帝王院高等学校
お父さんは、いつでも君の、味方です。
「やめろって!」

右手首を掴まれたまま、ぐいぐいと容赦なく引き摺られながら何度も叫んだが、意味はなかった。小走りと言うよりは走る速度についていくのは苦ではないとしても、片手を奪われたまま。どうにか足を踏ん張ろうと試みたが、力差で圧倒的に不利だ。

「落ち着けや!んなマジになる程のこっちゃねーだろうが!な?ユーヤ!(;°ж°)」

深紅の時計台。
様々な赤煉瓦を重ねた土台から森を貫くそれが、眼前に聳えている。とうとう足を止めた背中を見つめ、焦りを帯びた唇はパクパクと、ただ喘ぐ。

「プライベートライン・オープン」
『コード:サジタリウスを確認、同時にランクA、コード:アルペジオを確認。優先順位1位、ステルシリーラインを展開します』
「やめろって、親子喧嘩なんかマジでさぁ、」
「ネルヴァの現在地までのセキュリティーを解除しろ。最短距離だ」
『命令を実行出来ません。中央情報部より通告、ランクAコード:ネルヴァは本日除籍となりました』

手。
燃える様に熱い右手へただ、目を落としたまま。持ち得る限りの知識で考えたものの、どうすればこの状況を納められるか、確実な方法は見当たらない。

「マジェスティの仕業かよ」
『疑問を認めました。コード:マジェスティルークは、ステルシリーソーシャルプラネット最上零位にあらせられるマスタールーラー。神へ反逆せし者を、セントラルデータバンクに保有するメリットは0と判断』

ぎゅっ、と。
力が増した手首に小さく息を漏らしたが、時計台を睨み付けたままの男は振り向く事もなかった。

「面倒臭ぇ、タイミング最悪だぜ。現在地くらい探せるだろ」
『了解。…19%、命令を緊急停止』
「あ?」
『コード:アルペジオのデータベースにウイルスの侵入を確認、排除開始………21%…エラー、排除不可能、自動的にリブート…9%、』
『おはようございました』

何だ、と。
僅かに肩を震わせた裕也につられて顔を上げる。割り込んだ甲高いアニメ声は、自棄に響き渡った。

『時刻は14時59分50秒、カウントダウン開始します。ち、ち、ち、ちーん。おやつの時間をお知らせします』
「…おやつって、どうなってんの?(;´艸`)」
「知るかよ。何だこれ」
『コード:サジタリウスを確認。萌皇帝のヒステリックジェラシーシステムにより、複数の回線を保有する役員の権限を全破棄、クロノス回線のみに切り替えました。浮気はダメ、絶対。コード:アクエリアスの保有するご主人公権限を一時的に譲渡、ご命令は迸る萌えと共にお叫び下さい。そして萌え』

動きを止めた二人に、アニメ声は健気に待ち続けはしなかった。誰が何をすればこうも万能なシステムが出来上がるのかと、考えるだけ無駄だ。

『コード:スコーピオの構築したシステムハッキング機能により、セントラルサーバーから命令履歴をサーチしました。自動的にコード:ネルヴァへの最短ルートを確認、エラー。該当コードは存在しません』
「ユーヤ、もしかして左席委員会のシステムって、」
「んな阿呆な事があるかよ、殿は最近入学したばかりで、」
『然し迸る萌えの前では全ての不可能が腐可能へと進化するでしょう。問答無用のご主人公様権限を行使、バックアップよりネルヴァを発掘しました』

マジかよ、と呟いた健吾の網膜に、目を眇めた裕也の横顔。父子を鉢合わせる事は避けたい健吾の願いは、残念ながら通じなかった様だ。

『ここで著しい障害が発生。発掘はセクハラワードに該当します。モードエロス発動、これよりクロノスラインは学園のサーバーを誘惑します。…21%、エラー。平凡なご主人公様の魅力では、ハッキングに失敗しました』

カチカチと、何処かから音が聞こえる。
頭上の羅針盤だろうかと顔を上げた健吾は、15時を少し回った文字盤を網膜に映した。

「誘惑ってハッキングの事なん?!(・∀・) しかもタイヨウ君が絡んでんの?!何それ!ウケるw」
「ウケてる場合かよ。意味判んねーぜ。もう良い、クロノスライン・クローズ」
『クロノススクエアのサーバーAI設定は、反抗期真っ只中の15歳です。やめろと言われてやめるAIはただの機械です』

