帝王院高等学校
噂の的のご主人公様はきっと歯軋り中
「紛らわしいなあ、もお…」

泣き腫らした顔を豪快に洗っている背中を横目に、ブレザーを脱いだ。余程人目のある所で泣いてしまった事が屈辱だったらしい錦織要の細い腰と背が、漸く真っ直ぐに伸びた。

「ハヤト、タオル」
「んなもん持ってる訳ないでしょー。ハンドドライヤーで乾かせば」
「はぁ?馬鹿かお前は」
「こう、手で風向きを変えれば…カナメちゃんはあ、やれば出来る子だよねえ?」
「ふん。その子供じみた喧嘩、買おうじゃないか」

買ってる時点でお前のが子供だ、とは、心の中でのみ呟いて、素直に顔へ風を当てている尻を撫でる。

「隙あり!」
「何の真似ですか。そんなもの撫でて喜ぶ馬鹿は、お前くらいだ」
「少しは可愛くさあ、恥じらったり嫌がったりしなさいよお。つまんなーい」
「馴れ馴れしく触るな、反吐が出る」
「かっわいくない」
「誉め言葉として受け取りますよ、有難う」

にこり。
可愛いげのない愛想笑いは二葉にそっくりだ。隼人がこの世で最も苦手なあの男に似ているから、ついついちょっかいを出したくなるのかも知れない。大半が負けている。

「カナメちゃんさあ、顔に似合わず男らしいんだからあ。びしょびしょじゃん、脱ぎなよ」
「本当だ。シャツまで染みてるのか…何でこんなに…」
「や、あんだけバシャバシャやってたら自然の摂理だわな…」
「何か言ったか」
「いえいえ、お尻触らせて貰ったからあ、遠慮しないでよいよ。昨日から着っ放しだしい、隼人君フェロモンがいつもの3割増しだからー」
「そんな汚いものを近付けるな」
「おいー、言葉に気を付けろー」

人の親切を何だと思っているのか、嫌そうな顔ながらも濡れて気色悪いブレザーはストレスになるのか、渋々、シャツも脱いだ半裸の要は隼人のブレザーを羽織り、鋭い舌打ちを零した後に「ちちち」とわざとらしく舌を鳴らした。

「あ、舌打ちした」
「してない。そこに野良猫が居た様な気がしたんだ」
「や、完璧舌打ちだったよねえ、今の」
「ユウさんに告げ口したら、俺はお前を痔にしてやる」

爽やかな笑顔だ。
要の中指がビシッと立っており、隼人は乾いた笑みを浮かべ、

「ブレザー返して」
「男が一度貸したものを返せなどと、恥を知れ。そろそろ行くぞ、総長に話さなければならない事があるんですから」
「一人で行けば?大体さあ、カナメは大袈裟なのよお。オージに炒飯取られたくらいで泣くし、お陰様で明日の一面は『カルマ幹部、痴情の縺れか?!』に決定でしょー、もー」
「お前の髪じゃあるまいに、俺がお前なんかと縺れて堪りますか。有刺鉄線とでも戯れてろ、天パが」
「天パじゃないし。ちょっとお毛々がにゃんこなだけだし。天パは担任だし」

ぷくっと膨れた隼人の頬を見やり目を眇めた要は一言、不細工と吐き捨てた。自分でも今のはあざといと判っていた隼人が人知れず落ち込んでいると、普段はケチな癖に濡れた制服を躊躇わずダストシュートへ投げ込んだ要は、何かを思い出した様に空を見上げる。

「そうだ、明日の一面は恐らく別の記事でしょうね。まぁ、全力で差し止めますが…果たして意味があるのか、どうか…」
「何のことー?」
「総長の正体がバレました」
「はい?」

真顔で宣った要に、隼人は笑顔で首を傾げた。純粋に、意味が判らなかったのだ。

「第三講堂内に居た生徒限定ですが、人の口に信用は出来ない。俺は開き直りました」
「…待って、ちょっと貧血かも、深呼吸するから待って。ヒッヒッ、フー。…OK、あんだって?」
「遠野会長が映った時にブーイングが起きたんです。榊店長が言ってなかったら、俺が言ったでしょう」
「あは。すっごい聞きたくないけど、サカッキーってば何て言ったのお?」
「総長を、『ファーザー』と」

アウト!
野球の主審宜しく拳を突き上げた隼人は、ふらふらと近場の自販機を目指す事にした。本気で目眩がする。貧血には鉄分、ブルーベリーでも飲まねばやってられないと思ったからだ。

