますが、嵯峨崎の秘書さんはお幾つで?親父…うちの会長より上なのは知ってんですが、」
「嵯峨崎会長は51歳になられます。私は一学年年上ですよ」
「ほーう、お若く見える。羨ましい」
「聞き慣れた賛辞ですが悪くない誉め言葉です、有り難く頂戴しましょう」

成程。
色恋はヤクザのたしなみ、素早く関係図を読み取ったヤクザは胸元から取り出した手帳にサラサラと何かを書き込み、組長の耳元に口を寄せる。

「…親父、こりゃあ叶関連の様ですが?」
「先代の妾の息子だ。本家の籍には入ってねぇ筈だが、帝王院在学中には叶を名乗ってた。卒業と同時に婿にやられて、以降離婚後も元嫁の姓を名乗ってるらしい」
「………成程、龍神の叔父に当たる訳ですか。道理で堅気離れした雰囲気がある」

然し嵯峨崎財閥の秘書は女好きのオーラが凄まじいが、その息子は眼鏡とスーツの色合い以外似ていないものの、ストイックさを感じさせた。その男の嫁が男とは、事実は小説よりも…である。

「…二葉たぁ、あの小生意気な餓鬼でしょう?ヤツにも女が出来たんで?」
「その件に関しては掴めてねぇっつーか、知りたくねぇっつーか…」
「は?」
「………お前も良く知る、時の君関連らしい。見ねぇ振りしたが、あの冬臣を脅してやがった」

部下は眼鏡を光らせた。
さらさらさらりと流暢な殴り書きを果たし、息を吐く。そして微かに俯き、ニタリと笑んだのだ。組長は見ない振りをした。

「ふーん。思いも知らぬ所で…こりゃあ良いネタになりますぜ。お任せ下さい。この脇坂、一命を賭して進めて参ります。くっく、いつも通り内密に…」
「………あー、任せた。…お前の笑い方はいつ見てもアレだな、閻魔も裸足で逃げ出しそうじゃねぇか。ふ…、俺の右腕だけはある」
「勿体ねぇ。有難うございます親父」

イケメンインテリ系ヤクザは、数多い愛人の一人に腐女子を抱えた理解あるヤクザだった。猫とBLが趣味の組長の為に、日夜新しいBL本を産み出す為に尽力している。

「で、嵯峨崎方と、そこでイチャイチャしてるご夫婦には悪いんですが、姐さんが心配なんで、我々はここいらで失礼させて貰っても?」
「ああ、それなら同行しましょう。高坂夫人は嵯峨崎会長の奥様とご一緒の様ですし、何、心配せずとも、日本一恐ろしい男が一緒なので無事は保証します」

にこにこと顔を向けたのは、息子から殺気を向けられても屁ともない鬼腹黒秘書だ。お前が仕切るなと心の中で吐き捨てたオカマを余所に、数々の修羅場を潜り抜けてきたヤクザ部隊は悟った。これには逆らわない方が良い、と。
これが帝王院学園に長く引き継がれてきた、風紀委員長への恐怖心だ。

「…所で組長、ヤツには会えましたか?」
「ああ、あれか。まだだ。一年の帝君らしいが、父親と母親にはまぁ、会った様な、化かされた様な…」
「へぇ、両親が居たんスね、アイツにも。然しあの俊が帝王院たぁ、未だに信じられませんわ。ありゃあ、どう見ても極道になるべく産まれてきた最高の逸材です」
「…だろうな。おい、耳貸せ」

こしょこしょと囁き合うヤクザは保健室までの短い道のりをちんたらちんたら歩きながら、一気に青ざめる。

「本気ですか?ヤツがABSOLUTELYの初代と、あの族狩りのトシの息子なんざ…」
「しかも俊は餓鬼共が熱狂してるあのカルマで、今のABSOLUTELYはあのルークが仕切ってる。何つーか…運命だよな」
「驚いた上でこれもネタになると思いますが…どっちがどっちなのか、ワシには判断がつきません親父」
「あー…俺にも判らん。んな事より、村岡と早瀬はどうしてんだ?組だけで動いてんのか?」
「それについては、職員を買収してリブラの空き部屋をリザーブしてあります。状況を把握するまでそちらでお隠れ下さい。外だと、ヴィーゼンバーグの餓鬼共に邪魔されちゃ敵わねぇ」