不機嫌を露に吐き捨てた藤倉裕也の命令は、全く遂行されない。笑いそうになった健吾は慌てて口を塞いだが、目敏い裕也からしっかり睨まれた。

『然しながらワンコの危機を飼い主は見逃しません。クロノスケイアスサイド・オープン、コード:サジタリウスよりコード:始まりの福音へ通信開始します。…93%、』
『ぇ?どぅすれば良ぃの〜、セイちゃん!ぇ?喋るのぉ?もしもしぃ、こちらはぁ、安部河桜ですぅ。射手座ってぇ、どなたですかぁ?』

ぽかん、と。
目を見開いた裕也の手から力が抜けた。同じく奇妙な表情で眉を跳ねた健吾も苦笑いを零したが、口笛一つ、無視は可哀想だと口を開く。

「俺だよ俺、ハンバーグっしょ!(´Q`*)」
『わぁ、ハンバーグ師匠さん、こんにちはぁ。ケンちゃんの声かな〜?』
「何か良く判んねーけど、左席回線開いたら勝手に繋がっちまったんだよぃ。ごめんに?(ノД`)」
『そぅなんだぁ』

深い溜息が健吾の鼓膜を震わせる。
目を向ければ、脱力感に満ちた相棒はぼりぼりと頭を掻き、爪先で地面を蹴った。

「気が抜けたぜ」
「良い傾向っしょ。つーか、オメーに真面目な顔は似合ってねーから(*´Д`)」
「うおっと!」

二人の前に、絶叫と共に何かが転がってきたのは、その時だ。


「痛!低い鼻が擦り剥けたァ!」

汚れたブレザー、辛うじて引っ掛かっているだけのネクタイ、乱れた茶髪に枯れ葉を張り付けたそれは、顔から転んだままクネクネと悶えている。
沈黙した健吾と裕也の前でしゅばっと飛び起き、機敏な動作で周囲を窺ったその物体は、二人に気づいてビタッと硬直した。

「あらあらあら?二人も、帝王院だったのかィ?」
「へ?(ºーº)」
「誰だ、オメー」

パタパタとブレザーの汚れを払いながらアタマの枯れ葉はそのままに、怪訝げな二人を暫し眺めた人物は、後ろを見やる。

「やだ、シューちゃんがまた迷子になってる!もう、何でこんなに広いのかセレブめ!藤倉さんも何処で迷子になってるのかしら!」
「あのー、藤倉さんは此処に居るけど?(・▽・ ) 」
「どうも、裕也と書いてヒロナリさんです」

隣を指差した健吾に、指差された裕也は面倒臭げに右手を挙げる。きょとんと首を傾げた人物の頭から枯れ葉が落ち、

「これはご丁寧に。遠野俊と書いて俊江☆トシです。それはそうと、二人共うちの子知らない?遠野俊と書いて、うちの馬鹿息子」

はたりと動きを止めた高野健吾並びに藤倉裕也は暫し硬直し、たっぷり一分が過ぎてから漸く、静かな森を揺るがす雄叫びを上げたのだ。

どうしてその目付きで気付かなかったのか、二匹の犬は条件反射で土下座しながら、ひたすら反省している。












一番最初の物語、登場人物は見窄らしい騎士だった。彼は誰よりも愛情が深く、誰よりも弱く、誰よりも強かった。



彼と自分は、同じ血を継いでいる。



















「いつまでキレてんだ、しつけぇな」
「キレてない」
「仕方ねぇだろうが、叶に約束しちまったんだから」

風呂で怒鳴られ飛び起きてから数分、無言で着替えている日向の背を遅れて追い掛けた佑壱が髪を拭いながら言えば、漸く口を開いた男は澱みなく制服のシャツに袖を遠し、何の感情もない声で宣った。

その声音では説得力に欠けるが、わざわざ指摘してやるつもりはない。

「人の腹にぶち撒けてグースカ寝こけた誰かさんを置き去りにしたまんま、ガラパゴスにゃ旅立てん。何処ぞのお姫様はあっちこっちから狙われてらっしゃると来た」
「…」
「そこで出せる結論は、一つっきゃねぇだろうが。何を不貞腐れてんだ、小さい男め」

男に触られる、と言う、余りにもショッキングな出来事に適応した嵯峨崎佑壱が、いつかの二の舞は踏む事はなかった。早い早いと、冷めた顔で馬鹿にされ続けるのはプライドが許さない。