「もー、やだあ。何でどいつもこいつも馬鹿なのお?何でもっと念入りに計画を経てて物事を進めてかないのお?何で行き当たりばったりで首絞めるのお?Mなのお?ドマゾなのーお?!」
「何を狼狽えてるんですか。総長が総長と判れば、ABSOLUTELYの天下に歯止めを投じる事になるし、下らない批難もなくなります。一石二鳥じゃないですか」
「もし、バレてなかったとしたら?」

自販機に寄り掛かった隼人の眉が跳ね上がる。お気に入りのブルーベリーヨーグルトが売り切れていた。敷地内ではここの自販機にしかない、ブルーベリーヨーグルトが、だ。

「神帝ヘーカもさあ、もしまだ本当は半信半疑でえ、ボスが正体を現すまで待ってただけだったりしたらさあ、舎弟が足引っ張った事になるんだよお?」
「そんな訳あるか。大体総長は、何度も姿を現しました。どっかの馬鹿が簡単に拉致られた時も、身体測定の時も。あれで気づかない筈がない」
「あは。ボスってば、絶対あれ、隠れる気ないよねえ。カナメちゃん、ポッケにカード、入ってる?」

よろりと振り向いた隼人が窺ってきたのでブレザーのポケットを漁ったが、目当てのものはない。素直にないと言えば、口を固く結んだ隼人が睨み付けてきた。

「俺がそんなもの盗る訳ないだろう!」
「盗ったとか言ってないじゃん。多分、落とした。チョーバツトーから戻ってきた時には多分、なかったもんねえ」
「じゃあ、あそこで落としたのか?…馬鹿か」
「隼人君の指輪にクレジット機能ついてないのよお、だからさあ、カナメちゃん…」

チラチラとカフェ方面へ目を送る神崎隼人に、錦織要は晴れやかな笑みを浮かべ、

「良いですよ。奢ってあげましょう、水を。」
「…1割付けるから、貸してくれたらよいよ…」
「3割」
「どけち!」

神崎隼人の借金苦は、此処から始まった。
の、だろうか。













「ナイト、僕に内緒で何をしているのかな」

賑わうアンダーラインの人の群れに逆らって、一心不乱に駆けていく生徒を見た。
その背を追うべきか暫く眺めていたが、今はそれよりも、プライベートを優先するべきだとダサい眼鏡を外す。

「…ふぅ。やっぱり骨格が違う変装は、どうしたって不便だねぇ。いつもよりずっと動き辛いし、しんどいや」

さらり。

艶やかな癖のない黒髪、外したコンタクトレンズの下にはダークサファイアの双眸、母の黒と父の蒼を混ぜて磨きあげた最高傑作、などと。

いつか誉められた事もあっただろうか。


「冬ちゃんと二葉は見掛けたけど、文仁ちゃんはまだ見てないなぁ。あの子を探すついでに、お兄ちゃんにも、会えると良いな」

二番目の兄の幼馴染みだった分家のお兄さん。
ずっと昔、結婚してあげると言ったら顔を真っ赤にして逃げられた事がある。会うつもりはないが、顔を見るくらい許されるだろう。


けれどそれは、


「マスター、山田太陽の居場所を突き止めました。厳重にセキュリティーを敷かれた、セカンドの部屋です」
「ご苦労様。君達は帰ってて良いよ、これ以上動かれると邪魔だからねぇ」
「了解」


あの目障りな子供の後でも、構わない事だ。





















「チッ、無駄に広くて嫌になる…!ああ、もう、兄さんは何処に居るんだよ」

ナンパ目的を隠しもせず次から次に話し掛けてくる他校の男共を片っ端から無視し、ひたすら歩き回る彼は毎朝セットしている中分けの前髪を苛立たしげに掻き上げ、懲りずに話し掛けてきた他校の生徒へ向き直った。

「っ、いい加減執拗いよ!さっきから何なんだよ、デブ!」
「ぁ、わわ、ご、ごめんなさぁ〜ぃ!」
「大体ね、たった偏差値60程度でこの僕に気安く話し掛けて来るなんて、」

身長は大差ないが圧倒的に横幅で負けている。
然し、大きいのは見た目だけで気弱そうな生徒が怯むのを目敏く察知した山田夕陽は、その生徒のブレザーの胸元に愛する双子の兄がつけていたものと同じ、金バッジを認めて片眉を跳ねた。