こしょこしょ囁き合うヤクザ二人は、保健室へぞろぞろ入っていく皆に気付き歩を早めた。
敢えて言わせて貰うとしたらこの一言に尽きただろう。



かいすんだ、と。



















「おっ、重ー!」

どすんと腰から崩れ落ちた人は、両手を振りながら叫ぶ。これに慌てたのはその亭主で、眼鏡の下で目を丸めた二葉は珍しく隙だらけだった。

「陽子ちゃん、掘り返すって本気だったの?!無理に決まってるじゃんか、あんなの持ち上げようだなんて!」
「馬鹿にすんじゃないんだわさ!やるっつったらやんの!くっそ、もっかいチャレンジするんだわ。アンタも手伝ってよ!」
「あ、あ、駄目だって!怪我してるの判ってんの?!縫ったんだよ?!あんな柔らかい所に何針も!痛々しくて僕ぁ、何度泣いたか!」
「ふん、あんなもん掠り傷なんだわ。この私を殺したないならそうね、戦車3台は持ってきなさい。舐めんじゃないわよ!」

しゅばっと立ち上がった人は、ぶるんと胸が揺れた反動で太股に鋭い痛みを感じたが、少しばかりよろめいただけで耐え抜いた。今此処に、山田家最強の名を欲しいままにする魔女の男らしさが証明されたと記しておこう。
少食な男共を尻目に、好物と余り物なら際限なく食べられる主婦の強さである。貧乏育ちのケチさ故に家事の一切を仕切る主婦は、社長夫人でありながらお手伝いさんを求めた事がない。腕力には自信があった。

「何をなさってらっしゃるんですか?」
「ああ、居たの二葉君」
「…ええ」

マイペースな魔女は、先程まで楽しく会話していた筈の二葉をとっくに忘れていたらしい。イケメンに目を輝かせるミーハーながら、やはり主人一筋と言う事か。

「この墓を掘って、骨が埋まってるか確かめたいの」
「骨、ですか?一体何の骨がこんな所に、」
「それを確かめんのよ。…舐めんじゃない、男だったらカルマに入ってた私の力を見せてやるんだわ!」

腹黒さには自信がある山田と叶は、同時に顔を見合わせた。男らしくミニスカートから太股が丸見えでも構わず、再び石をガシッと掴んだ人は、奇声を放ちながら持ち上げようとしている。

「よぉぉぉい、しょぉぉお!!!」
「「…」」
「はぁ、はぁ、っ、手強いわね…!こんな時にシーザーが居たら!はぁ、はぁ、はぁ、負けてなるものですか…!こっ、交響曲ぅっ、第零番んんん!!!」

ギシギシと、服が軋む音がした。
細い体を包むタイトなワンピースを、隆起した筋肉が押し上げる音だ。

「っ、ブラックレクイエム!!!」

ごとん。
持ち上がりはしなかったが後ろ向きに倒れた黒い石碑に、サド二匹は沈黙した。ぺたりと座り込んだ人のスカートには亀裂が入り、タイツに包まれた太股が危ない所まで見えている。

「よ、よよよ陽子ちゃん!セクシーな事になってるよー!うわーん、馬鹿馬鹿馬鹿ぁ!」
「はぁ、はぁ、…ああ、このくらいいいんだわ、脱げば」
「えええええ?!」

涙目でシャツを脱ごうとした旦那は、躊躇わずワンピースを脱ごうとした嫁に飛び上がった。
さっと後ろを向いた二葉は混乱の余り素数を呟き始め、97まで数えた所で呼ばれて恐る恐る振り返る。

「ふっふ。大丈夫だわさ、こんな事もあろうかと下にTシャツと短パン着てきたから」

どん!
KARMAとデカデカ金文字で刻まれた黒字のTシャツの袖元に、赤文字で何やら刻まれている。レッドスクリプトと書いてある事を読み取った二葉は半ば感心した。このシャツはそんなに売れているのかと。

「陽子ちゃん…何処で買ったの、それ…」
「ネットよ。毎年春にカルマの新作が出るの。物によっては1枚一万以上すんだけど、予約が殺到し過ぎて手に入んないのよね。二年連続全種類注文してやっと、今年手に入ったのがこれなのよ。ほらここ、見て」
「えっと…キングスエコー?」
「そ、『王響』モデル。タグが青いでしょ?あのカナメよ!」

いや、どのだか判んねーよ。
旦那はそう思ったが決して口にはしなかった。若気が至りすぎて浮気三昧、未だに恨んでいても可笑しくはない妻からいつ離婚を持ち出されるか、判ったものではないからだ。

「折角だからカナメ本人のサインも欲しかったんだけど、サイン入りは抽選で1名ずつなのよね。…はぁ。シーザーは無理だとしても、ケルベロスモデルも狙ってたのに…」
「あ、あはは、あは、あはは、そ、そうなんだ…」
「ケルベロスモデルとシーザーモデルはね、背中に不死鳥か大きな満月がプリントされてんのよ。はぁ。シーザー…抱かれたい…」
「えええええ?!ちょ、それどう言う事なの、陽子ちゃん?!」