「判った判った、腹減ってんだろ。俺もコーヒー飲みてぇと思ってた所だ。インスタントばっかじゃ飽きるしな」

然し、今回は少しばかり頑張り過ぎた様だ。
日向の体に慣れてきた男は触る事にも抵抗がなくなってきた事もあり、色々と頑張った。されるのは楽だとは思うが、そもそもする方が性にあっているのだから仕方ないだろう。大人しく大トロを気取るには、些か負けん気が強過ぎたのは自覚している。

「シカトかよ。…あのなぁ、俺だって知らなかったんだぞ?まさかお前が喉仏を甘噛みしただけで、」
「黙れ」
「照れんな、高坂。誰にでも弱い所はある。俺はお前と違って早漏だなんて馬鹿にしたりはしねぇ、早漏だなんてよ」
「声帯、潰されたいのか」

どうやら本気で怒っているらしい。
ネクタイを手に、僅かばかり顔を反らした日向の横顔に表情が窺えなかった。またもや腰紐を忘れた、開放的なバスローブから顔を出した股間が竦みそうな気配に、佑壱は鼻を鳴らす。

「人の喉仏潰す気か!喉仏なんざ、そんな感じるかねぇ?」
「テメェ…」
「はいはい、テメーが溺れない様にわざわざ抱き締めててやった俺が悪うございました。ったく、最近のゆとりは感謝っつーもんを知らねぇ」

ぶつぶつ呟きながらドライヤーに手を伸ばせば、ブレザーを羽織りながら通り過ぎた日向が玄関に向かっていた。
何処に行く、と問い掛ける間もなく外へ出ていく気配に飛び上がり、バスローブを蹴散らす。

「ちょい待て、俺も行くから着替えるまで…って、あの野郎!」

ドアは無情にも閉ざされた。
追い掛けたくともバスローブ一枚、これでは変態だ。

「これだからカス猫は!下着、下着…、クリーニング出されたんだっけ?待てろよ高坂…と言っても待ってくれない高坂。この俺もいい加減我慢の限界だ、ぶん殴りてぇ。制服なんか着てる暇はないっちゅーの、何か簡単な服はねぇのか!」

焦りながら日向のクローゼットを漁るが、この部屋に佑壱の着替えはない。日向のシャツはLだ。着られない事もないが、驚異の胸囲を誇る嵯峨崎佑壱の弾けるバストが、シャツのボタンを弾く可能性が高い。

焦ると周りが見えなくなるワンコは、ほぼ無意識にそれを掴んだ。日向のクローゼットの、ジャージの向こう側。
つい最近見た、山吹色の着流しだ。

「これならいける。帯はどれだ、これか。…っと、良し!」

浴衣すら殆ど着た事のない男は見様見真似で生地を羽織り、長い帯を巻きながら部屋の外へ飛び出し、日向の背を追い掛ける。
辛うじて、エレベーターに乗り込む後ろ姿を捉えたが、あと少しの所で、やはり無情にも間に合わなかった。

「アイツ俺を置いていきやがった…!プライベートライン・オープン、コード:ディアブロに繋げ!」
『エラー、セキュリティーによりご命令を実行出来ません』
「ぶっ殺す!」

握り締めた拳をエレベータードアへ叩きつけてやろうかと思ったが、蝶々結びでは弛かった帯がポトリと落ちると同時に股間がぶらんと揺れ、思い止まる。

「スースーすんなぁ。何か落ち着かねぇ」

着物はノーパンが基本、と言う知識によって選んだが、他人を着付けてやれても自分の着付けとなると、途端にこの様だ。バスローブとどう違うか見た目では判らずとも、着衣感は全然違う。
どうしても着物が必要な時は、裁縫とアクセサリー作りが趣味の実兄に任せれば、何とかなってきたツケだろうか。

「それもこれも手が懸かる馬鹿猫が悪い!狙われてる癖にウロチョロしやがって!仕方ねぇ…やってみるだけやるか。セントラルライン・オーバードライブ」
『コード:ファーストを確認。エラー、オーバードライブは現在の権限を越えています』
「あーあー、そうかよ、ルークに『ハゲ』って送っとけ!逃げねぇっつってんのに。俺はそんなに信用がないのかね…」