「…そのバッジ、一応、お前も進学科なんだね。お前、兄さん…アキちゃんの知り合いなの?って言うか僕はお前なんか知らないんだけど、誰だよ」
「ぇ?は、はぁぃ、太陽君と同じ1年Sクラスの安部河桜ですぅ。初めましてじゃなぃけど…初めましてぇ。ぁのぉ、太陽君の弟さんですよねぇ…?」
「…ふーん、高々同じ教室でアキちゃんと同じ空気を吸ってるってだけの、つまんない凡人か。その程度で、アキちゃんと同じ羊水を飲んだ僕相手に勝った気になるなよ、醜い豚が…!」
「ひっ!は、ははははぃ、勝った気になんかぁ、なってませぇ〜ん!」

八つ裂きにして焼き豚にしてやろうか…と、自称『アキちゃんの運命の半身』であるスーパーブラコンは益々剣呑な眼差しを眇めたが、足早に近寄ってくる長身が視界に入るなり、わざとらしい咳払いを一つ。

「帝王院自治会の副会長さんだよね、迎えに来てくれた所悪いんだけど、エスコートは必要ないと会長さんにもお伝えした筈だけど?」
「…エスコート?何故俺が、そんな事をしなければならないんだ」
「はぁ?」
「大丈夫か桜、何があったんだ」

目立つ目立つ、西園寺学園で最も有名な性悪鬼畜クォーター生徒会長の遠野和歌より日本人離れした顔立ちの、天然白髪に艶やかなオレンジ掛かったヘーゼルの碧眼。
西園寺学園では生徒会役員以外は派手さのない生徒ばかりである為、昨夜から西園寺生徒らの噂に上がっていた一人だ。太陽以外に興味のない夕陽は、名前を覚えていない。

「何にもないょ〜、セイちゃん、お疲れ様ぁ。丁度良かったぁ、あのね〜、忙しくてご飯食べてなぃんじゃなぃかと思ってぇ、お弁当作って来たのー。食べてくれる〜?」
「俺に、手作り弁当、を、桜が…?」
「ぅん。セイちゃんの好きな〜、山菜のおこわ炊ぃてみたのぉ。ぁ、でも味はぁ、保証出来なぃけどぉ…」
「…勿体無くて…とても食べられそうにない…」
「ぇ?保証は出来ないけどぉ、ぉ母さんのレシピだからぁ、不味くはなぃと思うょ〜?ね、一口だけでも食べてぇ?」

独自の世界に浸る、どう見ても似合わない二人を見るともなしに見せつけられた山田夕陽は、躊躇わず背を向ける。
然しそれに気づいた桜は感動に震える幼馴染みを弾き飛ばし、ぽてぽてと飛び出した。

「待って下さ〜ぁい、西園寺の山田く〜ん、あのぉ、太陽君が何処に居るかぁ、知りませんかぁ?」
「…こっちが知りたいくらいだよ。左席だか右席だか知らないけど、下らない事を優しいアキちゃんにやらせてるんじゃないだろうね?」
「さ、左席はぁ、下らなくなぃですよぅ。中央委員会が間違わなぃ様にぃ、公正な目で監査する役目がぁ、」
「ああ、もう、苛々する!お前の喋り方どうにかならないの?!亀な豚なんて最悪だよ!」
「何だと貴様…!」

桜への罵声に般若と化したのは東條だ。
頭一つ背の高い男から胸ぐらを掴まれ、何でアンタがキレるんだと顔を歪めた夕陽は、焦り顔の桜が東條へ体当たりした瞬間、派手にすっ転ぶ。

転けそうにない夕陽と東條が余りにも派手にすっ転んだ所為か、見ていたギャラリーが一斉に目を反らした。

「駄目ぇ、バカバカ、セイちゃんの大バカ〜!西園寺の山田君はぁ、太陽君の弟なんだよぉ?太陽君だよぉ?セイちゃんも知ってるでしょ?太陽君〜」
「だからと言って今の暴言は看過出来ない!覚えておけ、俺はどんな手段を講じても必ず報復するぞ…!後日改めて西園寺学園理事会へ謝罪と慰謝料を要求する、首を洗って待ってい、ぐ!」
「セイちゃん!もぉ!西園寺の山田君、ごめんねぇ?僕のぉ父さんがVシネマファンでぇ、セイちゃん小さい頃から付き合わされてたからぁ、言葉遣いが変なの〜ぉ。気にしないでねぇ?」