夢見る乙女の表情で頬を染めた女性と、顔色の悪い男性を交互に見やった二葉は暫し考え込み、倒れた石碑の立っていた場所へ目を向けた。

「山田君のお母様、宜しければ錦織要の元へご案内致しますが、如何なさいますか?」
「錦織…って、カナメ?カナメの事?!何、二葉君、カナメさん知ってんの?!」
「ええ、あれは私の弟みたいなものです」
「嘘?!」

これを聞いた錦織要がどう思うかは、想像に任せたい。徹夜明けの彼は今、山田のダンジョン探索に早朝暗い内から付き合わされ、安らかな眠りの中だ。カルマで唯一パジャマで寝る男は、用がなければ十時には就寝している。徹夜のプロフェッショナル山田太陽と同列に並べてはいけなかった。
因みに徹夜明けには昼寝が欠かせない神崎隼人に至っては、余りの眠気と体力の限界により、普段は絶対しない要からの借金へ踏み切ると言う愚行に出たのである。

「それと、先程仰ったケルベロスに会わせて差し上げる事も可能ですよ。彼は今、私の従兄と行動を共にしていますから」
「いやぁあああ!!!嘘でしょ?!何なのアンタ、天使?!天使の生まれ変わりなの?!大空、聞いた?!何なのこの子、何企んでんの?!体?!私の体?!」
「ちょ、落ち着いてママ!痛い、髪引っ張るのはやめてよー、髪は駄目だよー」

普段の倹約生活は全てカルマの為、と言わんばかりに貢いでいるミーハー主婦は旦那の大切な毛髪を握り締め、ふるふるぶるりと胸を震わせた。かくかくと笑っている膝がその興奮を知らしている。

「け、け、け、ケル、いやー!有り得ないんだわ!騙されてなるものですか、ケルベロスと言えばカルマの副総長なのよー!わ、わた、私は、騙されないんだから…!」
「痛い、痛い、ちょ、ママ、抜けちゃうってば!」
「しょ、証拠見せなさいよ!二葉君、貴方ね、カルマなのよ?!判ってんの?!カルマよ!つまんない嘘で大人を騙すのはやめなさい!」
「嘘、と言われましても」

証拠を見せるのは容易だが、これ程の警戒心には少々の証拠では意味がないのではないか。素早く結論を弾き出した二葉は通信ではなくテレビ電話をしようとタブレットに手を掛けたが、それより早く、頭上から声が落ちてきたのだ。

「誰だコラァ、さっきから騒いでんのは。要が寝てんだよ、静かにしやがれ」

西日を背後に、長い髪を両手で編みながら覗き込んでくる顔が、離宮が連なる奥、中央キャノンの二階に見える。保健室だとすぐに気付いた二葉はかなり離れた位置でも目立つ赤毛へ片手を上げ、見えないだろうがにこりと微笑んだ。

「おや、嵯峨崎君。高坂君と保健室デートですか?私は大変やるせない気持ちになりましたよ、愉快」
「あ?!何で俺が高坂を保健室に連れ込まなきゃなんねぇんだコラァ、寝てんのは要だボケ!テメーと一緒にすんなバーカ!」

二葉が笑みを深めた瞬間、カルマが誇る副総長は素早く頭を引いた。ガラガラピシャンと窓を閉め、ブラインドを下ろす光景が微かに見える。
後で苛めてやる、と、叶二葉が考えたか否かは不明だが、ポカンと閉まった窓を見つめたまま硬直している山田夫人と言えば、旦那の大切な毛髪を掴んだまま全く動かない。旦那が慌てて肩を掴み揺すっても、ピクリともしなかった。

「ちょ、陽子?陽子ちゃん?おーい、ママ?!」
「…」
「待って、何で眉間の皺がないのかな?!そのおぼこい表情は何で?!ねー、何でなの?!僕そんな陽子ちゃん見たの初めてなんだけど?!陽子?!パパの言葉を聞いてるのかな、ぐふ!」
「…煩い!殴られたいの、アンタ?!」

殴ってから怒鳴られる。こんな理不尽な目に遭うなんてと驚愕している男は叩かれたデコを押さえながら、悲劇のヒロイン宜しく座り込んだ。パッとスポットライトが当たっていそうな風体で、しくしくしくりと泣いている。
一部始終を見ていた二葉は「ざまあみろ」と言わんばかりの微笑を浮かべつつ、こっそり脇腹を撫でたのだ。反り整えられた吊り上がった細い眉以外、息子との差異は巨大な胸の膨らみ程度。そんな太陽瓜二つの女性から虐げられている男に、仲間意識でも感じたのだろうか。