呟くの同時に、エレベーターパネルが点灯する。日向が戻ってきたのだろうかと瞬いたが、すぐに到達したエレベーターに乗っていたのは、別の男だった。

「お?」
「…此処で何してやがる、ウエスト」
「おー、こわ。そんなに睨んでくれるなや、次期陛下。仕事だよ、仕事」

金髪に、バイオレットが混じる見覚えのある男だ。何せ教室での席は佑壱の真後ろ、数学関連以外は出席した試しがないので顔を合わせる回数は、学園外の方が圧倒的に多かった。
隼人より何倍も薄っぺらい人間だ。好意は欠片もない。

「手下がセントラルに何の仕事があんだ。寝言は寝て言え」
「はっ、ご忠告どーも。で、カルマ辞める気になったかよ?ABSOLUTELYはいつでも歓迎するぜ〜?尤も、陛下がお許しになればの話だがな」
「殺されたくねぇなら失せろ」
「はっ。怖いねぇ、その目。王子に牙抜かれてんのかと思ったけど、サブマジェスティは何をしてらっしゃるのか」

ヘラヘラと笑いながら隣を通り過ぎた男は真っ直ぐ、佑壱の部屋の並び、二葉の部屋の前でインターフォンを押す素振りを見せる。

「あ、パンツくらい穿けよー、嵯峨崎帝君」
「ご忠告どーも、テメェも辞書くらい牽け。男爵の敬称は陛下じゃねぇ、馬鹿が」

エレベーターが閉まる前に差し込んでいた手を抜き、無駄だと判りながら乗り込めば、煩わしい西指宿の姿はドアが覆い隠した。


「…あ、帯忘れた。ったく面倒臭ぇな、和服っつーのは…」

そう言えば首輪をしていない。
ただ纏っているだけの生地を片手で押さえながら、中指にシルバーリングをはめただけの手で喉仏を撫でる。フロアパネルを押すつもりはない。どうせどの階を押そうと、反応しないだろう。

「ステルシリーライン、」

いつか、犬になりたかった。
情けない記憶を封じ込め、絞り出す様に吐き捨てた声は掠れ、悉く情けない。

「ジェネラル」
『コード:ファーストを確認。権限はオープン、プライベートに限定されています』
「抜け目はねぇのか!」

今度こそ、固めた拳をボタンパネルへ叩きつけた。
弾けた破片が散らばる音、この程度では動じない頑丈なエレベーターは幾らか揺れただけ、歯痒さに舌打ちを零し掛けて、動きを止める。

謝れば、良いのか。
縋りつけば、良いのか。
弱さを認め惨めにも哀れにも乞えば、赦されるのだろうか。

神の慈悲を。

「プライベートライン・オープン」
『コード:ファーストを確認』
「コード:ルークに…いや、取り消しだ。プライベートライン・クローズ」

ちんけだろうが愚かだろうが、自尊心は曲げられない。潔い目的などとうに涸れ果て、今はもう、自分が何処に立っているのかも判らないまま。

「何もかんも、上手くいかねぇ事ばっかだ。…逃げようとすれば逃げられるが」

握り締めた拳を額に当てた。
コツリ、と。額を弾いた冷たいそれは、何の音だろう。

「あ、」

シルバーリング。
プラチナリングは風呂に入る前に外して、脱衣場へ置いてきた。十字架、つまりは神からは見放されている。

大切だったから外せなかった。言い訳は酷い息苦しさを伴って。
大切だったから外したのだ。飼い主よりも無慈悲な神をまだ崇拝していたから、外したのだ。理由は他に、有りはしない。


「総長」

頭を撫でる手の温度はもう、思い出せない。何に怒っていたのかも、とうに忘れている。勝手に神格化して勝手に信用を押し付けて、裏切られたと喚いて裏切って、この様だ。
呼べぬ神の名の代わりに、縋っているだけではないのか。どうしてこうも自分は、

「馬鹿か、俺は」

ならば、これは?
プラチナの代わりに、シルバーは?価値では比べるべくもない安い金属に、何が出来る?
情けなく縋って、受け入れられない現実に打ちのめされたらどうする。何処まで自分は情けないのか。涙も出ない。