幼い頃から護身術を習ってきた夕陽から見ても、東條は脱いだら凄い体だろうと計り知れた。然しその男の背中をオバサンじみた激しい平手打ちで叩いただけで吹っ飛ばした桜は、何処からどう見ても運動不足のルーズ男子にしか見えない。

実の兄に幼い頃から感じていた計り知れない何かと同じ雰囲気を感じたドSツンデレは微かに痙き攣ったが、辛うじて踏み留まった。

「そ、う言う事なら、今のはなかった事にしてあげる」
「有難ぅ。ぁ、これ桜餅なんだけどぉ、良かったらどぉぞ〜」
「僕はこんなもの、」

見事に吹っ飛んだ癖に、睨み付けてくる桜の背後霊に舌打ちしたツンデレは嫌々包みを受け取り、礼もそこそこに今度こそ背を向ける。背後の会話など、最早聞いてはいなかった。

頭は既に、愛しいでこっぱちブラザー、一色だ。

「も〜、セイちゃん〜?!太陽君の弟って事はぁ、…カルマの総長の弟って事なんでしょぉ?駄目じゃなぃ、喧嘩したらぁ」
「それは…いや、その通りだ。すまなかった。情けないが、失念していたよ」
「ふぅ。元々セイちゃんはシーザーとイチ先輩に憧れてカルマに入ったんだから仕方なぃけどぉ、僕の目が黒ぃ内はぁ、しなくて良ぃ喧嘩はぁ、させなぃからねぇ?」
「判った、今後は気を付ける。許して欲しい」
「太陽君は中等部の時にぃ、あの大河君を階段から蹴り落とした事があるんだよぉ?はっくん…星河の君の耳掃除しながらぁ、『今もし動いたら耳から脳味噌出てくるかなー?』な〜んてぇ、にこにこ言っちゃぅ人なんだよ〜ぉ?」

ぶるり。
震えた桜に無表情を僅かに歪めた東條は背を正し、もう一度、今度は腹の底から絞り出す様に「気を付ける」と呟いた。

「ぁ、それよりセイちゃん、…ぉ仕事の方は大丈夫…?」

キョロキョロと周囲を気にしつつ、植え込みの木陰に東條を連れ込んだ桜は声を潜め、

「自治会の役目は問題ない。…別件も、今回は光炎…高坂さんが動いて下さっている分、拘束される心配はない筈だ。陛下自らが居られる場合、高坂さんが代理をする必要はないからな」
「ねぇ…本当にカイ君が、その………なの?」
「それは間違いない。入学式典で総長…遠野猊下の隣に居た陛下が、壇上で高坂さんへ指示していたのを見た。陛下は勿論、あの距離で難なく読唇術をこなす高坂さんも、俺は恐ろしい」
「ぇ〜っと、読心術…じゃなくて、読唇術ってぇ、口の動きだけで何を言ってるのか読む事だよねぇ?それって、神帝陛下より光王子様の方が凄いって事なのぉ?」
「いや、それはない」

素朴な疑問を口にした桜に、東條はきっぱり首を振る。

「俺は高坂さんから直接教えられた事がある。陛下は、人間の枠では捉えてはならない御方であると」
「ぅ〜ん、でもカイ君、悪ぃ人には見えないんだけどなぁ。セイちゃんの実家が大人しかったのも、カイ君のお陰なんでしょ?」
「…副長が俺をABSOLUTELYに送り込んだのは、恐らくそれが理由の一つだろう。あの人はグレアムからは離脱したと、頑なだった様に思う」
「そぅなんだぁ…はい、セイちゃん」
「有難う。ああ…桜餅か、風流だな。良い香りがする」

カサカサと桜餅の包みを解き、一つを東條へ手渡した桜は、ごそごそとポケットを漁った。

「はぁ。皆ぁ、幸せそうに見えてぇ、色々事情があるんだねぇ…。僕だって…セイちゃんとこぅしてまたぉ話し出来る様になるなんて、思ってなかったもん〜。俊君と太陽君が居てくれたからぁ」
「桜を俺の私事に巻き込みたくなかったんだ。…でもやり方を間違えたていたな。沢山傷つけて、ごめん。一生を懸けて償わせて欲しい」
「ぇ?一生なんて大袈裟だょ〜」
「少しも、大袈裟じゃない」