否。
叶二葉は根っからの腹黒だ。ただの「ざまあみろ」による脇腹直撃の笑いを耐えていただけ、が、正しいのかも知れない。脇腹が痛むほどの同情など感じる様な男ではないのかも知れない。
真相は謎だ。


「ふ…二葉君。あ、や、二葉さん」
「はい?」
「疑ってごめんなさい…。私、反省してる」
「いえ、お気遣いなく」
「あの…つくづく図々しいお願いがあるんだけど、」
「サインでも写真でも握手でもキスでも何でも、嵯峨崎君…ケルベロスであれば、ご希望に添えて下さると思いますよ。彼は懐の広い男ですから」

ぞくっ。
保健室で、母親ズから即席甚平を着せられ髪を弄られ、着せ替え人形と化している嵯峨崎佑壱は背筋を駆けた悪寒に震えた。犬的本能だろうか。

「う…嬉しい…!年甲斐もなくはしゃいでごめん、みっともないおばさんだと思ってるでしょ?」
「陽子ちゃんはおばさんじゃないよ!僕の可愛い奥さんだよ!」
「は?気安く奥さんだなんて呼ぶな、奥様と言うんだわ」

チッと鋭い舌打ちと虫でも見る様な眼差しを浴びせられ、山田家の大黒柱は叩きのめされた。ついでにはらりと数本の毛髪が風に拐われて行った。もう復活出来ないだろう。毛髪も含め、色々と。

「ふふ。お二人は仲が宜しいですねぇ」
「やだ、どこ見てんの?良く言うでしょ、3年目の浮気〜♪なんて。所がどっこい、この馬鹿男、入籍三日目には愛人と高級ホテルに泊まってたのよ。信じられる?こちとら双子が入ったお腹抱えてヒィコラ言ってんのに!」
「そうでしたか…」
「良い、二葉君。男の浮気は破滅を招くわよ、覚えときなさい。若い内の失敗がいつか我が身を滅ぼすんだわ…」

にたり。
暗い笑みを浮かべた顔は、魔女だった。息子にはまるで似ていない。二葉が笑顔で返答に窮する程だ。呪いが込められていそうである。

「見えてきました。あのエレベーターで2階へ上がれば、保健室は目の前です」
「わわ判った。ちょ、ちょっと待って、心の準備がまだなの…」

ちらっと背後の亭主を横目に、中央キャノンのエレベーターを指差した。疑わない女性がエレベーターへ乗り込むのを確かめて、外から開閉指示を送る。驚いた表情の彼女がドアの向こうへ消えて、残されたのは二人。


「…質が悪い子だねー、シナリオ通りって事かい?」
「おや、仰る意味を理解しかねます」
「うちの子を預かってるみたいな事、言ってたけど。偉そうに、高校生の分際で脅してるつもりかな?」
「酷い誤解をなさっておいでの様ですねぇ。私はただ、命に従っているまで」
「命?叶の人間が従う人間なんて、高々知れてる。君達は昔から一貫して融通が利かない、合理主義者ばかりだ」
「残念ながら、私は叶とは身分が異なるのです。申し上げた通り、叶二葉とはこの国での名に過ぎない」

ああ。
手の懸かる長男だ。この男を自宅へ招いたあの時、生きた心地がしなかった事を知っていたのか、否か。

「ルーク=フェイン陛下の元へご案内致します。陛下は常々、貴方々をご案じになられていました」
「…神威が?冗談だろう?」
「陛下の名を口にする事を許された人間は余りにも少ない」

再びエレベーターが開く。
妻の姿はない。何の疑問もなく目的地へ向かったのか、それとも、待っているのか。どちらにしても逃がしてくれそうではない。

「変装なさってらしたでしょう?国際科に紛れ込むまでは賢い選択でしたが、高坂君に接触したのは失敗でしたねぇ。彼には警護がついています」
「警護だって?ヴィーゼンバーグは招待状を持っていない筈っ、」
「いいえ、彼に与えられた当然の権利です。…ご存じなかったのですか?」

閉まり掛けたドアへ手を掛けた長身が、艶やかな黒髪の下、左右色違いの眼差しを歪める。

「彼のIQは実に愉快でしてねぇ。自由自在なんです」

その目だ。何が気に食わないかと言えば、その現実味のない双眸としか言えないだろう。



「コード:ディアブロ。彼こそ本物の、ステルシリーディアブロ【潜む悪魔】ですよ」

ただ今は、どちらが悪魔なのか・と。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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