「裏切り者をあの人が許す訳、ねぇだろうが」

袷を押さえていた手を離し、はらりとめくれる生地に構わずもう一度、喉を撫でた。首輪を外した犬は、ただの野良犬だと知っている。

なのに、どうして。
裏切って尚、人は縋る事をやめられないのか。


「クロノススクエア・オープン」
『コード:レオを確認』
「レオ…?獅子って事か、俺が?」
『ご命令を』

初めて知った、左席委員会での佑壱の位置は「獅子座」。神威と一日違いの春生まれで、自分を犬と呼んで憚らないにも関わらず、獅子、つまり、猫。

「はっ、笑いも出ねぇ冗談だな。総長は、俺を犬なんて思ってなかったのか。最初から」
『疑問を認めました。コード:レオ、属性は「火」、12宮で最も俺様攻めに相応しい獅子座は情熱の象徴。合言葉は萌え』
「…は?」
『疑問は解決されましたでしょうか?』
「何、」
『ご命令を。…20秒経過、指示を確認出来ませんでした』

エレベーターの照明が落ちる。
今頃壊れたのかと天井を見上げれば、巨大な羅針盤が天井に浮かび上がり、深紅の針がカチカチと、音もなく回っているのを見た。

『クロノススクエア・ATオーバードライブ、120%………400%』
「クロノスにオーバードライブ権限なんかあるのか?!壊れてんな?!待て、俺ぁ何処も触ってねぇぞ?!何やってんだ隼人は!」
『………801%、自動解析完了。クロノスオートメーションMOEシステムにより、コード:レオの目的地を「3年Sクラス高坂日向」に固定』
「あ?!オートメーションMOEシステム?!何だそりゃ?!」

ガタガタと、遠くから悍しい音が聞こえてくる。そんな馬鹿なと、繰り返し心の中で唱えた。

『マスタークロノスの権限を一部譲渡、これよりクロノスはコード:レオを萌皇帝代理、題して「皇帝夫人」に認可します。コード:奥様はワンコの心拍に乱れを確認、只今より心踊るヒーリングミュージックをお楽しみ下さい』
「夫人?!何がどうなってんだ!」
『クロノスライン・ATインスパイア、…47%………90%、稼働域を強制解放、稼働域の数ヶ所に外部サーバーの介入を確認しました。ステルシリーラインに接続、マジェスティ権限でファイヤーウォールを展開…99%、』

そんな馬鹿な、と。
呟きながら、アニソンと思わしき伴奏をBGMに、腰を抜かしてしまったのは仕方なかった。

『フォーメーション書き換え完了』

あの二葉でさえ複雑なコードを組まねば動かせない施設の稼働域を、神威でもあるまいに、システムが勝手に演算し動かす事など出来る筈がない。左席委員会のシステムは、隼人が担っているのだ。

「有り得ねぇ…。んなもん、隼人にゃ無理に決まってんだろ…!」
『100%、セキュリティー介入履歴削除完了。ご安心下さい、浮気の証拠は何一つ残されていません。クロノスオートメーションMOEシステムに不可能はありません。即ち、須く腐可能です。………49%、』

エレベーターが凄まじい早さで動いていたのは判っていた。下へ落下する速度で降りてから、横へ滑る様に動いた事も、全て。
無重力感も凄まじい引力も全部が、信じられなかっただけだ。

『3、2、1、100%。ピンポーン。到着しました。3年Sクラス高坂日向駅前〜3年Sクラス高坂日向駅前ぇ〜、お忘れものがないよう、お降り下さい』

呆然と座り込む佑壱が半裸で腰を抜かしている中、開いたドアの先、駅など勿論有りはしないが、親衛隊に囲まれている「3年Sクラス高坂日向」は、確かに立っていた。

佑壱と同じく、彼らもまた何が起きているのか判らないらしく、日向は佑壱が見た事もない面白い顔をしている。

『この度はBLクロノスラインへのご乗車、誠に有難うございました。次はァ、幻の俺様攻め駅前ぇ〜。見果てぬ夢へひとっとびでこざいます』

喋るエレベーターに突っ込む事なく黙り込む皆の目が、座り込む佑壱の裸体に注がれている。腕に親衛隊を張り付けたまま凍り付いていた高坂日向が口を開く前に、絶叫を挙げたのは誰だったのか。

「いやぁ!紅蓮の君が光王子様のお着物を、どうしてぇ?!」
「見ちゃ駄目ー!でも見てしまうー!いやぁあああ、ご立派ー!!!」
「あんなもので光王子様を誘惑なさってるなんて、考えたくないのに僕の脳味噌の働き者ッ!」
「不埒な僕をお許し下さい閣下ぁ!紅蓮の君が本命でも構わないので、我々を捨てないで下さいー!」