自棄に熱い眼差しを向けてくる幼馴染みには目もくれず、あっちこっち体中を漁り、東條が持っている弁当のタッパや東條のブレザーのポケットまでもゴソゴソと漁り、首を傾げる桜は悪気がない。

「さ…桜…」
「太陽君と弟君、髪型は似てたけどぉ、他はあんまり似てなぃなぁ。あ、でもぉ、声はちょっと似てるかなぁ?太陽君は本音言わなそぅなタイプだけどぉ、弟君は素直そぅだった〜。悪く言えばぁ、単純そぅ〜」
「…」
「兄弟でも違ぅんだねぇ。はっくんと王呀の君はぁ、一緒に居るとこ見た事なぃけどぉ、何となく似てるのになぁ。烈火の君とイチ先輩はそっくりだしぃ、」
「い、良いのか、桜」
「ぇ?何が〜?」
「……………何でもない、気にしないでくれ…」

流石に他人のスラックスのポケットにまで手を突っ込むのは色んな意味で危険なのではないかと思われたが、真顔で固まっている東條が制止を促さなかったので桜は己の行為の意味に気付かないままだ。

「変だなぁ…?もぅ一個ある筈なんだけど…気の所為かも。ねぇ、セイちゃん。僕、今気付いたんだけどぉ、どうしてカイ君が神帝陛下だって知ってたならぁ、もっと早くに教えてくれなかったのぉ?ほらぁ、イチ先輩にだけでもさぁ、せめて…」
「副長…紅蓮の君へは二人きりになる暇がなく報告する事が出来なかったが、彼には先に知らせていたんだ。…だがそれでどうして、こうまで拗れたのかは判らない。俺がシーザーに気付いたのは、最近の話だ。同じくタイミングが合わなかったのだろうな、俺には知らされていなかった」
「う〜ん…。セイちゃんが判らないなら僕も判んなぃけどぉ、」

然し何処にも見当たらず、作った数と包みの数が合わないと首を傾げながら最後の一つを開き、がぶりと頬張る。

「でもさぁ、セイちゃんに左席の指輪を送ってきた人はぁ、俊君のお父さんのぉ、ぉ友達なんだよねぇ?」
「ああ。詳しくは話せないが、間違いない。初代左席会長の指輪が、これだ」
「俊君が会長になるまではぁ、左席に副会長が居るなんてぇ、僕ぅ、知らなかったよぅ」
「確かに、そうだな。俺もこれが送られてくるまでは、…え?どう言う事だ?」
「セイちゃんも、変だと思ったぁ?多分、僕も同じ事思ってるよぅ」

東條が隠し持っているシルバーリング、それが初代クロノスのマスターリングならば。



「はっくんに届いた左席の指輪はぁ、誰の指輪なのぉ?」











足りない。
足りない。
足りない。

一つ欠けた桜餅も、一つ多い指輪の意味も、朧気な記憶も、何も彼もどれもこれも、全てが足りない。

ならば何処へ消えた。
ならば何処へ消えた。
それは何処へ消えた。








通りゃんせ。
通りゃんせ。

足りない欠片が行き着く先は、何処。










「甘い」


唇を指の腹で拭った瞬間、開け放たれたままの戸口に息を切らした人影が現れた。
両手両足を縛られたまま、壁に背を預け菓子を食べている自分は、他人の網膜にはどう映っているのだろう。

ぬちゃり、と。
湿った音は、すぐ近くから。



「はぁ、はぁ」

余程急いできたのだろう。
ただでさえ細い体躯の少年は、天使と見紛うばかりの愛らしい顔立ちをくしゃりと歪めながら近付いて、数歩離れた位置で足を止め、崩れ落ちた。

「ど、う…して、仰って下さらなかったんですか…!」
「どうして、とは、どうして」
「僕は貴方に大変な無礼を働く所だった…!違うっ、大変な失礼を致しました!お、お許し下さ…!」
「許す、とは、万事を許容し、受け入れる事」

最後の一口。
ふわりと緑の香りが鼻先を掠め、甘さが口一杯に広がっていく。


「俺は全てを否定しない。即ちそれは、許す事と同じだ」

ふわりと。
今にも泣き崩れそうな男へ微笑み掛けた。人間とはたったこれだけで、許されたと思い込む動物だと知っている。

「う、うっ」
「泣くのか。涙は零れ落ちるもの。重力と引力の、不文律」
「ごめ、んなさい、ごめんなさい」
「俺はお前を既に許した。その謝罪は、何の謝罪だろうか」
「い、今、縄を解いて差し上げますから…!」
「壊れた楽器を戻すつもりはない。壊れたなら、壊れたまま使えばイイだろう。その意思があるなら、朽ち果てるまで」