泣き喚くチワワになけなしの眉を潜めた嵯峨崎佑壱は無言で立ち上がり、スタスタと裸足でエレベーターから降りると、未だに固まっている日向を華麗に無視してその場を離れる事にした。
スースーしている胸と腹と股間には、構っている心の余裕がない。

「っ、待て嵯峨崎!」
「…」
「テメェ、何だその格好は!喧嘩売ってんのか!」
「んだよ!ちょっとくらい貸してくれても良いだろ!判ったよ、脱げば良いんだろ、脱げば!」

ばさりと。
脱いだ山吹色を投げ付ける。見事に日向の顔を直撃し、幾らか溜飲が下がった。

「っと。ナーイスキャーッチ、高坂先輩♪」

これだけ人の目がある場所ならば、狙われる心配はないだろう。馬鹿馬鹿しい。心配して損したと痙き攣る唇を歪んだ笑みに変えれば、バタバタと何人かの生徒が倒れた。

「何だぁ?」
「っ、」
「不死鳥…?!」
「き、れい…」

凄まじい悲鳴に包まれ飛び上がった嵯峨崎佑壱は何事かと周囲を見回したが、


「んの、馬鹿犬…!」

投げ付けたばかりの山吹が再び体を包み、それと同時にぶわりと体が浮遊して、目を限界まで見開いた。
絶望に染められた他人達が、声もなく見つめてくる。他は顔を赤らめて、鼻を押さえていた。

「な、んだ?高坂?おい、高坂?」

紅茶の香り、花の香り。
ずかずかと歩いていく日向に抱えられて、イングリッシュガーデンが遠ざかっていく。
犬小屋か物置の様な洒落た小さな建物は、先程佑壱が運ばれてきたエレベーターだろうか。とてもそうは見えなかった、が。

「下ろせ!おま、当たってんだろ!デコに俺のアレがビタビタ当たってんだろ!わざとじゃねぇ!マジ下ろせって!肩に乗せんのやめろ!」
「黙れ。俺様はテメェを舐めてた、馬鹿犬は檻に繋ぐ」
「何訳の判んねぇ事ほざいて、」

アンダーラインの入り口に近付いている事には、担がれたままでも判った。長年暮らしている敷地内だ。人気の少なさから言って、封鎖中のダンスホール側だろう。国際科の出し物は夜の部だった。
今更、知らない場所など有りはしない。


気付いたのは本能だ。
悍しい殺気に肌が粟立つ感覚、半ば無意識に日向の肩から飛び降りた瞬間、パン、と。乾いた銃声が鼓膜を震わせた。


「ちっ、」

無機質な横顔が見える。
その左手に握られた鉄の塊から昇る細い煙と、鼻を付く酸い匂い。

「逃げ足の早い奴だ。一丁前に威嚇しやがって」

呟いて左手をブレザーの内へ戻した日向が、乾いた目を向けてくる。巻き付けているだけの山吹をそのままに、呆然と少しばかり高い位置にある琥珀の双眸を眺めた。

「来い。逃げられるなんざ思うなよ、馬鹿犬」
「行ってやっても良いけど、その前にテメーは何かする事があんじゃねぇのか、銃刀法違反」
「はっ。グレアム統治下の此処は大使館と同等の扱いだろ。誰が死んだ所で、揉み消すのは難しかない」

日向の言葉に嘘はないだろう。
そもそも中央委員会の業務を知り尽くした男だ。不祥事を揉み消す役目は、何も二葉ばかりではないと言える。

「それよりテメェ、どうやって出てきた?また何か壊し、」
「俺は腹が減ってんだ。テメーの汚物を揉み消す気力もねぇ、どうしてくれる」

一応外なので腰に着物を巻いて、眉間に皺を寄せた日向を真っ直ぐ睨み付けたまま、左手の中指を立てた。

「クロノスライン・インスパイア、コード:奥様で解放しろ」
『コード:レオをキャスリング、上級職コード:奥様はワンコを確認。直近1メートル圏内にコード:ディアブロを確認しましたが、クロノスは中央委員会にビビる事はありません。解放を継続します。でもクロノスサーバーは純粋な科学の結晶なので、オバケと怒ったオカンは怖いです。ご命令を』
「っつー訳だ」
「…マジかよ。何っつーか、流石だな、お前ン所の『旦那』は」

きらり、と。
煌めく銀は、密やかに。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!