手、足、全ての拘束が消えた。
何の枷にもならなかった、つまらない柵が、消えたのだ。けれどそれが、何だと言うのだろう。

「俺は全てを否定しない。
 俺が朽ち果てようと演奏は終わらない。
 俺が眠ろうと指揮は止まらない。
 何故ならば俺は、結末を最初から知っている」

くしゃり、と。
網膜に歪んだ顔が映り込んだ。愛らしい少年の顔が、みるみる内に、絶望へと染まっていく課程をただ、視ている。



「どうして…!」


静かに。


「何も仰らないんですか、シーザー!」


ただ、静かに。


「絶望へと落ちたタンバリンは跳ね上がり、幸福へと手を伸ばす。けれど最早届かない。重力に添って今度こそ、落ちるばかり」
「う、ごめんなさい、っ、う」
「不文律。加速して落下したものが跳ね上がるのは、許容される範囲の奇跡。許容出来ない場合は、跳ねる前に壊れてしまう。それは誰にも歪められない、取り決め。ルール。絶対法則」

他人が泣きながら抱きついてくる。
耳元でわんわん泣き喚く音を聴いていた。それはまるで母の体内で聴いた子守唄の様に、一貫性のないノイズだ。


「俺は、騎士になりたかった。けれど俺は知っていた。騎士とは、何があろうと忠誠を誓える者でなければ勤まらない事を。俺は俺を他の誰よりも知っている。

 俺は他の誰でもなく、他の誰とも同じで、一人だ」



本物の天使を知っている。
本物の悪魔を知っている。
それは姫であり、それは王子であり、それは他の誰とも違い、それはこの世に唯一の、宝石。






「俺は全てを否定しない。
 同時に全てを許容しない。

 何故ならば俺は、始める前から全てを知っている。


 忠誠とは己の命と引き替えでなければならない。
 始まりと同時に死ぬ事だ。
 それは誰にも出来ない。

 何故ならば人は、忠誠を誓う前から死を定められている。誕生の瞬間に。

 形無き神に、産まれる前から忠誠を誓った身。



 始まる前から定められている、不文律。」





大きな、飴色のフルムーン。
太陽が西へ西へと傾いて、軈て地平線の向こうへと去っていき、東から闇と共に迫り来る巨大な満月がとうとう頭上に辿り着いて、それは現れた。


「あの綺麗な宝石を傷付けた犯人を俺は知っている。あの綺麗な宝石を傷付けた犯人を、俺は決して許す事は出来ない。不文律。決して揺るがない、理の定め」

赤く腫れ上がった哀れな皮膚、紅く、紅く、血に塗れた眼球は殆ど見えていないのか、決してこちらを見る事はなかった。

「壊れたものは戻らない。修理は出来ても決して同じものではない。壊れたものは壊れたまま、最早、以前と同じものではない。それが摂理」

ただじっと、彼は空を見つめていたのだ。こちらにはついぞ、気づかずに。


「さァ、幸福を紡ごう。

 俺がこの世で最も大切にしている宝物が幸せである様に、全ての傷害を取り除いて、真実の幸福だけを掻き集めよう」






初めから知っている。
約束は果たされ、果たされなかった。

初めから知っている。
幸福と絶望に、確かな違いなどないのだと。






『髪が伸びたな』

そう話し掛ければ、上半身に包帯を巻いた男は燃える様な髪を振り回し、睨み付けてきた。

『…何だテメー、やんのかコラァ』
『そうだな、それもイイ。ただそれは、次に会った時にしようか。そうだな…その背中のフェニックスが、完成した頃にでも。今はまだ少し、早い』
『っ、…んだと?!逃げるつもりなら、』
『俺が逃げる事はない。何故ならそれが、俺の描いた経過と結末』


不死鳥。
ほら、あの時想像した通り、包帯の下には紅蓮に燃える不死鳥が息吹いていた。
艶やかに、力強く、そして哀れなほど脆弱に、一つの例外もなく。





『敢えて名付けるとすれば、』



全ては描いた脚本通りに。
全ては描いた五線譜に従って。


ただの一つの例外もなく。
結末へ向かい、流れていくだけ。







『これは、“カルマ”だ。』



ただの一つの、例外もなく。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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